令和8年5月24日 続 匂い NHK記者
リンゴ畑の中継から数か月後、私は緊張してNHKホールにいた。もうすぐ五十歳を目前にした女王が『リンゴ追分』のリハーサルに臨む。ふだんは陽気なバンドメンバーも神妙な面持ち。そのうちに舞台下手からゆっくりとした足音が聞こえ、同時に強い柑橘系の香が流れてきた。ついで、舞台袖の闇のなかから、身長百五十三センチの女王が目の醒めるようなオレンジ色のスーツ姿であらわれた。
そこから先のことを、私はほとんど覚えていない。気がつくとリハーサルを了えた女王が、そばに立っていた私ににっこりとほほえみ「ありがと」と声をかけた。ゆっくりとした足音が去り、馥郁たる香だけが舞台に残った。リハーサルのあと、すべての控室に、女王からの差し入れとして赤坂・有職の粽寿司が配られた。
その数年後、美空ひばりは昭和天皇に殉じるかのようなタイミングで世を去った。
ひょっとしたら、あの舞台は夢だったかもしれない。闇のなか、帳から女君の部屋に忍び入る光源氏と同様に、彼女は私のおぼつかない意識に忍び込んだまれびとだったのではないだろうかと、最近になって思う。濃密な香の記憶とともに。

令和8年5月17日 続 匂い NHK記者
梅雨の前兆か、どしゃ降りの東京で夜の仕事をしたあと、上野を寝台車で発って弘前に出張したのはもう四半世紀も前のこと。
目醒めると津軽の空は晴れ渡っていた。岩手山の手前にリンゴ畑が一面に広がり、ちょうど花盛りだった。
農家の方の案内で、リンゴ畑に足を踏み入れる。幹を見上げれば、桜よりこころもち大きな白い花弁が陽光にさらさらと透けている。桜と決定的に違うのは香である。樹々の下を歩いていると、リンゴの実と同じような甘酸っぱい芳香に全身が包まれる。
最初のうちはもの珍しくて香を胸いっぱいに吸い込んでいのたが、そのうちに匂いが強すぎて頭が痛くなってきた。
案内の方にそれを話すと、「はは、リンゴの花に酔っぱらったね」というような内容のことを正調の津軽弁でいわれた。

男岩木山のてっぺんを綿みてえな白い雲が
ポッカリポッカリ流れてゆき桃の花が咲き桜が咲き
そっから早咲きのリンゴの花ッコが咲く頃が
おら達の一番たのしい季節だなやー
ご存じ『リンゴ追分』(詞・小沢不二夫、曲・米山正夫) 昭和二十三年に美空ひばりが歌ったこの唄は、ラジオドラマ『リンゴ園の少女』の主題歌として流れ、映画化され、レコードは七十万枚を売り上げた。歌謡曲の歌手としてはじめて歌舞伎座の舞台に立った十五歳の少女は、すでに芸能界の頂点にいた。
続く

令和8年5月10日 匂い NHK記者
源氏物語は匂いの文芸でもある。「薫」とか「匂宮」といった登場人物の名前も、古代の人々の官能に訴える趣向だったに違いない。陽が沈めば光が極めて乏しかった当時、闇のなかで出逢い、語らうためには、匂いが非常に重要なコミュニケーション・ツールだっただろう。生物は本来、嗅覚で多くのことを察知し、匂いを恋の手段にする。野生は匂いによって喚起されるのだ。
続く

