楽陶の会 10に続く

令和6年12月31日
カラマツの森をぬけた先に吹雪が舞っている。
うつくしや 年暮れきりし 夜の空 一茶

令和6年12月29日
子どもに厳しい、金がない、魚が好きで、苦労人とは友が私に付けたもの

たそがれの迫る窓には、頭が白くなった喜寿の自称陶芸家が、ちんまりと湯に浸っていた。
しんしんと降りしきる雪を見つめながら、長いこと黙って湯に浸っていた。

令和6年12月22日 桂歌蔵
今月二日、師匠歌丸が満81歳で亡くなった。
最後の頃は、弟子たちは見舞いを控えるように、そういうお達しがあった。行けば必ずパシリで、下の売店に甘いものを買いに行かされるからだ。食事制限がかかっていた。そのせいかイライラして看護婦に食ってかかり、てこずらせていた。
師匠、弟子じゃないんですから、看護婦さんを困らせないでくださいよ。
最後に見舞いにいったとき、入れ違いに看護婦さんが病室を出て行った。
師匠は俺が来ると酸素マスクをはずし、息もたえだえに、「ハゲだっつうの、あいつ」。そう言った。
なんてことを言うんだ。そんなこと言えるのは笑点メンバーだけだぞ。叱りつけてやる。
俺は廊下に出て看護婦に、「あんた、師匠に向かって、ハゲて言ったでしょ」。
あわてて看護婦は否定したが、俺はかなりとっちめた。意気揚々と病室に戻り、「師匠、言ってやりましたよ、あいつに」。
師匠は哀しそうに首を振る。もう一度口元に耳を当てて、ようく聞いてみたら。
「ハーゲンダッツのアイス」
買ってこい、ということだったんですね。
結局食べさせてあげることができなかった。
山小屋の 庭にまもなくクリスマス

令和6年12月15日 志村史夫
人生は摩訶不思議である。摩訶不思議な人生を、深刻に、理屈で考えるよりも、"好きなこと" を見つけ、その"好きなこと" に満足できるように努力する、というように単純に考える方がよさそうだ。
じつは、本当に好きなものを見出すのは必ずしも簡単なことではないのであるが、人間、本当に好きなものに対しては努力も苦労も惜しまぬものだ。
結局、話は元に戻るのであるが、人生でもっとも大切なことは、
本当に好きなものを持つことだ。
人生、たまには立ち止まって、のんびり、"好きなもの"三つ、を考えてみるのもよさそうだ。
フレッシュな発見があるかも知れない。

令和6年12月8日 ことわざパロディ 森 真紀
落選身につかず (悪銭身につかず) 何回落選しても懲りずに立候補する大地主のじじいのこと。
自信なくなり家事親父 (地震かみなり火事親父) リストラ時代の悲劇である。
金は万票のもと (風は万病のもと) 政治家が好む座右の銘。たぶん世界共通。
死人に愚痴なし (死人に口なし) 人間生きているからあれやこれや愚痴をこぼすのである。
悪妻盆に帰らず (覆水盆に返らず) お盆休みくらいは、女房に実家に帰ってもらいたいものである。朝寝、朝酒、朝湯のあとは、あーしてこーしてと夢は膨らむ。ところが悪妻にかぎって・・。(以下削除)

令和6年12月1日 「しろばんば」行 嶺 隆
伊豆近代文学博物館で、思いがけない扁額があるのに目が止まった。「養之如春」ーー・
昭和五十年代の何時だったか、新聞に「私の座右銘」の原稿をお願いしたことがある。その折、井上靖さんが挙げた言葉が、この「之(これ)を養うや、春の如し」だった。
扁額には「昭和 丙申 喜寿記念 隼雄書」と落款印があった。隼雄は井上靖の父。
博物館を出て、すぐ裏手に移築された井上家旧居母屋に足を伸ばした。玄関の右手に、この地方でいう「あすなろ(槙の木)」が植えてあった。「これがあすなろの木か」感に堪えないような声が背後でした。
井上さんのお墓は、共同墓地の一番手前にあった。南面の墓石に、朝の陽光が燦燦と当たっていた。
ふみ夫人の手になる墓碑銘をノートに取った。
「明治四十年五月六日、陸軍軍医井上隼雄の長男として旭川に生まれ、湯ヶ島に育つ」に始まって経歴が簡潔に続く。途中で「ぷっ」と吹き出した。「柔道六段、お酒大好き」結語の部分は夫人の実感が、それまでの格調をおびた文章とは違って、ややくだけた調子で綴られていたのである。
「心宏く、温かき人。多忙な中にも幸せな一生を終える」と結ばれてあった。

