真善美の外側にあるもの
この時点での心象風景をらいてうは『元始・・・・』のなかで次のように
記している。
弱い、そして疲れた、何ものとも正体の知れぬ、把捉しがたき
恐怖と不安に絶えず戦慄する魂。頭脳(あたま)の底の動揺、銀
線をへし折るようなその響き、 寝醒時に襲ってくる黒い翅(つ
ばさ)の死の強迫観念。
こうして要吉と朋子は内面はすれ違いのまま、死出の旅へと出発する。要
吉は一振りの短刀を懐にして。
俄(にはか)に山巓からどつと風が落ちて来た。灰を飛ばし、
雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人は犇
(ひし)と相抱いた。風は山を鳴らして吹きに吹く。
「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」
女は男の腕を掴んで、嗄(かす)れた声に叫ぶ。
「言つて、言つて。」
「私には――言へない。」
らいてうの迫力に圧倒された要吉は内衣嚢(うちかくし)から短刀を取り
出して、谷間を目蒐(めが)けて短刀を投げすてる。
要吉と朋子の心中はかくして未遂に終わった。二人は追っ手に東京へと連
れ戻され、要吉すなわち草平は、漱石の庇護のもとに、わけのわからぬまま、
小説『煤煙』として忠実に事態を書き留める。朋子すなわち明は世間体もあ
ることから、しばらく信州松本に居住し、その後東京の海禅寺で座禅を継続
する。再度見性するが、これは前回の見性と同質であることは、『元始、女
性は太陽であつた』を一読すれば明白である。
写真:
龍谷大学図書館
『朝日クロニクル20世紀』第一巻、朝日新聞社
1902/3−15
大谷光瑞の中央アジア探検は1902(明治35)年から1914年(大正3)年の終了まで3次にわたっている。仏教伝来の経路と遺跡を調査したいとの思いに衝き動かされたからであった。写真は13(同2)年、中央アジアの砂漠を行く第三次の探検隊。大谷自身は第一次探検の途中までしか実際の探検には参加していない。
未知への探検というロマンチックがある時代だった。
この時代の人たちは、
内面からの衝き動かされる思いで行動を開始していたのか?
それともただの冒険好きだったのか?
たとえば「嘘つき」という悪い性格は奈辺から来るのか。
「死ぬる」という魅惑に満ちた意識は、見性のさいの悟りえた輝かしい自
己とどこで折り合いがつくのか。読まぬ癖に「死の舞踏」を独乙語で読了し
たと嘘をつく自分はいったい何者なのか。
死ぬことにおそれはない。さが死んだあとで、決着のつかないまま死んだ
自分はどこへ行くのか。
真・善・美の極地、すなわちプラトンの唱えるイデアは、座禅の場で捉え
得た。
何日ぞや御同行した日暮里の両忘庵は、私がたゞ物好きから彼処
へお連れ申したとでも思つて被坐(いら)したかも知れませんが、
あれは私が三年前夢中になつて坐つて見性(けんしやう)した所な
のです。それで先生と闘ふ時、あの家を一度見て置きたくなったの
です。先生もお聞き及びでせう、釈宗活と云ふ坊さんを。
「そりやア面白い性格で、屹度先生のお相手が出来るに違ひない」人とは、
釈宗活という坊さんだったのだ。
けれどけれど、それももう駄目です。私は最後迄来て仕舞つた。
最早私には何物も残されない。あるものは只恐怖と不安との連続
である。静に自分の最後を味はつて死ぬと云つたけれど、それさ
え今の状態では覚束ない。もう叶はぬ。私は先生の御手のかゝつ
て死ぬ――殺して頂く。
画像:
Odilon Redon (1840-1916)
“La Barque”(聖女の舟) 1900頃
Collection particuliere, Paris
1894年か95年にかけての冬(54歳)、重い病気にかかる。
1895年4月のある手紙。「私は突然、雷に打たれたように極度の疲労に打ちのめされ、何週間もすっかり衰弱して横になっていました。幸い看病と安静のおかげで、力はもどってきました。たしかに私は、しだいしだいに黒を見捨てています。われわれの間では、黒は私を疲労困憊させます。思うに、黒はわれわれの有機組織の深い場所にその源泉を得ているのです。……」
『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』
集英社、1971
朋子は絶対解を得ぬまま考え続ける。3月19日要吉に認めた書状はこう記
している。
この前お目にかゝつてから今日迄、一週間は全く夢中で生きて
居た。徹宵静坐るを続けて見たが、何の甲斐もない。昨日は朝か
ら家を出て、・・・・海禅寺へ行 かうとしましたが、・・・・
図書館へ這入つて、一日人と物を言はないで暮らしました。今日
も一人目白園へ行って、彼処の欄干(てすり)に凭れて、網の様
になった木の間から冬ざれの田圃を瞰下(みおろ)してゐたが、
矢張何うすることも出来ない。
結論に逢着することができぬ。
私はもう駄目だ。先夜の夢は戻って来た。何度でも繰返して執
拗(しふね)く戻つて来る。空虚な夢は終に肉附けられねば止ま
ぬ。もう抵抗する力がない。私は永遠に失はれた。
肉体的にも限界を通り越して、死は希求するどころか、向こうから足音を
立ててやってくる。
私の苦痛は私の口から誰に向つても言へない、無論言つた所で
同情同感などしてくれる人がある筈もない。私には友達もない、
家もない。一人で堪えて来た、最後迄闘ふつもりで生きてゐた。
せめて死の前に三年前に見性した両忘庵を一度見ておきたくなった。たっ
たひとつの心の支えは見性で得心した純粋経験だったのだが、純粋経験だけ
だは自分を全体的に包括するとの結論にはならぬ。