超越論的世界観の構成

 このような林武の二度にわたる体験は、一般の人にはなかな
実現しえないもので、大抵は一生に一度も遭遇することがない。
だから一般の人には、そういう体験(西田幾多郎の述べる「純粋
経験」)が存在する事実はおろか、その理屈も理解されることが
ない。そういう意味で林武の体験記は「論理を超越しており」、
また一般人の意識のはるかに及ばない「超越した領域」であるか
ら、たとえばカント以降は、このような体験をもとにした世界観
の構成のことを、超越論と呼んでいるのである。たとえば、フッ
サールの使う超越論的意識とはまさしく林武の体験を指している、
と考えてくださったらよい。


 じつに哲学とは、このような体験から出発するのである。哲学
者の九鬼周造は、フランスから帰った昭和四年、京都大学で現代
フランス哲学講義を行った際、結語として次の通り述べた。


         哲學は實に事物の心の鼓動を感じなくてはならぬ。心
        の鼓動は體驗によって感じられるのである。さうして其
        感じ方には哲學者の個性が與かるのである。哲學は個性
        の體驗から生れるのである。哲學は固より體驗其者では
        ないが、體驗に基いた認識である。Les grandes pensees
        viennent du coeur. 「偉大なる思想は心から來る」。さ
        うして事物の深い心の鼓動と共鳴するには深刻な體驗に
        依らなければ出來ないのである。Pascal(1623−1662)は
           Je ne puis approuver que ceux qui cherchent                                                    en gemissant.
       「呻きながら索ねる者の外は自分は承認することは出来ぬ」
        と云った。凡そ人間の惱みに訴える哲學でなければ生命
        を有った哲學ではない。安價な光と素朴な白晝に安んじ
        て居る者には哲學は生れて來ない。胸に暗黒なものを有
        って、暗黒のために惱まなければ哲學らしい哲學は生れ
        て來ない。

          (九鬼周造『現代フランス哲學講義』岩波書店)


 まことにもっともな哲学正統派の意見である。


 ただ、哲学者は自分の受けた体験を語らない。林武がきわめて
率直に自分の体験を語ったように、哲学者も話すべきである。私
の体験はかくかくしかじかであった、しかるがゆえに神は存在す
る、と話せば一般人にも理解できる。少なくとも理解できるよう
な気がする。


 人間とはきわめて不思議な存在であって、気象予報士が明日の
関東地方南部の天気は「晴れのち曇り」、と予報するような具合
には、将来への見通しがきかない。

 絶えず自分の、家族の、子供の将来について不安を持ち、いつ
何時襲いかかるかもしれぬ災難にビクビクしながら、彼らの立場
の、健康の、財力の向上を乞い願うものだが、事態は必ずしも自
分の願いの通りにはならない。皆が皆、向上を求め、営々と努力
をつづけるものなのだ。あらゆる努力が水泡に帰して、絶望に陥
る。このような場合にも決してあきらめるな。あなたが自らのな
かに自分の神を見つけるまでは、頑張れ!……と林武は力説する
のである。


 哲学にこのような林武の優しさがあってもかまわない。優しさが
あったほうが人にわかりやすい、と筆者は思う。

 哲学は、じつは自分のなかに神をみつけた人たちの(自分では
自分を選ばれた人、エリートだと思っている人たちの)ための秘
密クラブなのである。

 もちろん、九鬼周造もその秘密クラブの構成員のひとりだ。だ
が、九鬼周造は並みの哲学者とはひと味違う。優しさがある。そ
の理由はあとで述べることとしよう。


 これで哲学というものの中身を少しは説明できたであろうか。

 では、次に、哲学者の典型的存在であるプラトンを少し調べて
おくこととしよう。


写真:
A guilded bronze kinnara,
Wat Phra Kaew in Bangkok
Steve Van Beek,
Luca Invernizzi Tettoni
"The Arts of Thailand"

kinnara(
緊那羅)の世界とはなにか?
誰も知らない。

だが、知ったひとは
それを表象する。
こんな具合なのだ、
と彼らは主張する。

はたしてこれは真実か?