山小屋便り16に続く

令和6年12月31日 大晦日
生徒さんの中に認知症の親をかかえている人がいる。
私も経験したが介護は本当に大変である。
ボケたからといって、年寄りに死ねということはできないが、「人間は寿命に従順であるべきだ」、という72歳で亡くなった司馬遼太郎さんの言を本気で考えてみる必要があるのではないだろうか。

私は平凡な言葉を好きになりたい。 井伏鱒二

令和6年12月29日 藤原正彦
正月の楽しみは箱根駅伝である。
私にとっての最大の見所は各中継所でのたすき渡しだ。たすきを次走者に手渡した直後に選手が倒れたり倒れそうになり抱きかかえられたりするからだ。私はこれに感動する。チームと大学の名誉のため持てるすべてを出し切ってバタッと倒れるというのはあまりにも美しい。
マラソンで選手がゴールイン後に倒れても私は感激しない。自らの栄光のために全力を尽くすというのは当然のことだからだ。
駅伝は違う。それは自己犠牲であり、献身だ。
感激で目を潤ませている私の横で息子たちが 「たすきを渡した後に倒れないときっと先輩にぶん殴られるんだよ」 などとくだらぬことを言う。無論私は 「黙れ曲者、非国民」 と一喝する。

令和6年12月22日 仙厓
「幸せ」 になりたい願望がある。
そうであるのに、この現実には、不幸が満ちている。

欲ボケたやつは世の中に多い。仙厓は
 「あの月が欲しくばやろう取って行け」という。

令和6年12月15日 夜空
私は星のきらめく夜空を見上げて瞑目し、大きく息を吸った。
目をつむると何が見えるのか。今では何も見えない。
目をつむれば、たちまち眠ってしまうから。

春に山小屋を開け、充実した九ヵ月を過し初冬に閉める。
山小屋を11日閉めました。

令和6年12月8日 77歳
客観的には老人だか、私自身はまだまだ若いつもりでいた。
肉体的には衰えたが、精神的には若い頃と変わっていない。むしろ、幅広い知識を持つようになったとさえ思っていた。
七十七歳を過ぎて、それが変わった。主観的にも老人だと思うようになった。
私は、雲が流れて微妙に変化する様子とか、木の葉がヒラヒラ落ちるのだとかを、あきもせずにじっと眺めている。
般若心経を唱えつつ歩く。

令和6年12月1日 熊谷守一
坂本繁二郎は若い頃から名誉とか金とかには、全く関心がない人でしたが、いい絵を一生懸命に描かなければならないと思っていたようです。私は名誉や金はおろか「ぜひ素晴らしい芸術を描こう」などという気持ちもないのです。
絵にも流行りがあって、その時の群集心理で流行りに合ったものはよく見えるらしいんですね。
新しいものが出来るといういう点では認めるとしてもそのものの価値とは違う、やはり自分を出すより手はないのです。
私は上手とか下手とかいうことでは絵を見ません。絵をいくつか見せられて、すぐパッと目にはいる上手なのが必ずあります。しかしじっと見ていると、だんだんそれ程でもないように見えてくるものです。昔、二科で展覧会の審査をやっていると、よくそんなことがありました。すぐ「あれがいいな」と目につく絵をしばらく皆で見ているうちに、しだいにわからなくなってくる。しまいには、誰かが「それほどでもないや」などと言いだします。うまいことをいうものですが。上手な絵など、いつかはそれほどでもなくなってくるものです。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。
私はほんとうに不心得者です。気に入らぬことがあっても、それに逆らったり戦ったりせずに、退き退きして生きてきたのです。ほんとうに消極的で・・。私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっと眺めているだけで、何日も何月も暮らせます。
11月23日、初雪です。一面真っ白。
28日再び雪です、今年は雪が多いか。

令和6年11月24日
誰の言だったか、「冷酒は胃を傷め、温酒は肝を傷め、無酒は心を痛む」という。
私は若い頃、随分と無茶な飲み方をしていたものだが、いまはそういうことはない。
それは酒友たちがお互いに年をとり、あるいは肝臓などをやられ、あるいはすでに故人となってしまったりで、つまり私自身が老年に達したということに大きく因っている。
また、昔よく見られた破滅型飲酒は戦後社会の特産だが、いまはその時代とは程遠いアカ抜けのした豊かな社会になって、時代そのものが酒を飲まなくなったこともある。酒の存在がおしなべて希薄になったといえる。
今、私は週に三日、日本酒かビールを少し飲んでいる。

アレアレが口癖夫婦茶碗かな

令和6年11月17日
窓を開ければ林が見える。
まばらな雑木林、赤、黄、橙、そして茶色に金色に白銀にとさまざまな色紙の世界となった。
それがはらはらと舞い、西日を受けて濃淡にきらめいた。
日陰に入ったところの木々は幹を黒い棒縞模様に見せた。
風の音、落葉の葉ずれ、帰途を急ぐ鳥たちのせわない鳴き声のほかは、何も聴こえなかった。
緋のかかった金色の残り日が美しい音色を発しているように思えた。
その猩々緋の紗を通したような金赤色は私を魅了した

令和6年11月10日 残照
シベリアから季節風が吹きはじめ、天が高く澄みきる秋になると、日本の山々は一雨ごとに紅に染まってゆく。
全山が紅葉になれば、もう晩秋だが、まだ、ほんわかと薄い紅色に染まり、可憐な秋の七草が遠慮しがちに姿を見せる。
残照がゆっくりと墨色を溶かし込んできた。山小屋は、失われた人生の音を発してくるようだった。

令和6年11月6日 喜寿
年を経て、私は五十代になり、六十代になり、七十代になった。
そして喜寿、七十七歳になりました。
私はその時々で静かに走っていたが、最期まで夕陽に向かって走る少年でありたいと思う。
おこぼれ頂戴の一席、遠い夢のかなたの話です。

