山小屋便り8に続く

平成26年12月31日 暮らし
私のライフスタイルは「シンプルに自然の中で暮らす」。
自然に囲まれた質素な家。
「生活はシンプルに」。
物に囲まれた生活は自分を見失ってしまう、何もなくていい、そこで自分のしたいことをする。

平成26年12月21日 きつね
雪に狐の足跡。
霜柱が15センチはあります。

平成26年12月7日 積雪
12月4日朝5センチの積雪です。
昨年より10日ほど早いが今日で山小屋を閉めます。

平成26年11月16日 白文字
白文字の葉がすべて散りました。これで我が家の木々はすべて冬籠りです。
再来年の別荘地での御柱祭の一の柱を見に行きました。立派な木です。落葉松の葉は全て落ち、南アルプスが美しい。
舟山十字路から阿弥陀聖水へ散歩に行きました。山道には熊注意や鹿の罠注意の看板が。
はくさんぼくと栗の苗木を2本植えました。

平成26年11月09日 霜柱
4日朝は霜柱が出来ていました。
親戚知人4軒から柿を500個くらい頂き、全部干し柿にしました。

平成26年11月2日 寒風
大山れんげとタイサンボクは寒風に弱いため不織布で囲いました。
ガマズミを2本植えました。

平成26年10月26日 秋がなくなると感傷がなくなる  阿久悠
残暑が長くつづく年は、ある日突然冬になるのではないかと怯える。
四季があることで日本の文化は成り立ち、四季を繰り返すことによって日本人の感性は微妙さを備えていたのだが、今や何となく「二季」の感じがする。春と秋の二季ならいいのだが、夏と冬の二季で、曖昧さ、のどかさ、か細さの感覚を修得する春と秋が消されている。
秋がなくなると感傷がなくなる。
もの思うことも、せつなさも、人恋しさも、惜別の情も、孤独との共棲も、心の脱皮もすべてなくなってしまう。
思えば「思秋期」という詞を岩崎宏美のために書いたのは昭和52年で、その時の日本には四季があり、秋は長く、人をもの思いにふけらせた。
 〜ひとりで紅茶を飲みながら絵葉書なんか書いている
 〜お元気ですかみなさん いつか逢いましょう・・・・・
と呟いている人を包む季節は、
 〜無邪気な春の語らいや はなやぐ夏のいたずらや
 〜笑いころげたあれこれ 思う秋の日・・・・・
なのである。

平成26年10月12日 紅葉前線  阿久悠
秋は北からしのびやかにやって来る。
すると、山が紅に染まる。山が染まると空気も染まり、そこにいる人々もまた紅々と染まって美しくなる。
世の中、何やかやと幼稚ばやりで、キイキイ、キャピキャピ騒いでいないと注目されないが、そんなことは気にもとめない美しい大人に時々で会うもので、紅葉前線通過の日々は、詩を書かずにはいられなくなるのだ。
 やがてもう 消ゆる命の  紅が燃え
今年はやまぼうしに実が沢山つきました。栗・タラの芽・ガマズミ・桂が一気に紅葉しました。
ガマズミと風鈴ガマズミを植えました。シャクナゲに花芽がついています。

平成26年9月28日 雨樋
ベランダに雨樋を取り付けました。意外と難しく二日間かかりました。
山は秋です。ゴミシ、リンドウ、山ブドウ、とりかぶと、ススキ

平成26年9月22日 同級生
9月14日、茅野市割烹「伊織」(五味君のお店)で高校の同級生5人が集まりました。
山あり谷ありの人生を送ってきた、河西、向山、五味、私、と40数年ぶりにあう埼玉の水本君。
山小屋は赤とんぼが群舞しています。

平成26年9月21日 野分憂愁  阿久悠
ピューッピューッと息つぎのように途切れながら、吹く風がある。
また、ヒューッと長い長い息で吹き付ける風があって、それが野を分ける。
白いススキの穂が同じ方向に首を傾けて耐えていると、秋を感じる。
それもなりたての秋ではなく、やがて冬という予感にすすり泣いている風情である。
近頃、人々は一人で旅することが珍しくなって、旅の女性に憂愁を感じることはなくなったが、かってはよく見かけた。
 ススキ分け 風は百度も  すすり泣き