令和6年11月30日 忘年会
忘年会を「 ビストロサザ・マッシュ」 下諏訪町で20名出席で行いました。
一年間無事に、充実した教室が出来たことに感謝です。
美味しいフランス料理と穏やかな生徒さん達。
来年も頑張ります。
私は今年喜寿になりました。皆さんがお祝いをするという。
自分でも今迄生きられたのはめでたいのではないかと思いだした。見まわすと友も死んだものが多い。
そう思うと趣味に生きている私はめでたいと思わなくてはならない。
生徒さんの好意をきまりわるく思いながら、うれしく思うのだ。
貧乏人は今日より明日はよいだろうと思って暮らす。その癖があって、今でも今日より明日がよいと思って暮らしてきた。
しかし、この際居直って明日より今日がよいと暮らしたらどうかと考える。
明日がよいと思って急いでゆくと穴ぼこがあって本当におめでたくなってしまう。
悠々と今日を送るようにこれから心掛けよう。

令和6年11月24日 法律
日本の軽犯罪法は、その名のとおり (ものすごく軽いこと) のオンパレード。
ゴミを道路に捨てるな、とか、他人の田畑に入るな、とか、公園でたんつばを吐くな、立小便、切符を買うのに割り込み禁止などなど。えっ?こんな人も法で一応取り締まっているのね、というのが34個並んでいます。
その中で、なぜか一つだけ妙に浮いているのがあるんです。それは軽犯罪法十九号。
正当な理由がなくて変死体又は死体の現場を変えた者
ちなみに、その一つ後ろの二十号は「しり、もも、など体の一部を露出した者」
他の号の (のどかな)規定と比べて、この変死体移動だけ、とっても犯罪の匂いがプンプンするんですね。
どうして、これだけ他の軽い犯罪に混じっちゃったんだろう。
ちなみに、この軽犯罪法。別の法律に昇格したのが一つだけあります。それは二十一号の「動物虐待」別の法律でもっと重い罪になりました。
もう作られてから、長い年月たっているので(昭和23年制定)そろそろ他も昇格させたいんでしょうけど、(人前で太ももを出す)(女性の方、ミニスカートもうっかりはけません)なんかなので、昇格させにくいんでしょうね。かといって廃止するほどでもないし。
ちなみに罰は千円以上一万円未満の現金没収もしくは拘留です。

令和6年11月17日 若松英輔
日頃はあまり意識しないが、人は常に二つの時空を生きている。だが、日常の生活ではその差を明確に感じることができない。しかし、人生の試練に遭遇するとき、世が 「時間」 と呼ぶものとはまったく姿を異にする「時」という世界があることを、ある痛みとともに知るのである。
時間は過ぎ行くが、「時」は決して過ぎ行かない。時間は社会的なものだが 「時」 は、と゜こまでも個人的なもの、そして二つとない固有なものだ。時間で計られる昨日は過ぎ去った日々のことだが、「時」 の世界においてはあらゆることが今の姿をして甦ってくる。
「かなしみ」は、「悲しみ」 と書くほかに 「哀しみ」 と書く。悲しみという言葉は、悲痛という言葉があるようにときに私たちの胸をつんざくような経験を指す。一方、哀しみは哀憐という表現があるように他者への深い憐みの源泉になる。
昔の人は「悲し」や「哀し」 とだけでなく、「愛し」、「美し」 と書いても「かなし」 と読んだ。私たちが何かをうしなうまで、自分が相手を愛しいと感じているのを自覚できないことがある。別な言い方をすれば、人は、何かとの別れを経験することによって自分がその失われたものを愛していたことを知る。
人はしばしば、別れなき生活を望む。しかしそこにあるのは、真の出会いなき人生かもしれない。
出会いが、確実にもたらすのは別れである。むしろ、真の出会いだけが、別れをもたらし得る。
出会いとは、別れの始まりの異名なのである。
11月16日諏訪市"クラスワ"にて二班の忘年会。14名出席。
突然の喜寿祝いをしていただきました。
食事の後、皆さんに工房へ来ていただき親睦会です。教室とは違う雰囲気でいろいろな話をしました。

令和6年11月10日 学習
「学習」は、良い言葉である。
この一語にめぐり逢うたびに、私はいつも「論語」の冒頭にある「子曰く、
びて時にこれをう、亦た説ばしからずや」、という言葉を思い出す。学問をすることの楽しさや意義は、まさにこのとおりであると思う。
「論語は」そもそも孔子の著作ではなく、その没後三百年以上も経ってから、後世の弟子たちによって編集されたものである。
不幸も幸福も、人間にとってはすべての変事が試練なのだと思う。襲いかかった不幸の有様をどのように記憶するか、また幸福を甘受せずに、それがもたらされた原因と理由とをどのように分析するのか、まことの「学習」とはつまり、そういうことであろうかと思う。

令和6年11月6日 喜寿
あの日から時はながれ、私も年をとりましたが生徒さんも年をとりました。歳月は生き物には残酷ですね。
皆昔日の面影はない。しかし、自然は少しも変わらない。

人生いろいろなことがある。だが笑って過ごすけっこうな人生など、そうはない。
我が身に照らしてみれば、笑っていなけりゃ泣けてくるから、人は笑うのだと思う。
笑いこそが人間をあらゆる苦悩から救い、苦境から立ち上がらせる凛凛たる勇気のみなもとであると、私は信じている。

