例を挙げよう。

 若き日の28歳のウイリアム・ジェイムズは永く憂鬱症に悩まされたあげく、その極点に到達した。



 「こうして、哲学的な厭世主義の状態におちいり、将来の見通しについてすっかり気持ちが陰鬱になっていた頃のある夕方のこと、私はある品物を取るために、薄暗がりの衣裳部屋へはいっていった。そのとき突然、なんの予告もなしに、まるでその暗闇から現れたかのように、私自身の存在にたいする身の毛もよだつような恐怖心が私を襲った。それと同時に、かって保養所で見たことのある癲癇病者の姿が、私の心に浮かんできた。それは、緑がかった皮膚の色をした、髪の黒い青年で、まったくの白痴だった。彼はよく、膝を立てて顎をのせ、彼の一枚きりの着物である粗末な灰色のシャツを全身をくるむようにして膝の上にかぶせて、一日中、ベンチか、あるいはむしろ、壁にもたせかけた棚板かの一つに坐っていたものだった。彼は、彫刻のエジプト猫か、ペルー人のミイラのようにそこに坐っていて、黒い眼だけしか動かさず、まったく人間とは見えなかった。その姿(イメージ)と私の恐怖とが、一種独特なふうにお互いに結びついた。もしかすると、あの姿が私なのだ、と私は感じた。あの青年と同じように、私にもああいう姿になり果てる時がきたら、私のもっているどんな物も、その運命から私を守ることはできないのだ。まるでそれまで私の胸のなかでがっしり基礎を固めていたものがまったく崩れてしまって、私自身が恐怖におののく塊になったように思われたほど、私は彼を恐れ、また彼と私との相違はほんのつかの間のことでしかないことを感じた。それ以来、宇宙は私にはまったく一変してしまった。毎朝毎朝、私は、みぞおちにぞっとするような恐ろしさを感じながら、そして、私がその前にも知らなかったしその後でも感じたことがなかったような、人生についての不安感を覚えながら、目をさました。それは啓示のようであった。そして、そういうじかの感情は消え去ったけれども、その経験によって、それ以来、私は他人の病的な感情に共感できるようになった。その経験は次第に色あせていったが、数ヶ月というもの、私は一人で暗闇のなかへ出かけることができなかった。
    (ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』              桝田啓三郎訳、岩波文庫

極 点 の 例 − ジ ェ イ ム ズ

 彼はこの時点で、考えることの極点に到達した。少なくとも、そのように見える。この時点で彼の思考は停止し、考えようとしても考えられなくなり、突然現れたイメージを直視させられたのである。これが私の魂であり、それ以外ではありえない、と直感した。いや、イメージが逆に私の魂を呑み込んだ。苦しみと狂気と死が私の魂を呑み込んだ。主客未分、主観と客観が未だ分かれていない根源の状態、これが苦しみの極点だったのであった。

 いずれにせよ、彼の「考え」、彼の概念からすると「意識の流れ」は、ここで停止した。

 このような極点の他のイメージの例としては、筆者が前著『純粋経験B』でとりあげたエドヴァルド・ムンクの『叫び』がもっとも的確にその心象風景を表現している。詳しくは後述する。

画題:Edvard Munch
          "The Scream" 1893

          Nasjonalgalleriet, Oslo
       残念ですが著作権の関係で画像を
    お見せするわけに行きません。
    オスロのムンク美術館ホームページ

      
http://www.museumsnett.no/munchmuseet/
      を開き、Works of Artをクリックすると
     最初の画像が「叫び」です。

          Bの精神的極限状況を
     正確に描写した
     世界でも稀な絵画例なのですが。

代替画像:摩周湖 
              北海道壁紙フォトスタジオ
             http://www.horitaro.com/kabegami/kabegami.htm

              テーマとは全く関係ない写真だが、
       ほりたろうさんに深謝。