令和8年5月6日 続 佐藤英一
秘書嬢が今日のスケジュールを読み上げた。「朝刊に先生が恩師としていつも尊敬の念をもってお話になる元O大学学長のY教授の死亡記事が載っています・・」
数年前、傘寿を過ぎてから先生の勲二等旭日中綬章の受賞の会が、先生のご招待であるホテルでささやかに開かれた。
戦争で若い命を亡くした幾多の友人や戦友のことを考えると晴れがましく勲章を受けることなどできないと、長い間、固辞していらした。その会の終わりの先生の挨拶を私は忘れない。
「この度、叙勲を受けることにしました。私が頂かないと次の学長経験者などが受賞できないのだそうです。そこで、皆様に集まっていただいてお礼を申し上げたいと思ったのです。しかし、今日を限りに皆様方との公の付き合いを最後といたしたいと存じます。今は幸運にも私はこのように話もでき、皆様のお声を聞くことができます。しかし、あと数年たらずで、この世からおさらばすることになりましょう。その時には通夜にも葬儀にもお忙しい皆様のご出席を固くお断りしたいと存じます。なぜなら、私は言葉もしゃべれず、目も見えず、皆様に何もできないのですから。ありがとう。さようなら」
その日が来た。耳に微かに別れの曲を感じた。今日、立春。

令和8年5月5日 佐藤英一
私は主任教授との研究上の意見の違いから、母校の医局において四面楚歌であった。そんなはぐれ医者の私にY先生は研究会や学会などで親しく声をかけてくださった。「僕はね、苦労している人をみると助けたくなるのでね。学閥など関係ないね。なにせ教授面をして威張っている人をみると頭にきてね」
大阪の北新地で度々ご馳走になった。お酒を召されて興いたると、海軍時代の話をされた。
「戦争中、僕は駆逐艦の軍医長でね。駆逐艦の艦長には豪傑が多くてね。戦艦の艦長のように海軍大学を出て中央の顔色ばかり気にしているのと違って、出世なんかとうの昔に捨て去った一匹狼でね。でも戦闘と操艦はプロですよ。君、医者たるもの臨床を忘れたらいけないね。医者はね、病気との闘いと、患者さんの命を救うプロなのだから。教授のポストや中央の学会の役職にばかり目を向けるのは昔の戦艦のお飾り艦長と同じだね。もしも、不孝にして、現代の医学の力でも命を救えなかったとしても、患者さんに満足する一生を送る手助け位できなくて何とするのだ」続く

令和8年5月4日 細川護熙
今一日暮す時の努めをはげみつとむべし。如何程の苦しみにても、一日と思えば堪え易し。楽しみも亦、一日と思へばふけることもあるまじ。
正受老人の「一日暮し」のなかに出てくる言葉だ。学生時代、人並みに思い悩んだこともあったわたしは、あるとき正受老人のこの文、その生き方を知って、急に肩の力が抜けていくような気がしたものである。
正受老人。正式の僧名は道鏡、号は慧端という。寛永十九年松代城主真田信之の庶子として信州飯山に生まれた。若い頃より文武の誉れ高かったが仏道への憧れが強く、至道無難の門を叩き出家得度した。師の入寂にともない、正統を証す衣鉢や印可を断り、推された高位も退けて飯山に帰った。城主から寺領寄進、大寺建立の申し出を「僧は三衣と一鉢があれば足りる」と謝辞した。
慧端は故郷に一庵を建て、母と畑を耕しながら、八十歳で亡くなるまで、半農半僧として「一日暮し」を実践し続けた。
飯山は千曲川に沿った盆地の町で、遠く奧志賀の山なみが屏風のように聳え立つ。正受老人は臨済宗再興の祖といわれる白隠禅師の師として知られるが、庵は老人が若き日の白隠禅師を蹴落としたという坂の上にあった。折から寺域は豊かな緑や花々で彩られていたが、冬ともなれば数尺を超える雪が辺りを覆うという。

