これらの諸例が私たちに教えてくれることは、
1. 苦しい経験である。
2. 瞬間的に、前後の脈絡を欠いた状態で、この経験に到達する
ことである。
3. それは、見るというよりもどちらかというと、「見せつけら
れる」経験である。
4. 自らの魂の本質を教えてくれるたぐいの経験である。
5. 時間的には、短時間である。が、決して死にはしない。
6. 短時間の経験だが、その記憶はその人の一生涯にわたって、
魂に深く刻みつけられる。
つまり、われわれが第一部で調査した神秘体験Aの特徴を(苦しいことを除けば)すべて備えている。だから、われわれが、あの輝かしい瞬間を人間精神上の神秘体験と名つけることができるならば、この暗い経験もまた、神秘体験と呼んで差し支えないのではなかろうか、と考え、暫定的に、この経験に神秘体験Bの名称をあたえた次第である。
また、神秘体験Aの場合がそうであったように、この経験は一度体験したあとの反復性が観察できる。テレサは繰り返し訪れる神秘体験Bについて次のとおり報告する。
通常私の霊魂は、何かの用事にたずさわるのをやめるや否や、ただちにこうした死ぬほどの苦悩のうちにはいります。そして、こういう苦悩が近づいてくるのを感じるや否や、恐怖に捕われます。
(自、20-12)
ルターもまた、「この苦しみを自分はいくたびも耐えしのん
だ」と報告する。
神秘体験Bについては、本書では、玉城康四郎、テレサ、ルターが正確にその実態を報告している。重複することになるが、今一度該当部分を引用しよう。
玉城康四郎の場合はこうであった。
やがて、この一場の出来ごとも過ぎ、私は救急車で病院に運ばれ、病室のベッドに身を横たえた。その日から三日目の深夜、眠りに入っていたとき、突然、無間(むけん)地獄に堕ちていた。火風が右から左へと、のべつ幕なしに体を吹き抜けていく。一瞬のとまることもない。いわば火刑である。焔が見えるのでもなく、赤鬼、青鬼がいるわけでもない。まったく形のないままの火あぶりである。当然ながら直ちに死ぬはずであるのに、死なない。どの位続いたのであろうか、あとで見守ってくれた看護婦に聞くと、三時間ともいうし、五時間ともいう。
テレサの場合はこうであった。
私が話している熱情は、これとまったく違います。私たちは自分でそこに「まき(薪)」を投げいれません。すでにもう火はすっかりおきています。そして私たちは、そこに突然ほうりこまれ、焼かれます。霊魂もまた神の不在がもたらすかの痛手を苦しむために何も協力いたしませんが、時折、肺腑の中心にはいって心臓を貫く一つの矢を刺しこまれます。その時、霊魂はもう自分がどうしたいのかも、何を欲するのかもわかりません。……しかし、この苦しみはあまりにも甘味で、地上のすべての快楽よりも多くの満足をもたらします。……(自29-10)
ルターの場合はこうであった。
「私はある人を知っていた。かれは私にいった。この苦しみを自分はいくたびも耐えしのんだ。もちろん、いつもほんの短いあいだだけれども、あまりに大きい、地獄のような苦しみだから、なんとも口でいいようがなく、なんとも筆で書きようがない。それどころか、 自ら体験しなかった人はだれひとり、これを信ずることができない。この苦しみは、もしそれがいっそう高じていたとしたら、あるいはほんの半時間、いやほんの10分の1時間でも続いていたら、人間は完全に死んでしまい、彼の骨はことごとく灰になってしまうほどのものなのだ。こうした瞬間に、神はそのすさまじい怒りにおいて現われ、彼の前にすべての被造がいちどきに現れる。そこには逃げ場もなく、どこからも慰めてくれるものはない。……ただいっさいのものの告訴と断罪があるだけである。
画題:Hieronymus Bosch
"Hell"
c.1485-1505
Palazzo
Ducale, Venezia
世界美術全集10
『ボス/ブリューゲル』
集英社、1978
火の海のなかで助けを叫ぶ罪人、
海岸で苦悶にあえぐ裸体の男、
羽根の生えた怪奇な動物に
喉をかき切られる瀕死の男、
(森洋子)
昔から、人間は
このような地獄の有様を描き続けた。
人間が、なにも見ていないものを
描き続けられるわけはない。