山小屋だより 15に続く

令和5年12月31日 除夜
庭には紅い実をつける植物に事欠かない。
私は紅い実が好きなので、千両、万両、カマツカ、南天、まゆみ、ツリバナ、ガマズミ、梅擬 等々、木々がかなりある。
紅い実のなる木々を眺めて心を弾ませるのも、またよきかなというところである。
山崎ナオコーラ
江戸時代後期には、「死に絵」 というものがあったらしい。
現代の日本では、人が死んだときに遺影を飾られがちだ。私はそれを嫌だな、と感じてきた。
私が死んだときは葬式を出さないで欲しいと家族に頼んであるのだが、その理由は、遺影を出したくない、
死に顔を見られるのがつらい、骨を見られるのが恥ずかしい、といったようなことだ。
生きている間も、「ぶすは作家になるな」 「ぶすは隅っこで生きろ」 とさんざん揶揄されてきていい加減うんざりしているのに、
死んだあとまでヴィジュアルで愚弄され続けるのは耐えられない。
死んでいるのだから耐えるも耐えないもないと思われるかもしれないが、とにかく嫌なので、たとえ家族の手を煩わせるとしても、葬儀も戒名もなしにして、他人には一切 「死んだ」 という報告はしないで欲しい。
でも、絵のうまい友人に死に絵を頼んで必要な人に見せてもらうのはいいかもしれない。

令和5年12月30日 年賀状
不幸は突然人の後ろから切りつけてくる。
医者を選ぶのも寿命のうち。
肉体的な苦痛に人間はどんなに弱いものかということは、自分の経験からよく分かった。
また精神的に弱い人も沢山いるんだということも分かった。

友人からの今年の年賀状。
「死ぬまでに一度会いたい」

令和5年12月24日 莫山
榊莫山は「葬式はいらない。息を引きとったら、家族だけで枕辺で般若心経を上げて火葬場にゆき、骨あげののち、新聞社などにお知らせする」と書き残していた。

山寒し 年改まる 三日前 飯田龍太

令和5年12月17日 若さ
山小屋に住むと、以前は気にも留めなかった野の花や鳥の囀りに聡くなります。
身辺の花鳥風月や四季の移ろいに敏感になり、それまで眠っていた感性が研ぎ澄まされてくるのでしょう。
日常にたくさんの発見をするようになります。
この知的好奇心こそ、若さの秘訣だと私は思います。
山が好きだとか、山の花に惹かれるととかいうのは、それだけ人に会いたくないということなので、私は大勢がおしかける所には行かない。
雲の垂れ込めた空は、すでにだいぶ昏い。考えてみればあと三・四日で冬至、一年中でもっとも日の短い時期なのだ。
山小屋の林もすっかり侘びた気配で、木々の葉は全部落ちている。
冬空にカラスが憎々しい声で鳴いた。

令和5年12月10日 寂聴
「人間は一度は死ななければなりません。
辞世の句くらいはつくれるように」 と寂聴さんは 「アンズ句会」 をつくられた。
人の一生は、ちょうど絨毯を織っているようなものだ。
織っている間は裏側だから、一体どんな模様が出来上がるのか本人には皆目わからず、辛い苦しい作業の連続だが、織りあがって、さあ、とひっくり返してみると、見事な模様が織りあがっているということです。

冬空に虹です。その後雪になりました。山小屋を閉めました。

令和5年12月3日
窓の外を眺めると、一時やんでいた雨が降り出していた。
こんな日には、心の中までが湿っぽくなり、何をしてもうまくいかないような気がして、妙に滅入った気分になっていた。
外は夕闇が迫り、風は一段と強くヒューヒューとうなり声をあげていた。
それは、心の裂け目から漏れてくる嗚咽にも似て私には悲しく聞こえた。
あたりはすっかり暗くなり、八ヶ岳の稜線も消えた。

令和5年11月26日 血圧
血圧測定は上腕にカフを巻き、そのすぐ下の肘に聴診器をおきます。カフ圧を高くして上腕を締めると動脈の流れが止まるので、音は何も聞こえません。そこで、少しずつカフの空気を抜き圧を下げていくと、血液が流れ始めると同時に、トントントン・・という拍動音がきこえてきます。この時の圧力が収縮期血圧(上の血圧)です。さらに下げると、やがてサーサーという音に変わります。その後再びトントントン・・という音に変わりますが突然小さくなり、まもなく消失します。この消失するところが、拡張期血圧(下の血圧)です。この一連の血管音を「コロトコフ音」といい、現在に至るまで、血圧はすべてこの方法で測定されています。
現在使われている自動血圧計は、聴診法ではなく雑音に左右されない振動法を採用していますが、その基本は同じです。
血圧の正常値は 130/85 未満とされますが、糖尿病や腎障害など合併症がある場合は、125/75 未満とされています。
正常血圧は動物によってもちろん異なります。キリンは 260/160 もあるそうですが、長い首に血液を送るにはそのくらい必要なのでしょう。

令和5年11月19日 狭き門
若い頃、アンドレ・ジッドの狭き門を読んだ。
なんであんなに感動したのか読み返してみた。
主人公のジェロームは、2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱く。
アリサは最終的に地上での幸福を放棄し、ジェロームとの結婚をあきらめてついには命を落とす。

庭には赤く染まった柿の葉が散っていた。
樹木はその主に似る。主もまた樹木に似る。
妻と二人で育てた草木も花も、晩秋の庭でそれぞれいつものように冬支度をしています。

令和5年11月12日 永六輔
岸田今日子さん
彼女の子供時代の話。今でいう不登校児だったそうです。そのまま夏休みに入り新学期を迎えた朝、
「そろそろ学校に行ったら」とお母さん。
「ずっと行ってないから、イヤ」と今日子ちゃんはぐずったと言います。
「皆も夏休みだったからお休みしていたのよ。大丈夫」
嫌々学校に行き、手つかずの絵日記と宿題を先生に提出。
「楽しいことがたくさんあり過ぎて、宿題をする暇がなかったのかな」
先生は今日子ちゃんに笑いかけ、白紙の絵日記に大きな丸を書いてくれたそうです。
感激した今日子ちゃんは先生と学校が好きになり、不登校をやめたそうです。
女優になった今日子ちゃんが先生と再会した時。
「先生の〇〇のお陰で、私は卒業できたんです」真っ先に今日子ちゃんはお礼を言ったの。
しばらくキョトンとされていた先生は、やっと事情を理解して、
「あれは〇じゃないよ。零点という意味・・・」と。
そこで二人は大笑いをしたそうです。
コスモスを 見つめて悩み忘れけり