平成26年9月14日 風立ちぬ  阿久悠
 風立ちぬ  秋の麒麟草 ゆれゆれて
と、絵葉書の最後に一行書いて出しますと、都会の友から返事がきました。あちらは文章の頭に、
 空き地埋め  背高泡立ち にぎにぎし
と書いてきたのです。
感傷の満ち満ちた高原に、一足早い風の匂いを嗅ぎながら、もう秋だわねと呟くあなたには秋の麒麟草でしょうが、はずれとはいえ都会で見るその花は、背高泡立ち草と申します。というのです。
そして、背高泡立ち草の少々厚かましい黄色を照らす太陽はまだギラギラしていて、とても風立ちぬとは思えませぬと。

平成26年8月31日 ひっそりと咲いているけれど  埼玉県 太田文
どこまでも澄みわたる秋空の下、散歩に出かけたら、畑の隅でひっそり咲いているお茶の花を見つけた。
もう何年前だろう。宇治の平等院へ行った時、お茶の花の一枝が活けてあった。
あまりの清々しさと、可憐さに魅せられてしまった。
あまり人目にとまることのない花。私は一枝頂いて帰り、早速食卓に飾りました。
平等院とは比べるすべもありません。でも、毎日の食事の時、私の目を楽しませてくれる真っ白なお茶の花。
ススキ 地梨 ムシカリ 山ユリ

平成26年8月24日 萩はこほれて  阿久悠
ひんやりとした風の中に、萩の花が小紋のように咲き、波のように揺れるかと思うと花がサラサラとこぼれる。
散るのではなく、こぼれるというのを実感して、若い時はそれを感傷と知った。
そして今、こぼれるは、人生の秋の痛みに通じる。
萩、山百合、あざみ、花魁草、山ブドウ、吾亦紅、野イチゴ。

平成26年8月10日 台風
8月10日の山小屋は、朝から台風でした。
雨は大したことがなかったのですが、森は突風で木が大きく揺れています。
別荘地では落葉松が倒れ、幸い電線はきれませんでしが、どこかで切れたそうで、夕方1時間ほど停電し、家内は家に帰ると言い出しました。
山小屋でも、白樺が根から倒れ、屋根には折れた枝、集めると小屋に一杯です。

平成26年8月9日 夏祭り
8月9日は地域の夏祭りで、緋色窯も小さなお店を出しました。
すいか、とうもろこし、焼そば、そして生ビールが飲み放題で、すべて無料です。
今年は台風前日で、雨が降りそうで涼しいのか、ビールが余ってしまい、二人で生ビール4杯飲みました。楽しい。
今年も山百合が咲き、玉あじさい、タチアオイが咲いています。

平成26年7月27日 夏の花
電話を置いたぼくの瞳の裏に、一面のレンゲ草の畑が花の絨毯のようにひろがっている風景がうかびます。
山椒の実、山アジサイ、紅、月見草、京かのこ、玉アジサイ、ホタルブクロ、下野。

平成26年7月20日   阿久悠
「自然」についてこんなことを言われたことがある。
「日本人は自然はすべて善玉と思っているが、中国などでは山は恐いもの、川は困らせるものと考え、とてもとても山紫水明一辺倒で景色を見つめるものではありません」と。
雨もまたそうである。雨に対しても心優しさでとらえていて、それが地に落ち、寄り集まって川にそそぎ、轟々と流れ、町を呑み、人の命をも奪う存在になるとは考えていない。あくまでも善玉である。
雨は、傷心の人間の涙を流してくれるものであり、乾いてカサカサになった心を濡らしてくれるものである。
雨も自然も、そもそもが善玉で味方でと考えることは、日本の文化とも言えるものであろうが、荒ぶる雨への変貌もあり得ると、考える必要もあると思う。
石の階段を作りました。漢方薬の高塔草を採りこれを乾燥します。

平成26年7月13日 草刈り
暑さと虫と闘いながら、三日間草刈りをしました。
白樺の椅子を6個作ってみました。
初めてヤナギランが咲き、山アジサイも咲いています。