令和8年5月3日 京竿
平田文男さんの仕事は京竿作り。京竿とは京都独特の釣竿。京竿に並べ比較される竿に江戸竿がある。江戸竿はどちらかと言えば使い勝手、つまり軽さ丈夫さ等が重視されるが、京竿はそれにくらべずっと装飾性の強い、伝統的美術釣竿である。
ここは京都の中心から、ちょっと西へ行った裏通り、観光客は入ってこない小路である。
江戸竿は機能を重んじるから、糸巻きして漆で固めるのは継ぎ手の部分だけ。京竿の目的はあくまでも雅であるからより装飾性をと、糸巻きは竿全体になされて漆で美しく塗り固められる。
平田さんが糸を巻き終わり、ほっと小さな息を吐きながら、ぼそっと呟く。
「数は・・・やっぱ、仇やな・・」「え?」
「仕事の上での数いうたら、ま、金と時間ですわな。これ除いたら仕事にならへん。飯も食えん。けどこの数ちゅうもんが仕事の上で出しゃばると、もう仕事になりまへん。長い根詰める仕事やさかい、早よ仕上げよ、数あげよ。材料かて、良いものが手に入らん。ちと安目やけどこれで手え打とか・・。そやし、数は仇やと、ときどき自分に言い聞かせる」
今、京竿師は平田さん一人のみ。

令和8年4月26日 それぞれのかなしみ 若松英輔
日頃はあまり意識しないが、人はつねに二つの時空を生きている。人生の試練に遭遇するとき、世が「時間」と呼ぶものとはまったく姿を異にする「時」という世界があることを、ある痛みとともに知るのである。
時間は過ぎ行くが「時」は決して過ぎ行かない。時間は社会的なものだが、「時」は、どこまでも個的なもの、そして二つとない固有なものだ。時間で計られる昨日は過ぎ去った日々のことだが「時」の世界においてはあらゆることが今の姿をしてよみがえってくる。
人はしばしば、別れなき生活を望む。しかしそこにあるのは、真の出会いなき人生かもしれない。出会いが、確実にもたらすのは別れである。むしろ、出会いだけが、別れをもたらし得る。出会いとは、別れの始まりの異名なのである。
離別という悲痛の経験は、誰かと出会うことがなければ生まれない。誰かを愛することがなければ、別れと呼ぶべき出来事は、起こらない。別れとは決して消えることのない新しき邂逅の合図なのではないだろうか。

令和8年4月19日 星を投げる話 橋爪大三郎
星を投げる話をしよう。
<朝、海岸を散歩していると、一人の少年が何やら、海に向かって投げている。「何をしているんだい?」「ヒトデを投げているのさ」。見ると、見渡す限り無数のヒトデが打ち上げられている。やがて死んでしまうだろう。「こんなにたくさんいるのに、何の足しにもならないよ」。少年は、ヒトデをもうひとつ拾いあげた。「でも、このヒトデには、大きな違いだと思うよ」。そう言って、そのヒトデを海に向かって投げたのである。>
この話は、いくつものバージョンがある。でも、話の急所は、少年が言う「違い」とは何かということだ。
ヒトデはこんなにたくさんで、全部は助けられない。徒労に思える。でも少年は言う「この」ヒトデは確実に助かるよ。そして、一つずつヒトデを投げ続ける。それならできるから。そして、ささやかな「違い」のために、悪戦苦闘している誰でものように。
「違い」は、自分の生きる意味を理解できる知恵のことだ。
楽陶の会一班12名は4月13日岡谷市旬菜庵もときでお花見会をしました。旬の食材を使い美味しい和食をいただきました。

令和8年4月12日 陶芸
趣味の陶芸は定年になったらやろうとか、休みができたらやろうなんていう根性ではたいしたことはできません。
細々とでもいいからまずは始めなければだめです。
私の陶歴は早や四十年を超え、これから創りたい作品は砂場で遊ぶ子供のように、ただ自由に創作したい。
上手に仕上げようなんて気はサラサラありません。
楽陶の会二班12名は桜の名所水月園でお花見会をしました。
快晴で桜満開の夏日。大勢の花見客が宴会をしていました。

令和8年4月5日 山本嘉次郎 1902-1974
昔は映画を活動写真と言った。映画を作る人はカツドウ屋である。カツドウ屋の先駆者の一人、山本嘉次郎は自らをそう呼ぶことを好んだ。喜劇役者エノケンを世に出した人であり、黒澤明監督の師匠でもある。
山本嘉次郎は喜劇映画の名人とうたわれた。本人も野暮は大嫌い、何事も上品に笑いのめすのを身上とした。
お祝いの言葉は、短い方が良い。短いから縮辞(祝辞)で、長いのは長辞(弔辞)である、といった。