ひまができ 今日も楽しい 高齢者

令和6年11月3日 瑶台
<若(も)し群玉山頭に見るに非(あら)ずんば   会(かなら)ず瑶台の月の下にて逢わん>
・・・ 一生けんめい頑張って、また会おうな。

令和6年10月27日 チャンス
人生にはチャンスが何度もある。毎日のように訪れる小さなチャンスは、掴むも掴まざるもその効果はたかが知れているが、結果の積み重ねがさらなるチャンスを招来することは確かだ。
そしてやがて、一生に三度しかないと言われているビックチャンスが巡ってくる。

令和6年10月20日 紅葉
雨降るごとに、山小屋の木々の葉も色づいて、しんみり秋のもののあわれ。
いつの頃からか、一斉に綺麗に色を変える葉よりも、アスファルトに枯れ侘びる桜の落ち葉などに心が向くようになった。赤茶に渋紙色、黄朽ち葉に樺色・・。わくら葉めいた穴なども空いて、さまざまな色が混じり合った一枚に、複雑で多様な生や老いがにじんでいる。「ああ、俺など、すさまじくグロテスクな落葉になりそうだ。・・」と、二日酔いの目をしょぼしょぼさせて長いため息をつく。

令和6年10月13日 人生
人生に筋書きはないというが、ときとして絶妙の筋書きが用意されていることがある。いわゆる運命的な出会いだが、それはその時点でわかるはずもなく、ある一定の時間を経過してみてはじめてわかるのである。
人は出会うべくして出会う。人生の偶然は、ある時間がたってみると、その人間の意思や行動と密接な関係がある。

最後の最後までわからないのが人生である。権威と権力をほしいままにしてきた政治家や大企業の会長、社長などが人生の終わり近くになって、まさか牢獄につながれる身になるとは想像していなかったにちがいない。
人生は最後に笑うものこそ笑うというが、最後に笑って死ねる人間はごくまれにしかいない。
人生のツケは、ある意味で平等にやって来る。財を残そうと残すまいと、生きている限りにおいて有効な人生というものがある。つまり最後の最後までわからないのが人生なのだ。
私は笑って死ねるような人間ではないが、ただ、どんな死に方をしようと後悔だけはしまいと思っている。

<この橋を渡るべからず。この橋を渡って帰ってきた者はいない> ロートレアモン

令和6年10月6日 鼠色
このところ、天候が不順である。曇り空を見る機会が多い。
散歩の途中で空一面が雲で覆われて、これがあたかも水墨画を見るような雲で、無限の階調によって彩られていた。
日本には「四十八茶百鼠」という言葉があり、これはつまり茶色は四十八種類、鼠色は百種類もの色あいがあるという意味だ

色見本帳をひもとけば「葡萄鼠」「桜鼠」「利休鼠」とひとつひとつにしっかり名前がついている。
この百鼠は江戸時代に発令された奢侈禁止令に端を発している。江戸庶民は「色を禁止するなんて野暮な話だねぇ」と反発し、そこで生み出されたのが「百鼠」である。使用を許された鼠色に少しずつ色を加えてバリエーションをつくった。「派手な色なんてみっともない。本当に粋なのはモノトーンだ」と逆手にとってみせたのである。

令和6年9月29日 村山由佳2
葬儀には施設の方に頼んで車椅子の母も連れてきていただいた。
長年連れ添った夫の葬式だということがわからない母は、みんなが自分の為に集まってくれたのだと思って上機嫌だった。柩の蓋を閉める間際、車椅子をそばに寄せると、中を覗き込んだ母はのんびりとした口調で言った。
「これ、誰や?え、お父ちゃん?そうか、せっかく寝たはんねやったら、起こしたげるわけにもいかんわな
そのとたん・・こらえ続けていた涙があふれて止まらなくなった。いつのまにかずいぶん小さくなってしまった母に顔を寄せて、私は泣いた。「ほんまやな、お母ちゃん、お父ちゃん、ゆっくり寝かしといたげようなあ」
正直なところ、私は母の良い娘ではなかったし、母もまた、娘にとって良い母とは言えなかった。幼いころから彼女の言葉にどれほど傷つき心を損なわれてきたかを思い返すたび、今でも胸が苦しくなるほどだ。それなのにまさか、最愛の父を見送る段になって、この母の言葉に救われようとは思いもよらなかった。おそらくその瞬間、私と母は、お互いに生まれて初めて素直に心を重ねることができたのだろうと思う。
あのとき実家の庭でほころび始めていた桜はとうに散り、私の暮らす軽井沢の桜も咲いては散って、父がこの世の住人でなくなってから早くもふた月ほどが過ぎようとしている。
不思議なもので、南房総と信州に離れて暮らしていたころよりも、今のほうがずっと、父のことを身近に感じる。
不思議、といえば、母に対する感情も変わった気がする。過去のすべてを水に流せたと言えば嘘になるけれど、彼女のことを以前よりもなんだか可愛らしく思うようになった。