紅葉も ななめにめでる 喜の祝

令和6年11月3日 植物
植物はフィットンチッドという成分を出していることはよく知られている。
最近話題になっている森林浴は、この成分の効能を期待して行われる。
また、癌患者に気功を行うときは、松の木のそばでやれば効果が上がると言われている。(中国語の"松"には、リラックス、緩めるなどの意味がある)。また、人によって合う木 (植物) 合わない木があるという。

令和6年10月27日 出久根達郎
あれほど鳴いていた秋の虫が、いつのまにか、聞こえなくなった。
トイレの外で、実に、かぼそい声で晩秋を告げていたコオロギも、気がつくと、いない。
  「鳴いて死ぬ虫にお墓はありませぬ」 関口銀杏子
関口さんは落葉が大好きで、晩秋になるとこれを拾って歩いた。ある家の庭の落葉に見惚れて、是非、譲ってほしいと懇願した。その家の人が怪しんで、あなたは何屋さんか、とたずねたら、私は落葉屋です、と答えた話がある。
銀杏の落葉を特に愛した。号のゆえんである。
「末枯れや痩身関口銀杏子」自画像である。

令和6年10月20日 生々流転
十月も半ばになると、周囲の白樺、ナラ、そしてモミジが紅葉し、じつにすばらしい。
紅葉一色に見える景色も、よく見るとその中に松の緑ナラの褐色が点在しており、それがお互いに見事な彩色をなして、一幅の絵になっている。
生々流転を地でいく人は、人生も、食べ物も、「本物の味」を心得ている。

令和6年10月13日
私が毎日一時間ほど歩いているのは、金とは無縁な暮らしだけに、せめて少なしなりと運動不足を解消し、成人病を防ごうとの、いじましい願望から始めた日課なのだが、介護のストレスで病を得てしまった。
夕空は浅黄色できれいだ。虫の声がひときわ高くなった。

今年は栗が豊作だ。
栗食めば 恩師思ほゆ 山の小屋

令和6年10月6日
カラマツ林が黄金色に輝き、紅葉が真紅に染まるころ八ヶ岳の裾野は褐色に衣替えして一大パノラマを演出する。
しばし天然の絵画を見る思いなのである。
庭の萩が今日もおいでおいでと秋風に揺れている。
  野に立てば 描けよ描けよと 草の花

令和6年9月29日 山小屋
この夏の猛暑は長かった。
やり過ごすのは容易ではなかったが、山小屋は麓より気温が五度低いので、ずいぶんと過ごしやすい。
山小屋の庭に出ると水引草が赤く咲いて、ススキが穂を出している。
山小屋は秋が早い、風がひんやりする。落葉松が風でさっと散る。
もみじの葉が色づきはじめ、自然は秋の支度を始めている。

令和6年9月22日 セネカ
人生は短い。しかし、よく使えば長い。どうよく使うか。
実務を捨て、自然のなかで、心を充実させて暮らせば人生は長い。 セネカ

夜空を見上げると満天の星の一つがわずかに輝きを増した。
もう風は秋である。
  枝細く身体も細く秋風に

令和6年9月15日 ヒガンバナ
昔、生徒さんに頂いたヒガンバナが毎年秋の彼岸の季節、九月二十日頃になると咲く。
ヒガンバナはマンジュシャゲ(曼珠沙華)と呼ばれたりする。そして「もう秋ですよ」と、まっ赤な絨毯をしきつめる。
そもそも、マンジュシャゲというのは、梵語で、真紅の花という意味らしい。
ヒガンバナは、花を咲かせているときは、葉がない。そして、十月になると花は消えて、晩秋に葉が出る。
春がきて草木が芽をふくころ、ヒガンバナの葉は枯れてゆく。
とても、ひねくれもの、だと思う。

幼稚園児がぞろぞろと通りすぎて行く。
「ジイジ コンニチワ」と挨拶した子が保母さんに叱られながら去って行った。

令和6年9月8日 木偏
木偏に冬で柊(ヒイラギ)、それなら木偏に春、夏、秋は何か。
春が椿(ツバキ) 夏が榎(エノキ)、それはすぐ分かったが、木偏に秋があるか無いのか、調べてみたら、ある。
「楸。木の名。ひさぎ。きささげ」と辞書に出ている。
辞書を読むは一徳あり。

令和6年9月1日 天気予報
私は天気予報が大好きで、天気図、雲の動き、気圧配置など、毎日、目を据えてよおーく見ます。
昔、山登りをしていた時から天気にはとても気を配っているんです。
ついでに言いたいことがあるのですが、テレビのごく短い天気予報で、おねェさんが、天気は晴れた方がいいに決まっているという前提で、そういう心で、ものを言っているのが気に入りません。雨を望んでいる人間だって大勢いるんです。
私は、すべてのテレビ局の天気予報を見ますので、テレビ局ごとに明日の天気が違うのが気になります。
「おい、他のテレビ局では晴と言っているぞ。どうなっているんだ!」 と、おねェさんに向かって怒鳴ったりもしています。

令和6年8月25日 コスモス
朝の体操をしていると、体が鉛のように重い。
以前のバネのような強靭な体はどこに行ったんでしょう。
老いが怖いのはそこからの回復がないこと。
コスモスが風に揺れた。

草かげの名もなき花に名をいひし 初めの人の心をぞ思う (伊東静雄)