令和8年3月29日 東京弁 立川談四楼
「かみいさん」お年寄りの口ちから時々聞きます。今で言う美容院のことです。あ、それから「パーマ屋さん」て言う人、結構まだいますね。
「お師匠さん」オシショウサンではありません、キリっとオッショサンなんですね。
前座のころ楽屋で怒鳴られた話をしましょう。
「ド真ん中」という言葉を使った時です。いっせいに小言が降ってきたんです。「バカ、それは関西弁だ」「それを言うなら真ん真ん中だ」ビックリし、何もそこまで言うことないんじゃないのと思いましたが、今では感謝しています。そういう年寄りがいてくれたお陰で耳が鍛えられたのですから。

令和8年3月22日 韓国語
「生ハム煮たらハムだ」
「ようチョン切れる鋏(はさみ)だ」
「そっち女性用」
早口で言うと韓国語に聞こえるという。
咲くという大志にさくらさくらかな

令和8年3月15日 印象
「いい人だけどだらしがない」と言うと、聞き手にはだらしない印象が残るそうです。
「だらしないけどいい人だ」と言い換えると、そうか、いい人なんだと受け取るものなんだそうです。お試しを。
白梅や父に未完の日暮れあり 櫂未知子
白梅の咲き始める早春の頃、人生の日暮れを見ることもなく、この世を去った父。

令和8年3月8日 阪田寛夫 「サッちゃん」の作詞者
おかあさん としをとらないで
かみがしろく ならないで
いつでもいまの ままでいて
わらっているかお はなみたい

おかあさん はながさきました
かぜもそっと ふきますね
いつでもいまが このままで
つづいてほしい おかあさん
阪田は娘が結婚する時、自分の葬式の準備をしている。
阪田「青山葬儀場で音楽葬にするか、ほんで、お前と妹は『おとうさま』言うて、俺の柩にすがってよよと泣くねん」
阪田の妄想は際限なく広がっていく。
娘「誰が泣くかいな。だいいち『おとうさま』てどこのどいつや」

令和8年3月1日 阪田寛夫 「サッちゃん」の作詞者
サッちゃんはね サチコって いうんだ ほんとはね
だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッちゃんて よぶんだよ おかしいな サッちゃん
サッちゃんはね バナナが だいすき ほんとだよ
だけど ちっちゃいから バナナをはんぶんしか たべられないの かわいそうね サッちゃん
サッちゃんがね とおくへ いっちゃうって ほんとかな
だけど ちっちゃいから ぼくのこと わすれてしまうだろ さびしいな サッちゃん

大阪阿倍野の南大阪幼稚園に「サッちゃん」の詩碑がある。塀の外側にあるので、誰でも見ることができる。
本人はおそらく照れて小さくなっているいるだろう。

令和8年2月22日 川柳 田辺聖子
お父さんうちにお金がありますか 木下愛
聞かれた親は多いと思うわ。「あるある」って言ったりして。言うだけでも景気ええやないかと思って。
「どこに」と聞かれて「隠してある」
うちにいた貧乏神は飢えて死に

令和8年2月15日 お寺
お寺に行けば、境内をぶらりと歩くだけで、おのずといろいろなものが目にとまる。単なる観光でもいい。
一瞬ではあっても、日々の暮らしの中で忘れ去っていたことを思い出させてくれるひとときが貴重なのだと思う。
山白く 冬菜は青く空深く
口あけて受けて笑って牡丹雪

