芸術家としての高井鴻山

このようにして、鴻山は『妖怪
画』を描いた。ひとは、彼が事業
家魂の欠落した「欠格人間」であ
ったことを理由に、彼を非難する
ことだろう。まことにもっともな
批難である。  

だが、考えてみようではないか。

画像:『高井鴻山妖怪画集』小布施町 1999

 彼の出現時期には、たまたま、まるで符合し
たかのように、スペインのゴヤ(「黒い絵」

1820-1823)とオスロのムンク(「叫び」1893)
がいた。ムンクはBにつき、わずかの限定的な
説明資料
を残した。ゴヤにいたっては説明資料
を一切残さなかった。それにひきかえ、鴻山は
彼らよりもはるかにインテリであった。たくさ
んの漢詩のなかに正確無比な説明資料を残した
のである。このような人間は日本にはいなかっ
たし、また世界にもいない。

(注:ゴヤの「黒い絵」を参照せよ:わが子を
らうサトゥルヌス
サン・イシドロへの巡礼」、「運命」、「魔女の集会」) 

 では、次にウイリアム・ジェイムズの分析に移ることと
しよう。ジェイムズの場合はアプローチをすこし変えよう。
B onlyの人間ははたしてどのような考え方をするものか、
B onlyの人間には、はたしてどのような選択肢があり、結
果的にジェイムズはどのような選択をおこなったのか。い
ったい全体、
B onlyの人間ははたして安寧の状態に到達で
きるものなのであろうか。安全確実な哲学に到達できるも
のであろうか。これらの諸問題につき、ウイリアム・ジェ
イムズは敢然と挑戦する。

なに? ジェイムズは近代のドン・キホーテだって?

 それは、調べてみなければわかりませんよ。

画像:
四曲屏風象と唐人図
(部分)
(144 x 319
p)紙本 
高井鴻山筆

『妖怪画集』小布施町 1999

まったくもって説明の言
葉にもことかくような、比
類のない画家であり、偉人
であるというべきである。

彼が真の事業家であろうがなかろうが、それはまことに些
細な問題だ。

日本の歴史にあって、「純粋理性B」の存在を正々堂々と
真正面から主張し、かつそれを表現するために、墨絵をもっ
てし、グロテスクな画面を多数作った画家が、彼の前にはた
して誰かいたのか、というのが真の問題なのだ。人間の心を正直に解剖し、適切に表現する能力こそ、われわれが求めて
いる芸術家の資質なのである。