令和6年9月22日 村山由佳1
今年の桜の頃に、父を見送った。正しくは、見送ることができなかった。
母が認知症になり施設に入ってからというもの、自分の身の回りのことすべてを独りでしていた父は、最期の瞬間さえ誰にも見せることなく独りで逝ってしまった。大正生まれのシベリア帰り、九十一年の生涯。最後の最後まで、潔い人だった。
あれもしてあげればよかった。これもしてあげればよかった。あんなことを言うのではなかった。後悔を数えあげれば、どこまでもきりがない。それでも・・・まるで自己弁護のようだけれども、こんなふうにも思うのだ。生きている間にどれだけのことをしていたとしても、やはり後悔というものは残るものなのだろうし、だとしたらせいいっぱい、良い想い出のほうを数えたほうがいい。昔からシニカルな冗談が好きだった父のことだ、泣くよりは笑って思い出してもらいたいだろう。
続く

令和6年9月15日 松井今朝子
乗馬を習い始めたころ聞かされた今も忘れがたい話がある。馬に乗って、ただグルグルと馬場を歩き回っていた時のことだ。
インストラクターは唐突に「ゆっくり走るようになれるのも才能です。だからこの子たちはエリートなんです」
サラブレッドはもともと速く走ることを目的に作られた品種なので、ゆっくり走るのは難しい。故に競馬界を引退したサラブレッドの多くは、訓練を受け直しても一般人の乗用馬にはなれずに、虚しく命を落としてしまうのだという。
ゆっくり走るようになれるのも才能とは、実に言い得て妙で、あらゆる物事に関しての暗喩ともなる。
個人の生き方、組織の運営、さらには社会のあり方にもアナロジーが適用される。
命をつなぐ方法は、何も競争で速く走って勝ち残るのみではないのだ。
そうした価値観の転換は人を生きやすくするかもしれない。

令和6年9月8日 適当
てきとう、という言葉は、相反するふたつの意味を持っている。ひとつは「ほどよいこと」、もうひとつは「いいかげんなこと」。さて、伝えたいのはどちらの意味か。特に後者の場合が難しく、「彼は適当な人だ」と書くと、場合によっては「的確な人」という印象にもなる。
どうしてこういうことになったのかは、「いいかげん」という言葉に秘密がある。この言葉は、基本的に「でたらめ」と同義だが、漢字で書けば「良い加減」、あるいは「好い加減」となり料理の味付けや風呂の温度などが「いい塩梅」であるときに使われる。
「昨日の友は今日の敵」という諺がある。昨日の友は、ときに敵になり、次の日にはまた友となる。
人はその「好い加減」を知っている。だから、その「素晴らしい敵」のことを「素敵」と呼ぶ。

令和6年9月1日 熟女
死ぬのを忘れてるんじゃないかという、熟女が多くなった。もはや浮世の苦労から、一抜けた、になってしまった。
この世の楽しみを味わい尽くさずにおくものか、という熟女世代の凱歌が聞こえてきそうだ。

令和6年8月25日 雪隠
茶室にはトイレがつきものだ。茶事の最中での無作法を予防するために、主客は席入りの前に、その辺りに気配りをしなければならない。そして実際に使用するのは外露地に設置した下腹雪隠である。
雪隠(せっちん)とは禅宗の言葉で、雪隠の文字自体は美しく、雅でさえある。近ごろはお茶の世界以外、あまり使われなくなったが、「ご不浄」だの「便所」だの、はたまたWCなどという直接的な表現に勝ること万々だ。
雪という語には「すすぐ」という義があって、「雪辱」の語はいまもよく使われる。
雪隠を文字どおり「すすぎ、かくす」と取れば、汚物を処理するという意味に通じる。
厠を「かわや」と読むのは、昔のトイレが川の上に架けられた名残だろう。

令和6年8月18日 大人
若者はほっといても若者だが、大人は努力なしでは大人になれない。
日本は、若者文化の社会になり、誰も大人になろうとしない。

令和6年8月16日 佐藤英一
「S先生大変です、また201号室のKさんが暴れています」
Kさんは大手鉄鋼会社の前社長で教養もあり温厚で上品なので、入院以来、看護婦からも評判の患者であった。
素敵な初老の奥様と、銀行に勤める息子さん、可愛らしいお孫さんがいて、病室は優しさが満ち溢れていた。
それなのに肺がんの症状が進み余命を数えられるようになってKさんは家族に当たり散らし、狂気を見せ始めた。
別れは遠からずやって来た。四十九が過ぎたころ奥様がご挨拶にみえた。
「貸金庫に主人の遺書がありました。それは家族にとって優しい思いやりのあるものでした。しかも日付はあの狂気の最中のものでした。やはり主人は私たち家族にとって尊敬できる素晴らしい人だったんですわ。一緒に先生宛の手紙がありました。」
自室に戻って手紙を開いた。
「S先生は会津の白虎隊の末裔とお聞きしました。私は生まれは佐賀で葉隠れ武士を誇りにして生きてきました。しかし、結局、常在死の精神になりきれませんでした。素敵で優しい家内や家族と死に別れるのが辛く。家族に徹底的に嫌われ憎まれてあの世に旅立つために狂気を装ったのです。愚かです、未練です。
『この世去りがたく候』 これが私の最期の言葉です。お心に秘めておいてください」
ベランダに咲く濡れた紫陽花の紫の涙がほろりと落ちた。
梅雨の晴れ間である。

