山小屋便り 14に続く

令和4年12月31日 無情
昔から、男は貧乏と病気と女の苦労を知らなければ一人前にはなれないといわれます。
私はまだまだ女(妻)の苦労は知らない。しかし、貧乏と病気の苦労はしっかりとしています。
私は厄介な病気をもっていますが、病気と仲よく、ただし、病気を甘えさせないように暮らしたいと思います。

時間は誰にでも公平な筈だけど、たまにはのびたりちぢんだりする。
私は文字通り無情迅速の時代に生きている。昨日の津波は今日の大事故、戦争の前に影を薄める。
スマホとメールで結ばれた他人とは友情も敵意も軽い。
無情がこれほど常のものとなって、もはや無情の意識すら薄らいでしまった。
私は写真を撮って過ぎ去る瞬間を引き留めようとしながら、まさにその努力によって、貴重な瞬間をつぎつぎと過去のものにしている。

雑木の葉っぱは散り果てて、風が鳴っている。これが木枯らしというのであろう。
  曇り日のまま年の瀬の 腕を組む
ビデオを整理(捨てる)していたら、森繁久彌の「恍惚の人」が出てきた。
妻を亡くして認知症になった森繁久彌をその息子の妻の高峰秀子が世話をする。
徘徊だったり、夜中喚いたり、いきなり暴れたりと認知症の症状をただ淡々と描くから本当に辛い。
虐げられてきたお嫁さんだけがが義父の介護をする。
夫が父親の介護をしなかったり、娘の乙羽信子が父親をモノ扱いしたりと胸が痛む。
ただ、花を見つめる高峰秀子と森繁や、若者カップルをただただ見つめる森繁などほっこりする場面があるのが救い。
懐かしく見てしまったが、葬式で只一人涙を流していた高峰秀子が最後に小鳥に言う「もしもし」

(認知症になった森繁がいつも小鳥に"もしもし"と話しかけていた)で泣いてしまった。

令和4年12月30日
定年までは毎日の予定を手帳に書いていた。今、暦はパソコンに入れて管理している。
去年はこの日に野菜の種をまいたとか、大きな壺を作ったとか、十五年がいつでも振り返えられる。
暦が生活に密着して、暦に頼らなけれは暮らしていけない。
窯焚きの日、教室の日、約束の日時、いつまでの命、今は暦がなけれぱならない暮らし、つまり、時間に左右される生活である。

ああ、あ。とわたしはのことをふりはらって、山道へもどった。
暮れなずむ西空は、明るくきれいにかがやいていた。

令和4年12月25日 黛まどか
   短日や 心澄まねば 山澄まず    飯田龍太
日が短くなった冬のある日、山を真向に立つ作者です。
冬晴れの澄み切った大気の中、山はよく澄んで見えるはずですが、それだけではいけないと一句は言います。
自分の心が澄んでいなければ、決して真に山は晴れ晴れと澄んでは見えない。
自分の心の鏡として冬山を仰ぐ。
一年を振り返りつつ、山に向かうひとときをもってみるのもいいかもしれません。
秋の庭に美しく紅葉した葉が落ちていた。
でも、落ち葉はたくさんあるが、気に入ってものは少ない。
山小屋で過していると、夜空の星の美しさにも感動する。

令和4年12月18日 ありがとう
会社員時代は忙しくて心を亡くしていた。
今は、山小屋に行くと、心とまわりの景色が、ぱっと明るくなる。
妻に感謝、山小屋に感謝、傾きかけた太陽にもありがとう。
私は、五体投地で歓喜と感謝の念を表現するのであった。
ありがとう、ありがとう。
12月13日山は大雪です。湿気った雪ですから道路は滑りません。

令和4年12月11日
  雪の降る町という唄あり 忘れたり    安住
市井の俳人安住淳の辞世句は、パーキンソン病のために物忘れがひどくなり、大好きだったはずの唄さえ思い出せない自分の老いを見つめた一句です。
嬉しいにつけ、悲しいにつけ口ずさんできた愛唱歌です。にもかかわらす、今歌おうとしてもどうしても思い出せないのです。
雪です 山小屋を閉じました 石楠花 穴窯を囲う

令和4年12月4日 八甲田の木    高倉健
酸ヶ湯温泉から一通の短い手紙が届きました。
三年かけて撮った『八甲田山』は、森谷司郎監督との初めての仕事でした。
一年目の暮れから正月の数日、僕ら俳優を返して、キャメラの木村大作氏と森谷さんは酸ヶ湯温泉で越冬した。
そこで映画の実景を撮っていたんです。その手紙にはこんなことが書かれていた。
   
今日は実景も休みで、さっきから旅館の窓から木を眺めています。
   この冷たい雪の中に定着して、ここから動くことができない、その木たちがとっても悲しくやりきれなくなります。
   自分はこうやって、アチコチ歩け、さすらえることの幸せをすごく感じています。

短くしみじみと不思議な手紙でした。
漂っている自分は悲しいって時々そう思うことがあって、こんな旅してウロウロ、ウロウロ、何考えてもあっちウロウロ、こっちウロウロ。
本当は定着していられるのに、とまらないんですね。もっといいところあるんじゃないか、もっといいことあるんじゃないか・・・って。
さすらって、さすらっていることが不幸だって。
けれど森谷さんは、さすらえる自分は幸せなんですと言うんです。

西表島は、沖縄本島よりもずっと台湾に近いところに位置する。目と鼻の先が台湾なのだ。だから風景も同じだ。
森谷さんは少年時代を過ごした台湾を愛し続け、そして台湾によく似た西表島を愛し続けたのだ。
だからなおのこと、家を建てるために買っておいた土地に、ついに家を建てることなく、墓を建てねばならなかったことが、悔やまれた。
海の見える墓所に立つと、ああ、この人には思いを貰ったなあと自分の中にはっきりあるものを噛みしめる。
ヒューヒューと風を切るその碑には、
   無私の愛
と書かれてある。

