これらの諸例で示される「統覚直観」は、各人
による表現はことなるが、内容は常に一定で同一
であります。また、外界からの刺激に依存せずし
て私たちに把握される内的直観なので、人間が生
まれたときにインプットされていた統覚であると
しか考えられません。だから、先験的な(
ア・プ
リオリな、先天的な)統覚の統一だと考えなけれ
ばなりません。そして、統覚の統一の際には「悟
性」が働いているのです。



 これだけのことをカントは伝えようとしたので
す。

 この記述で、カントが立証しようとしたことは、
次の二つです。

1. ジョン・ロックの唱えた「経験論」に反駁した
  かった。

2. 統覚直観に立脚する演繹推論、たとえば「神の
  存在証明」などの論理は成立不能である
ことを
  証明したかった。


1. については失敗しました。皆様がご存じのとお
  り、ジョン・ロックの経験論に基づく民
主主義
  が勝ちました。カントは統覚直観
Bの存在に気が
  つかなかったのです。

2. については、カントの理論で正解になります。
  中世の神学の諸理論はカントによりほぼ
完全に
  一掃されました。


 なお、高井鴻山が到達した統覚直観は統覚直観
の条件は備わっているが、内容はまるきり反対の
B認識でした。

この自発的な「意」を、(本文には
書いてありませんが)、黙想とか座禅
とかの方法を使い、深く深く探求して
いくと、最後に突然統一されて、「統
一された統覚」になります。このとき
なにが生じるかについては

   玉城康四郎のA体験
     林武の一回目の体験
     林武の二回目の体験
     テレサの神秘体験A
     白隠の神秘体験A
     谷口雅春の神秘体験A
     アウグスティヌスの神秘体験A
     上村松篁の道徳的なる神秘体験
     ゲーテの神秘体験
     朋子の神秘体験A
     ハムレットの神秘体験A

等々の例ですでに説明してあります。

『宗教的経験の諸相』の中での提示例
は、

     スイス人の手記  
     J. トレヴォーアの自叙伝
     R.M.バック博士  

ですから、参照してください。

まず、六根清浄の六根を考える。六根とは『勝鬘経』のところで説明しましたが、六種類の感覚器官、眼、耳、鼻、舌、身、意でしたね。この六種類の感覚器官のうち、5種類、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身については外界の刺激を把握する器官であります。外界から刺激を入手して脳に伝え(この働きを「感性」という)、それらの刺激に基づいて脳が計算して、答えをだして、行動になるわけです。ところが、「意」に関してはそれを受ける感覚器官などありません。「意」は脳のなかで、外界からの刺激なしに、「考える」のです。ドイツ語で、Ich denke(私は考える)です。外界からの刺激なしに働くから「自発性」です。

もちろん、外界からの刺激があった場合も「意」は「考える」のですが、外界からの刺激にもとづいているので、この場合の「意」は経験的な「意」であり、自発的な「意」とは性格がことなります。名付けて「経験的統覚」。

これに対して、「自発的な」「意」は、外界からの刺激がないのですから、「純粋統覚」と名付けます。別名、「根源的統覚」。形としては心中に発生する「直観」という形態をとって知覚されます。

統 覚 直 観

追記しますが、カントの『純粋理性批判』
は彼が使った(そして創作した)術語があま
りにも難しいから、一度読んだくらいではな
にを意味しているか、理解できない。大学の
先生がたも、これを平易に現代語訳しようと
考えた人はいないから、いきおい「わからな
いまま」放置され、きっと深遠で有難い真理
が書いてあるのだろう、と誤解してしまう。