令和5年11月6日 誕生日
ドイツの思想家シュタイナーが言うように、、青年時代は肉体の季節、中年は心と知性の季節、そして老年は魂の季節とすれば、人間七十歳を過ぎたら、そろそろ自分の死に支度を整えておくべきかもしれません。
老年とは、仏様のところへ持っていけるものを吟味して、今まで、生活の場で欲張って、あれもこれもと背負い込んでいたものを整理する時期だと思います。
肩に落ち葉が散ってきました。
この一葉の枯葉も、新芽から若葉、青葉の時期を経て美しく紅葉した後、静かに散ってゆくのです。
生きとし生けるものと共に自分も存在しているのです。
七十六歳になりました。
  今日生きて 明日は明日 紅生姜

令和5年10月29日 藤森照信
少し前まで、冬が来ると、外も家の中も寒かった。信州だけでなく、日本中の家の中が昔は寒かった。
どうしてかというと、家自体の防寒対策がなされていなかったからだ。
日本の家は、冬の寒さに対しては建築的努力をせず、コタツとか着ぶくれで済ませてきた。
一方、冷房はどうかというと長い長い間、人工的に冷気を生み出すことは不可能だった。
暖をとる、とは言っても、冷をとるという言葉はない。通風をよくするとか、日陰を作るとか、自然まかせの消極策しかない。
『徒然草』 に「家は夏を旨とすべし」 という有名な一行があるが、あれは、暖房は出来ても、冷房はできないという意味なのである。
秋灯り 机上にありし 文庫本

令和5年10月22日 庭 藤森照信
最後の風景。 何を見てから死にたいか。 あれこれ考えて、私の結論は、庭。
庭を見てからというより、縁側に横たわって、庭を見ながら死にたい。
建築と庭の関係は密接しているだけに複雑だ。建築家は建物のついでと思いやすい。
事実、建築事業においては、造園、外構の予算というのは建築本体が決まってから、その残りがあてがわれる場合が多い。
建築は、技術,思想、美、などなどを含み、その時代を象徴する表現である。
よって、建築家は建築のほうが偉いと思っているのだが、このことをさる造園家に話したら、京都のお寺に行った時のことを思い出してみなさいと、静かに諭された。
たとえば竜安寺。建物を見ているヤツなんかいるか。いない。建物の中に座り、向こうに広がる庭をじっと眺めているだろう。
「庭は末期の目で見るべし」 こういう言葉のあることも知った。
建物と庭の根本のところでの違いはなんなのか。どうして、究極のところで建築は庭にかなわないのか。
実は、庭はあの世のものなのである。この世の建物があの世の庭にかなうわけもない。
きっと、庭では時間は止まっている。庭とは時間を無化する装置なのである。
日本の庭にはきまって白い砂利が敷かれ、松が大事にされるのは、そういう気持ちが無意識の奥で生き続けているからに違いない。
乙女林檎がたくさん採れましたので、リンゴ酒を造ります。またたび酒、サルナシ酒も造ります。

令和5年10月15日 高嶺の花
ご存じの如く、遠くからただ眺めているだけで手にとって自分のものにすることができないもののたとえ。
通常、あまりにも美しい女性だとか、貧しい者が深窓の令嬢に恋焦がれる、といった場合にも使うが、これとは別にあまりに高価なものだけに手が出ない、といったときにも使われる。
ある高校の国語のテストでこの高嶺の花を 「高値の花」 と答えた生徒が半数近くいた、という例があるが、あながち笑い話で済まされない一面を持っている。
我が庭の 良夜の薄 (すすき) 湧く如し  松本たかし

令和5年10月8日 秋雨
十月に入っても、これぞ秋晴れといった上天気に恵まれた日はほとんどなく、小雨が降るか、どんよりとした雲間から時折申しわけ程度の陽光が差すぐらいがせいぜいの日がずっと続いている。長期天気予想では、秋雨前線の停滞でここ当分の間はぐずついた天気が続き、来週の初めごろには台風がまた日本に接近して、日本全国が大雨に見舞われる恐れがあると報じている。
秋の長雨は何も今年に限ったことではなく、その雨量は梅雨時よりも多いらしい。
だが、今まではそんなふうに感じていなかったのは、時折顔を出す爽やかな秋晴れの上天気が、そのつど、うっとおしい秋雨の記憶を、きれいさっぱりと帳消しにしてくれたせいかもしれない。

令和5年10月1日 たで
蓼は一年草で花蓼、犬蓼、柳蓼、など種類も多く、大毛蓼はマムシの毒消しになるのでハデコブラと呼ばれた。
それほどの特効は期待出来ないにしても腫れ物、毒虫に挿された時の民間薬だった。
蓼食う虫も好き好きという諺があるように、蓼はまずい味の代表といわれるが、刺身のツマに利用される本蓼は、ピリッとした辛さが食欲増進になり、魚の毒を消すといわれている。
このビリりという辛味をもつ植物には、唐辛子、ワサビ、山椒、胡椒、生姜などがある。
この辛みこそが、植物が虫に食べられないために身につけた知恵だったのだ。
紅白の水引に見立てられ、その名の由来になった水引は、タデ科ミズヒキ属で、蓼と同じ仲間なのである。
雨の山道を歩くと、藪かげで、いじらしく可憐な水引の小さな花が濡れて、ルビー色に光って揺れていた。
リンドウ シュウメイギク ガマズミ ムクゲ

令和5年9月25日 たで
辛い蓼を好んで食べる虫がいるように、蓼食う虫とは、人の好みはさまざまで、いちがいにはいえないというたとえ。
蓼食う虫は辛きを知らず、ともいう。たで食う虫とは、初夏に蓼の葉を食べる虫で特に甲虫のことを指す。
蓼食う虫は 「あばたもえくぼ」 に通じ、だからこそこの世は捨てがたく、楽しいわけである。
そもそも蓼というのは、タデ科タデ属の草木の総称で、主として道端や水辺に生える。
一方、タデ科の植物のうちには春先に山菜として楽しめるものがいくつかある。イタドリ、スイバ、ギシギシなどがその例だ。
イタドリは漢字で虎杖と書くが、俗にスカンポなどと方言も多く、日本植物方言集にはなんと六百七十五の方言がある。
スカンポというのは、少し酸っぱいのと勢いよく折ると中が空洞なのでポカンと歯切れのいい音がしたからだと思う。
生でかじると水分が多くのどを潤すにはもってこいだ。おひたしやあえもの、煮物なんでもござれで、塩漬けにして保存もできる。
私達が幼い頃はろくに食べるものがなく、このスカンポにはことのほかお世話になった。
しかし、ギシギシだけは食べなかった。虫がついていたからで、この虫はルリハムシであった。
イヌタデは食用にならないので犬蓼書き、役立たずと言われたが、女の子はままごとに使っていた。
アカマンマといえば誰しもが 「ああ、あのことか」 と思い出されるであろう。薄桃色に白が混ざり実に可憐な花だ。
アカマンマの名もまた赤飯になぞえられたものと考えられ、少年時代のお祭りを思い出す。
一木一草なべて秋色