令和6年8月18日 渥美清最期の日々 篠原清治
私は渥美さんが亡くなった後、何度かご自宅を訪ねましたが、古い木製の質素な仏壇に、他の位牌と並んで、渥美さん本人の位牌がありました。ふつうは、ありがたい文字が並んでいるところなのでしょうが、渥美さんの位牌には、ただ「田所康雄の霊」と、平凡な文字で書かれているだけでした。
そもそも、渥美さんには戒名がありません。生前、渥美さんが、ご家族に「そういうものは付けるな」と言い残していたため、その通りにしたということです。その位牌は生前、総社市へロケに行ったとき、通りすがりにあった仏具屋で、関敬六さんと一緒に作ったものです。
渥美さんは、何事にも質素を好み、飾り立てることを嫌いました。仏壇も位牌も、その性格どおりです。
大事なのはことさら飾り立てることでなく、無心に手を合わせるその気持ちだと考えていたのではないでしょうか。
渥美さんは「知恩」という言葉を大切にしていました。意味は、文字どおり「恩を知る」ということです。
人は最期の刻に何を聴き、何を見るのだろう。
その答えはかならず得られるのだが、そとき人はもう、答えを人に伝えることはできない。

令和6年8月16日 京都府 白井淑子 (71歳)
♪いのち短し恋せよ乙女・・・「ゴンドラの唄」
遠い昔、夫と二人で見た映画『生きる』のテーマ曲「ゴンドラの唄」は、車椅子の私がいつも口ずさむ歌である。
いまは亡き志村喬が演じる主人公は市役所に勤めていた。そして癌になった。残りの命を仕事に賭ける。
夜の公園でブランコをわずかに揺らすとき、流れてくるこの歌は切々と私の胸をつく。
夫も市役所勤めをして定年となり、そして癌になった。夫の残りの命は、三十数年間の車椅子生活の私の介護に当てられた。
書き残されたものを読むと、妻の車椅子を押して散歩するときがこの世の極楽だと記されていた。
「今日はふたたび来ぬものを・・・」と歌いながら、亡き夫に感謝し、過ぎ去った日を懐かしむ私です。

令和6年8月15日 渥美清最期の日々 篠原清治
いつだったか、山奥の小さな村でロケをしたときのことです。さびれた過疎の村でした。
たくさんの見物人の中に一人のおばあさんがいました。そのおばあさんが、渥美さんに聞くんです。
「このテレビはいつやるのかね」
おばあさんは、映画の撮影をテレビの撮影と誤解していたのです。きっと、おばあさんは、もう何年も、いや何十年も、映画なんて見たことがなかったでしょう。それでも、おばあさんの疑問には、「おばあさん、これはテレビではなく、映画の撮影なんだよ」と、ひと言説明すればすむ話です。
でも、渥美さんは違いました。
「そうかい、テレビかい。きっと何年か経ったら見られるよ。だから、おばあちゃんも、その時まで長生きしな」
そのときの、おばあさんの、うれしそうな顔が忘れられません。

令和6年8月11日 元気なうちの辞世の句  岸田竹女 愛知県 八十歳
  線香花火の 如くゆきたし 大正生まれ
苦楽をのりこえて辿りつきました傘寿。俳句の花も線香花火の如くささやかな美しさもよいではありませんか。
そして最後はポトリと未練も無くゆく様にあこがれる次第です。
ネジバナ(ラン科 別名モジスリ) ミヤマモジスリ(ラン科) 丸山の森 フェスタ出店

令和6年8月4日 河井須也子 ・・河井寛次郎の一人娘
遥かに遠い未来のことは誰にもわからないが、地球に住む人類に四万日余を生きた人があったとしても、五万日を生きた人はまずいないだろう。人間は皆、限られた命を持って生まれてきている。このどうすることもできない不可抗力の期限付き「いのち」というものを寛次郎はよく認識して、生かされてきた人ではなかろうか。
人はいつかは命終の日がやって来る。そのことは、意識のあるなしに拘わらず、厳然たる事実なのである。
幼児のとき、母と死別した寛次郎は、両親の揃った人より、少しそうしたことを早くから感じる子供であったのだろうか。
長じてのち、与えられた生命と天地の恩恵に応え報いることを念願し、死を迎えるその日まで、一途に仕事をさせてもらった父は、享年七十七歳であった。
五万日とはいかないまでも百五十年は十分に生きた人ほどの仕事の量に、驚かされるばかりである。

形体(かたち)あるものなべて無に還ること
識(し)りてこそ創りましにし
盛者必滅会者定離ということわりのしみじみと身にしみる昨今、作陶を始めたころよりは少し肩の力が抜けました。

令和6年7月28日 河井須也子 ・・河井寛次郎の一人娘
父の話題は戦中のもろもろの疲れを癒し、底力を湧かせてくれたように思う。
窮地に立たされた時のアムンゼンやスタンレーの探検家の話。三重苦を背負いながら、素晴らしい世界に到達されたヘレン・ケラーを導いたサリバン先生の話。エジソンの苦労が発見につながる話。日本美を発見したブルノー・タウトの話。時にはころっと趣を変えて団十郎、菊五郎、左団次時代の歌舞伎や、大ファンだったチャーリー・チャップリンの話。マルセル・マルソーのパントマイムの話。アインシュタイン博士や、キュリー夫人のこと。果ては、ダーウィンの進化論やミクロの世界まで及んだ。
私はいつも自分の興味以外の話は耳を留守にし、聴いたふりをして本当は聴いていなかった。
今にして思えば、何という大馬鹿者であったかと慙愧に堪えない。
外は猛暑、僅か数日でこの世を去る蝉たちが「愚か者」と私を笑っている。

令和6年7月21日 無窓国師
私の机の周辺は書籍で埋まっている。孤灯の下に書を開いて静かに古人を友とすることほど、いつの時代にあっても心を潤してくれるものはあるまい。しかし、それが少数の良書を精読する妨げになっているのも事実だ。
そして書物と並んで、閉居の心を癒してくれるのが、自然の風光である。
山小屋の庭には、紅葉・さくら・山法師・いくつかの石が自然な庭の佇まいを見せていて、春夏秋冬、四季折々に薫風を運んできてくれる。
「山水には得失なし、得失は人の心にあり」無窓国師

