上 村 松 篁

画像:
浅井忠(1856-1907)
『若王子(にゃくおうじ)風景』
京都時代

紙 水彩

若王子は、後白河法皇が和歌山県の熊野権現を
勧請(かんじょう)し、祈願所として創設した
寺院である。しかし、明治維新の神仏分離で廃
寺となり、あおの鎮守である若王子神社のみが
残った。現在の町名は南禅寺若王子町で、場所
は南禅寺の北にあたる。

『現代日本美術全集16 浅井忠/黒田清輝』
集英社 1974
解説:
浅井忠  鈴木健二

 上村松篁は明治35114日、京都市堺町四条に生まれた。母は美人画で
有名な、後に女性としては初めての文化勲章を受けた上村松園であり、松篁
はその長男であった。

 昭和5年、京都市立絵画専門学校研究科の課程を28歳で修了した。その後、
京都市立美術大学の教授を続け、昭和
43年退官した。

 彼の驚くべき体験記は昭和609月の日本経済新聞『私の履歴書』に載っ
ている。



 しかし、母が日常の生活で無言のうちに身をもって教えてくれたの
は、明けても暮れてもひたすら絵に打ち込み、黙って精進を続けると
いう勤勉努力の大切さである。

 私自身、「コツコツと写生を繰り返し、地道に絵の勉強をしてきた
のは、この境地に達するためだったのか」と思えるような体験をする
ことができたのは、五十歳を過ぎてからである。自然の中に没入する
ような体験である。八十歳になって、自分の歩んできた道は間違って
はいなかったのだ、という多少の自身が持てたような気がする。

 体験に至った基本的な姿勢として思い当たるのは、上記のような母の無言
の教えもあったが、
18歳美工本科4年の頃お聞きした京大の植田寿蔵先生の
影響も大きかったと松篁は述べる。



 植田先生はまた別の夜、法隆寺の玉虫厨子の密陀絵にある釈迦本生
(しゃかほんしょうたん)の捨身聞偈(しゃしんもんげ)の話をさ
れた。若い僧が座禅修行中、老人が現われ「諸行無常是生滅法」と偈
の前半を教えた。老人は後半の句を聞くと生命がなくなるが、それで
も聞きたいかと問う。僧は生命を捨ててもいいからと約束して頼み、
老人から「生滅滅已寂滅為楽」と偈の後半を教えてもらう。そして、
のちの衆生のためにと偈の全句を岩に刻み、崖下に身を投げる。「道
は生命より尊い」という教えである。上田先生の話を聞いて、私は
「生命を捨てても進むべき自分の道は、絵の道だ」と感じた。画家と
してはっきりと自覚して志を立てたと言えるのは、この時だった。