令和6年8月15日 小川洋子
映画「明日への遺言」
B級戦犯として絞首刑の判決を受けた岡田資中将を藤田まことさんが演じた。
岡田中将は裁判で自らの信念を毅然と主張し、過ちは素直に謝罪し、部下から死刑を出すことなくすべての責任を負って絞首台に上がった。
その岡田中将が スガモ・プリズンの浴室で『ふるさと』を歌う場面がある。
その歌声に他の若い戦犯たちが加わり、やがて合唱となり、皆が涙を落とす。
『ふるさと』とはこんなに美しい歌だったのか、ああ、これが日本の歌で本当によかった、と思わせてくれる場面だった。
最期、刑場へ向かう岡田中将を澄んだ月が照らしていた。

♪うさぎおいし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷

如何にいます 父母
恙がなしや 友がき
雨に風に つけても
思ひいづる 故郷

令和6年8月14日 福田有稀 (四十六歳) 佐賀県
♪ カチューシャ可愛や別れのつらさ・・・
小さいころ、父とお風呂に入るのは楽しみだった。父の背中に石鹸をつけ、タオルでゴシゴシとこすっていく。
途中でふうっとため息をつくほど父の背中は大きかった。
一緒に湯船につかるとザァーとお湯がこぼれるのが楽しかったし、タオルで水坊主をつくってもらい、それを押すとプクプクと泡が出てくるのも大好きで、「作って」とせがんだものだった。
父は風呂の中でよく「カチューシャの唄」を歌った。日本語とロシア語で。
父がその歌を覚えたのは、厳寒のシベリアで捕虜時代だったと大人になって知った。
愉快に歌ってくれていると思っていたが、父の脳裏に何が浮かんでいたのであろうか。
いま、年老いた父の背中は小さい。

令和6年8月11日 椎名誠
チベットは本当に今でも鳥葬をやっている。チベットは森林限界をすぎているから余分な材木がない。鳥は死体の骨まで食っていってしまうから「あとくされ」がない。墓もいらないし四十九日も戒名もへったくれもない。
モンゴルも草原の国で木は貴重品だ。だから人は風葬される。
三極エリア(アラスカ、カナダ、ロシア)も森林限界をすぎているから遺体を燃やせない。土の中に埋めようとしても永久凍土だからずっと腐敗しない遺体になってしまい海に流すしかない。インドは川に流す。
日本は土葬がまれで通常遺体は灰になるまで焼かれる。ただその後が面倒だ。いろんな葬送関係者(僧侶を含む)がよってたかっていろんな金儲けの対象にする。

令和6年8月4日 下諏訪美術展授賞式
8月3日 第80回下諏訪美術展授賞式が旅館「ぎん月」で行われました。

老人は 仏の顔して ただあるく


令和6年7月28日 下諏訪美術展
第80回下諏訪美術展が7月28日〜8月1日まで下諏訪総合文化センターでおこなわれます。

第80回下諏訪美術展、楽陶の会では13人が「下諏訪美術展」に入選し、内4人が入賞しました。
下諏訪教育委員会賞 (無)宮坂由紀子
お舟祭り実行委員会賞 (蕾) 武井梢
下諏訪市民新聞社賞 (片隅のクレマチス) 湊美由紀
諏訪ガラスの里賞 (厳冬) 増沢ふみ子
入選 宮坂美奈恵 (陶板) 中沢智寿 (海) 山田尚子(桜の灯台) 東城ゆかり (花) 野中五十鈴(蒼)
萩原正代
(雨の日) 増澤視江 (仔犬のピッチャー) 増沢道夫
(緋色壺)

令和6年7月21日 赤い靴 埼玉県 石田昭子(53歳)
元気だった母さんが寝たきりになり、夜になると畳を踏ませようと両手で母さんの両足を持って、トントンと交互にリハビリしていたとき、私が「赤い靴はいてたおんなの子・・」と歌い、トントン。
すると母さんも一緒に「赤い靴〜」と歌っていた。
繰り返し繰り返し、歌いながらリバビリした日々。
母さんが元気なころ、川越や横浜に遊びに行きましたよね。
私のあとをトコトコついて来た母さん。歩けなくなっても車椅子で散歩に行きましたね。
「桜が咲いているよ、若葉がきれいよ」といっても、目を開けなかった母さん。
母さんが亡くなって九か月が過ぎようとしています。
いまも赤い靴を一緒に歌った母さんを思い、涙があふれます。

「赤い靴」のおんなの子のモデルは、雨情の同僚の妻が静岡で産んだ父なし子。彼女はそのことを雨情に話しました。
宣教師に預けたきみは渡米することなく孤児院で九歳の儚い命を閉じます。
薄倖の少女きみちゃん。各地に建てられた少女の記念像の目には、いったい何が映っているのでしょう。
やっと天国でお母さんの胸に甘えられるね、きみちゃん。
母子の歌声が聞こえてきます。