令和6年7月14日
冬にトマトがありナスがあるようになって、だんだんと手作りの料理が失われて、冷凍・レトルト食品が花ざかりです。
家庭に "おふくろの味" がなくなり、今や "ふくろの味" ばかり。
外食をする人が増えて、俎板もない、包丁もない、という家が増えてきているといいます。
四季折々のしゅんの野菜や魚介類を煮たり、焼いたり、あえたりしてくれた "おふくろ" たちは、一体どこに消えたのだろう。

令和6年7月7日 利休の露地
露地とはひと口にいえば茶庭のことで、路地といわないところに深い意味がある。
露地というは法華経の譬喩品に出てくる言葉で、この現世を火宅に喩え、悟りの世界を露地としている。
草庵小座敷の茶室が仏法をもって修行、得道する場と考えられ、その茶に高い精神性が求められたとき、そこに至る通路はもはや単なる実用的な路地ではなくなった。
しかしながら露地がそのような意味を持った庭であるにしても、その庭の作りように人それぞれの好みが反映したこともまた当然である。利休は桃とか枇杷の木を嫌い、松、樫、ぐみなどを植えたといわれるし、古田織部は花の咲く木はすべて植えなかったといわれるが、いずれにしても、利休以降の多くの茶人が露地にひとかたならぬ関心を払ったのは、利休が露地を単なる庭と考えなかったことが大きく影響しているに違いない。
仏教にいう露地の思想を庭に適用したのは利休ならではのたいへんな見識であり、茶庭を目ではなく心で見るべきものとしたことは画期的な事であった。
露地についての利休の歌と伝えられるものを挙げると、
露地はたゞ浮世の外の道なるに
こころの塵をなどちらすらん

令和6年6月30日
鳥のさえずりで目が覚めた。時計を見ると五時過ぎだった。空を雲がうっすらと覆っている。
緑の色が日に日に色濃さを増してゆく、燃えたつような緑で、日本列島が覆いつくされる。
その緑の中に、ツツジ、さつき、きりしまの紅と朱が精巧な織物を見るようにあざやかなデザインを描く

令和6年6月23日 佐藤英一
私はT教授に、文献を鵜呑みにして生半可な知識で患者を治療し誤診するような医者は免許証を返して責任を取るべきでは・・と相談した。
数日後の夕刻、この山寺に誘われた。「私にも青春はあったのさ。ここにいた老師の右肺は半分ないのだ。それは若い時の俺が原因だ、癌ではなく結核の病巣だったのだ。当時でも抗結核薬の治療で内科的に治療できたのだ。その後、老師は肺機能の減少と背中の傷跡を持つことになる。俺は老師に誤診のことを謝り、医者を辞める決心を告げた。老師は
『勝手に辞めてもらっては困る。私が生きているうちは私の主治医として責任を取ってもらわなくては。私は摂生して先生より長生きして重い荷物になるよ。背負ってくれるかね』と酒も煙草もきっぱり止めて今年白寿だ。まいったね。
いつも老師のことを頭にとめて診療をしてきた。現在、少しでも患者さんに役に立つ医者になれたのは老師のおかげだと思っている。どうだ、それでも君、医者を辞めるという卑怯者になるのかね」
外はいつの間にか闇に沈んだ。雲が流れ、月が庭に一筋の道を照らしている。

令和6年6月16日 「雨降り御月さん雲の陰・・」 三重県・森本徳子(三十四歳)
甘えてすり寄ってくる息子に触れながら、父にもこんな日々があったのだろうかと思うことがある。
父は早くに母親を亡くした。
忙しく立ち働きながら、いつも、「雨降りお月」を口ずさんでいたことしか祖母にまつわる話を私は知らない。
母親がいないゆえのせつない体験の数々が、多感な少年時代にあったことを知らされたのは父の死後であった。
時折、ふっと口ずさんでいたこの歌に、父のどんな思いが込められていたのだろう。
我が子を背負う身となったいま、せめて父にも母親の背で聞いた甘い記憶のあったことを願う気持ちでいっぱいである。
今年も雨の季節がやってまいりました

令和6年6月9日 老人
分類上では、私は老人である。しかし、体力、気力、知力、すべてが老人であるかというとそうでもない。
残念ながら体力の方は認めよう。厄介な病気も複数抱えている。
枯れる時には枯れ、朽ちる時には朽ちる。それが生きものの礼儀である。
人間はどこかで捨てる部分とあきらめる部分をつくっておかないと重くて仕方がない。
元気がいいは所詮錯覚。「いつまでもお元気で」を誤解してはならない。
人間は有限の生命体で、しかも、消滅するのではなく、衰弱するように出来ている。
諦め上手か、諦め下手かで、長い人生の幸福は決まる。
マルメロ 細葉シャクナゲ 白山吹 ライラック 丁子ガマズミ  レンゲツツジ 赤ヤマボウシ オオデマリ

令和6年6月2日 樹木希林
父は、自由気ままに、我が道を行く人でした。
身の回りから何か面白いことを見つけては話してくれた。そういう人だから、周りに人が自然と集まってきた。
人は父を、いい星の下に生まれたと言っていたけど、違う。いい星の下にしたんですよ、自分の性格で。
私にとっては、反抗のしようのない父親だった。その分、世に出てから反抗したように思います。
面白がる性格は受け継いだ、私の役者としての土台かなあ。
若い頃は、もっと過激な、毒のある父親にあこがれた。
もっと何かをめざしてもらいたい。志をのべてもらいたい、と。
あのよさがわかるようになったのは、私自身の子どもが独立した最近のことです。
近ごろは、ああいうゆったりとした男がいませんねぇ。ぼーっとした男はいるけれども。
アケビの花 山ウド タラの芽 ワラビ