令和5年9月17日 懐はいつも秋風
そよ風が頬に心地よく触れた。至福の午後の一刻である。
人間だから煩悩に迷うこともある。
浮世の暮らしはきびしく、「地獄の沙汰も金しだい」 という言葉が身にしみることもある。
庭の桔梗は静かに風に揺れた。
懐はいつも秋風が吹いている。

  紫陽花に 秋冷えいたる 信濃かな  杉田久女

令和5年9月10日 辞世の句
  挨拶も 知らずに生きて 曼珠沙華   町屋勢子  青森県 五十二歳
振り返れば、挨拶もきちんとできなかった若い時、死ぬ時の挨拶もまだわからずにいます。
曼珠沙華は、葉見ず花見ずといってある日突然に咲きます。大好きな花に寄せて書いてみました。

令和5年9月3日 捨て石
捨て石は景石や飾り石ほど価値あるものではないが、据え場所は無造作に、しかも何気なく置いたとみせかけ、実は急所をおさえた所に置くもの。
華道では花を生かすことを生け花と称する。
花伝書には、春は夏の花、夏は秋の花と季節に先立っていける花を 「生花」 とし、季節遅れのものを 「死花」 としている。
茶道では火鉢の火を埋めておくことを 「いける」 といい、生かしておくことを意味する。
つまり火鉢の炭は不用の場合は灰の中に埋めておかないとそれこそ灰になってなくなってしまう。
灰で埋めておくと改めて必要なときに掘り起こせば炭は消えずに残っている。炭を生かしておくことを生けるというわけである。
今、炭をおこすことはない。したがって 「火を生ける」 という言葉は死語に近く、現代っ子には 「火鉢の火を生けておいて」 といってもなんのことだか分からないだろう。(いま、家庭に火鉢もない)
  また道を 間違えたらし 青芒(すすき)
青芒の生えているところに迷い込んだ句でしょうが、
「道」 を人生ともとらえて、青芒の、若き日の出発点に戻ろうと思いが及ぶというふうにも読めます。
木槿、タマアジサイ、
ピラミッド紫陽花

令和5年8月27日 小林恭二
   林中の 石みな病める 晩夏かな   木下夕爾
わたしは木下夕爾の人となりについてはほとんど知りません。おそらく体の弱い人だったのではないでしょうか。
その夏も夕爾にとっては辛い夏だったのでしょう。夏バテというより、何かの病気が出たのかもしれません。
夏も終わりに近いある日、珍しく体調の良かった夕爾は涼を求めて林に入ります。
地上の石が見えるくらいですから疎林です。
晩夏の気だるい日の光が梢の合間を縫って林中にさしいり、剥き出しの石たちを照らしています。
影がちに照らされた石を見ているうちに、病んでいるのは自分だけではない、この石たちもみな病んでいるのだ、という直感が夕爾の脳裏をよぎります。もっといえば病んでいるのは世界全体なのです。
それを怒るでなく告発するでなく、掲句はただ淡々と報告しています。
しかし、淡々としているからといって、軽く見てはいけません。
この淡々のなかには、致死量の詩毒が含まれているのですから。
夕爾は昭和四十一年 五十歳で没しました。
美しき 緑走れり 夏料理  星野立子

令和5年8月20日 一日
人は他の動物と比べて老後が際立って長い。
教養があるヒトにとって老後が長いことは悪いことではない。
年を重ねても肉体の損傷がなければなおよい。
のんびり過ごすのはセカセカ過すよりも難しい。
山小屋地区で夏祭り。フェスタ出店しました。
ウクライナのアカシヤはちみつ買いました。
ユウスゲ咲きました。。

令和5年8月16日 寺山修司
こうやっていつも旅ばっかりしていると、
ときどき思うんだ
人生は汽車に似ているな、ってね
旅をしながら年老(と)って古くなってゆく。
自由になりたいな、って思うが、
レールの外へ出られる訳じゃない

ふりむくな
ふりむくな
うしろには夢がない。

令和5年8月15日 三浦哲郎
その翌月、銀座東急ホテルで受賞式とパーティーがあった。私は単身出席した。
直木賞の受賞者は黒岩重吾氏と寺内大吉氏でお二人とも夫人同伴であった。
直木賞の選考委員会を代表して吉川英治氏が、祝辞を述べたあと、受賞者席の私の方に向きなおり、私の作品に一言触れてから、今夜は奥さんをお連れになるかと思い、楽しみにしていたが残念であった、聞けばお家で留守番をしておいでの由、帰られたらよろしく申し上げて頂きたい、と言って丁寧に頭を下げられたことを、今でもありありと憶えている。吉川さんは、翌年の秋口に亡くなられた。

私は、パーティーになってから、井伏先生を探してお礼をいいにいった。先生は、私がおそばにいる間に、ふと、
「大佛 (おさらぎ) さんは立派だなあ。ああでなくっちゃあ・・・」 独り言のように呟いて、壇に近いテーブルの方へ目をやられた。
初めてみる大佛次郎氏は、長身の眼鏡をかけた瀟洒な紳士で、人込みからすこし離れたところに独り、けれども、べつに寂しそうでもなく穏やかな顔で佇んでいた。
私は、大佛さんを見たのはそのときだけだが、あの群れを離れて静かに佇む姿は生涯忘れないだろう。

