スイス人の手記

『宗教的経験の諸相』上 P105


  ここにもう一つ別の、もっとはっきりと特徴を示した記録があるが、筆者がスイ
ス人なので、わたしはフランス語の原文から翻訳しておく
(1)

「わたしは完全な健康状態にあった。わたしたちの徒歩旅行も六日目で、コンデ
ィションも上々であった。一昨日シクスを出発し、ビュエを通ってトリアンへ向
かっていた。わたしは、疲れも飢えも、また渇きも感じなかった。わたしの精神
状態も、同じように健全であった。フォルラに着いたとき、わたしは家からの吉
報を受け取った。わたしは、さし迫った心配にも、遠い心配にも、煩わされるこ
とはなかった。わたしたちにはすぐれた案内人がついていて、これからたどって
行かねばならぬ道のことで不安を感じることは、いささかもなかったからである。
そのときのわたしの状態は、平衡状態とでも呼べば、もっとも適切に表現できる
ものであった。そのとき突然、わたしは、わたし自身を越えたかなたに持ち上げ
られるような感じを経験した、わたしは神の現前を感じた――わたしは、わたし
が意識したままのことを語っているのである――あたかも神の善と神の力とがわ
たしに滲みとおるような感じであった。
感動が高まって鼓動が激しく、わたしは、
仲間の若い人たちに、わたしを待たないで先に行ってくれるようにと、辛うじて
言うことができたほどであった。それからわたしは、それ以上立っていられなか
ったので、石に腰を下ろした、わたしの眼からは涙が溢れおちた。わたしは、わ
たしの生涯のうちに、神がわたしに神を知ることを教え給いしことを、神がわた
しの生命を守り、わたしのごとき取るに足らぬ人間、罪ある人間をば憐れみ給い
しことを、神に感謝した。わたしは、わたしの生涯が神の意志(みこころ)を行
うために捧げられんことを、熱心に神に願った。わたしは神の応答を感じた。そ
れは、なんじは日ごとに、謙虚と清貧のうちに、神の意志(みこころ)を行ない、
いつかなんじがいっそう人目をひくような神の証人として召されるかどうかは、
これを彼の、全能なる神の、判定にゆだねよ、というのであった。それから、徐
々に、法悦はわたしの心から去っていった。すなわち、神が先に許し給うた霊の
交わりをばすでにとりやめ給うたことを、わたしは感じた。わたしは歩みを進め
ることができるようになった、しかし、その足どりは遅々としていた。それほど
強く、わたしはまだ内的な感動に捉えられていたのである。そのうえ、わたしは
数分のあいだ泣きつづけていたので、わたしの両眼は脹れていた。だから、わた
しは仲間たちにそういうわたしを見られたくなかった。この法悦の状態は、その
時にはずいぶん長くつづいたような気がしたが、四分か五分のあいだだったらし
い。
仲間の者たちはバリヌの四つ辻で十分間わたしを待っていてくれたが、わた
し自身が一行に加わるまでには、二十五分か三十分くらいかかった。ぼくらは半
時間ほど待ったよ、と彼らが言ったのを、わたしは覚えている。その時の印象は
きわめて強かったので、坂道をゆっくりと上がってゆきながら、わたしはこう自
問したほどであった。シナイ山上のモーゼだって、果たして、わたしより以上に
親しく神との交わりをなしえただろうか、と。わたしのその法悦においては、神
は形も色も香も味ももっていなかったこと、さらに、神の現前の感じには一定の
場所の観念は伴っていなかったということ、を付け加えておくのがよいとわたし
は考える。むしろ、まるでわたしの人格が、霊的精神の現前によって変貌してし
まったかのようであった。しかし、この内密な交わりを表現しようとして、言葉
を探せば探すほど、わたしたちの普通のイメージではその事柄を描くことができ
ないのを、わたしはますます強く感じるのである。結局、わたしの感じたことを
もっとも適切に表現してみると、こうなる。神は、目に見えはしなかったけれど
も、現前し給うた。神はわたしの五感のどれ一つにも触れはしなかったが、しか
しわたしの意識は神を知覚した。」

