さて、1554年に彼女が達成した聖霊との会合の中身はどうであったか。該当箇所を列挙してみよう。
(それは善)
ここではただ楽しむばかりですが、自分が楽しんでいるものがなんであるかはわかりません。自分はすべての善の集合である一つの善を楽しんでいるということはわかりますが、この善それ自体が、なんであるかわかりません。 (自18-1)
プラトンの主張する「神々の善」、プロティノスの主張する「善なるもの一なるもの」、あるいは西田幾多郎の主張する「善」、であることは明白である。
(それは光、あるいは炎)
霊魂のすべての能力が一致するときに、観察されるものは、
時として霊魂は、熱して炎と変化した烈火、そして時として急激に大きくなる烈火のように自分から出ます。その時この炎は、火の上に大変高く飛び上がります。しかしそれだからといって、ほかの性質のものになったわけではありません。それはどこまでも火の炎です。 (自18-2)
読者はここで、この論文の冒頭で述べた玉城康四郎と林武の記述を思い出すだろう。それはしばしば「炎」の形として感じられるのである。
玉城康四郎の場合は爆発であった。光であった。彼の表現を借りれば、聞(もん)光力であった。永遠の劫光であった。
林武の場合は、天地を貫く(光り輝く)大円柱の形をなして現れた。
(神的な一致)
テレサの場合、その瞬間に彼女がなにを感じたかというと、それは神的な一致であるという。
この神的一致にある時、霊魂が何を感じるかということです。一致ということの意味は、ご承知でしょう、それは、別々な二つのものが、一つとなった状態です。 (自18-3)
通常、「神」と「私」とは別の存在であると私たちは思っているが、この経験のさなかでは、これが一体化する、つまり「私」は「神」になり、「神」が「私」に化体する、と彼女は説明する。
(それは恩寵であり、お恩恵)
これほど高い恩寵をあたえられるとは…… (自18-3)
そしてあなたのお恩恵(めぐみ)によって…… (自18-4)
この当時(十六世紀)のキリスト教信者は、この体験を「神の恩恵(おめぐみ)によって恩寵が与えられた」と解釈することに留意しておこう。これが神の恩寵ではないことを見破ったのは、十七世紀に現われたデカルトであった。日本ではこの体験は伝統的に、いわゆる「自性」である、と解釈されていて、このような誤解が産み出されることはなかった。
画題:Sienese Master (working c 1340)
"The Ascension of
the Virgin" c 1340
Erich Steingraber
"The Alte Pinakothek
Munich"
Philip Wilson Publishers
Ltd. 1985
(到達時の二つのパターン)
第十八章、7に述べられているが、この恩寵に到達する瞬間には、時間的な差がある、とテレサは述べる。ゆるやかにその状態に到達する場合と、なんの前触れもなしに瞬間的に到達する場合、があるというのだ。
前者をテレサは「天的愛との一致」、後者を「霊の高揚」とカテゴライズした上で、彼女が恍惚と呼んでいる特別の恩寵は、後者の場合だと説明する。瞬発力があるかないかの差かもしれない。
この説にしたがえば、さだめし、康四郎の場合は(瞬間的にそれは始まったから)霊の高揚で、林武の場合は(ゆっくり迫ってきたので)天的愛の一致、ということになるのかもしれない。