令和5年8月14日 三浦哲郎
数年間、私は井伏鱒二先生と心ならずとも疎遠に過ごした。
私の気力が萎えて、先生の勁い目を受けとめるのがつらくなったのである。
この数年間に、私は父を失い、所持品の大半を失い、原因不明の熱病に悩まされ、臨月に近い妻を連れて北の郷里に都落ちをした。
小沼さんからの誘いの手紙を頂いて単身上京し、小さな会社に職を得て、妻子を呼び寄せた。
私は、再起の記念に、先生に打ち明けられなかった自分の妻と結婚を小説に書こうと思った。
勤め先とは何の関わりもない、自分だけの仕事に没頭しようと思えば、眠る時間を極度に切り詰めるほかない。
八月の暑いさかりに、私はそんな日々をひと月送った。私は二十九歳であった。ニ十九歳だから、あんな過酷な夏が過ごせたのだ。
私は、書き上げた作品に、「忍ぶ河」という題をつけて、菅原さんのところへもっていった。
菅原さんはその場で読んでくれたが、読み進むにつれて顔がだんだん赤みを増した。
「井伏さんがほっとするな」
菅沼さんは原稿を閉じると、すこし上擦ったような声でそう言った。
第四十四回芥川賞の選考の日は、昭和三十六年の一月二十三日。
数日後ひさしぶりに荻窪のお宅へ伺った。先生は昨日別れた相手のように迎えて下さって、「きみ、勉強したね」
と晴れやかにいわれ、辞去するとき、ご自分で絵付けした丸い絵皿をくださった。
「飾り物じゃないからね。雑器の一つだから、そのつもりで使ってくれるといい」 と先生は言われた。

令和5年8月13日 種田山頭火
また旅に出ました、
歩けるだけ歩きます、
行けるところまで行きます。
温泉はよい、
ほんとうによい、
ここは山もよし海もよし

酔えばもの皆なつかし街の落花踏む
山ユリ カンゾウ

令和5年8月6日 弔辞
長寿社会は多くの人が死ぬ多死社会である。たしかに身近に葬式が多い。
死はいつでも突然訪れる。人は不意に吹く風のように死ぬ。
この頃の老人の葬式では参列者が涙を流す光景は少なくなった。
多くの場合、家族の長年の介護の果てに亡くなるので、悲しみよりも安堵感が漂う。
「私が家に帰ると嬉しそうだった。家を離れるとき悲しそうだった。嬉しそうな顔って、心配そうな顔って、そんな本当の顔っておばあちゃんだけだった」 涙を流して弔辞を読む孫の姿は新鮮であった。

令和5年7月30日 老い
趣味嗜好 昼寝の夢も 老いにけり
幸せに老いて 少しボケている
散るまでは紅を忘れぬうば桜
図書館の本に頼っている余生
私は週に一回、三キロ離れた図書館へ歩く。
新刊、週刊誌、新聞、DVDもある。

令和5年7月23日 気候
二十四節気は一年を24等分し、その節気を 「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」などと、その時節の特徴を漢字2文字で見事にいい現した。
七十二候は、一節気をさらに3等分して、5日間の自然の変化を「東風解氷」「草木萌動」「桜始開」などと、漢詩の一節にこめて暦にしたものである。
いま、二十四節気は、天気予報の枕詞くらいにしか使われなくなったが、日常生活のなかに意識してとり入れてみると、それは先人の感受性の豊かさであると、あらためて驚かされる。
ちなみに気候という言葉は、二十四節気の「気」と七十二候の「
を合わせてつくられた言葉である。

   
山晴れる げんのしょうこを 軒に吊り

令和5年7月16日 山小屋
妙に疲れを感じていた。部屋の窓を開け放つと、八ヶ岳の林を通り抜けてきた活き活きとした風が勢いよく飛び込んできた。
その風に向かって大きな深呼吸を何度か繰り返しているうちに、わけもなく涙が出て来た。
人間は、所詮、どうしようもない哀しい生きものなんだ、という思いが頭をよぎった。
私は、ときどき、人はなんて哀しい生きものなんだろうとやりきれない気持ちになることがある。
所詮は限りある命なのだから、もっと気軽に、楽しく、優しく生きたほうがいいと思うのだが、それを出来ない人があまりに多すぎる。
あまりに欲張りすぎると、心や体に潤いがなくなり、知らずしらずのうちに、大きなひび割れが出来てしまうような気がする。
マタタビ

令和5年7月9日
人間の脳は、地球上の生物の中で最も進化した脳であると考えられている。
人間の脳は、深部から表面に向かって脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質と大きく三層に分けられ、帽子をかぶせるように進化してきた。
最も深い位置にある脳幹は、爬虫類の脳である。秩序や伝統を重んじる脳であり、蛇はこの脳しかもっていない。
その外側にある大脳辺縁系はネズミの類で発達している。これは好き嫌いをはっきりさせるところである。
人はその外側に大脳皮質という脳を持つ。大脳皮質は知識、思考などの脳である。社会を変えてきたのは大脳皮質が主役だった。
脳の中で蛇の脳と知識の脳が対立すると苦悩が生まれて憂鬱になる。
蛇の脳と人間の脳の抜き差しならぬ対立の中間で、ネズミの脳が好き嫌いを感じ脳全体で判断するのである。
サルナシ エゴの木 赤エゴの木 沙羅

令和5年7月2日 子供時代
子供時代は懐かしい。時どき、子供時代のある一日に戻れたらなあと夢想する。
若かった父と母に会いたい。祖父と祖母にも会いたい。会って詫びたいことがある。
戻れることなら断然小学生だ。中学時代の私は自分でもあんまり好きではない。
感情の揺れが激しい一方、妙に理屈っぽく観念的で、いくつかの小醜態を演じてしまった。
今でも時々思い出し、身悶えするほど恥ずかしくなる。
   草餅に 子といてなごむ ひと日かな   鈴木真砂女

令和5年6月25日 梅雨
窓を開けるとそこから見られるどんよりとした曇り空は梅雨入り間近を思わせた。
ほとんどの病気は、突然降ってわいたようにして出てくるのではなく、出るにはそれだけの理由があるはずである。
つらいことが待ち受けている時は、時間はそれに向かって早く過ぎていくようだ。
人は程度の差こそあれ年をとってくればもの覚えは悪くなるし、もの忘れすることも増えてくる。
ごく当たり前の加齢現象である。
夏は厳しくなりそうです。どうぞお大切に。
シャクナゲ シャクナゲ レンゲツツジ 大山レンゲ
ヤマボウシ 紅花ヤマボウシ 九輪草 アヤメ