令和6年5月26日 元気なうちの辞世の句 木村光子 77歳
 不可も可も なき来し方や 日日草
私のキャッチフレーズは「低値安定」

戦争は経験したもののこれという浮き沈みも無く、平凡ながら幸せな七十七年間でした。
花屋さんで一番安くて目立たないけど丈夫な「日日草 (にちにちそう)」に自分の姿が重なります。
この上の願いはひっそりと消えていきたいということです。
八重山吹 桜(関山) 利休梅 淀川躑躅
三つ葉躑躅 山シャクヤク 血潮モミジ アズマシャクナゲ

令和6年5月19日 狐狸庵先生
遠藤周作は週刊誌に随筆を頼まれ、題名に関西で言う「こりゃあ、あかんわ」 という題を考え、それに漢字を当てはめて「狐狸庵閉話」としました。
一つこれだけは誰にも負けない、というものがあれば、後はぐうたらしていたっていいんだよ。
人間そんなに全部が全部、完璧に出来るはずないんだ。
たまには肩の力を抜いて、馬鹿話を読んでみたまえという気持であったのでしょう。
桜の葉と花を漬けました 八角蓮に花が咲きます

令和6年5月12日 「雨降りお月さん雲の陰・・」 千葉県・奥津とし子(三十七歳)
藁屋根の先から、ポタリポタリと落ちる雨だれを眺めながら、「歌を歌って」とせがむ私に、薄暗い小屋の中で縄綯い機に藁を三、四本入れては足踏みをする。その動作を止めることなく、私の顔をときどき覗き込んでは歌う母の歌は、「雨降りお月さん雲の陰・・」。
三、四歳だった私が、「雨降りお月」とセットになって憶えている情景である。
忙しくする母のそばで、この歌を歌ってもらうのは、背負ってもらうのと同じくらい温かく、心がやすらいだような気がします。
作詞 野口雨情 作曲 中山晋平
♪雨降りお月さん 雲の陰 お嫁に行くときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ) さしてゆく 傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた お馬にゆられて ぬれてゆく
大山桜 オオカメノキ 楊貴妃桜 シラネアオイ

令和6年5月5日 三田完
小沢昭一さんの葬儀の日。読経がひとまず済んだ。
麻布中学の同級生時代からこんにちまで、小沢さんの身近な友達だった加藤武さんが弔辞を読む。

あんたとは、おたがいどっちかか死んだら弔辞を読もうと約束していたんだよな。でも、北村和夫にだけは頼むのはよそうっていってたんだよな。でもこんなことになっちゃって・・、あんた、わかるか、この気持ち。嫌ーな気持ちだよ。アンタが亡くなった日、家まで駆けつけたけど、あんたは寝ているだけで、呼べと叫べど、なーんにも答えてくれない。そんな別れしたくないよ・・。
メモも持たず加藤さんは、大音声で小沢さんに呼びかける。まるで身の内に凝った悲憤を一気に吐き出すように。切々たる別れの言葉を、列をなす会葬者も私たちも息を呑んで聴き入る。そのうちに、各所から嗚咽が漏れる。ひときわ大きく「ぐすっ」と洟をすする音が、五メートルほど離れたところから聞こえた。眼をやると、なんと葬儀社の制服を着た男性が目がしらを押さえている。葬儀のプロまでも泣かせる弔辞を聴いたのははじめてのこと。
ときを同じくして、ついに空から雨がぽつぽつ落ちてきた。
  しぐるヽや、どこか遠くで ハーモニカ

令和6年5月4日 元気なうちの辞世の句   菅野淳一  福島県・六十八歳
  密葬と 書いてペン擱く 夏薊
三たびの心筋梗塞
四度目はいつか判らない。遺言しておこう。今のうちに。葬儀のしかただけでいい。
心と体に棘をまとって生きてきたような気がする。
アザミがとてもいじらしくてたまらない。

令和6年5月3日 対談 はらたいら
対談のコツは何かと聞くと、"それは時間に遅れて行かないことだ"とある作家が答えていた。
私は何度か対談を経験しているが、(これは大変だ、手に負えない) という人物がひとりいる。
その人の名前は淡谷のり子さん。
もう数年も前の話だが、亭主側の私は三十分前に編集者と赤坂の料亭で彼女を待った。
約束の時間の十分前、淡谷さんはまだやって来ない。五分、三分、一分、チーン。
「お客様がお見えになりました」という店の人の声。なんと淡谷さんは約束の時間とぴったりと来たのであった。
襖が静かに開き、両の手をついた淡谷さんが深々と頭を下げた。「淡谷でございます」
あの大ベテラン歌手にそこまで頭を下げられては、私もスタッフも大恐縮。もうここでこの対談の勝負はついていた。
一方的な淡谷ペースに私はあおられっぱなしであった。
その後、編集者と新宿のバーに流れて行ったが、ふたりとも放心状態であった。
「迫力でしたね。私も数年編集をやってますが頭が下がりましたよ。特にあの話にはまいりました」
その話とはこうだ。音楽賞の受賞シーンでよく歌手が泣きますね、と私がたずねると、淡谷さんは、
「歌手は舞台で泣くものではありません。ただそういう私も一回だけ泣いたことがあります。戦争中に兵隊さんを慰問した時、楽屋に十人ぐらいの若い兵隊さんがやって来て、私たちは特攻隊員だから、いつ席を立つかわからない。その時は歌の途中で出て行くこともある。その無礼を前もっておわびに来た、というんです。で、私が舞台で一番を歌い終わると同時に、その十人ぐらいの兵隊さんがいっせいに立ち上がり、私に向かって敬礼をして出て行ったのです。ああッ出撃命令が出たのだ、もうあの人たちは帰って来ないかと思うと涙が次から次へと出て来て、とうとう歌えなくなりました。その一回だけです」
こんなすごい話の前では、対談のコツなんてものは木端微塵というものだ。