令和4年11月27日 啄木
夕焼雲を眺めていた友達が、遠い目になり
「雲を見るのって、つまり風を見ていることなんだよね・・・」
   晴れし空 仰げばいつも

   口笛を吹きたくなりて
   吹きてあそびき   石川啄木

令和4年11月20日 老い
山小屋の裏山は冬になるとほとんど丸坊主になる。
その山の木を見ていると、もう二度と葉などつけないのではないかと思えてくる。
ところがどうだろう。春になると見る見る新芽を出し、みずみずしい葉をつけてくる。私は心底羨ましい。
春夏秋冬ひと巡りすれば、青葉若葉ー紅葉ー落葉となるのは当たり前なのだが、人間はひと巡りすれば老いていくだけで、どこからも新芽など出ない。白髪が春になると若々しく黒ずんでくるなどということはあり得ない。
木だって年々確実に老いているのに、新緑をキラキラ光らせて、驚くほど若返る。
おい、お前たち、うまく化けたもんだな。
そんなことを思いつつも、精気をいただこうと、今日も山道を歩く。


  
山道も 落ち葉で着飾り 冬支度

令和4年11月13日 冬が来た
冬が来た。
モミジがすっかり葉を落として、からりと空がひろくなった。
晴れた日は底抜けに明るく、曇った日は木枯らしがヒューヒューと裸の枝を鳴らす。
そのうちにほそい寒月が空にかかって鋭い光を放ち、天も地も凍てついて、息もしないかと思われる。

   うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ 良寛
雲海 落葉松 巨大なキノコ

令和4年11月6日 誕生日
この歳になると、薪割、窯焚きは疲れて無理。山登りなど出来ないのでガイドブックを見て、懐かしんでいる。
花の盛りを家の書斎で思いやって過ごすのも良いものだ。
過去の山行の足跡をなぞった地図はもうない。何処の山に登ったかも定かではない。
駄目、駄目、駄目の、七十五歳の後期高齢者。
自然に春夏秋冬があるように、人の一生にも四季がある。だから老年期は冬である。健やかに老いていきたいものです。
あるネイティブアメリカンのある種族は「若い」と「美しい」を同じ一つの言葉で、「老い」と「醜い」をやはり一つの語で表現するそうだ。中身で勝負とか言っても、かなしいかな、それが相手に通用するかどうか。
自信と自惚れの境めが、年をとるにつれて難しくなる。

  
妻の目に 菊かがやいて 年重ね

令和4年10月30日
八ヶ岳は雪で真っ白です。
25日山小屋で初雪です。例年より大分早いです
今年もキノコは豊作で、クリタケがたくさん採れます。
夕方や朝方、空がとてもきれいな色になってきました。
もう、冬が近いんですね。

   冬支度 している妻と二人かな

令和4年10月23日 母娘旅   埼玉県 福島香子
箱根の塔ノ沢温泉は、霧の中にあった。
三百七十年余りの歴史を誇る宿は、早川の流れに臨んで建っている。静かな絹の雨が、娘と私を迎えた。
右横から書かれたビールの広告文字の入った大鏡。歴史を刻んだ鏡の中に二人は並んで立っていた。
私の人差し指に、ぎゅっとつかまってチョコチョコついて来た娘。あれは昨日のことのように思う。
鏡から出た二人は、揃いの浴衣で露天風呂へ向かった。
「お母さん、二人で旅に行こう」 私をつれて来てくれた娘に感謝した。
二人で過ごしたこの一日は、だいじな宝物として、私の胸の奥深くにしまった。
吹かれ来て 道さえぎれり 赤蜻蛉
山の小屋 手に届きたる 秋の星
ドンクリを 一つ拾った 秋みつけ
青空に 老いの手かざし 林檎もぐ

令和4年10月16日 夕暮れ
夕暮れが来ると、秋の山は紫にかすむ。
秋の月、光はやわらかく、青い夜もあり銀色の夜もある。晴れた晩でも、曇りの晩でも、人にものを想わせる。
細い銀色の雨は、さても淋しげに山に降る。
しとしとと晩秋の雨には、誰だって哀感に誘われてしまう。

  
いわし雲 世は生臭き ことばかり

令和4年10月9日 大学生の一行詩
部屋を片付けていたら、去年のちょうど今頃、父親がくれた手紙が出てきた。
読んでいたらマジで泣けてきた。
やっぱ家族はいい。近いうちに帰ろうと思う。

父の日のプレゼントを買った。五百円のネクタイ。すごく喜んで、今日しめてった。
ごめん。いつもありがとね。
山小屋の庭ではジコボウ(キノコ)が沢山採れます。栗も木が大きくなり良いものが沢山採れるようになりました。

令和4年10月2日
山小屋の秋は早い。
ミズナラの葉が黄ばみ染め、山ツツジの葉が赤らむ。
ニッコウキスゲは青く固い実をつけ、ヤナギランの実は、朱赤のさやの中に豆の実のように稔って、熟すとはじけて白い綿毛が美しい。白樺、落葉松にも早い秋が訪れているけど、草紅葉の燃えはじめの色の美しさを何にたとえようか。

日本は四季がはっきりしている。

朝顔は朝に咲き、夕顔は夕方に咲く、花は地上に咲き、鳥は空を飛ぶ。
地上の生物はそうやって限られた時間と空間を分け合って生きている。


  
人の世は 蜩鳴いて 暮るるかな

令和4年9月25日 吉田孝子 群馬県
園児が空を見上げて、ワイワイ騒いでいる。
保母が一緒に見上げニコニコしている。
"何だろう ? 飛行機雲かなぁ "
やがて保母が、給食室に入ってきた。
"子供が雲を見て、海みたい、波みたいと言うんですよ。かわいいですねえ "
どれどれ、私も空を見上げる。
まあ、きれいな空だ。何ていう雲だろう。
これを見て海を想像する子。それをかわいいと受けとめる先生・・・・・。
私にそんな心のやわらかさがあるのだろうか ? あの雲のような。

令和4年9月18日 黛まどか
父から俳句の手ほどきは受けませんでしたが、今振り返ってみると、父は俳句の中にあるような生活をし、その環境の中にいた私も知らないうちに、季節を肌で感じる生活をしたことで、素地は培われたように思います。
小さい頃の思い出で、一番覚えているのは、毎年お月見になると、山の中にススキなどを採りにいった事。
単車の後ろに乗せられて、秋の七草などを探しに行く。家に帰ると、祖母と母がおだんごを作って待っていました。
また、父は万葉集の勉強会を仲間とやっていて、その仲間との旅行は毎年、京都・奈良でした。その旅行に私も連れて行かれました。
ただ、「あれが大和三山、あれが畝傍山だよ」とか言われても、暑いし、疲れるし、子供の私にとってはつまらなかったことを覚えています。
子供からみれば芋虫みたいな花が垂れ下がっている地味な花を、大人たちが「花木五倍子だよ、キレイだね」なんて語り合っているのを聞いて、「俳句をやっている人って、風流ぶっちゃってイヤだな」なんて、思っていました。
今になっては、とても贅沢なことをしていたんだ、とわかります。
  八ヶ岳 やさしくなりて 秋近し