令和5年6月18日 父 押阪忍
父は祖父が津山市市議を務める羽振りのいい家に婿養子に入りました。
四十代で、三年のうちに妻子四人を次々と結核で亡くしました。
市役所に勤めていても、公務員の給料では相次ぐ病人の治療費はまかないきれない。
自分の非力が悔しかったと思います。「僕は四男坊だから、死なん坊だよ」と言うと、笑ってくれましたが。
結局、家族で残ったのは、小学三年生の僕だけ。父子二人の生活が始まりました。
戦時中、かまどにくべる薪を求め、製材所に木材の切れ端をもらいに行ったことがあります。大八車を父が引き、僕が押す。
つらかったのは太鼓橋です。街中だから、父は人目を意識し顔を伏せ、声を殺して「押せ、押せ」と言った。
ランニングのやせた背中でした。
やりきれなさを、父は酒に向け、冬の夜、酒屋に走らされたこともあります。
初孫が男子だった時、「でかした」 と嫁に言い、ヒゲ面をくっつけて子供にほおずりしていました。
短気だったのが角が取れ、妻と面差しの似た嫁に看取られて、七十八歳で亡くなりました。
僕は、一緒に暮らした父より、小1で死別した母に思いをつのらせてきました。
妻子を失ったおやじの辛さがわかったのは、家族を持ってからです。
ぼくに忍という名前を付けたのは父です。
「自分にない 『堪忍』 から 『忍』 の一字をとった」 と言っていたけれど、そのおやじから、じっと耐えることを教えてもらいました。
あけび わらび アスパラ 姫リンゴ

令和5年6月11日 景色がいい 埼玉県 高木千代子
私の田舎は四方八方山に囲まれ、緑がいっぱいです。若い頃、その良さがわかりませんでした。
私が小さい頃、同じ家を出て、都会暮らしをしていた叔母が、実家であるその家に帰ってくると、家の前に立ち 「景色がいいなあ」と大きく深呼吸していました。
私は子供ながらに、ここのどこがいいんだろう、山ばっかりでつまらない所なのに、と思ったものです。
その後、私も叔母と同じように都会にあこがれ田舎を出ました。
それから結婚して二十年がすぎ、私も時々田舎に帰り、実家の前に立ち大きく深呼吸をしながら、「山がきれいだなあ」とつぶやいています。人の死後、何かに生まれ変われるとしたら、私は、あの山の木の一本になりたいと思う今日この頃です。
ウラシマソウ 丁子ガマズミ ドウダン躑躅

令和5年5月28日 朝露
朝、庭に降りてアッと目を見張った。生い茂った雑草のあちこちから朝露が何とも言えず清冽な光を放っていたからだ。
今まで、何度か朝露の美しさにうっとりしたことはあったけれど、こんなに強いきらめきを見たのは初めて。
日差しの具合が奇跡的に良かったのか。私の心は発見の喜びで満たされた。
今までこんな朝露の美しさを見逃してきたのか。知らずに、気付かずに、やり過ごしてきてしまったものはあまりにも多い。
この世の中はわけがわからないけれど、やっぱり面白い。生きるに値する。
この命を、この世の中を、精いっぱい深く味わって生きていきたい。
朝露ひとつでそこまで考えを拡大するのは、私がおめでたいからなのか。
ぬかずけば われも善女や 仏生会 杉田久女
タラノメ ウド ワサビ コゴミ

令和5年5月21日 ロンドンにて
交差点で信号待ちをしていたら、突然、『あんたがしたの !』 ときつい声が飛んだ。犬を連れたオバサンが犬に向かって叫んでいた。
そばに湯気が立ちそうなウンチが落ちていた。ウンチ袋を持っていなかったオバサンは犬に八つ当たりして体裁を取り繕っていたんだね。
凄い声で犬を叱りつけているんだよ。犬も困ったような顔をしちゃって・・。
まわりの人達もきまずい空気になっちゃって、何もそこまで犬に当たることはないだろう、いい加減にしてくれ。て、みんなそんな感じ。
またオバサンの 『あんたがしたの ! 』 って叫声がしたとたん、そばにいたオジサンが、すかさず、こういったんだよ。
『私がしました。(I did it)』 て、サイコーでしょ。
その時信号が変わって、そのオバサン 恥ずかしいんだか横断歩道を渡らす帰っちゃった。
みんな、歩道を渡りきったところで大笑い、拍手喝采。そのオジサン、昔風のうやうやしい礼をしちゃってね。
ほら、帽子を脱いで胸に当てるしぐさ。あれをやって、拍手にこたえたんだよ。
かっこいいなあ、そのおやじ。まさに当意即妙。
こういうのはユーモアというよりウィットというべきか。
落葉松 血潮紅葉 フデリンドウ アズマシャクナゲ
三つ葉つつじ 水仙 八角連 山シャクヤク

令和5年5月14日 東京都 加茂谷洋子
町で母に出会った
お互いに 「あら」 と言って擦れ違った。一緒に暮らしている母なのに。
家に居る時はシャキッとしている母なのに。
町の中に居る母はとっても小さく、一生懸命歩いていた。
うしろ姿に 「転ばないでね」 と心の中で呟いた 私。
楊貴妃桜 ジュンベリー 淀川躑躅 レンギョウ

令和5年5月7日 山村暮鳥
山小屋の白い壁に、五月の木々の緑が反射して揺れています。

いつとしもなく
めっきりと
うれしいこともなくなり
かなしいこともなくなった
それにしても野菊よ
真実に生きようとすることは
こうも寂しいものだろう
冨士桜 シラネアオイ 黄花カタクリ シラネアオイ

令和5年5月5日 子守歌
子守歌とは、孫が生まれた時に、祖母から母親となった娘へ手渡されるもの。
核家族化が進み、祖母と一緒に住まなくなったのが、子守歌の衰退に拍車をかけたのは、確かであろう。
昭和十八年に北原白秋達が子守歌を集めたところ、全国で約三千五百あったという。まさに子守歌列島である。
子守歌には、母親が子供可愛さに唄うものと、子守娘が子供憎さで唄うものとがあった。
子守娘の待遇は江戸時代の頃から劣悪だったらしい。
子守歌は明治の頃から小学唱歌の影響もあり、少しずつ衰退し、わずかに残るのは「五木の子守歌」や「中国地方の子守歌」などごく少数でしかない。

令和5年5月4日 唱歌
明治時代の小学唱歌は格調高いが今の子供には難しいかもしれない。
「蛍の光」、「故郷の空」、「埴生の宿」、「荒城の月」 などは美文調の文語体で、国語力の低下した現代では、大人にとっても難解である。
その後子供たちの歌が俗悪化した。そこで、鈴木三重吉は大正七年に、「赤い鳥」 を発刊し、子供にも理解でき、子供の美しい空想や純な情緒を育み、かつ芸術性の高い童話と童謡を作ろうとした。そして北原白秋や西条八十の協力で次々に名曲を発表した。
白秋の 「雨」、「赤い鳥小鳥」、「からたちの花」、「この道」 。八十の 「かなりや」、「お山の大将」、などはこうして生まれた。
野口雨情は 「十五やお月さん」、「赤い靴」、「青い目の人形」、「黄金虫」、「しゃぼん玉」 などの名作を作った。
ほかにも、「叱られて」、「花嫁人形」、「月の砂漠」、「春よ来い」、「めえめえ児山羊」 など、現在に残る名曲の多くが、この童謡の黄金時代とも言える大正後期に生まれた。
これら一流詩人や作曲家による童謡は、どれも抒情的に優れた詞と旋律を有している。
例えば、「しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ、屋根までとんで、こわれて消えた / しゃぼん玉、消えた、飛ばずに消えた、うまれてすぐに、こわれて消えた / 風風吹くな、しゃぼん玉とばそ」 は、作者が生まれたばかりの子供を失ったときに作った、という事実を知らなくても、そこはかとない哀しみの漂っているのが感じられる。