令和6年4月28日 細川護熙
月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村
蕪村の春といえば「春風馬堤曲」が思い起こされる。
この長詩の主題は奉公勤めのひとりの娘が藪入りで里帰りをする情景から始まる。
〇 春風や堤長うして家遠し
そして娘の歩みに併せて「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」など俳句、自由詩、漢詩、読み下し漢文体を自在に交えた長詩で蕪村ならではの世界がそこにある。
わたしはこの詩を読むたびに、よき詩人の操ることばの面白さ、深さを思わずにはいられない。
馬堤というのは大阪市を流れる淀川に沿った毛馬の堤のこと。蕪村は自分の故郷であるこの地の冬から春へと移り変わる季節を舞台とし、若い娘の姿に自らの郷愁を託しながらひとつの詩物語を構成してみたのだろう。
蕪村の句や絵に漂う優しさ、美しさの根底には、世俗の真っ只中にあって己を持す厳しい意志が感じられる。
今の毛馬の堤はやはり長く道をなしていたが、蕪村の描いた風景はすでになく、わたしが訪れたときはまだ肌寒い春風が川面を渡っていた。彼のいう「俳諧之大道」は、まさに「人生の大道」にほかならないなどと思いを巡らせながら、ふと見上げた目線の先には飛行機が暮れなずむ空に白い雲を引いていた。
馬酔木 紅コブシ コブシ

令和6年4月21日
春は足早に過ぎてゆく。広大な八ヶ岳の山麓は、日ごとに萌え出づる若草で、たちまち緑の光に満ち溢れる。

蕗をキャラブキにする。
キャラブキのキャラ(伽羅)は、ジンチョウゲ科の熱帯産高木を土中に埋め、腐らせて作る黒い一種の香のこと。
また、本来のキャラブキは、温暖な海岸などに自生するツワブキで作るものだという。

夜、山小屋を出ると、ぎょっとするほどたくさんの星が瑠璃色の天空いっぱいに輝いていた。
見上げれば、きらびやかに星がまたたき、青白い月が雑木林の上に照る。
遠くの星が一つ、また一つ斜めに線を引いて山に流れ落ちた。
山茱萸 クリスマスローズ ふきのとう カタクリ

令和6年4月14日 渡辺隆次
カンゾウは、フキノトウにやや遅れて姿を現す早春の山菜だ。
強い苦みと香りのフキノトウが、舌に春を告げてくれるとしたら、カンゾウは上品な甘みとおだやかな香によってであろう。
この時期の山菜の中で特に美味しさは抜群、クセがほとんどなく万人向きである。
「山でうまいはオケラにトトキ」という歌があるが、実際に口にしてみればさほどの味ではない。
ところで、カンゾウを古く「わすれ草」と呼んでいたらしい。着物の下紐にカンゾウを結びつけておけば、せつない恋心や苦しみなどは、みんな忘れることができるという言い伝えがあった。逆に、思いを忘れない草が、シオン(紫苑)だという。健忘症にはありがたい花というべきか、こちらは昔から人家の庭などによく植えられている。
カンゾウには、八重咲のヤブ(藪)カンゾウと、一重咲きのノ(野)カンゾウとの二種類がある。多の土手や畔、小川の堤など、全国いたるところに自生するユリ科の多年草だ。

往生の 際をたどりて 春日かな

令和6年4月7日 安住淳
 来し方に悔いなき青を踏みにけり
春の野に出て、青々とした下草を踏んで歩くことを踏青(とうせい)と言います。春の大地を踏みしめる作者。
今日まで様々なことがあったけれど、ともかく精一杯やってきた、一点の悔いもないという思いで歩んでいます。
もちろんいつも順風満帆だったわけではないでしょう。
しかし与えられた運命の中で、常に前向きに力いっぱい生きてきた、そしてこれからもそう生きるのだという自足と新たな決意が見えてきます。

令和6年3月31日
桜が咲き始めた。
桜はパッと咲いて、パット散る。まことに生命はかない花である。
国破れて山河あり 城春にして草木深し
人生無情(常)が身にしみる年齢になってくると、よけい、今年の桜だけは見ておこう。
来年の花を見られるという保証がないのだから・・・と常に心にいい聞かせている。

シャンペンを買いて花見の人となる

令和6年3月24日 病気
私の病気はすっきりと治る病気ではなく、少しづつ進行する慢性病。
加齢による衰えと併せて、元気な頃の価値観そのままに生きていったのでは、自分がつらくなってしまいます。
そうならないように、病気であること、衰えていくことそれ自体にも意味を見出しつつ生きていくのが、流行りの言葉を借りれば、「病人力」なのかもしれません。
二月から咲き出した小梅は散り始めています。山小屋は三月になって積雪です。

令和6年3月17日
きびしかった冬が終わって、天地万物のものすべてがイキイキと芽を出す。
誰もがソワソワとしはじめる時候でもある。

傘さして 山小屋の道 春浅し
春めくや 雨にうたるる 愉しさも
ざざ降りの 後の青空 ふきのとう

令和6年3月10日 小さな花
早春、霜にぬかる山道に、オオイヌノフグリが、るり色の小さな花弁を開いている。
野に敷かれた座布団さながら、あちこちに群生している。裾野を渡る風はまだ冷たく、日差しは薄い。