令和4年9月11日
花から花へと飛びかっている蝶々を見ていると、すこぶる呑気で暇のようにも思えるが、一歩近づいて花と葉っぱの間を細かく観察すると、カマキリが蜘蛛を狙っていたり、蜂が毛虫を襲撃したり、蟻が死んだ蛾を巣へ運んでいたりする光景を目にする。
人生や人間社会もこのようなものではないかとつい思ってしまう。
  妻笑見ぬ 牡丹のかげに 黒き蝶

令和4年9月4日 山歩日和 (さんぽびより)
秋風起って白雲飛ぶと云う季節ともなると、モミジの種子が風に乗じ遠近の地に落ちる。
種子は小さいが、運がよければ立派な樹が育つ。

令和4年8月28日 別れ
雨が降り出した。山には雨がよく似合う。
そこには寂しさがある。その寂しさがかえって心和む心地がする。
長い人生で沢山の人に出会った。
そして多くの人と別れた。悲しい別れを思い出す。
しかし最も悲しいことは、別れたことを忘れてしまうことであると誰かが言っていた。

  夏萩の ひとつはなれて 咲きにけり

令和4年8月21日 夏の終わり
日本は四季がはっきりしている。
夏の終わりに虫の声が聞こえたりすると、「ああもう夏も終わりなんだなあ」と、ものさびしい気分になったりする。
ススキが揺れている。オイランソウ、露草、キンレンカ。
スギやヒノキの林のかげで、シシウドが花もたわわにのびていた。

令和4年8月16日
  誰が風を 見たでしょう?
  僕もあなたも 見やしない
  けれども木の葉を ふるわせて
  風は通りぬけてゆく
大正十年 西条八十 訳

百年前のこの老いた歌が、いまだにみずみずしく、ひとの心をふるわせる。
いつまでも色が褪せないところは、自然の風景に似ている。
山小屋の朝は気温15度。サルナシ、マタタビが実をつけ、ハシバミが初めて実を付けました。
萩の花が咲いて、霧が出て秋の気配です。
コオニユリ タイマッソウ サルナシ 吾亦紅
ハシバミ ウド カンゾウ

令和4年8月15日 串田孫一
私の祖父は賑やかなのが好きな人間で、みんなが愉快に飲み食いしながら騒いでいる声を聞きながら死にたいと言い出し、ふた晩だかみ晩だか友人を大勢招いて、どんちゃん騒ぎをさせ、その間に息をひきとったという話を聞かされた。
私はまだ生まれていなかったのでその現場は知らないが、贅沢なことをしたものだと思う。
時々誰かが、もう死んだかと思い、顔にかけた白い布をそっと持ち上げると、まだまだと言って首を振ったそうである。
その祖父は死ぬ前に墓も用意して、自然石に、
「曇りなき 真如の月や、花の中」 などという俳句を刻み付けた。
父が死んで埋骨の際にその墓石の下を掘ってみると、知らない人の骨壺が大分出てきたが、お前も来い来いと言って呼び込んだものらしいという事だった。

令和4年8月14日 田代房子 相模原市
決してパッと目立つ人でもなく、大きな発言もなさらない地味な控えめの人でした。
例会の集まりで、ワイワイガヤガヤと、私たちはまだ興奮さめやらずといった感じで玄関口まで出て参りました。
会では自己主張の強さが優先するようです。
ふと見ると、あのおとなしい夫人がせっせと散らかった靴や履物をそろえているではありませんか。
私は八ッとしました。いまだかって一度だってお隣のものすら直したことがありませんので・・・。見直しました。
また同時に、おおいに自己反省も致しました。
彼女は七十過ぎの両親に仕え、病人の面倒も不平一つ言わずやりこなしている由、古代紫の、しぶい香りの匂う女(ひと)です。
私たち口さき女は顔色なしでした。
夏の夜は暗闇が怖かったが、部屋の中に必ず蚊帳を張った。
蚊帳を張ると特別な空間が出来たような気がして嬉しかった。
空には天の川が輝き、雷を伴った雨は瞬時に通り過ぎた。
お盆が過ぎると急に肌寒くなった。河原にススキがそよぎ、お盆の祭り気分が去って寂しい気分になった。

令和4年8月7日 木槿 山口瞳
物置の横の雑木を切ってくれと女房に頼まれた。それは、植えた覚えのない木槿であった。
翌日、関保寿先生に鑑定を頼むと、「間違いなく木槿です。このへんではハチスと言っています。ほら、咲いたあと、うなだれてきて蜂の巣のような形になるでしょう」ということだった。
その夜、一人で家にいることが出来なくて、メロメロになってやってきた矢口純にも花を見てもらった。
「これは木槿じゃないの。道端にも咲く。ほら、有名な句がるやんか。道ばたの木槿は馬に食われけり、だったかな」
さすがによく知っている。
「純白なのがいい。これは一日で散るんだ。はかなぃねえ」 そういって矢口純はテーブルに突っ伏して泣いた。
一日で散ると思われていた木槿が、その時、また、咲き残っていたのである。
月見草 たいまつ草 アナベル

令和4年7月31日
藤にはノダフジとヤマフジがある。
ヤマフジは山に生える藤という意味ではなくて、一般にフジと呼ばれるノダフジに対しての呼び方。
花穂の長さは10cm〜20cmで、5月〜7月にかけて一度にパッと花ひらく。
ノダフジは4月〜7月に花穂の上から順に下へ咲いていく。通常30cm以上の長い穂で、花が終わるとマメを付ける。
植物というものは実に正直で、決められた時期に肥料を与え、剪定すれば必ずその労苦に報いてくれて花を咲かす。
夏は花が少ない。山アジサイ。