令和5年5月3日 童謡
童謡は今や「童」は歌わないのでありまして、老人が涙ぐみながら、歌うばかりの「老謡」になってしまった。
そんな昔の歌をうたうと心が洗われて少年の心に戻り、私は元気が出てくるのです。
三木露風作詞 山田幸作作曲

   夕焼、小焼けの、あかとんぼ
  負われて見たのは、いつの日か。
  山の畑の、桑の実を、
  小籠に、つんだは、まぼろしか。
  十五で、
姐やは、嫁にゆき、

    お里の、たよりも、たえはてた
    夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
    とまっているよ、竿の先。
往事茫々です。

令和5年5月1日
明治31年来日し一度も帰国しなかったポルトガルの作家モラエス。
「日本国民の生活は、蝉の生活のようにその元気な活動のうちに唄って過ぎてゆく。
町では、大工、左官、下駄職人、車夫、その他すべての職人が唄いながら働く。畑でも山でも農夫や樵が唄いながらせっせと働く。
巡礼、乞食も門前で経文を唄う。日本のジプシィとでもいうべき身分の女たちもまた門前に停まって民謡を歌い、いくらかの銅貨を求める。
母親が子供に唄ってきかせながら眠らせる。生徒たちが学校の遠足で合唱して唄う。行進する兵士がときどき合唱して唄う。
芸者たちが唄う。うんと唄う、・・・。」
どうやら昔の日本人は実によく唄ったらしい。
今年は花冷えで、いつまでも盛りの花を残していた。
春浅し 吸物椀の 蕗のとう

令和5年4月30日
樹の中には何百年という寿命のあるものがある。人間も含めて動物はそうはいかない。運が良くて百年ちょっと。
動物は文字通り動き回るけど、植物は一つ所にじっとしている。そして体と地球がじかに結びついている。
そのことも何か寿命と関係があるのだろうか。
樹の場合、切り出されて建築物のパーツになっても、まだ、息づいているかのようでもある。
樹って何と不思議なものなんだろう。
田圃畦道香の芹を 摘んでお膳に春の色
長居するなと春一番が 冬の背中を蹴って春
シデコブシ 山茱萸 馬酔木 辛夷

令和5年4月23日 岡本かの子
岡本かの子は歌を作っていた少女時代から、小説を書くことに憧れていた。
一平と結婚し、太郎を生んでもその望みは捨てられなかった。
かの子が小説を志した時、一平は、
「小説を書くのは日本橋の真ん中ですっ裸で大の字になって見せるくらいの覚悟がいる。それが出来るか」 といった。
その時、かの子は、「パパがその時、そばにいてくれれば」 と答えたという。
かの子が文壇に文字通り彗星の様に躍り出て輝いたのは、正味二年半という短さで、昭和十四年二月十八日永眠、享年五十歳。
かの子の没後二十三年、昭和三十七年、遺児岡本太郎が、かの子の故郷二子多摩川畔に、
かの子の文学碑であり、一平かの子の稀有な愛のモニュメントでもある、「誇り」を制作した。
白い炎を天に向かって吹き上げているようなその彫刻には、
「この "誇り" を一平、かの子の霊に捧ぐ」 という献辞が太郎により彫り込まれている。
四月の頃の山小屋は、山々が藍色に霞、雲のない空は金色の光を投げかける。
斜めの陽をいっぱいに受けた山々の何という美しさだろう。
八ヶ岳 暮れゆく空に 桜かな

令和5年4月16日 正岡子規
   故郷や どちらをみても 山笑う
”山笑う”は春の山のことを言います。木々が芽吹き、桜や山吹などのいろとりどりの花が咲きはじめた山は確かに笑っているかのようです。
ちなみに万緑の夏は ”山滴る”、紅葉の秋は ”山装う”、そして木々が葉を落とす冬は ”山眠る”と言います。
山に囲まれた故郷、どこを見ても春の山が目に飛び込んできます。共に春を迎えた人と自然が呼応しているのです。
山小屋の庭にある四季折々の桜木の風姿は、それはまた見事です。
少年時代からの筋金入りの山童。植物好きの私は花を見る。花も私を眺めてくれる。今私はそう信じています。
むれ落ちて 楊貴妃桜 尚あせず   杉田久女
カタクリ 福寿草

令和5年4月9日 白洲正子
「桜男行状」という本がある。
著者は、大阪の笹部新太郎という方で、桜を育てることに一生を捧げた奇特な人物です。
私はこういうことを質問した。桜の寿命は四・五十年といいますが、稀には千何百年という名木もある、これはどういうことでしょうかと。
「そうですね、桜の成長は、ほぼ五十年でぴたり止まってしまう。それから先は自力で生きるのです」
してみると、人間も同じだということか。
帰りがけに、笹部さんは、「日本一の桜」を見せてあげようといって、庭先へ案内して下さった。
お庭の真ん中に一本の若木の桜が立っていた。小豆色の幹、葉もやわらかに照り輝き、花の頃の美事さが思いやられる。
笹部さんが育てた桜は、何万本か何十万本か知らないけれど、たった一本、それも若木の桜が残ったことに私は、深い感銘を受けた。
「花がないのが残念です。来年の春、また伺ってもいいでしょうか?万障繰り合わせて参ります」
勢い込んでいう私を、和やかな笑顔が受けとめた。
「でも白洲さん、桜は花ばかり見るものではありませんよ」
5日、山小屋をあけました。
9日、寒の戻りで氷が張りました。

