朋 子 の 神 秘 体 験 A

写真:

多聞天立像、(京都、浄瑠璃寺)
京都国立博物館
        http://www.kyohaku.go.jp/meihin/
chokoku/mht2502j.htm

 要吉が価値観の確定しない漠然とした不安からの自殺、
朋子は自己の内にある矛盾の未解決で疲れ果てての自殺と
いう、直接的な動機の差があるにかかわらず、要吉が朋子
の態度を愛情表現であると取り違え、「愛させる、愛させ
る、何処迄も愛させる」と誤解する、つまり朋子にとって
必要なのは愛情なのだと錯覚するに至って、朋子は徐々に
要吉に自らの論理を踏襲させようと試みる。


               「えゝ、私ね」と、朋子はぐるりと振向いた。
         「お友達の中に疾(と)うから先
生に御紹介し
         たいと思ふ人が一人あるんですよ。その方はそ
         りやア面白い性格で、
屹度先生のお相手が出来
         るに違ひない。」


 日暮里の牛舎の横手から小径を伝っていったところの田
圃の中に『両忘庵』と横に自然木の額をかけた小門がある。
平塚明は、この両忘庵で一昨年、
20歳のときに見性してい
たのであった。

               「ね、先生はこんなやうな経験がおあんなさいま
         せんか。」朋子が不意に言出し
た。

               「えゝ?」と、要吉も振返った。「何んな経験?」

               「夜なぞ、一人で坐ってゐると、四辺(あたり)
         がきらきらと海の底のやうに
輝く。さうすると、今
         迄混沌とした頭が一時に爽やかになって、眼もはっ
         きりと
物の裏まで見えるやうになる。」

 要吉は見性の領域に至っていない。ドストエフスキーの小説
では読んだことはある。

               「ね、そりやア」と、少時(しばらく)して訊い
         た。「自分で故(わざ)とさう
しようとして、さう
         なるのか、それとも自然になるのか。何方(どちら)
         です。」

               「何方でも」と、女は男の側に寄添ふやうにして、
         「昔はわざとさうしていたの
が、今では自然にさう
         なるやうになった。自然にさうなる時は、幾許(い
         くら)
それに抵抗しようとしても力が及ばない。」

 要吉はドストエフスキーの小説の主人公の癲癇の発作前の症
状を思い出し、この女にもそんな病気があるかも知れない、と
誤解する。朋子は禅寺で見性のさいに悟り得た人間認識をまず
要吉に伝えようとするのだが、これが伝わらない。

 これを理解してもらわねば、朋子が現在戦っている絶対認識
への内面戦争も理解して頂けないのだ。ほかに理解を示してく
れそうな友達も居らず、、「助けてほしい」と叫ぶ朋子の声が
聞こえるようだ。

 朋子はなにを探し求めていたのであろうか。なにと戦ってい
たのであろう。

画像:可翁筆、
可翁仁賀
(かおうにんが)建仁寺の禅僧か?
『蜆子(けんす)和尚図』重文 
14
世紀中期
紙本墨画
東京国立博物館
天衣無縫の蜆子和尚の哄笑があざやかに描きだされる。

田中一松
『原色日本の美術 第
11巻 水墨画』
小学館、昭和45

 平塚らいてうは、自らの魂の遍歴についてあまり多くを記述していない。
すべてが終わったあとで、『元始、女性は太陽であった』に僅かに暗示的に
記述しているにとどまる。

 『元始、女性は太陽であった』(平塚らいてう著作集第一巻、大月書店)
を読んで、この謎を解いておこう。



 ――まず見性の結果、悟りえたことの内容は、

               無念無想とはいったい何だろう。祈?の極、精神集注の極におい
         て到達し得ら
るる自己忘却ではないか。無為、恍惚ではないか。
         虚無ではないか。真空ではな
いか。

               実(げ)にここは真空である。真空なるが故に無尽蔵の知恵の
         宝の大倉庫であ
る。いっさいの活力の源泉である。無始以来植物、
         動物、人類を経て無終に伝え
    らるべきいっさいの能力の福田で
         ある。

               ここは過去も未来もない。あるものはただこれ現在。


 ――一方、その後、疲労が人格の衰弱を招き、

               かくて私は死という言葉をこの世に学んだ。

               死! 死の恐怖! かつて天地をあげて我とし生死の岸頭に遊び
         しもの、この
時、ああ、死の面前に足のよろめくもの、滅ぶべきも
         の、女性とよぶもの。

               かつて統一界に住みしもの、この時雑多界にあって途切れ、途切
         れの息を胸で
するもの、不純なるもの、女性とよぶもの。

・・・・・

               とはいえ、苦悶、損失、困憊(こんぱい)、乱心、破滅総てこれ
         らを支配する主
人もまた常に私であった。


 ――自己矛盾の内容は、

               性格というものの自分にできたのを知った時、私は天才に見棄て
         られた、天翔
(あまかけ)る羽衣を奪われた天女のように、陸に上
         げられた人魚のように。

               私は歎いた、傷々しくも歎いた。私の恍惚を、最後の希望を失っ
         たことを。


 らいてうは、純粋経験と幾多郎が名づけた絶対価値を自分のなかに見出し
たが、この経験と相容れない自分の性格に注目して、これを矛盾と唱えてい
たのである。そして自分の性格を憎みに憎んだのである。自己の(悪い)性
格はいったいどこから来るのか、純粋経験との折り合いをいかにつけるか。
らいてうは悩みぬく。