道 徳 的 な る 神 秘 体 験 (1)

(昭和609月、日本経済新聞『私の履歴書』より)

画題:
上村松篁「ウサギ」  
  
     ?

現代日本素描全集、上村松篁、
(株)ぎょうせい  1992

 この道のためなら生命を捨ててもよい、と絵に打ち込む姿勢があって、
その結果生じてきた体験はどうであったか、ちょっと長くなるが、大切な
ポイントであるからそのままここに写しとる。



昭和二十八年の夏、私は不思議な体験をした。満五十一歳を目前に
して、初めて「自然の本体」に触れ、「自然の声」を聞くことができ
たのである。

奈良・平城の画室から四,五百メートル下におりた村道のわきに里
芋の畑があった。私は一ヶ月ほど前から毎日、その畑へ通って朝から
晩まで大きな芋の葉を写生していた。


里芋の葉は形が単純なのに描くのは意外に難しいが、同じ所で一ヶ
月も写生し続けていると目が洗練されてくる。夾雑物が取り払われて、
エキスだけが見えてくるようになる。


邪魔なものは何も見えず、芋の葉の「美の構成」だけがピチッと見
え始めた七月のある日のことだ。カンカン照りだったその日も朝から
芋畑の中に三脚をすえ、腰かけながら芋の葉をあかず写生した。「も
うこれで十分写生できたなあ」と思って腕時計を見ると午後四時であ
る。日没までにはたっぷり時間もあるし、まだ帰るには早すぎる。芋
の葉のどこを見ても美しく感じられ、楽しいものだから再び写生を続
けた。


そうしているうちに、かなり離れた所からサラサラ流れる水の音が
聞こえてきた。日照り続きだったので農家の人が水路の堰から畑に水
を入れているのかと思った。ところが、その水音はだんだん大きくな
り、こちらに近づいてくるように聞こえるのに、実際に里芋の畑にま
で水が流れてくる様子は全く見えない。


やがて、海の風のように量感のある風が吹いてきた。分厚い感じの
風でる。汗のにじんだシャツのボタンをはずし、その風を胸に受けな
がら写生しているうちに、気が遠くなっていった。その時、夢うつつ
のうちに聞こえてきた水の音は、ザーッという風と波の音がまじった
ような大きな音になり、私の体を包み込んだ。


その忘我の状態が二十分ぐらい続いていただろうか。ふと気がつく
と私は芋の葉に向かって腰かけたまま合掌していた。心から「ありが
たいなあ」という気持ちが湧いてきて、涙が流れた。今の今まで四十
年近く絵の勉強にはげみ続けてきたのは、この境地にめぐりあうため
だったのか――そんな満足感もあった。


ありがたくて、うれしくて、わくわくしながら私は三脚をたたんで
脇にはさみ、村道を上がって家に帰った。まるで恋人に出会ったよう
な喜びに心を躍らせて、その道を歩いたのだ。


なぜ、あんなにうれしかったのだろう、と考えてみた。自然の生命
がわかった喜び、自然の本体に触れた感動ではないかと思った。「実
在を知った喜び」とも「霊気に触れた感動」とも言えるだろう。体を
包み込んだあの海鳴りのような音は、私を忘我の恍惚境に導く「自然
の声」だったのに違いない、と自分では考えている。


 奈良の丘陵のふもとにある芋畑での体験である。本当の海鳴りが聞
こえたり、海の風が届いたりするわけがない。とにかく不思議な現象
で、言葉ではうまく表現できないが、私はあの時、確かに自然の本体、
実在に触れたのだ。

画像:
法橋光琳
『躑躅(つつじ)図』重文 
絹本著色 掛幅
東京 畠山家
山根有三
『原色日本の美術第十四巻 宗達と光琳』
小学館 
1969

清流に臨んだ岩かげに妖しくもあざやかに
咲きいでた躑躅の紅白の花。小品中の傑作。
“道崇”の大きくてあざやかな朱文円印、
あたかも絵の一部。