令和5年4月2日 小林恭二
   家々や 菜の花いろの 燈をともし
俳人 木下夕爾の代表作といわれる句です。
一読、幻想的なまでに美しいイメージに胸を打たれますが、一本調子で屈折が少ないように思う読者もいるかもしれません。
しかし、詩人夕爾の世界に照らし合わせて読むとき、句は一転して甘くせつない青年の景を提示してきます。
主人公は青年、それも深い孤独のなかにいるまじめな青年でしょう。
仕事帰りの夕方でしょうか、小高いところから町を眺めると、家々が灯をともしているのが見えました。
日の光は残っており、宵闇との厳しいコントラストはいまだ生まれていません。
まるで菜の花畑にいるみたいだ。青年はそう感じます。
青年はしばしば町の景色をうっとりと眺めた後、家路を辿ります。
夢と孤独に満ちた夜の時間を迎えるために。
雪踏める うれしさのあり 春の山
今年は三月から蕗のとうが豊作です

令和5年3月26日 黛まどか
   振り返ってみたくて上る春の坂
これは父が若い頃に作った句で、私の好きな句の一つです。
私が住んでいた湯河原は、海と山に囲まれた小さな町。子供の頃は、よく父の散歩について行って、裏山とか春の坂を上がったものでした。
大人になって改めて句を読んだ時に、その時の光景が蘇って来て、うちの父は振り返る楽しみを持っていたのだな、という事に気付きました。
祖父が亡くなったとき、父に対して抱いていた疑問のようなものも、俳句を通して誤解だったことを知りました。
おじいちゃん子だった私は、祖父が亡くなったときすごく泣いていたのに、父は喪主だったこともあって、気丈に振る舞っていました。
その時子供心に、何で泣かないんだろうと思っていたんです。
ところが、自分が句をやるようになって、父のある句集を読んだ時に、一句だけ祖父を詠んだ句があったんです。
「父死す」という前書きがあり、

   
つばめの空さらに高きに父の空
と読んでいました。
燕がやって来る時期になり、空を飛んでいる。でも父はもっと高い所へ行ってしまった。
と、句には悲しいとか寂しいなどの思いは書かれていないんですが、父の深い悲しみが、空の深さにあるような気がしました。
ああ、父はそんな思いだったんだ、と知ったと同時に、俳句ってすごいなと思いました。
花はいつしか枯れてしまうけれど、そのときの色や香りや風の様子を五・七・五の器に入れたら永遠なのよ  黛まどか

令和5年3月19日 中野翠
ラジオを聴いていたら、投書を紹介するコーナーでこんな話があった。
投書の主は中年の女の人。夫の仕事の関係でニューヨークのアパートで暮らした時の体験談だ。
夫婦には幼い子供がいる。ドタバタ騒いで階下の人に迷惑をかけるのではと思い、お菓子を持って階下に挨拶に行ったところ、相手が。
「お菓子は要りません。それより子供を騒がせないでください」 と言ったので驚きましたーーという話。
投書の主はそれでムッと来たとか何とかというのではない。ただ単純に驚いただけのようだった。
いかにもアメリカ人らしいなあ。はい、御説ごもっとも。スッキリしている。
菓子折なんぞより、まず騒がせない努力。謂れ無い物は受け取らない。
好意だの悪意だのというのとまったく関係の無い次元で受け取りを拒否しているのだ。
いいなあ、好きだなあ、このスッキリ感。
筋が通っていて、わけのわからない情緒にもたれかかるようなところがなくて、合理主義の清潔感がある。
足音が 聞こえてくるよ 春近し
3月7日紅万作 3月7日庭の雪

令和5年3月12日 春風献上
水の流れと人の世には、とかく喜びと悲しみがともなうもの。
人間だれしも楽しかったことは忘れがちだか、悲しかったことは忘れられないものである。
美しい老い方が出来れば、人間、百まで生きるのも愉しいことかと思われてくる。
病気転じて福となるか
小学校の理科の問題。
「氷がとけると□になる □をうめなさい」 と、水になるが正解らしいのだが、□に春という字を入れた子がいた。
何という想像力豊かな子であることか。素晴らしいと私は思うのだが、教師はけんもほろろにバツをつけたという。
持病との 久しきつきあい 春まてり

令和5年3月5日
昨今の旅には、銭をかかえて夢に浮かれて、楽しさだけを、というのが多い。
が、芭蕉の旅はわびしくつらい日々の中にあった。
「旅の恥はかきすて」 と、日本人の旅は享楽的だが、「旅は憂いもの辛いもの」 こそ、芭蕉や西行の旅だった。
芭蕉は 「旅人と 我名よばれん初時雨」 と長い長い旅に出る。
そして、人生の時間の旅は絶対にあともどりできない。
気持ちだけは旅行ではなく、旅をしたい。
蕗のとう 春は名のみの 八ヶ岳

令和5年2月26日 雪の降る街を
日本がまだ敗戦の混迷を引きずっていた昭和二十四年十月、連続放送劇「えり子と共に」がNHKラジオではじまった。当時は生放送、昭和二十六年の十二月、リハーサルをおこなったところ、台本通りにやると放送時間が余ることが判明した。
そこでドラマの作者・内村直也がその場で歌詞を書き、中田喜直がメロディーをつけ挿入した。

雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
温かき幸せのほほえみ

名曲はほんの偶然で生まれることがままある。のちに二番・三番の歌詞も作られてラジオ歌謡として放送されている。北海道旭川には、作詞者 内村直也の筆になる歌碑がある。

令和5年2月19日 黛まどか
   ためらひし あとまつすぐに 兎跡   斎藤美規
雪原には様々な動物が足跡を残していきますが、兎のそれは後肢と前肢の特徴から一目でわかるのだそうです。
また兎は警戒心が強く、道を渡る時などは一度立ち止まってから素早く走り抜けるのだとか。
「恋に陥った男女みたいだねと言った人があるが、そんな恋っていいなと思った」とは作者の自解。
一度は立ち止まりためらい悩む。しかし逡巡の後はまっすぐに貫く。恋に限らず、そんな生き方もいいですね。

令和5年2月12日 一茶
二月の初めといえば、一年のうちでもっとも寒い時期だというのに、暖冬とかで三月上旬並みの暖かさが、このところずうっと続いている。

   大雪の山をづかづか一人かな   一茶
大雪の山の中を一人でずかずかと歩く。夏山のように藪や草などがなく冬の里山は気持ちが良い。
降った雪が日光で融け、夜になると凍る、それを「凍雪」ともいう。

令和5年2月5日 スイセン
「水仙の 香や こぼれて雪の上」 加賀千代女。
別名、雪中花と呼ばれる日本水仙は 「日本」 と名があっても、原産地は地中海沿岸とスペイン。
水仙はヒガンバナ科の多年草球根植物だから、当然リコリンなどの有毒成分が含まれている。
昨年の秋、球根をたくさん植えました。
春が楽しみですが、毎年、有毒でも鹿は食べます。