(1) これは、フルールノア教授の許可を得て、教授が豊富に収集された心理学文献のなかから
借りたものである。

バック博士は自分自身で宇宙的意識の典型的な出現を経験したので、そこから他
人の場合のそういう経験を研究するにいたったのである。彼はその結論を非常に興
味深い著書のなかに記している。その書物から、彼自身の経験に関する次のような
報告を引用しておこう。

「その晩、私はある大都市で、二人の友人と一緒に詩を読んだり、哲学を論じ
たりして過ごしていた。夜半に、私たちは別れた。私は長い道程を辻馬車に乗
って私の下宿まで帰った。読んだり語り合ったりしたために生じた観念や心像
や感情に深く影響されていた私の心は、平穏で穏やかであった。私は平静で、
ほとんど受動的な享受の状態にあり、積極的に考えることなく、観念や心像や
感情がいわばひとりでに私の心のなかを通過するにまかせていた。そのとき突
然、なんの前触れもなしに、私は火炎のような色をした雲に包まれてしまった。
一瞬間、私は火事だと思った、あの大都市の近くのどこかが大火事なのだと考
えた。次の瞬間、私は火事は私の心のなかにあったことを知った。そのすぐ後
に、狂喜の感じ、無限の歓びの感じが私を襲い、それと同時に、あるいはその
直後に、筆紙に尽くしがたい知的光明が襲ってきた。
とりわけ、私が単に信ず
るにいたったというのではなく、私が知ったことは、宇宙は死んだ物質で出来
あがっているものではなく、その反対に、活ける生命であるということであっ
た。私は自分のなかに永遠の生命を意識した。それは私がいつかは永遠の生命
を所有するようになるであろうという確信ではなくて、私がそのときすでに永
遠の生命を所有しているという意識であった。私はすべての人間が不滅である
ことを知った。
宇宙的秩序は、万物が各自みなの幸福のために協力するように
できている、ということを、世界の根本原理、あらゆる世界の根本原理は、私
たちが愛と呼ぶところのものであり、各自みなの幸福は結局は絶対に確実であ
る、ということを知った。この幻影は、数秒つづいただけで消え去った。しか
しその記憶と、それが教えたことが現実のことであるという感じとは、それ以
後の四半世紀の間、消えないでいる。
私はあの幻影が示したことが真理であっ
たことを知った。私はある観点に達していて、この観点から私は、それが真理
でなければならないことを知ったのである。この見方、この確信、私はこの意
識と言っていいであろうが、それはそれ以降けっして、どんなに深く意気が沈
んだ時期にあっても、失われたことがない。
(1)

(1) Loc. Cit., pp. 7, 8. 私の引用は、バック博士の大著が出る前に個人的に
印刷された小冊子によるものであって、前者の原文とは語句の上で多少の相違
がある。

写真:Nürnberg, Germany

 諸君のうち神秘的な素質のもっとも少ない人でも、今はもう、まったく特殊な性
質の意識状態としての神秘的瞬間の存在することを、そしてそういう瞬間がそれを
体験する人々に深い印象を残すことを、納得されるに違いない。カナダの精神病医

RM・バック博士は、これらの現象のうちでも比較的に明確な特徴を示しているも
のに、宇宙的意識という名前を与えている。バック博士は言う、「かなり著しい場
合における宇宙的意識は、私たちがみな熟知している自己意識の膨張とか拡大とか
に過ぎぬものではなくて、普通の人間の所有しているどんな機能とも異なった或る
機能の添加なのであって、それはちょうど、自己意識が高等動物の所有しているど
んな機能とも異なっているようなものである」と。

「宇宙的意識の第一の特徴は、宇宙の意識である。すなわち、宇宙の生命と秩
序についての意識である。宇宙の意識と並行して或る知的な啓蒙が生じるが、
これがはじめて個人を或る新しい存在の段階に立たせるであろう――個人をま
ったく新しい種の一員にするといっていいであろう。これにさらに或る道徳的
高揚の状態が添加される。これは筆紙に尽くしがたい向上と意気と歓喜との感
情であり、道徳的感覚に生気を与えるものであって、高められた知的能力と同
程度に顕著でありそれより以上に重要である。さらにそれと同時に、不滅性の
感覚、永遠の生命の意識と呼ばれてよいものが生ずる、これはいつか永遠の生
命をもつにいたるであろうという確信ではなくて、すでに永遠の生命をもって
いるという意識なのである。
(1)

(1) Cosmic Consciousness: A Study in the Evolution of the human Mind, Philadelphia, 1901, p.2.