平成26年6月29日 大山れんげ
大山れんげが初めて咲きました。
山は今、あやめ、苧環、ツユクサが咲き誇っています。

平成26年6月22日 木漏れ陽
木漏れ陽は木の葉の間からもれてさす陽の光である。
直接ふりそそぐ陽光とは違い木漏れ陽は光は弱いが、キラキラと輝いて美しい。
山小屋の楽しみは、木漏れ陽の中を爽やかな風に吹かれて散策し、木の間がくれの蝶に目を遊ばせること。
   木漏れ陽に ためいき少し 恋遠く春
野菊 かんぞう あやめ

平成26年6月15日 初夏の花
レンゲツツジ、一人静、一薬草、すずらん、ぎぼうし2つ、白と赤の山帽子。

平成26年6月10日 ふき
ふきを植えてふきのとうを採っていますが、ふきも沢山採れます。コーレとシイタケも収穫しました。
姫宇津木と九輪草です。

平成26年6月8日 スズメバチほいほい
今年のほいほいは、雨水よけを付けてみました。
スズメバチが一匹すぐに入りました。
オオデマリと西洋こまくさが満開です。

平成26年6月1日 都忘るるほどに   阿久悠
ミヤコワスレは、都から遠い地に流された人が、華やぎの地を恋うて悲しい日々をおくっていたが、ふと庭に咲く濃紫の可憐な花に慰められたということであろう。そして、都を忘れることが出来たということであろう。
花の名前には実に見事なものが多いが、これも人の心を花にしたようなせつせつたる名で、感動する。
さて、今の僕たちは、都を恋しがって泣くことはないが、華やぎや活力に満ちた、自らの良き時代を思いながら泣くことはあるかもしれない。
ああ、あの時代は良かったと。
なら、トキワスレの花が必要になる。
山芍薬 淀川つつじ こなし 細葉しゃくなげ
八重桜 糊宇津木 蓮華つつじ 黄蓮華つつじ

平成26年5月25日 春の花
丁子ガマズミ、ジュンベリー、吾妻シャクナゲ、白三つ葉つつじ、山吹、黒文字、地梨。
白樺の木で作った鹿を頂いた。

平成26年5月18日 雑草の花  いわき市 田子千香
「これ飾って・・・・・」と、小学一年生の娘が、学校の帰り、ピンク色の小さな花を摘んできました。
さっそく、小さなコップに入れて、TVの上に飾ると、最近忘れていた優しさを取り戻したように感じられました。
ちょうど一年前、主人の父が経営する会社が倒産。
まだ新しかった家を手離し、今の借家に越してきて、はや10か月が過ぎようとしていますが、
花など飾る余裕もなければ、そんな気持ちさえも消えていました・・・・・。
しかし、雑草の花でも、きれいだからと摘んできた娘の成長に、私もしっかりしなきゃ、前向きに生きなきゃと、思った今日この頃です。
ベランダの屋根を作る 大山桜が4輪咲く タラの芽 コシアブラ

平成26年5月6日 山菜祭り
別荘地で親睦会があり、山菜の天ぷらで信州そばを食べました。
6日に雪が降ったのでしょうか、南アルプスの北岳、鳳凰三山が真っ白です。

うれしい訪問者(孫)です。

平成26年5月2日 植木2
利休梅、ベニバナヤマボウシ、細葉シャクナゲ3株、丁子ガマズミ、血汐もみじ、青ハダを植えました。
ガマズミとたちつぼすみれが咲いています。

平成26年5月1日 芝張り
芝が枯れたところを補修するため、60枚シバ張りしました。
シラネアオイ、ヒメコブシ、大木のかすみ桜が咲きました。

平成26年4月27日 木の芽どき
野山や庭の木がいっせいに芽吹き始めると、春を全身に感じる。
萌え出た芽は美しく、萌黄色、浅緑色、濃緑色などさまざまな濃淡の木の芽の色は生命の輝きそのものだ。
この時分の雨を木の芽雨という。
福寿草 ダンコウバイ クリスマスローズ 山小屋に荷揚げのヘリ