令和5年1月29日 神仏
諏訪を歩くと神社仏閣の多さに驚かされる。お稲荷さんや、お地蔵さん、野仏もある。
人は弱いものであるからして、何かにすがりたいという気持ちを持っていることはなんら不思議ではない。
そうなれば身近にすがりつける、信仰の対象を置きたいと思うのは道理である。
信仰心が希薄な私ですが「今日が平穏無事でありますように」と頭をたれ手を合わせる。

実際に歩くと地図に出ていない神社仏閣が多く、自分で歩いて探すのも愉しい。
毎日一万歩いてます。
下諏訪町の熊野神社、翌日毒沢鉱泉へ山道を歩く。道祖神が多い。
諏訪大社秋宮の恵比寿神社から御射山方面を散策。
諏訪市の諏訪大社上社本宮をゆっくりと隅々まで見る。
法華寺の吉良義周のお墓を見る。上杉綱憲の次男、吉良上野介の養子になる。諏訪藩主にお預けになって21歳で死。
北斗神社は石段がきつい。藤森照信の空飛ぶ泥船・高過庵(茶室)・神長官守屋資料館を見学。

令和5年1月22日 高倉健
おふくろは僕が荒れ性であかぎれが切れたり、いろいろするってのはよく知っているんですよ。
任侠映画のポスターでね、入れ墨入れて、刀持って、後ろ向きで立っているやつでね、全身の。
肉絆創膏を踵に貼ってたんですよ。それを、
「アッ、あの子、まだあかぎれ切らして、絆創膏はっとるばい」って。
見つけたのは、おふくろだけでした。
全身のポスターで、誰も気が付かない。

令和5年1月15日 一茶
   我が宿はつくねた雪の麓かな   一茶
わが家の雪は家の高さをはるかに越す。わが家はその雪山の麓でちょんぼりとあるばかり
初詣は分散参拝を奨励されています。
私は昨年末に、諏訪大社春宮にお参りし付近を散策。砥川を暫く見ました。水の流れは見飽きませんね。
翌日は諏訪大社秋宮に参拝。付近を散策し近くにある父の実家(年寄りの従兄が住んでいます)を見ながら鎌倉街道を歩く。
また翌日は山の上にある若宮神社、何でも聞いてくれる"言いなり地蔵"、近くの稲荷神社をお参りしました。
いつも歩いている諏訪湖畔や山小屋の山道と違う、古い街道は何が現れるか楽しい散策でした。

令和5年1月8日 二人暮らし
いま我が家は二人暮らし。
二人暮らしは、いつか一人暮らしになって、その一人暮らしの最期をまた誰かに看取られて、二人ともいなくなるということ。
「老い」というのはそういうことです。
だから理想的な二人暮らし、そしてそのあとに残っている一人暮らしがどうなるかということを両方で覚悟しておく。
どちらにしても二人暮らしが楽しいという裏側には一人暮らしが待っているのである。

   音すべて 雪に吸われし 山の小屋

令和5年1月5日 山村暮鳥
歳をとったら 、縁側で日向ぼっこをしながら、好きな詩人の全集を繙き、昔にかえりたい。もう十分に歳をとっていますが。
その一人が山村暮鳥。

雲もまた自分のようだ
自分のように
すっかり途方にくれているのだ
涯のない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひょっこりとでてきませんか

令和5年1月4日 黛まどか
   今生の いまが倖せ 衣被(きぬかつぎ)   鈴木真砂女
真砂女最晩年の一句です。生涯を通じてさまざまなことがあったけれど、今が一番倖せだとしみじみ振り返る真砂女。
一日一日を無為に過ごすことなく、自らの手で明日を切り開きながら懸命に生きた人にしか、その実感は訪れないのではないでしょうか。
人生山あり谷あり・・・良いことばかりは続きませんが、艱難辛苦があり、それらを乗り越えたからこそ、最後にこのように穏やかな境地を迎えることができるのでしょう。
【衣被】皮をむかずに洗い、丸ごと茹でた「里いも」のことで、指で押すと被っていた衣を脱ぐようにつるりと食べられます。

令和5年1月3日 佐藤英一
二十二年前結婚した時、私たち夫婦の両親は健在であった。
しかし、いつかは別れがやって来る。
平成元年三月末、私は父の死ぬ間際に二十歳前の長女を連れて東京の病院に見舞った。
父は死相が浮かんでいた。残酷だと思ったが、私は長女を一人置き去りにした。
長女には、血のつながりのある祖父が、死と闘っているのを感じてほしかったからだ。
小一時間も経っただろうか、病室を覗くと、父のベッドの側で長女は、痩せ衰えた父の手を静かに摩りながら、じっと顔を見つめて涙を流していた。思いのほか軽い息で目を閉じていた父。それが私たちの見た、生きている父の最期の姿であった。
九月末、今度は広島の妻の母親との別れがやってきた。
そんな時、家ではおさんどんの一つもできない長女が、「大学を休んでおばあちゃんの看病に行きたい」と言った。
大学の勉強はいつでも取り返せるが、祖母との別れは今現在しかないので行かせることにした。
食事の世話から吐物や大・小便の始末まで、生まれて初めての経験であったろう。
病室の仮ベッドに寝て、長女は何を見つめ、何を考えたのだろう。
一週間が過ぎ、わが家に帰ってきた長女の声は元気だったが、表情はやつれていた。
しかし、肉体的には消耗していたが、心には大きな豊かさを蓄えてきたように思えた。
身近な人の死に会うのは、辛いことである。
しかし、人間に死がある限り、死を見つめる心が育っていなければ、人は穏やかに老いて死することはできまい。

令和5年1月2日 山靴の音     吉野満彦 「山靴の音」より
耳を澄ましてごらん
・・ほら ね ね・・
何処からか 古い記憶の
山靴の音が 聴こえてくる
ほら 僕の全身に
滲みわたるように・・
   おだやかに 霧を抜け出し 初日の出

令和5年1月1日 元旦
   好きなものキノコ、 山菜、山登り
      薪窯焚きと古備前の甕

妻、「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく」
私、「おめでとう、こちらもよろしく」
いつもより朝寝坊、オシャレをして正座。
自作の盃でお屠蘇代わりの日本酒で乾杯。
これが、我が家の元旦の儀式。

この世に生きている限り、人はどこかで日々をくりかえし送らなくてはならない。

いま、山小屋は、天も地も凍てついている

正月や 上々吉の 浅黄空  一茶

また一つ年を重ねました。
 新年おめでとう