そのとき僕は、歩きなれた近くの野道をぼつぼつと歩いてゐた。
        すると突然、いつも見なれてゐた杉林の樹幹が、天地を貫く大円
        柱となって僕に迫ってきた。それは畏怖を誘ふ実在の威厳であっ
        た。形容しがたい宇宙の柱であった。僕は雷にうたれたやうに、
        ハアッと大地にひれ伏した。感動の涙が湯のやうにあふれた。

         同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖
        
をともなって僕に語りかけた。きのうにかはるこの自然の姿――
        それは天国のやうな真の美しさとともに、不思議な真魔のやうな
        生命力をみなぎらせて迫る。僕は思はず目を閉じた。この実感を
        なににたとへよう。僕はまさしく実在を霊感したのだ!

          さうだ、これはいくらむづかしからうと、描かねばならない。
        あの見えるものを画布に表はしてやらう。僕はさう思った。沙羅
        双樹にときならぬ花が咲き出たとは、かかる現象であったらうか。
        その美しさはただただはるかに言語を絶するものであった。僕は
        実に“美”といふものを見た!

         僕は狂ふやうな歓喜の世界にゐた。手の舞ひ足の踏むところを
        知らなかった。――われ世に勝てり! 僕は心でそう叫んだ。

         その翌朝、僕は戸だなから絵の具箱をとり出した。それから、
        朝から晩まで、その感動を画面に追求する生活が始った。

         夜は、名画といはれてゐる古今東西の複製の画集を眺めた。そ
        して感じることは、すべての名画が、僕の見たあのものを、表は
        してをり、それ以外ではないといふことだった。

         こうして僕は絶対の自信を獲得した。おまへは絵を描くよりほ
        かに道はない、といはれてから十余年。二十五歳になってゐた。
        そして、僕のそばには、僕が女神と仰ぐ新妻がゐた。
                          (林武『美に生きる』講談社)


 すべてはここに記されている通りである。生命の直視、大きな感激、美
の極致、喜びの感情、絶対の自信が林武の心眼にはっきり刻みこまれたの
である。

 が、その直前の状況はといえば、    

     画業がうまくいかず、
     落ち込んで、
     いらいらとし続け、
   自分の方向性が定まらず、
     考え込み、
     懊悩し、
   尚且つ、
     それでも「やるぞ」、という姿勢を維持する内省的な精神構造

 つまり、精神が懊悩し、しかも精神集中された状況でそれはやってきた、
と彼は説明する。

 では、不可視の世界の現実はどのような特徴をもっていたか。少なくと
も彼はどう感じ取ったか。彼は次のように説明する。

  杉林の樹幹が、その実在がズームインして私の心のなかに「入り」こ
  んできた。
  客体が主体のなかに「すべりこんだ」。
  それは実在の威厳。
  それは生命の力。生命の本質であると感じられた。
  それは言語を絶する「美しさ」の世界であった。
  感じ方は「霊感」であると感じられた。

  突然現れたそれは命の炎であった。
   彼は、自らの内に生命というものの本質を見た。
  これこそ、宇宙を支える実在の本質だと、彼にはわかった。
  それは宇宙一切を統括するもの、すなわち「神」だと直感した。
  それは畏怖をともなう実在の威厳であった。
  それは、「真理」であった。「真」ということの理(ことわり)であった。
  それは、「美」であった。
  いうにいわれぬ、言語を絶する経験で、あいた口がふさがらなかっ
  た。
  
 その直後に歓喜の感情があふれた。狂うような「歓喜」で、手の舞い
足の踏むところを知らない感じだった。

    ただちに「感動の涙が湯のやうにあふれた」。
  身体は歓喜の心であふれた。悦びで満たされた。
  それは、これまでの努力にたいして神が裏打ちをしてくれたことな
  のだ、と彼にはわかった。
  これこそ私を支えてくれる生命なのだと確信できた。
  絶対の自信が湧いた。

 その後、画集を眺めていると、名画といわれる作品は、この本質を画
布の上に表現していることがわかった、と彼は説明する。

林武の二回目の体験

画題:
Christian Rohlfs
"Birke im Herbst" 1917
Gunter Aust
"Das Von der Heydt Museum in Wuppertal"
Verlag Aurel Bobgers KG,
Recklinghausen, 1977

独断と偏見であるが、
そして
杉と樺のちがいはあるが、
この絵が、
林武の体験を表出している。(?)