平成26年4月25日 植木
今年も草木を植えます。
オオヤマレンゲ、アズマシャクナゲ。
タイサンボクはシカ対策の金網の中です。

平成26年4月20日
春は魔法のように突然訪れる。
夜中にまず風が止む。妙に静かになる。
そして、朝カーテンを開くと、光の粒を集めて眩しさが入り込み、鮮やかに鮮やかに一景の春舞台になっているのである。
春の阿弥陀岳 鹿が枝を前足で折る

平成26年4月6日
山小屋の春は遅い。4月に雪が降るし、桜が5月のゴールデンウィークのこともある。
つい先日まで霜柱がたっていたのに、フキノトウが薄緑のつぼみを輝かせる。
春の訪れに連綿と続く輪廻を想う。
それは落ち葉の季節より、我々に希望を抱かせる。

平成26年3月30日 春の気配
雪は30cmになり、ポストとベンチが出てきました。

平成26年3月23日 恵みの森
3月半ば、林はまだ深い雪の中にあった。
だが、雪の上には鹿やキツネの足跡が点々と。
林は生き物たちの気配に満ちていた。
これからの一月で、山は白から緑へと劇的に変わる。
幾度となく繰り返されてきたその鮮やかな営みを畏れと感謝を以って眺める。

平成26年3月16日 春の暖かさ
丸山の森で、3月5日に降雪40センチでした。
私は3月12日に丸山の森に行きましたが、玄関まで雪は前回同様70aです。
しかし、ここ二日ほどは春の暖かさ。

平成26年3月2日 大雪
丸山の森では、2月14日夜から15日午後まで、推定で降雪1メートル、累計積雪は1.5メートルでした。
管理事務所は三昼夜の除雪で全線通行可能になりました。
私は2月28日、2週間ぶりに丸山の森に来ました。
山小屋までの道路に雪はありませんが、道から玄関まで深さ70pの雪を除雪しました。もちろん駐車場の除雪は無理です。
ベランダの階段が雪に埋まり平らに見えます。、郵便受けは埋まってしまい、郵便物は自宅に転送されています。

平成26年2月16日 自然
私の山小屋は、豪華できらびやかなものが美しいと思う人には、何の価値もないただの山小屋かもしれない。
しかし、私たち夫婦には、この小屋はシンプルで美しい。
ベランダの椅子に座って、小鳥の声と梢を行き過ぎる風の中で、朝食をとる。
ニホンジカ・カモシカ・キツネもリスもいる山の動物たちの気配。
陸続として土中から目覚める様々な植物のざわめき・・・・・。
山小屋で過ごすようになって、忘れていたものを思い出す。
風の音、雨の匂い、霧の巻くさま、人間も自然の一員だということを思い知らされる。

平成26年1月12日 鹿
窯場のイチイの木が、鹿に7本すべて食べられました。

平成26年1月2日 年月
悠久の時の流れを楽しむのが、樹木を育てる喜びである。
植物が育っていく。花や果実を実らせ、豊かな葉を生い茂らせ、涼しい木陰を作り出す。そして、秋に葉を落とし木肌を露わにする。
長い時間の流れの中で、季節によって姿を変えるその美しさに心動かされることこそが、植物を育てる魅力といえる。

平成26年1月1日 シンプルに生きる
正月の山小屋は雪に埋まっている。
秋には、山小屋の
庭の最後の紅葉が落ちて樹々は冬ごもりの体制に入る。
そして来たるべき春に向けて力を内側に蓄えていく。
春には芽が葉になって茂り、営みを繰り返す。これこそがシンプルではないか。
あるがままに命を引き継いでいく暮らし。
誰も教えないのに、自然の草木も鳥も動物もみなそのことを知っている。

私はお気に入りの木の揺り椅子に座って、暮れていく空を眺めている。
茜から紫、やがて墨色へと変わっていく雲。街灯がぽつぽつとともりはじめ、気が付くと闇である。
闇に変わる瞬間は見定めることができない。さりげなく、けれどもはっきりと昼と夜を劃す。
生と死もそんなものかもしれない。