令和4年7月24日 山道
私は山に住み、林の中で暮らしているので、人間よりも季節と話すことのほうが、うんと多い。
春が来たよと教えてくれるオオイヌノフグリ。夏一番はヤマボウシ。秋は紫妖しいリンドウの花。冬は雪景色。
みんな嘘をつかない。嘘だらけの人間の世界とはえらい違い。
鳥の鳴き声、川のせせらぎを聞いて、自然の中で暮らすのが一番だと、自分に言い聞かす。
だから私はよく歩く。
そして、"晴れた日ばかりが人生じゃない" とつぶやく。

令和4年7月17日 草花好き
いったいに、草花好きには悪人はいない、という定説があって、草花好きは世間でトクをしている。
たしかに世の草花好きというのは、「自然」の愛好者で、自然と人間との平和な調和を愛し、その美と秩序を愛する気持ちが一段と強い。
心優しく、謙虚で無欲、人と争うことに背を向け、運命に反抗しない、そのかわり消極的で、利害に無関心、どこか超然として一人楽しむ、という風情であるが冷淡であるわけじゃない。
要するに、草花好きというのは自分も植物的な性格で、自分が愛する草花に似ているのだ。

令和4年7月10日
私は少年のころから、森へ入って木を見るのが好きだった。
日々の生活の友として、駄木でもいいから、いきいきとして芽吹いたり繁ったり落葉したりする木は欲しい。
木には姿風情のよしあしがあり、またそれとは別に気の合う木、語り合える木もあって、そういうのは友達で、なかには冷淡な奴もいる。
いつも遠くに在るものばかりを追い求めていた私には、足もとの小さな花が見えることはなかった。
だがそのような私もいつからか庭に関心をいだくようになった。
人生の甘酸を味わい分けてくると、季節の有難味が判ってくる。それは 「咲く花時を違えず」 ということか。
花の咲くのは一年のうちのわずか数日である。しかし、花のない時期でも彼らが私の伴侶でであることに変わりわない。
庭の花が咲き初めると、私は毎朝、一本一本の樹に有難う有難うと礼を言ってまわる。


   妻と植えし 花に水やる朝かな

令和4年7月3日 朝顔
朝顔の咲ききって萎れたものを摘んでとってやると、次の朝、新しく、元気のいい花がパッと咲く。
短い一生を終わってから-花の命はどこにゆくのか・・・・。
今日は晴れ。静かな林の向こうに、真っ赤な夕日が何とも美しく、拝みたいような気になる。
もしかしたら・・あそこに命の源があるのではないか - すべての古い生命を引きとって、新しい生命を元気に送り出してくれるみなもとが・・
そっと聞いてみようとしたけれど、夕陽はやさしく微笑んだまま向こうの山に沈んでいった。
生命というものは、何とも不思議で面白い。

令和4年6月26日 ヤマボウシ
いま、ヤマボウシが満開で美しい。白い花は、枝葉をおおいつくして、ちょうど雪が積もったように見える。これがしっかり一か月つづく。
六月の王者は、このヤマボウシ。だから六月は、目にも、心にも爽やかな季節。
   妻や子と 蛍眺めた 山の家

令和4年6月19日 三林京子 父の日
父は文楽人形遣いでした。芸に打ち込んでいるか飲んだくれているかだったので、
「父親とは家にいないもの」と幼いころから思い込んでいました。
私は父に怒られた記憶がありません。「人に迷惑かけへんかったら何してもええ」が口癖でした。
私が芝居の面白さを知ったのは、中学一年生のころ。
憧れていた女優の山田五十鈴先生の所でお付きの仕事をさせていただくことがきっかけです。
あれは、私がお付きになって間もない寒い冬の日でした。
深夜アパートに帰ると、着物にマフラー姿の父が、入口の前でじっと立っているんです。
「お母さんからことづかったから」と言って、何かを渡してくれました。
それが何だったか覚えていないほど、些細なものだった。娘が心配で、東京公演の時に様子を見に来たんでしょうね。
それっきり忘れていたんですが、十三年前に父が六十六歳で亡くなってからは、不思議とその光景を思い出すんです。
寒かっただろうなって。

令和4年6月12日 中村汀女
これは句の仲間から教えられたことだけれど、心に沁みたものがある。
子供たちはみな遠く東京に移り住み、その人たち夫婦は生まれ故郷の古い大きな家にいると聞かされた。
老いし二人がすることは寝る前に声をかけあうことだという。
「門の閂はさして来た。風呂のあとも見て、焚口に水バケツも置いたよ」 これは夫の言葉。
「はい、私は火鉢の火種埋めました。炬燵も始末しました」 これは妻の毎晩の言葉だというのである。
子らを遠くにして、頼り暮らしあう老夫婦の心情や、その立派といいたい朝夕が偲ばれる。

令和4年6月5日 中村汀女
句会でも、いつの間にか各々の指定席がある。その決まったあたりに見知らぬ人が一人ある。
初めて加わった人かと思ったら、先月夫を亡くしたE子であった。
長い看病の、そしていよいよ夫と永別したが、その間も句は寄せられていた。
それからまた日が経って、どうやら句会にも出る気持ちになってくれたE子である。
「元気出して会にいらっしゃいとすすめています」 とはまわりの仲間が言っていたことだが、
これはまた、私が見忘れるほどにも、髪白くなっていたE子であった。
   去りし家 かの青紫蘇を 誰が摘むか
やはりE子の句であった。たしか夫の死は社宅とも別れることなのである。
ガマズミ レンゲツツジ 利休梅 ライラック

令和4年5月29日 中村汀女
今月の句会の卓上、コップにくちなしの小枝が挿してあった。雨の中に今朝咲いた花である。
誰かしら、庭の花をとって来て挿すのがこの句会の習わしになったようだ。ときには見知らぬ花もある。
それは特に花好きの人が植えているもの、いったいに句の仲間は、花ものや苗木をわけあっているようだ。
そのものを確かめなくては、実物を知っていなくては、それを詠むことは出来ないものである。
それにしても花の名、木の名一つ覚えても、私たちはこころゆたかになるのであるから。