令和6年7月21日 楽陶の会
しかるべき年齢になれば、晴耕雨読の暮らしをしたいというのが私の夢でした。若い頃からそういう目標がありました。
"早く宮仕えを辞めて田舎に帰って・・・"
というような心境を歌った昔の漢詩を読みながら、晴耕雨読の暮らしに憧れていたのです。
遅まきながら六十歳定年で会社を辞め、やっとそういう生活が送れるようになりました。
が、「楽陶の会」を始めてからは、また違う楽しみに追われるようになり、なかなか晴耕雨読の暮らしができないのがぜいたくな悩みです。

令和6年7月14日 金田一春彦
お手伝いさんが台所でコップを手からすべり落して、コップが割れてしまったとする。
日本人はこのような時「私はコップを割りました」と言う。
アメリカ人やヨーロッパ人は「コップ(グラス)が割れたよ」と言うそうだ。
もし「私がグラスを割った」と言うならばそれは、グラスを壁に叩きつけたか、トンカチか何かで叩いたような場合だそうだ。
「私がコップを割りました」というような言い方をするのは、日本人にはごく普通のいい方であるが、欧米人には思いもよらない言葉遣いかもしれない。
これは日本人の責任感の強さを感じさせる。
自分が不注意だったからコップか割れたので、割れた原因は自分にある。
そういう意味では自分が壁に叩きつけたのと同じある。そう思って「私が割りました」と言うのだ。
そう思うと、この簡潔な言い方のなかに日本人の素晴らしい道義感が感じられるではないか。
誰が言いだしたか、教えたのか分からないが、日本人にそういった気持ちを根付かせてくれた先祖たちに謹んで頭を下げたい。

令和6年7月13日 納涼会
18名が茅野市 "カジュアルダイニング Very"で 納涼会です。
日府展の入選者に石鹸で出来た花束贈呈。美味しい料理で盛り上がりました。
出来立てパンが何回も出てきて食べ過ぎました。

令和5年7月7日 北村汎 元駐英大使
ロンドンでは、毎年十一月頃、エリザベス女王が各国大使夫妻をバッキンガム宮殿に招いて催される夜会があって、私も何度か出席した。最初の年、エディンバラ公が私たちの前で立ち止まられ、居並ぶ大使館夫妻を見渡しながら、
「日本のご婦人方はこのように素晴らしい着物を着ておられるのに、男の連中はどうして我々と同じ、こんな変ちくりんな服装をしておられるのか」と私たちの燕尾服姿を見ながら、多少の皮肉をこめて言われた。私はとっさに答えてしまった。
「殿下、来年の夜会には、私は日本のナショナル・ドレスで参上いたしましょう」
日本のナショナル・ドレスは和服、しかも燕尾服に相当する正装は黒の紋付羽織に仙台平の袴ということになろう。
ちなみに、私は父の遺品である紋付と羽織をいつも海外に持参し袖を通すことを父への供養と心がけてきた。
しかし、今回は何といっても、バッキンガム宮殿である。
しかし、日本の大使が和服を着るのになんら躊躇する必要はないと思い直して、翌年の夜会を迎えた。
白足袋に畳表の草履をはいて、宮殿の長い廊下を渡り階段を上る。王族の方々が回ってこられる。
エリザベス女王に次いで、当のエディンバラ公が現れた。
「やあ、大使、約束を守りましたね。日本の男子の正装はいいものですね」殿下は、一年前に私が申しあげたことを覚えておられた。ご自身もエディンバラ公の名にふさわしく、スコットランドの正装であるキルトを召しておられる。
そのタータン模様のスカートの裾をひらひらさせながら去っていかれた。
エディンバラ公に日本大使の面目を施すことができたのは、やはり、邦楽経験があったからということになる。
芸が身を助けてくれたということかもしれない。

令和5年6月30日 北村汎 元駐英大使
「伴睦殺すに刃物はいらぬ 国のためだと言えばよい、という唄は、あれは君、端唄かね」
もうかれこれ二十五年前のことになるが、三木総理が秘書官の私に突然問いかけられた。その日行われる大野伴睦を偲ぶ十年忌に出席するため、車を走らせている途中であった。総理秘書官になってまもない私はとっさのことに驚いたが、たまたま幸運にもこの質問は、邦楽を多少かじった私には答えられるものだった。
「総理、その唄は七七七五の口調ですから、都々逸ではないかと思います」
会話はそれで終わり、総理はじっと眼をつぶって考えにふけっておられた。
会場につくと総理は、くだんの都々逸を引用した後、長い政界活動をともにした想い出を語りながら先輩政治家への手向けの言葉を捧げられた。そのあと、帰りの車の中で、
「北村君、端唄と言わなくてよかったよ」と、苦笑しながら礼を言われたのである。 続く