フキノトウは、なんといっても春一番の山菜だ。
極寒の最中でも、めぐみのような穏やかな日差しが続くと、凍てついた地表を割り、フキノトウがくるりっと頭をのぞかせる。
汁の身や酢の物の他は、天ぷらである。天ぷらには、苞の開き始めのものを使う。
その苞を花のように広げ、やや低温の油で姿も美しく上げる。塩をふって食べるのもいい。
苦味になじめなかった昔でも、天ぷらにすると箸が進んだ。

令和6年3月3日 イチハツ
イチハツの語源は、アヤメ科の草花の中で開花時期が早いことに由来しています。
一番に咲く、初めに咲くという意味で、漢字では「一初」です。
実際には同じアヤメ科のシャガのほうが少し先に咲きますが、イチハツは清々しい季節の到来を知らせてくれる花なのです。
春寒や 不義理出不精 人嫌い
雪解けの音聞いている朝寝かな

令和6年2月25日
花といえば代表は桜だが、齢とともにだんだん梅をいとおしく感じるようになるのは私だけではないだろう。
満開の桜より、まだ寒いうちに薄い花弁を震わせて蕾をひらく姿に励まされる。
我が家にニ本ある小梅は五分咲き、ニ本の大梅はまだ蕾ですが、深呼吸すれば、あえかな梅の香りが鼻孔を撫ぜる。
いまだ余寒きびしき時節とはいえ、春は確実に迫っている。
二十四節気の雨水とは、これからは雪や氷が融けて水となり、降る雪が、さまざまな生命を甦られる雨に変わるという意味。草木が萌え始める頃で、昔は、この日が農耕の準備を始める目安とされてきた。

令和6年2月18日 食う
小鳥の声、木々と葉と風の歌、せせらぎのささやきを聞きながら、私は食事する。
兼好法師が「飲食・便利(排泄)・睡眠・言語(話すこと)・・・止む事を得ずして、多くの時を失う」(徒然草)
と、食事を人間の基本行動のトップにあげたわけがよくわかる。
ああ、人とは、あなたも私も、もの食う器官なのだなあ、と感に堪えなくなる。
人類は頭では駄目でも、胃袋で連帯できるかもしれない。
『雪』 橋本千恵
つもった雪はどこへ行く
朝陽にキラキラ輝いて
あんなにステキだったのに
みんなにないしょで
お引越し・・・
つまんない

令和6年2月11日 漬け物神社
名古屋市の西郊外の愛知県海部郡甚目寺町上菅津に、菅津神社がある。
日本武尊が東夷征討の道すがら立ち寄られたその時、塩漬け物を食膳に出したところ、感慨深く賞味され「藪に神物(こうのもの)」と仰せられた。以来、「香の物」と広く世間でいうようになったという。八月二十一日が"香の物祭り"である。
いっとき止んでいた雪がまた真横に飛び、吹き抜ける風は梢を震わせた。遠く近くそれが人の忍び泣きに聞こえる。
眼下にどこまでも続くカラマツの樹林帯が、うっすらと雪をまとい獣の冬毛のように装いを変えていく。
妻と二人押し黙ったまま耳をそばだて、寂寞とした光景をいつまでも見入っていた。

令和6年2月4日 マーク・ピーターセン  明治大学助教授
私が初めて日本語で読んだ俳句は、芭蕉の
 落ちざまに水こぼしけり花椿
であった。当時の単純な私は、日本語に対して大変な憧れを持っていた。
初めての俳句「落ちざまに」もそうであった。まず、頭の中に映画のようなものが浮かんでくる。その映画は、超スローモーションであった。落花中の椿の花は、非常にゆっくりとまわり、少しずつ下向きになろうとする。花の中に溜まった雨水も少しずつこぼれてくる。雨上がりの晴れ晴れとした空の下に、こぼれた小滴は、くだけてほとばしる玉のように、日の光に輝く。そして、椿の花は、敦盛の首のように、ついにぽとんとやわらかい土に激突する。
五・七・五の十七音だけで、こんなに素敵なものが前からあったのかと、私は驚いた。そして、米国の高校の「世界文学」の授業を思い出して、腹が立った。何が"ジャパニーズ・ハイク"だ。冗談じゃない。芭蕉の「美意識」をわざわざ、安っぽく軽薄に見せることは許せない。その義憤をなかなか抑えきれなかった。それぐらいだったら、アメリカの高校で俳句に全然触れない方がましだと思った。
今年は雪がありません

令和6年1月28日
昔、熊本藩に成田清兵衛という侍がいた。腕力人に優れるだけでなく、強情ひとかたならぬ仁である。
ある時清兵衛が庭を眺めていると、隣家の筍がこちらで顔を出しているので、煮て食べたところ、それを知った隣家の主人が怒鳴り込んできた。清兵衛慌てることなく「他人の家に無断で入りたるゆえ、手打ちに及びたり」という。隣家の主人は「ならは死骸を受け取らん」というと、「特別の情けをもって葬式は手前方にて執行せるも、遺物だけは返すべし」と大声で呼ばわって筍の皮を投げつけたという。

令和6年1月21日
私は長男でしたから、妻は親の面倒をみる事を承知で同居してくれました。
両親はともに九十代半ばまで生きたから、妻はつらいことにもよく耐えてくれたと思う。
それに私は亭主関白だったし。妻は丑年、「穏やか」の一語に尽きる人。

おやじは文化好きで人はいいんだがけれど生活力がない。そして夢想家でちょっとおしゃれ。
母は心臓病を患い、最期は認知症になって亡くなったのですが、介護は八年にも及びました。
亡くなった直後は、正直言ってホッとしましたね。「ああ、これでつらい看病生活から解放されるんだな」と。
病人を見るのは本当に大変で・・何とかやり遂げましたが、過労とストレス・睡眠不足で妻と二人病身になりました。