令和4年5月22日 ウド
ウドの香気ふくいくたる芽立ちは、まさに山菜の王者である。タラの芽同様、林道を切り開いたばかりの赤土がさらけたところに生える。
春早くに、四、五本ニョキニョキと顔を出したるさまは 「さあ、お食べください」 と言わんばかり。
この時分のものは、アクもなく、サクサクと歯触りもいい。
ところが、ほんのわずかの間に葉が茂り、茎が硬くなるともういただけない。あとは薹が立って役立たずになる。
この成長しきった様子が「ウドの大木」。
正確には 「ウドの大木柱にならぬ」 というが、これには異説があって、ウドは草であり、高さは2mである、大木ではない。
ウドとは 「空洞」 のこと。ウドのできた木は柱にならないという意味であるという。
ウド、タラの芽、こしあぶら、フキ、ヨモギ、セリ等の野草は、そのほとんどが薬。
少し癖があるけれど、姿も香りも私は好きである。
摘み草なんて、この山でももうなくなってしまった。
淋しいことである。
ウド、タラの芽、こしあぶら、野生のアスパラ、すべて我が家の庭で採れます。今年の春はシイタケが沢山採れました。
朝の散歩から帰ると庭にカモシカ。 裏山にいるカモシカが朝食を食べに来たようです。カメラを家へ取りに行ったら山に帰りました。
ミツバツツジ、山吹、血潮モミジ、今年は桜が素晴らしい。八重桜(関山)、ウコンさくら。

令和4年5月15日 老人
耳は萎え 嗅覚落ちて 味さえも わかちがたかり なにをか言わん
老人の 泣き言と人に云わるるも 自然摂理と我は楽しむ
次の世が 近づくにつれ大方は 気短になると世間では言う
長き年月 なすことなくてこの身ただ 健やかなりきあとまだ幾年
拾いものと 思えば嬉し残る年 ああ有難や 一つでも二つでも
桜が咲きました。
楊貴妃桜 白ミツバツツジ 姫辛夷 ジュンベリー
シャクナゲ レンギョウ 富士桜 御殿場桜

令和4年5月8日 母の祈り 葛西久代
今から三十年遡るが、まるで昨日のことのように鮮烈にその映像は私の脳裏に刻まれている。
私は小学四年生の時足首を強くねじってしまった。母は「病院さ行くべ」と言う。
モンペと頬被りで土にまみれながら朝早くから日の暮れるまで、ただただ農作業と行商に明け暮れ、なんの器量も持たない母。
おまけに子供のことなど全く無頓着というのが、私がそれまで見てきた母の姿であったが、これまでとは違う別の母が私の目の前にいた。
娘をリヤカーに乗せ、何かにすがる思いで神社や寺を訪ね娘の回復を祈る母。
その姿は日頃母のぬくもりを感じられず、淋しさ不満やらの感情を帳消しするに十分であった。
あの夜の母の必死の祈りは、リヤカーの後をどこまでも追ってきた星屑のように、今もまぶしく私の心の中に光り輝いている。
数か月前、理由あって夫は私のもとを去り、私には幼い二人の子供が残された。
この先を考えると、言いようのない不安におそわれ、目の前が曇りがちだ。
だけど、『悩むほどのことじゃないよ。不器用でいいから母が私にしたように、必死に生きればいいのだ。この子たちのために精一杯生きればいいのだ』 と自分に言い聞かせている。
イワヒバを五鉢頂きました。山小屋の岩に貼り付けます。別名を復活草。
5月2日朝、気温マイナス三度でした。家から移植した植物は霜で全滅です。
5月3日朝、気温マイナス五度で、山小屋に雪が降り、蹲の水は氷り、蓼科山(諏訪富士)、八ヶ岳は真っ白に雪化粧です。

令和4年5月5日 永野章
昭和六十三年は静かに暮れていた。師走に近いある夜、、私は倒れた、脳内出血であった。
しばらく死線をさまよったようである。「こんなにアッケないものか」、そんなことを思っていた。
しばらくして私は転院し、リハビリに取り組んだが好転の兆しはなかった。
自分の体が自分で思うようにコントロールできない、この不安は味わった人でないとわからないと思う。
或る日、「遠いけど新宿御苑まで歩いてみない」と妻が言った。初めての長距離歩行である。
快晴の日曜日、助けを借りることなく私は歩いた。すがすがしい気持ちで、池のほとりのベンチで水面を眺め続けた。
小鳥が飛び立った。空を仰いだ。明るい空、輝かしい空が天地一杯に広がっている。
桜は満開。名も知らぬ花も咲き乱れている。
人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり 「敦盛」の一節である。
「人間界の五十年は下天(天界)の一昼夜に過ぎない。夢幻のように、それは儚いもの」 というのである。
考えてみれば、この世で長生きしても下天の二昼夜に及ばないのである。つい二か月前、私は下天の一昼夜は過ごし終えていた。
今まで「この醜いからだがどうにかならない限り、幸せなど探しようがない」 この考えに捕らわれ続け、もがき続けた。
だが、「そのような人生は終わった」と考えるなら話は別である。
詮ない悔恨から解き放たれ、もっと気楽に生きることもできるのではないか。そうだ、五十年生きた男は昨日で死んだ。
そしてその日、生まれついての不具者が誕生した。生まれたばかりの男に恨む過去などあろうはずがない。
男の寿命は短いと思う。どんなに短かろうと、生ある限り生き続ける、このことこそが大切なことではなかろうか。
長い惑いの中で、ほのかにかすかに光明が差し始めた。
カーテンごしの夜の帳も白み始めているようであった。
心地よい疲労感に満たされて私は眼を閉じた。