令和6年6月27日 『第15回楽陶の会展』
『第15回楽陶の会展』が会期6月27日〜7月1日まで、下諏訪総合文化センターで始まりました。
参加者は22人、穴窯作品・写真建て、お地蔵さん、急須、縄文土器・徳利とぐい飲み・陶灯・盆栽鉢・花器・食器など、
自分の使いたいものを、丈夫で使いやすい、そして飽きのこないものを楽しんで作った個性あふれる逸品です。
山小屋の花を飾りました。
参加者   小松真弓、加藤節子、宮島八重子、宮坂邦子、中澤智寿、宮坂美奈恵、武井梢、山田尚子。
      藤村修二、永田陽一、平林靖久、宮坂由紀子、伊藤とし子、野中五十鈴、、萩原正代。
      東城ゆかり、増澤規江、湊美由紀、漆戸由香、伊藤ちよ子、増沢ふみ子、増沢道夫。

令和6年6月23日 高峰秀子
総理大臣をつとめた佐藤栄作氏の令夫人、寛子さんの第一印象は、軽やか、控えめ、「聡明」の二字がピッタリで、私は一目で彼女に好感を持った。アイスクリームが大好物だった、佐藤氏の訃報のあと、寛子夫人から電話があった。
佐藤氏が亡くなっても、まだ十七人もの人たちが働いていて出銭も多く、家にある諸道具を至急に処分したいというものだった。
残念なことに、これはという物品のほとんどに「佐藤栄作殿」と彫り込まれたりして売り物にはならなかった。
ただ一つ和ダンスほどの木箱に入った国宝級の唐三彩の馬があったが、これは、「いつか、しかるべきときに、しかるべきところへ」ということで、馬は再び木箱の中に入った。
昭和六十三年。私たち夫婦は台北の、唐三彩コレクションで有名な「歴史博物館」を訪ねた。
会場をぐるりとまわった帰りがけ、私の眼に見覚えのある三彩の馬が飛び込んできた。
私の背丈ほどもある見事な馬はガラスケースに納められていて、置かれたカードには「日本国、佐藤栄作贈」とあった。
「奧さん、しかるべきところに納まって、これで一件落着、よかったね」と、私はニンマリした。
「ごきげんいかが?私は息子のお手伝いで、今日も旅の空です。親子二代の選挙のために飛びまわってヘトヘト。全く、妻はツマらんです。栄作の妻」というハガキをもらったのが、寛子夫人とのお別れになった。
一生、爽やかに、闊達に、栄作の妻に徹し切った寛子さん。私の大好きな人だった。

令和5年6月16日 第十四回 楽陶の会美術鑑賞の旅
第14回楽陶の会 益子.笠間やきものの旅 
令和6年6月14日 (金) AM 6:00 〜6月15日 (土)PM 7:00  17名
楽陶の会で一泊旅行は初めてです。

6月14日(金)6:00 下諏訪文化センター駐車場集合 発
和田トンネル→佐久南IC→佐久小諸JCT→横川SA→藤岡JCT→高崎JCT→岩舟JCT→ 栃木都賀JCT→真岡IC→ 益子
10:30〜11:40 浜田庄司記念益子参考館  栃木県芳賀郡益子町
11:50〜12:40 食事 茶力 経ヶ坂 [さりき きょうがさか] 栃木県芳賀郡益子町 ミニ懐石
12:50〜1:30 ギャラリーつかもと 栃木県芳賀郡益子町大字益子 ショッピング
1:40〜2:40 益子陶芸美術館 陶芸メッセ 栃木県芳賀郡益子町
3:00〜3:30 日下田藍染め工房
3:30〜4:30 日下田工房から城内坂焼き物のお店自由散策で益子焼窯元共販センターへ
5:00 宿泊 益子舘里山リゾート  益子町 
6:00 夕食会

6月15日(土)9:00 益子舘里山リゾート 発 
10:00〜10:50 茨城県立陶芸美術館 茨城県笠間市
11:10〜11:50 笠間稲荷神社
12:00〜12:50 食事 日本料理 はらだ 茨城県笠間市 海の幸御膳
1:00〜1:40 春風萬里荘  北大路魯山人茨城県笠間市
2:00〜2:30 道の駅かさま 茨城県笠間市
2:30 友部IC→ 栃木都賀JCT→岩舟JCT→高崎JCT→ 藤岡JCT→佐久小諸JCT→佐久南IC→和田トンネル →下諏訪
6:30 下諏訪文化センター駐車場

6月14日(金)
濱田庄司記念益子参考館
公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館は、陶芸家濱田庄司が長い時間をかけて蒐集した陶磁器、漆器、木工、金工、家具、染織、その他工芸品を展示・公開するために、濱田庄司の自邸の一部を活用する形で1977年4月に開館しました。 濱田の蒐集は、日本国内にとどまらず、中国、朝鮮、台湾、太平洋諸国、中近東、ヨーロッパ、中米などの各地に広がり、時代的にも古代から近現代まで多岐にわたります。その蒐集品は、自分の作品が負けたと感じたときの記念として、購入し蒐集した諸品でもありました。これらは、濱田の眼を楽しませ、刺激し、制作の糧となったもので、身辺に間近くおいて親しんだものでした。濱田庄司記念益子参考館は、濱田がそれらの品々から享受した喜びと思慮を、広く工芸家および一般の愛好者と共にしたい、また自身が制作の際に参考としたものを、一般の人たちにも「参考」としてほしい、との願いをもって設立されました。現在では、それらの蒐集品に加え、濱田庄司自身の作品および、バーナード・リーチや河井寛次郎ら、濱田が交流を持った作家たちの作品も合わせて展示・公開しています。
ボランティア案内人のきくちさんは総勢五人で待っていてくださって、恐縮する。
濱田庄司の生涯・仕事・眼などを聞きながら広い敷地内を見て回る。
京都・英国・沖縄・益子の話、収集品の話、民藝の話と聞かせていただいた。
今は使い捨ての時代ですが、良いものを長く使う昔の方が豊かだった気がする。
バスが出る時までお話をしていただき、お見送りしていただいた。
濱田庄司の顔が描かれたTシャツを買う。