R.M.バック博士
カナダの精神病医


『宗教的経験の諸相』下 P212

統 覚 直 観 の 実 例

出典:
『宗教的経験の諸相』
W・ジェイムズ       桝田啓三郎訳 岩波書店 1970

 ジェイムズが『宗教的経験の諸相』
のなかで引用している統覚直感(純粋
経験
A)の体験記は次の三例である。

J. トレヴォーアの自叙伝


『宗教的経験の諸相』下 P210


原典: My Quest for God, London, 1897, pp. 268, 269, abridged

「ある晴れやかな日曜日の朝、私の妻と子供たちはマックスフィールドのユニ
テリアン派の礼拝堂へ行った。私は彼らと一緒に行くことは不可能だと感じた。
――丘の上の陽光をあとにして礼拝堂の方へ降りて行くことはしばし霊的な自
殺行為をなすことのように思えた。それに私は、新しい霊感と私の生命の拡大
とを必要だと感じていた。それで私はしぶしぶ、悲しい気持ちで、私の妻と子
供たちが町の方へ降りて行くにまかせ、私は杖を手にし、犬を連れて丘の上へ
上って行った。朝のすばらしさと、丘や谷の美しさのために、私はすぐに悲し
みと悔いの感じを失ってしまった。およそ一時間、私は飲屋「猫と提琴」のほ
うへ歩いて行き、それから引き返した。帰途、突然、なんの前触れもなしに、
私は自分が天国にいるのを感じた――ある温かい光を浴びているという感じを
伴った、筆紙に尽くしがたいほどの強度の、心の平安と歓びと確信であって、
まるで、外の状態が内的効果を引き起こしたようであった――私は光明の真中
にいるようであったので、私の周囲の光景が以前よりもいっそうはっきりと目
立ち、そしていっそう私の身近にいるようであったにもかかわらず、肉体を超
越してしまったような感じであった。この深い感動は、その強さがだんだん弱
まりながらも、家に帰り着くまで続いた。そしてその後しばらくして、だんだ
んに消えて行ったのであった。

 この著者は、これに似た経験をその後いくどもしているので、今ではそういう経
験をよく知っていると付記している。

「霊的生命は、」と彼は書いている、「それを生きている人々にとっては当然
のことであるが、それを理解しない人々にはどう言えばよいであろうか? 少
なくともこれだけのことは言えよう。すなわち、それはその体験がその所有者
にとって事実において現実的であるような生命である。なぜなら、その体験は、
それを客観的な現実の生活と緊密に接触させたときにも、決して失われずに残
るからである。夢はこのテストには合格しない。私たちは夢から醒めると、そ
れが夢に過ぎなかったことを知る。興奮しきった頭脳のはせる空想も、このテ
ストに合格しない。私が経験した神の現前の最高の経験はめったにないもので、
短時間のものであった――驚いて私に、神はここにいます! と叫ばずにはい
られなくした意識の閃きであった――あるいは、それほど強度ではなくて、や
がてだんだんと消えて行く高揚と達観の状態であった。私はこれらの瞬間の価
値を厳重に検討してみた。私が自分の生活と仕事とを単なる脳裡の空想の上に
築いているなどと言われたくなかったので、この経験を私は誰にも話さなかっ
た。
しかし、あらゆる試験とテストの結果、これらの経験は今日では私の生活
のもっとも現実的な経験であり、過去のすべての経験と過去のすべての成長と
を説明し是認し統一する経験であることを、私は見いだすのである。まったく、
この経験の現実性と、その広大な意義とは、ますます明確になってゆきつつあ
る。この経験が臨んだときには、私はもっとも充実した、もっとも強い、もっ
とも健康な、もっとも深い生活をしていたのである。私はそうした経験をした
いと求めたのではなかった。私が
断乎たる決意をもって求めていたものは、た
とえ世間がどんな反対の判断を下すとわかっていても、さらに強く私自身の生
活を生きるということであった。神がほんとうに現前し給うたのは、私がもっ
ともほんとうに生きている時のことであった。そして私は、自分が神の無限の
大洋のなかへ沈んでいたことに気がついたのであった。
(1)

(1) Op. cit., pp. 256, 257, abridged.