前よりちょっと楽になって、きっと夫は今、幸せなんだろうなあ、と妻に思わせることが礼儀だと思っています。
家族にこそエチケットが大事。夫婦といったって、しょせん他人ですからね。
親しき仲にも礼儀あり、これが大切だと思います。
私と妻の最終的な価値観は、お金とか地位・名誉じゃない。いかに満足して「あー、面白かった」って死んでいくか。
年をとって、茶飲み話がいーっばいある方が豊かだっていうのが、二人の中にあるからだと思います。
 寒月や さて行く末の丁と半

令和6年1月14日 細川護熙
宮本武蔵の著作としては、『五輪書』が有名だが、私は武蔵が死の七日前に座右の銘を書きとめたという『独行道』に、より強くひかれる。
我事において後悔せず
善悪に他をねたむ心なし

などは、私も常日頃そうありたいと思っていることだし、
神仏を尊んで神仏を頼まず
は、なかでも、もっとも心に残る一条である。
よく知られているとおり、晩年の武蔵は書画をよくした。
そこには彼の鋭い感覚、一瞬を捉える眼光が感じられる。
晩年の武蔵がこもった霊巌洞には何度も足を運んだことがある。
晴れれば遠く有明海を見はるかす人里離れた岩屋の中で、ひとり『五輪書』を書き記しながら、武蔵は戦国から徳川幕府下の安定へと転換していった時代を生きた、その人生をしばしば回想したに違いない。
そのとき自ら定めた『独行道』の各条は、どのように胸中を去来したのだろうか。

令和6年1月7日 春風亭柳昇
子供が何か言ってきたらまず聞いてあげることです。
江戸の川柳に「そうであろう そうであろうと 里の母」というのがある。
嫁に行った娘が実家に帰ってきて、向こうの家はこうですよ、ああですよと、涙ながらに話す情景が浮かぶでしょう。
そんなときはとにかく話を聞いてあげなくちゃ。
友人に牧師がいて、最近はざんげにくる人も多いそうです。
では何をしてあげられるの?と聞いたら、「なにもできない」という。
だが、聞いてあげるだけでいいんだそうだ。ざんげする人にとっては告白が発散になるんでしょうね。

令和6年1月4日 若山牧水
若山牧水は旅する歌人だった。彼が四十四歳の若さで亡くなった時、旅と酒を愛し自然を優しく詠んだ詩人の死は、たくさんの人に惜しまれた。古くは西行から芭蕉に連なる吟遊詩人の中でも、牧水の旅の歌の背後には無常観が流れていて、さすらいと人生を重ねてみる日本人の心情に添っていた。
彼は第二歌集序文で、「私は常に思っている。人生は旅である。我等々は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮の奥に往ってしまう。言いかえれば、私の歌はその時々の、私の命の破片である」と述べている。
多くの土地に足跡を残した旅の歌人の歌碑は三百基近くもあり、命日には、宮崎県の生家近くの歌碑で「牧水祭」が行われている。旅先で土地の酒を飲むのを好んだ彼は、三百もの酒の歌を作って世を去った。享年四十四歳。
 酒欲しさ まぎらわすとて 庭に出でつ 庭草をぬく この庭草を

令和6年1月3日 コルジセプス
からかさ状の毒キノコ、コルジセプス (昆虫に寄生するキノコ、漢方で使われる冬虫夏草はその一種) は最も創造性豊かなSF作家ですらほとんど想像できないような生涯を送る。
コルジセプスは森の地面で息をひそめて、何も疑っていない昆虫が通るのを待つ。虫がやって来ると、コルジセプスはその昆虫の外骨格(殻) に付着する。ついである化学物質を分泌し、それが昆虫の殻に穴を開ける。するとコルジセプスは昆虫の体内に入り込み、あるじの生命維持に必要のない器官を食い尽くし、そのあいだ、その昆虫が感染によって死なないよう、抗生物質と殺菌物質とほかの食肉昆虫が寄ってこないように殺虫物質を分泌する。生命維持に必要のない器官を食べ尽くしてしまうと、コルジセプスは昆虫の脳の一部を食い、それを食われた昆虫は森の高い木のてっぺんに登る。この時点でコルジセプスは脳の残りを食べ尽くし、それによって昆虫は死に、身体が裂ける。このチャンスにコルジセプスは森の地面より三十メートル高いところで胞子を放出できる。
皮肉にも学者たちはキノコを"低次の有機体"と呼ぶ。 マーク・プロトキン博士

令和6年1月2日 山小屋
山小屋は今、雪に閉ざされています。
庭の緑が青々としていて、いかにもこれからの前途を祝福するかのように生命力にあふれていたのを、昨日のことのように思い出します。
山小屋では毎日一時間の散歩をする。山道だからかなりの運動量になります。
運動不足では、腹が出て待望の愛人やお妾さんが遠のいてしまう。
心の疲れを癒してくれる佳人が欲しいと建てた山小屋は、私と妻が住んでいます。

  幸せはささやかなるが極上

令和6年1月1日 元旦
好きなもの
夏の終わり、咲き残っている椿、薪窯焚きと古備前のぐい吞み
嫌なもの
民芸調というやつ、社会正義をふりかざす新聞社、弱者の味方といいながら金儲けをする政治家。

ある子供が軽井沢のホテルでドアボーイのアルバイトをしたときの話。
お客様の荷物を部屋まで運んでも、きれいな服装の人ほど「ありがとう」を言わない。
「ありがとう」という言葉がどんなに大切なものか、子供心に銘記したそうです。

年新た 嶺々山々に神おはす 飯田蛇笏

また一つ年を重ねました。
 
新年おめでとう