帰り途、上野公園の両大師の前の広場で接吻したとき、朋子はその
儘男の胸へ顔を埋めた。よよと泣く。


               「何うした、え、何うしたんです。」
               「何うかして、もつと何うかして。」

               要吉は犇(ひし)と抱き緊めた。

               「足りない。足りない。それぢゃ足りない。」

               譫言(うはごと)のやうに口走って、手当り任せに男の
         身体を掴んで引寄せる。
その声は嗄(か)れて、その手には
         狂人(きちがひ)のやうな力が籠つた。要吉
も稍(やゝ)
         たじろいだ。

               ・・・・・・

               朋子は尚泣き止まぬ。身を戦(ふる)はせて泣く、只泣
         きに泣く、胸は大波を
打って、心臓の鼓動が手に取るやう
         に聞える。それが云ふに余る嬉しさに圧倒さ
れた涙とは思
         はれぬ。何だか絶望を洩らすやうでもある。要吉は気抜け
         して茫然
(ぼんやり)眺めてゐたが、思はず少し立退いた 。
         俄に二人の間に鴻溝(こうこ
う)が穿(うが)たれたやう
         な心持がした。肉体の接触が離れたばかりでなく、
精神も
         永久に近寄り難いのではあるまいか。

               二人は全く別々な人間だ。それなら何うすることも出来
         ない。

 ここで要吉は感覚的に二人の抱える悩みの本質が異なっているのではない
かと感じはじめる。要吉の悩みは、この世に生きていくうえで立脚点が見当
らず、いままで歩んできた道が行き止まりであり、将来にたいする漠然とし
た不安であるのにたいし、朋子のそれは号泣を伴う身をよじっての苦しみで
あることが明らかになってきたからだ。あたかも身体を二つに引き裂かれる
がごとき、分裂する心から発するおぞましき痛みの発現とも理解されよう。

 要吉の難破船は、マストが折れた行方不明の難破船であるのにたし、朋子
のそれはどういうわけか船の構造体がメリメリ折れだして沈没寸前となった
新造船のように見える。

 二度目のデートの場所である水道橋の停車場へ姿を現わす代わりに、朋子
は一通の書簡を要吉宅に届ける。

               是非なし、我顔に百千の鞭(むち)をも加えたまへ。・・・・真
         を申せば、私の
世界には恋も愛も同情も皆無意義の文字に過ぎない。
         ・・・・

               われとわが眼を閉じ、耳を閉じ、色相界を遠ざからむとした自分
         は、それだけ
の点に於ても、死の淵へ一歩近寄ったのです。・・・
         ・ 私は迚も熱い酒を盛る器
  ぢゃない。ダブル・キャラクタアに
         悩まされてゐる身は戯れにもさういふ事は口
外し難いのです。

 どうも色恋沙汰でないたのでもなさそうだ。

               自分以外の総ての物に興味を失ひし絶望の結果はインデファレン
         トには候はず
や。

 「自分以外の総ての物に興味を失ひし」状況は、要吉にとってもほぼ同じだ
とは思うが、

               曽(かつ)ては普通以上に自負心強き者なりしも、今はそれさへ
         用ひ尽して既
に死せる針金に候。情なき者に候。

 考えることに疲れ果てて弾力性を失ってしまった心の中に、

               さは云へ、矛盾は自らも持余しものに候。矛盾に矛盾を重ねては
         終に無に帰す
る外なく、・・・・

 善と悪との同居している自分を整理することかなわず、疲れ果てて今や死に
たいという気持ちしか残らない。

               無なり、空虚なり。我なく、人なく、思ふものなく思はるるもの
         なし。全くビ
ヨンドの境なり、思惟の外なり、想像を絶せり。・・
         ・・ 私の最後の興味は涅槃
(ねはん)寂静の日に?がれ居り候。・
         ・・・私に取りては死が唯一の厳粛なるこ
とに残り居候。

 もう死ぬことしか考えぬ自分であることを宣言しているが、

               我寂滅の日は、やがて君の寂滅の日と覚悟したまふや。

 そう宣言しつつも、自分一人で死に立ちできず、一緒に死んでよと可愛くせ
びっている朋子である。朋子もまたスプリングボードが必要だと考えていたの
だ。

平塚らいてうとの会合

 帰京した要吉が水道橋の上でたたずんでいると、偶然出会った友達
の神戸が、眼に立たぬ程の縞の袴を穿いた女学生を紹介する。これが
真鍋朋子である。要吉の感想は、


               「あの眉と眉の間の暗い陰は、誰の眼にも附くぢゃないか。
         冥府(あのよ)の
烙印(やきいん)を顔に捺(お)したやう
         な――一度見りや一生忘れられない顔
だ。」


 要吉は朋子との始めてのデートで、中野の新井薬師へ行き、掛茶屋
の一室で告白する。


               「従来(これまで)さまざまな女――さまざまな事をして
         来た。・・・・それを
隠して、貴方から何を求めよう。私の
         目下の心持は丸で難破船だ。この後自分の
身が何うなって行
         くか、私にも解らぬ。唯、貴方に依って力が与へられたい。
         新
しく生きる道が求めたい。」


 朋子は答える。


               「さういふ心持を抱いたのなら、私の方が先なんで御座い
         ます。」


 生きることに疑義が生じている「難破船」の二人はここに意気投合
し、難破船同士で互いに倚りかかる相手を見つけ得たと思ったのだが、
そうはならなかった。

画像:
Henri Rousseau (1844-1910)
Charmeuse de Serpents”(蛇使い)1907
La Galerie du Jeu de Paume, Paris
左手に見える遠い山並みや水面、曲線が支配的な優雅なリズム、
熱帯植物を照らし出し水面に映る月の光の効果。
『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』
集英社
1971

画像:
エドヴァルド・ムンク (1863-1944)
「浜辺の女たち」1898
オスロ、ムンク美術館
『現代世界美術全集21 ムンク/カンディンスキー』
集英社1973