令和4年5月4日 東京やなぎ句会から学んだこと 山下かおる
言葉を生業にしている方ばかりのやなぎ句会の皆さんが、口にする言葉の断トツナンバーワンは「ありがとう」だと言ったら意外に思うだろうか。初めて句会でお手伝いした時、お茶を入れるたんび、物を取って手渡すたびに皆さんから「ありがとう」と言っていただいて衝撃を受けた。
こんなに偉い人達が私がただお茶を煎れただけでありがとうと言うのか。
ま、最初だけだろう。毎月のことで慣れてしまえばいずれ言われなくなるに違いない、と思っていた。
だが、書記になる前の手伝い時代から数えると十七年目を迎えようとしている今も、予想に反してその「ありがとう」は続いている。
今でも句会に行くと沢山「ありがとう」を言われて恐縮してしまうほど。心の中でいつも「至らなくてスミマセン」と独りごちている。
何だ、礼を言うのは当たり前じゃないかと思うかもしれない。
そう、当たり前。けどこの世の中、当たり前のことが当たり前に出来る人がどれほどいるのだろうか。
慣れて言わなくなったり、地位や年齢が上がることでやってもらうことが当然となったり、相手をみたり。
やなぎ句会の皆さんも先生、師匠と呼ばれその年数も半世紀を超えようという方々ばかり。
長い年月を経て、今なお、してもらった事に対して当たり前に「ありがとう」と言えるのは稀有なことではないだろうか。
本物の人は、偉ぶったり威張ったりしなくても周りが自然と讃え尊敬してしまうもの。
東京やなぎ句会で、本物の心支度を真近で見られる幸せを当たり前と思わず先ずは真似から。
ちょっとした事、身近な人に「ありがとう」と言ってみようと思う。
東京やなぎ句会は入船亭扇橋・小沢昭一・永六輔・桂米朝・柳家小三治・加藤武などがメンバー。

令和4年5月3日 叔母のこと 神野志季三江
若い頃大病をした叔母は、生涯独身だった。そして、たった一人の姪のわたしを、我が子のようにかわいがってくれた。
父を早く亡くしたわたしに、文字通りすべてを注ぎ込んでくれた。溺愛ともいえるその愛情は、時にうっとうしかった。
若かったわたしは反発し、きつい言葉で当たってもきた。大学受験のわたしのために、叔母はささやかな好物のコーヒーを断った。
「なによ、そんなよけいなこと」合格発表後にそれを知った十八歳のわたしは、猛然とくってかかったものだ。二十数年前の遠い記憶・・・。
七月四日から、わたしはコーヒーを断っていた。手術が出来ないことを言い渡された日、すきな時だけ甘え、気まぐれの反発をぶっつけてきた叔母に、何もしてやれないのだという思いが、私をうろたえさせた。
からっぽの頭で病院を出た。帰りのバスに揺られながら、コーヒーを断とうと唐突に思った。
気休めでしかないことはわかっていた。でも、私にできることは、ほかに見つからなかった。
十一月四日。叔母は永眠した。八十八歳。いちども痛みを訴えることなく、すっかり赤ちゃんに返っての最後だった。
納骨の帰り、師走の町を一人で歩いた。通りすがりの喫茶店で百数十日ぶりのコーヒーを口に運んだ。
こうばしい香りと暑い湯気に、まつげの先がぼわっとかすんだ。

令和4年5月1日 岩田一平
クソ石は、古代人の"落とし物"が数千年の間に石のように固まって残ったもの。全国の縄文時代の貝塚から出る。
クソ石の多くは、地面に打ち込まれた杭の周囲から出土している。杭は湖に突き出た船着き場にある。
そこで用を足したのだろう、湖面がゴミやウンチで埋まると、さらに新しい杭を打ち込んでいる。
この杭は日本の厠のルーツだった。
クソ石は六つに分けられる。
「ハジメ」は、最初に出てくる先頭部分のウンチ、「シボリ」は、最後。「バナナ」は中間の曲がった部分。
「チョク」は中間のまっすぐなもの。「コロ」は便秘気味。「ビチ」は下痢気味。
この他、踏まれたものは「踏みクソ」、火にあぶられたものは「ヤケクソ」と呼ばれる。
縄文人のクソ石には人間が口にしたものの滓が詰まっている。
腸内細菌は、食べ物に含まれる油脂分をコレストロール他の物質に変えるが、動物によって体内細菌が違うので、この割合で、"落とし主"がわかる。
ウンチの脂分から人と犬の区別ばかりか、"落とし主"の男女の区別や健康状態すら、ある程度わかってしまうのだ。
コブシ シデコブシ 山茱萸 かすみ桜

令和4年4月24日 岩田一平
その名も「ジャパニーズ・カクテル」というカクテルがある。
ブランデーをベースにアーモンドシロップを一さじ加え、アンゴスチュラ・ビターを二滴、そしてシェイクしたものだ。
「私たち日本人も、北方系や南方系のさまざまな人間の血が混ざり合ってできたカクテルである」
この遺伝子研究の分野で日本人のルーツ探しに関わる重大な発見をしたのが、大阪医科大学の松本秀雄学長である。
「南方系蒙古系のルーツは中国南部の雲南地域。日本民族の北方系蒙古系民族のルーツはシベリアのバイカル湖畔に住むブリアート人」松本さんは旧ソ連のブリアート自治共和国を訪れたことがある。
顔がそっくりで何度となく仲間と間違えられて道端で話しかけられたそうだ。
博物館には、日本とウリふたつの唐箕や唐臼が展示してあった。
三味線にそっくりの三絃の琴があり、地元の青年が歌う馬子唄は、「まさに追分節そのものだった」 という。

令和4年4月17日 おいしい春   大分県別府市 板井武子 54歳
「うど、わらび、たらの芽、よもぎ、タケノコ」 春の山にはたくさんの食材がある。
私は毎年一度は春の山に入り、人が変わったように採る。一緒にいった友達が言う、武ちゃん”さる”みたい・・・。
でも私は夢中で採る。天ぷらにして食べるときのことを思うと、よだれが出そう。
また、近所の畦道を散歩していても春は食材に目が輝いてしまう。
「せり、つくし、ぎしぎし、雪の下、椿」
全部天ぷらの材料。みんなくせのある味ばかり、それも土の味。
夕食に主人に出すと、こんな草ばかり食えるかと箸も出さない。
この頃、川もきれいになったのでしょう、上流では川せりが沢山戻ってきた。別名、クレソン。
春の川に行けばクレソンだらけですよぉ。

令和4年4月10日 桜 2
人生の折り返し地点をはるかに過ぎ、残された明日は日一日と少なくなっているのに、まだ明日をたのむ気持ちは直っていない。
さしあたって一番大切な、しなくてはならないことを先に延ばし、しなくてもいいこと、してはならないことをしたくなる性分は、かえって年ごとに強くなっていくような気がする。
不義理は重ねるほど気が重くなり、ますます日が延びる。
面白いことを先にして、まだ大丈夫、明日があると思っているうちに、老眼となり、髪が白くなる。
ああ、と溜息をついているうちに、雨が降り、風が吹いて、今年の桜も、散ってしまった。
それはそうと、あだ桜というのは、どんな桜なのであろう。広辞苑を引いてみると、
「あださくら 〔徒桜〕 はかない桜」 とあった。
5日、山小屋を開けました。