令和8年2月8日 小山岑一 小山富士夫子息
北大路魯山人について著されたやきものの本は、私が目にしているだけでも五十冊を超えている。それ程ここ四十年、陶芸の世界でインパクトの強い人なのだと思う。
同じ鎌倉なので、先生が時々父を訪ねてみえた。来られるタイミングは十分か十五分前に分かった。酒屋からガンガンに冷えたビールの小瓶が一ケース届くからである。酒屋にきつく時間を言ってある。
ある時、道すがら魚屋に寄り、目にかなった魚を持ってこられ、「俺がさばく、包丁を」と。その手際の良さ。刺身も焼き物もあっという間だった。煮物のタイミングの絶妙さ・・。
先生ほど食いしん坊はいない。今は叶わぬことだが、鶴も食べたし、サンショウウオも食べた。サンショウウオに包丁を入れた時には山椒の香がしたと言っておられた。
第五回 楽陶の会小品展 楽陶の会小品展は下諏訪町図書館で、令和八年二月七日〜二十三日におこなわれます。
会員25名が個性豊かな作品100点を展示します。

令和8年2月1日 小山岑一 小山富士夫子息
濱田庄司先生の葬儀の光景が今も瞼に焼きついている。
濱田邸には、先生が一番よく使っておられた陶房に祭壇が設けられていた。
読経が済み、親しい方々が棺を担ぎ、広い邸内を隅から隅までくまなく二度巡った。棺を見送って私は邸内に残った。
三つの長屋門や陶房を見ながら、もう二度と先生の口から教えていただけないさみしさをかみしめた。

令和8年1月25日 魯山人
魯山人の生き方は、白崎秀雄というドキュメンタリー作家のレポートに詳しい。魯山人の奇行、性癖やねじ曲がった性格に肉薄した優れたルポルタージュだ。白崎は魯山人の生前、非常に嫌悪感を持っていた。しかし、死後、彼の軌跡を辿るうち、いつの間にか惹かれていったと告白している。
思うに、常人が芸術に身を売り渡した時に起こる悲喜劇に白崎は共感したのだと思う。人は自身の欲望の前では脆い。特別に美しい物に対しては、その美が理解できた瞬間、絶対に隷属するしか無くなる。
何という悲劇、美を妄信してゆく果てには地獄の釜しかないのだ。
そんなドグマが魯山人の作品には百パーセント固着している。どんな駄作にも、である。だから人気が衰えない。
24日 二班の新年会 カフェ トコロテラス (寒天工場併設) 12人参加
二班の今年初めての会食。楽しい話題と美味しいところてん料理。売店には珍しいものが。風邪で二人欠席は残念。

令和8年1月18日 浦上玉堂
浦上玉堂は江戸時代後期の文人画家として知られる。しかし、玉堂本人は絵で生計を立てることを拒み、七絃琴を奏でる琴士として後半生を生きた。玉堂は前半生を順風満帆にエリート武士として過した。しかし四十歳からは琴、詩、書画の世界に深く傾倒し、ついに五十歳に至り脱藩。武士の生き方を捨てる挙に出る。
以後は愛用の琴を携えて旅を繰り返し、晩年は人気画家に成長した長男春琴と京都に落ち着き、弾琴と作画の日々を過した。
羨ましいほどに見事な老いの姿だか、玉堂の後半生は、単なる幸運によるものではなく、周到な人生設計がもたらしたものだった。藩の批判を受けた三十歳代からの琴や画の修練、文人・画人たちとの交流は、老いを見越して、後半生を文人として生きるための先行投資だったのだろう。
16日 一班の新年会 下諏訪町居酒屋つくしで13人参加。
美味しいステーキランチとワインでおしゃべり。二次会はハーモ美術館のカフェでまたおしゃべりをしました。

令和8年1月11日 教える
ある意味で、教えることは簡単である。長年蓄積してきた技術や知識を教えることはそう難しことではない。
入会する生徒さんは当然作り方を教えてくれるのを期待している。確かに、教えれば飲み込みは速い。
ところがこれをすると、教える人の影響が色濃く表れる。しかし、それと芸術作品を創る才能とは別ものだ。
教室で生徒さんに作品を作らせると十人いれば十通りの作品が生まれる。
思いっきりのいい豪快な作品を作る人、慎重で繊細な作品を作る人。持って生まれた才能は文字通り千差万別です。
作品は基本的には自分で考え自分で作りだすもの。
先生は生徒さんの才能を自覚する手助けをすることと言えるかもしれない。

