林 武

 昭和50年5月に亡くなった洋画家の林武。

  彼のお父さんであった甕臣(みかおみ)は国学者であったが、あ
まりに頑迷で一徹であったものだから、林武の成長期には一家は極
貧の境地に追い込まれた。みるにみかねた近くの牧場主の勧めで、
一家は牧場で採れる牛乳の小分けと配達をしてかろうじて生計を立
てていたのである。林武は末っ子でありながら、家庭の状況をよく
理解して頑張った。

 時は明治37年の冬。場所は東京の四ツ谷の近辺であったと推定さ
れる。


        雪におほはれたドブが見えなくて転倒し、牛乳瓶の半分は
      こはれ、提燈が消えて、つけるマッチはぬれて、そして手足
      のしもやけはくづれて――このどうしようもない暗い雪のな
      かで、警官には怒られ、僕は、悲しみでいっぱいになった。
      世の中のつらさといふものを、しんから感じた。

        僕は、泣きながら、必死で車を引っぱった。

        そのときである。不意に、僕のひたひのあたりがぱっと光
      り輝いた。それはなにか遠くの高いところで輝いてゐる感じ
      であった。それは神秘の光明だった。あれは、一種の霊感の
      やうなものであったらうか。その途端に、僕は、全身から力
      がわくのを感じた。

        僕は、自分が年もいかない子供であることも考へず、一家
      を支へるために、家族みんなのために、自分が先に立ってや
      らなければならないと思ひ、倒れそうなからだで根かぎりや
      った。そして、あのつらい雪のなかで、天の啓示のやうに光
      り輝くものを見た。それはなんであったかはわからない。僕
      はそれをだれにも語らなかった。けれども、このとき感じた
      不思議な輝きは、その後、苦境に立つたびによみがへって僕
      を元気づけた。
               (林 武『美に生きる』講談社)


 この神秘経験が、わずか14歳の少年に訪れたことを注視したい。
神秘体験の来訪時期としては異例の、空前絶後の早さである。林武
という人の内的感覚が、例外的に優れていたことを意味するのかも
知れない。またそれは、責任感を一身にうけとめ、必死の努力をす
るときに、神が下す恩寵であることを意味するのかもしれない。な
お、林武の場合には宗教的な影響の痕跡は一切認められない。

 体力的に、精神的に、限界を超えた超人的な努力を行うときに、
それはむこうからやってくる、ことが読みとれる。本人にとっては
受動的な経験である。

 それは「光」をともなっていた。そして当人にとっては、神秘的
な「霊感」であると感じられた。

 それは、力が足りないながらも必死に努力する者を、決定的に鼓
舞する力を持っていた。つまり、本人の努力にたいする応報的な応
え方をした。

 その認識は根源的な性格をもっており、その後、類似の事態が発
生すると、同時的にこのときの記憶が立ち上がる。すなわち、人間
にとっての根源的な意識がこの体験のときに「ダウンロード」され
て、彼の頭脳のなかにimplantあるいはimprintされてしまった、よ
うに観察される。

 この貴重な体験の後、25歳のときに彼に二度目の体験が来た。渡
辺幹子と結婚し、今度は無我になりきることにより、真我の顕現を
見た、と彼は云う。

 25歳のとき、世田谷の松沢村に掘っ立て小屋を建てて、そこで幹
子と式を挙げないままの結婚生活に入ったが、画業がうまく進捗し
なくて悩みぬいた結果、「絵の道具を一切合切、戸だなのなかには
ふりこんでしま」い、「愛するものを養ふために、あすから松沢村
役場の書記かなんかにしてもらって働かう」と決心して、「あたり
をやたらに歩き回った」……、とそのとき、


 ⇒ 林武の二回目の体験


 そして、林武は勇躍、画業への新たなる挑戦を始めた。それはい
まや簡単であった。わたしに顕現したもの、「あのもの」を表現す
ればそれでよかった。

 その眼で過去の偉大な画家の作品を眺めてみたところ、彼らもま
た同じスタンスで「あのもの」を描きだそうとしていることが、は
っきり理解できた。

 わたしは間違っていない、との確信が得られた。


 さて、最後にほんの少し難しくして、林武のこの体験が何を意味
するかをまとめておきましょう。


 ⇒ 超越論的世界観の構成

画題:「梳ずる女」
      林 武、 
1949
      大原美術館
   『大原美術館の
120選』大原美術館 1980

   林武の描こうとした「あのもの」は、
   はたしてこの絵のなかに表現されたのか?