令和4年4月3日 桜 1
人は年をとると、少しづつ父か母に似てくる。年をとり、角が取れ、人間が丸くなれば、誰でもそうなる。
私はかって角だらけだった。
だが、それから長い年月が過ぎている。

枯れるまで ソメイヨシノと呼ばれたい (妻)
姥桜 さくらと気づく人も無し (返歌)
チューリップが咲いた。
小梅の花が咲いてから何回か雪が降ったが、土も空気も緩んで、もはや冬は遠くへ去った。
すっかり葉が落ちて棒杭のような枝が、いつか新しいやわらかな葉に包まれて、朝の陽ざしの中に揺れている。
みんな生きている。天も地も命に満ち溢れている。

令和4年3月27日 山小屋
三月の中旬ともなれば、山では冬の眠りから覚めた樹々の枝先が芽吹き始め、山桜が待ちかねたように蕾をふくらませ『山肥ゆる季節』となる。
山桜を追いかけるようにソメイヨシノが咲き、続いて山フジの花、山シャクヤクと順を追って華やかな花々が開花し、山はにわかに活気づいてくる。
そんな華やかさではないが、大樹の陰にピンクの花を恥ずかし気にそそと咲かせる山ツツジの花などは、山ならではの味わいがある。山ツツジが終わるころには、山の樹々は枝先の若葉をしっかりと広げて全山が若葉で覆われる。

令和4年3月20日 山暮らし
霧、小糠雨、雷まじりの驟雨、そして煙雨と手を変え品を変えて雨の降る空模様が続いた。
諏訪は山に囲まれているが、諏訪湖があって広々としている。
そして、空が広くて夕焼けがきれいである。
複雑で美しい自然は、よそでは見られない。
梅はバラ科の落葉樹、未熟の実はアミグダリンという毒で身を守っている。
天敵から狙われても逃げることが出来ない植物は、有毒物質を持つことで身を守る。
「美しい花にはトゲがある」で知られる薔薇のトゲも動物に食べられないための防御手段である。
梅の凛とした気品と優しさが日本人に愛されて、古来、詩歌に多く詠まれている。
万葉集では、桜が38首詠まれているのに対し、梅は122首と圧倒的に多い。
奈良時代は白梅、平安時代は紅梅が好まれたという。

令和4年3月13日
春の訪れを告げるあたたかい雨が、山小屋の窓を、易しく濡らしています。
長く厳しい冬を過ごす私達が、どれほど春の到来を待ち望んでいるか。
春は光からやってくると言いますが、春の光は日々明るく輝きを増しています。
ようやく長い長い冬が去って、春の訪れです。
ひと雨ごとに暖かさが増し、草木のつぼみも、いよいよ膨らんできます。
こんなやさしい雨なら、いつでも大歓迎です。

令和4年3月6日
春に三日の日和なしとは、よくいったものです。
今日は暮れるころから雨脚が激しくなり、打ち付ける音に思わずカーテンを開けて外を伺いました。
  窓鳴らし 春一番の 報せかな

令和4年2月27日
工房で時間を忘れ轆轤を挽いていた私は、外に出て、大きく深呼吸した。
何処からともなくいい香りが漂ってきた。
梅の花の香りだ。知らぬ間に梅の花が咲いていたのだ。
眼を凝らすと、星明かりの闇の中に、そこだけ点々と灯りがともったように白くかすんで見える。

令和4年2月20日 ドクター井口のつぶやき 井口昭久
医者の健康診断受診率は低い。
私が思うに、医者は忙しいので受診しないのではない。
医者は我が身に潜む病気を発見されるのが怖いのだ。
病気がいかに治りにくいものか、医者がいかに頼りないかを知っているのである。
病気になれば「お医者さんに身を任せれば安心」ではないことを知ってしまった職業の人種なのである。
 早春賦    吉丸一昌作詞    中田章作曲
   春は名のみの風の寒さや
   谷の鶯 歌は思えど
   時にあらずと 声も立てず
   時にあらずと 声も立てず

令和4年2月13日 鰆(サワラ)
「鰆」 この字から見ると旬は春なのですが、一年を通して食べられる魚です。
呼び名も「寒ザワラ」「花見サワラ」「盆サワラ」と、いろいろあることからもうなずけます。
サワラは暖流を回遊していて、春になると産卵のため内湾に入ってくるので多く捕れます。
そこから春の魚、すなわち 「鰆」という字になったのです。
サバ科の魚ですが、サバより体は平たく細長く、魚体のわりに腹がほっそりしているので「狭腹(さはら)」そこからサワラという名になったという説もあります。
サワラを買うときは、身の柔らかいものを避けることが肝心です。
腹がしっかりして目が輝き、体に光沢があって、太ったものがよいでしょう。
立春を過ぎ、七十二候では東風解凍 (はるかぜこおりをとく) となりました。
二年に及ぶコロナ過で外出機会が減りましたが、散歩していると木の芽が膨らんできています。
あわただしく過ぎていく日々、季節は移ろい、時は意識しないといつの間にか過ぎ去ってしまいます。

令和4年2月6日 少額収入生活者
大正時代、東京府庁社会課では、貧民や細民という語が、「帝都の名目上耳障り」とあって、「少額収入生活者」と改称した。
うーん、役人の考えそうなことだが、私に当てはまる。
二月二日、三回目のワクチン接種しました。
自治体の接種より十日早く出来るというので、山の中の老人ホームへ行きました。
山では雪が解けている場所で、小柄でやせた沢山の鹿が草を食べていました。

令和4年1月30日
雪が降りました。積もり始めの雪は足に柔らかく気持ちがいい。
踏むとキュッキュッと音がする。
今週は何の事件も起こらなかった。いつにもまして何もない一週間だった。
   欲深き人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う
庭の雪は40p。道は除雪してあります。
今年の諏訪湖は全面結氷が何回もありましたが、強い西風で氷が融かされ、御神渡りは出来そうもありません。