そこでこの文章の意訳をしてみましょう。
次の通りとなります。

統覚の根原的−綜合的統一について

 『私は考える(Ich denke)[という意識]は、私の一切の表象に
伴いなければならない。さもないと、まったく考え得られないよ
うなものまでが私のうちで表象されるということになるだろう。そ
してこれはかかる表象が不可能であるか、さもなければ少なくとも
私にとっては無であるというのと、まったく同じことであろう。お
よそ一切の思惟よりも前に与えられ得るところの表象は、直観と言
われる。それだから直観における一切の多様なものは、かかる多様
なものが与えられるところの主観における『私は考える』という意
識に必然的に関係している。ところがこの『私は考える』という表
象は、自発性の作用である。従って我々は、これを感性に属するも
のと見なすことはできない。私はこの表象を純粋統覚
(Apperzep-
tion)
と名づけて、経験的統覚から区別する、或はまたこれを根原
的統覚
とも名づける。かかる統覚は、『私は考える』という表象を
産出するところの自己意識
[自覚]であって、もはや他の統覚から導
来せられ得ないからである。なお『私は考える』というこの表象は、
他の一切の表象に伴い得なければならない、そしてまた私の一切の
意識作用において常に同一である。私はまたかかる統覚の統一を自
己意識の先験的統一とも名つける、それはア・プリオリな認識がこ
の統一によって可能であることを言いたいからである。もし或る直
観において与えられる多様な表象が挙げて一個の自己意識に属して
いないとしたら、これらの表象は挙げて私の表象であると言うわけ
にいかないだろう。要するにかかる多様な表象は、すべて私の表象と
して(私がこれらの表象を、私の表象として必ずしも常に意識してい
ないにせよ)、一個の共通な自己意識のうちに共在し得るための唯
一の条件に必然的に従わなければならない、さもないとこれらの表
象は残らず私に属している、というわけにいかないからである。そ
こでこういう根原的結合から多くの重要な結果が生じてくる。

 例えば、直観において与えられた多様なものの統覚の完全な同一
性は、表象の綜合を含み、またかかる綜合の意識によってのみ可能
である。種々な表象に伴う経験的意識は、それ自体まちまちであっ
て互に連絡がなく、従って主観の同一性に対する関係をもたないか
らである。この関係は、私がいちいちの表象を意識するというだけ
ではまだ成立しない。それは私が一つの表象を他の表象に付け加え
、これらの表象の綜合を意識することによってのみ、初めて成立
するのである。つまり私は、直観において与えられた多様な表象を
一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象にお
ける意識の同一性
そのものを表象できるのである。それだから統覚
分析的統一は、なんらかの綜合的統一を前提してのみ可能である。
従って『直観において与えられたこれらの表象は挙げて私に属する』
と考えることは、『私はこれらの表象を一個の自己意識によって統
一する、もしくは少くとも統一し得る』ということと同じ意味であ
る。このように考えることそれ自身は、まだ表象の綜合の意識では
ないにせよ、しかしかかる綜合の可能を前提している、つまり私は、
多様な表象を一個の意識のうちに包括することによってのみ、これ
らの表象を挙げて私の表象と称しうるのである。さもなかったら私
は、私の意識しているさまざまな表象に応じて、それだけさまざま
な『自己
(Selbst)』をもつことになるだろう。直観における多様な
ものの綜合的統一は、ア・プリオリに与えられたものとして、私の
あらゆる一定の思惟にア・プリオリに先きだつところの統覚の同一
性そのものの根拠なのである。しかし結合は、対象のうちに存する
のではない、また知覚によって対象から得られ、こうして初めて悟
性のうちに取り入れられるようなものではあり得ない。この根原的
結合は、まったく悟性のなすわざである。即ち悟性は、ア・プリオ
リに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によ
って統一する能力にほかならない。そしてこの統覚の統一という原
則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである。

   『純粋理性批判』上 カント 篠田英雄訳 岩波文庫 1961 P175


西田幾多郎と同じく、カントもまた、対象
を自己の純粋経験
Aに限定し、これを絶対
一の認識と勝手に判定し、かつ自分で勝手に
哲学用語を作成し、それが他人に理解されよ
うがされまいが、自分の記述が絶対に正しい、
と主張した。日本の明治以降のインテリはこ
の口調にころりと騙された。

 『純粋理性批判』の該当の箇所を引用しま
すから、一度読んでみてください。