P180
妖怪図
妖怪の図に題す

無形無象冥々の裏
(むけいむしょうめいめいのうち)

それは、形がなく、外的な対象物ではなく、純粋な心的現象であ
り、

物に憑依ありて便ち傀と作る
(ものにひょういありてすなわちかいとなる)

その心的現象が外的な具材を借りて表象されることにより、妖怪
となっているのだ。

雨は窓簾を打ち風は戸を憾かす
(あめはそうれんをうちかぜはとをうごかす)

それはちょうど、雨と風が認識されるのは、雨が窓や簾(すだれ)
を打つから雨が降っているのだとはじめてわかるように、また、
雨戸が揺れているから風があるのだ、と感じるように、

都て無象従現形し来る
(すべてむしょうよりげんけいしきたる)

心的現象がそのままにかたちに現れることはないから、私はそれ
を妖怪という形を借りて表現しているにすぎないのだ。

人ありて来り妖鬼を模せんことを乞う
(ひとありてきたりようきをもせんこと
をこう)

人がやってきて妖怪の鬼を描いてくれと
せがむ。

筆を揮うこと縦横素絹に抹す
(ふでをふるうことじゅうおうそけんに
まっす)

だから、筆を揮って生絹の上に擦り付け
ていくのだが、

隻阯双頭還一眼
(せきしそうとうまたいちがん)

出てくるのは、片足だったり、二つ頭だ
ったり、一目小僧だったり、片端の妖鬼
ばかり。

青燐飛ぶ処雨蕭々たり
(せいりんとぶところあめしょうしょう
たり)

おまけに背景ときたら青白い燐光と、も
のさびしい雨模様。

画像:『高井鴻山妖怪画集』小布施町 1999

ではいったい、妖怪の本質は何であろうか?

高 井 鴻 山 漢 詩 選 集 (4)

すなわち、鴻山が説明しているのは、
心のなかに生ずる(カントの表現を使え
ば)「統覚直観」なのである。根源的で
あり、主客不分離の「直観」なのである。
したがって妖怪は「分析的」(分解すれ
ば、二つ以上の認識にわかれるような性
質)ではない。妖怪の本質は「経験的な
実在」ではなく、これ以上分析すること
のできない、心的な、疑いようのない、
超克的な「内的直観」なのだ。

暗い「内的直観」は、言葉にだして表
現することはできないし、形にして表現
することもできない。だから、もごもご
筆を動かし続けていたら、たまたま妖怪
の姿になっただけなのである。内的直観
が妖怪を選んだのである。筆を動かして
いる私が選んだのではない、と鴻山は述
べた。

その雰囲気を描こうとして筆をとると
描き出されるのは、どういうわけか
いつでもきまって片端の妖怪ばかり。
正常で健全なものはなにひとつでてこない。
そして必ず、雨が降っていて、青い燐光りが見える。
幽霊の世界と言おうか、なんと言おうか。

では具体的に何が紙面の上に現われるのか?

しかしながら、カントにより「純粋理性」と名づけられた
「統覚直観」は、その内容が「善」あるいは「神」であった。

一方、高井鴻山の「統覚直観」は、同じ「統覚直観」なの
だが、その内容は「純粋理性」とは正反対の内容であり、
「悪」であり、「死神」であった。それから逃げようとして
も逃げるに逃げられない「死神」だった。これこそ人間が最
後に到達する認識なのだ、と高井鴻山は主張する。

「純粋理性批判」の基礎理論を正統に踏まえ、まことに首
尾一貫した論説である。

カントは「純粋理性」を唯一の実在と
信じ込んでいたが、実は「純粋理性」は
二つあった。カントの説明した「純粋理
性」は実は「純粋理性
A」だったのであ
る。それはちょうど西田幾多郎が「純粋
経験」はたった一つで、それを唯一の実
在と考えたのと軌を一にしている。

高井鴻山は、それにひきかえ、「純粋
理性」の特質は備えてはいるが、内容は
まるきり反対のヴェクトルである「純粋
理性
B」の認識に到達した。それ以外に認
識できる精神の本質はなかったのである。

  だから結論的にいえば、高山鴻山は、
ウイリアム・ジェイムズのタイプの人間
であった。
B onlyタイプだったのだ。

P179
傀を詠ず