令和4年1月23日
冬の夕暮れは早い。四時半ともなるともう辺りが急に暗くなって手元も定かではなくなる。
青々とした空の西が急に朱く明るくなって太陽は西の地平線に没し、その残光が空一面を染め始めた。
風が冷や冷やと吹いてやがて光が落ちることを暗示してきた。残光は矢のような光の束となって空を西から東へ飛んでいる。
そんな情景を見ると私は「夕焼け小焼け、明日天気になーれ」と叫びたくなる。

令和4年1月16日 唐九郎
加藤唐九郎は翠松園でつくられた絵志野茶碗に「雪野」と命名した。
 冬草も見えぬ雪野の白鷺は
   おのが姿に身をかくしけり   道元禅師
毎日諏訪湖畔を歩いている。以前は一周していたが今は無理。
自宅の反対の岸まで車で行き、毎日歩いている。
小坂の観音院に行く。ここは武田勝頼の母、由布姫の墓がある。

令和4年1月9日
森の家で迎える雪の朝。
   神のごと

   遠く姿をあらはせる
   阿寒の山の雪のあけぼの   石川啄木

令和4年1月5日 天国からの手紙      佐藤英一
「最後のお別れです」葬儀社の人が棺のそばで叫んでいた。
すると今まで背を丸めていた古希を超えたH教授の未亡人が、胸元から紫の袱紗に包まれた物を取り出すと棺の中に黙って滑り込ませた。四十九日の法要に若い弟子として末席に連なった。未亡人から聞いた話、
「主人は筆まめでね、旅行に行くと必ず手紙をくれたので天国からでもくれるかと、手紙のセットと切手を入れたの」
喪服の未亡人はいっとき少女のように頬を染めた。
その日以来、私は学会などの旅先から年に一二度未亡人に手紙を出すことにした。
ある時は東京の超高層ビルの便箋と封筒を使った。またある時は北海道の宿から
「・・・旧友の北大のK教授とへべれけになるまで飲んだ。・・」
国際学会でニューヨークから航空便も使った。身近に接した教授の噂話を取り入れて幾通出したことだろう。
差出人の住所は天国、署名はH教授代とした。
何年かして、未亡人から手紙が来た。お叱りを恐れてそっと封を切った。
「長い間、代診というのでしょうか、主人の代役有難うございます。主人の外国留学時代の頃を思い出します。この頃は大分なれ孫たちと遊ぶ元気を取り戻しました。S先生、あなたは大変筆不精の方のようですね。主人あての年賀状を何年分繰ってもあなたの筆跡は見つからず、御礼が今日になったことをお詫びいたします。最後の手段に学位論文の手書きの原稿のほこりを払ってS先生の特徴ある筆跡にめぐり合った時にはほっとするやら犯人が分かって淋しいやら、いま複雑な心境です。そろそろなくなると思われますので切手を同封します。ついでに主人にあまり飲み過ぎないように言い続けて下さいませ」
切手が紅葉のようにたたみに散った。

令和4年1月4日 桂文珍
少子化の時代と聞きます。
実は、私は結婚して長い間子供に恵まれなかった。せめて一人はと思った頃、夫婦で病院に出かけました。
思った通り、結果は妻に問題がないとわかり、、「ご主人に問題がありそうです。これに採取してください」とガラスのシャーレを渡された。
「これに・・・ですか?」キャリアを積んだ看護婦さんが笑いながら「お手伝いしましょうか?」、「いえ、結構です、自分で…」
悪戦苦闘十数分、様々な妄想の末にやっと採取したものを、先生は顕微鏡でのぞきながら、「あー、これはアカン、これ、通常の八分の一程度しかないです、つまり薄いんです」
ショック、やはり僕のほうに原因があったのかと思ったとき、妻というものはありがたいものですなあ。その先生に言ってくれました。
「でも、大きいんですけど」
よく言った。それでこそ妻だ。エライ、ナイスフォロー、亭主の危機を救う一言、と私は感じ入りましたが、先生は
「あのね奧さん、今は濃度の話をしているんです、容積の話ではないのです」と冷静なコメント。
そして妻は、「じゃあ、どうすれば濃度を高められますか?回数を八倍にすればいいのですか?」

令和4年1月3日 桂文珍
落語家になって四十年近くになります。この仕事を選んだ時、父はずいぶん反対しました。
農家の長男が、なんで落語家に?と口論にもなりました。
父は農耕だが、ボクは舌耕という若造の理屈に父は怒り、その拳を振り上げようとしたとき、母の一言はすごかった。
「お父さん、戦争に行って死んだと思ってあきらめよう!」 その一言に父は自らの拳を膝の上でふるわせていました。
  その父が亡くなった。
よくもまあ私のわがままを聞き入れて、落語家になることを許してくれたものだと、今となっては感謝の気持ちでいっぱいであります。
八十六歳、診断書には老衰によると、書かれていました。
もうすこし長生きしてほしかったが、よく頑張った人生だった、と父を尊敬もし、誇りにも思っています。

仏式では、通夜、葬儀の後、初七日、四十九日、百か日、一周忌と続いてゆきますが、その時気付きました。
人間、月日、時間というものが悲しみを和らげる。昔から日にち薬と言うが、少しづつ、悲しみや寂しい想いが変化を見せ始めるのです。
五週目、つまり五七日あたりから疲れはじめ、あと何回読経すれは良いのだろうと、不埒にも思い始めるのだから、親不孝者なのでしょう。

令和4年1月2日
仏教では「五大」といって、「地・水・火・風・空」。音にすると「ア・バ・ラ・カ・キャ」が万物を構成する要素とされる。
これは五輪塔などに梵字で刻まれているものである。
「五大」は「地」から「空」に近づくほど、レベルを上げる悟りの仕組み。
だから、塔には地を下にして、空をてっぺんに記している。
この火は精神的なものであり、仏教の炎は煩悩を焼き尽くすための知恵の火であり、火天=アグニ様がいる。

令和4年1月1日 元旦
   好きなものキノコ、 山菜、山登り
      薪窯焚きと古備前の甕

古いカレンダーをはずして、新しいものに掛け替える。
感慨と言えるほどご大層なものではないが、多少しんみりします。
過ぎ去ってしまえばもはや思い出すことさえもない時間と気持ちの積み重なりが、去年のカレンダーなのである。

「人間すべてこれ同年齢」という意味の仏教用語がある。
確かに明日の命は誰にも分らない。


また一つ年を重ねました。
 新年おめでとう