令和8年1月4日 福寿草
季節と花は不即不離のものだが、日本では幾種類か特に季節と強い結びつきで考えられる花がある。福寿草はその代表選手と言える。
花よりも名に近づくや福寿草 千代女
新たな年にはだれもが良いことを祈る。才女伝説、美女伝説の主人公はそこを見逃さなかった。
日記にはまだ何も誌(しる)さず福寿草 遠藤梧逸
平易でありながら、新年の人のありようを巧みにとらえている。九十歳をこえてご健在と聞いた。富安風生の弟子。風生も長寿の点では劣らない。
いたはりに狎(な)れて籠りて福寿草 富安風生
人様のいうことを聞きおとなしくしているが、呆けてはいないぞとにらむ稚気が感じられる。
師弟の長寿にあやかろうではないか。

令和8年1月3日 進化
楽陶の会で毎年行っているやきものの旅で見た美術館などの国宝の壺や茶碗は四・五百年前のもの。
六古窯の有名な窯元も見学しましたが、すでに完成された作品です。
スマホを使っている現代に生きる生徒さんには胸に響かない、分からないかもしれない。
私は、今まで展覧会作品や個展で展示するものなど作ってきましたが、今年から過去に作らなかった、自分でも面白いなあ、というものを作っていきます。オブジェ、陶画など、生徒さんの欲する陶芸に対し「どこからでも向かってきなさい」ということの出来る先生でありたいです。もしかしたら何年か後に、あの時私は少し成長したと振り返れるかもしれません。

令和8年1月2日 長谷川純子 49歳 埼玉県
今日は父の17回目の命日・・。
26歳の時、父の大反対を押し切って結婚した。音楽家という職業の彼に嫁ぐ私の苦労を心配しての反対だった。
結婚したその頃、私は朝6時半に家を出て、バスと電車で浦和というところに勤めていた。12月のある寒い日だった。残業があって、駅に着いたのが夜8時近かったと思う。夕食の支度の順序を考えながら急いで階段を降りていくと、そこに寒そうに立っている父の姿があった。結婚を決めてから一度も口をきいていない父だった。びっくりして「何をしているの?」と聞いたら「夕食のおかずを買っていこう」と一言。「好きなものを買いなさい」と、駅近くの総菜屋に寄り、持たせてくれた。荷物を受け取った時ちょっとふれた父の指先はすごく冷たかった。「どうだ、元気か?」「うん、大丈夫」「そうか、風邪ひくな」とそれだけの会話だった。バス停まで父がついてきてくれた。父はそのバス停から家まで一時間近くかかって寒い中歩いて帰っていくのだ。私の帰宅時間など知らない。ずっと駅で待っていたいたのだろう・・いつまで待つつもりだったのだろう・・。バスが動き出したとたん、涙が出てきた。止まらない・・。周りに人がたくさんいるのに、がまんできずに声を出して泣いてしまった。
何時に駅につくのかわからないのだから、やめてくれるように言ったが、その後も何回かそんなことがあった。
嫁いで24年たつ今でも、あの時の父の顔をはっきりと覚えている。そして思い出すたびに胸が熱くなり涙が出てくる。
「お父さん、ありがとう」 とうとうその一言を言えずに、私も駅で待っていてくれた父と同じ年齢になってしまった。
今夜は父の写真に、大好きだった日本酒を供えます。

令和8年1月1日 楽陶の会
定年退職して19年となろうとしています。下諏訪町に「陶芸の灯」をともし続けてきた年月と重なります。
楽陶の会に入会資格も入会届もありません。ましてや、入会金や組織図の類もありません。
陶芸って楽しい!と思った人が勝手に入ってきて陶芸を続けています。

本年、年頭の句は、
生きること ようやく楽し 老いの春