昼食
茶力 経ヶ坂 [さりき きょうがさか] ミニ懐石
山の上の緑の中で景色は最高です。大きな料亭。
美味しい料理とお酒。ビールで乾杯。ゆっくりして濱田庄司の話で盛り上がりました。

ギャラリーつかもと
広いお店に若い作家さんの作品が並んでいる。

益子陶芸美術館 陶芸メッセ
益子陶芸美術館では人間国宝の濱田庄司や島岡達三の作品などを展示するほか、今回は竹細工が展示されていた。
また、敷地内には「濱田庄司邸」を移築し、その前には濱田が生前愛用した登り窯なども復元されています。
学芸員さんの案内で見て回る。
五月の東京展、窯焚き、六月初めの窯出しなどで体調を崩していました。何とか行けるかと考えましたが、朝のバスの中でダウン。
気温
30度で熱中症気味。二時にバスでホテルに送っていただき二時間寝る、妻は薬を買い、汚れた衣服を洗濯。

日下田工房から城内坂焼き物のお店自由散策

宿泊 益子舘里山リゾート
5時ホテル到着。皆、早速温泉に行く。大浴場などお風呂は三つ。露天風呂空の眺める天空の滝はみごと。
6時、里山懐石で宴会始まる。
益子焼のお店で買ってきた景品でビンゴ大会。
その後は各自の部屋で宴会の続き。

6月15日(土)
茨城県立陶芸美術館
茨城県陶芸美術館は、「伝統工芸と新しい造形美術」を テーマとした笠間芸術の森公園内に、 誰もが気軽に立ち寄れる親しみのある県立美術館として、平成12年4月に開館しました。 「ときめく」「識る(しる)」「楽しむ」三つのキーワードをもとに、 陶芸のすばらしさを多くの方に 理解していただくよう運営し、 魅力ある美術館づくりを目指しています。
前回と言っても20数年前ですが、そのときは松井康成 (長野県生まれ) を観ました。
今回も板谷波山・松井康成のコーナーがあり、懐かしい練上手を見学。
魯山人は食器ですね。もちろん織部と志野が良い。

笠間稲荷神社
笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。日本三大稲荷のひとつである当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1360年程の歴史を有する由緒ある神社です。奈良の正倉院を模した高床式平屋建の建物で、昭和56年(1981)3月に開館されました。
大きな稲荷神社で、両側のお店では唐辛子を売っている。七味ではなく九味唐辛子である。
夕方の軽食として稲荷寿司を全員分買う。

日本料理味の店 はらだ 海の幸御膳
ここも諏訪にはない大きな料亭である。奧の座敷は50人くらいの大宴会をしていた。
食事は昨日から四食目だが本当においしく諏訪と比較して安い。諏訪の殿様商売はどうしてだろう。

春風萬里荘
笠間日動美術館の分館である春風萬里荘は、昭和40(1965)年に北鎌倉より移築されました。
この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時中期の民家は、もともとは、現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で大庄屋でもあった伊東家の母屋であったものを、昭和の初めに北大路魯山人が、北鎌倉・山崎の地にひらいた星岡窯の母屋として、もう一軒の慶雲閣と共に移築し、自らの住居としていたものです。北大路魯山人は、明治16(1883)年、京都に生まれ、はじめ書家として世に出た後、篆刻、絵画、陶芸、漆工芸などの多方面にその才能を発揮しています。昭和34(1959)年、76歳で亡くなり、後60余年以上を経た今もさらにその評価は高まっています。
建物の内部は、魯山人が住んでいたままに残されており、「万能の異才」とうたわれ、万事に凝り性であった魯山人の才を偲ばせる箇所が随所に見られます。
学芸員さんの説明を受けながら見学しました。昭和40年「学術の村」として開設されました。
まず、春風万里荘の大きさ、巨大な茅葺の家、玄関の三和土(たたき)の左の部屋は厩を洋間に床は欅の「木レンガ」自然石の暖炉、手斧削りの棚板をゾウの首の棚受け、奧には自作の陶製「アサガオ」(男の便器)があります。風呂場は自作の青竹の陶板、茶室「夢境庵」は魯山人の設計。広大な庭園には多くの草木が生い茂っている。太鼓橋の脇に半夏生があった。魯山人は「美的空間で暮らさなければ、美しいものを生み出せない」と考えていた。

道の駅笠間
大きな道の駅である。新鮮野菜のコーナーに見たことのない巨大なニンニクが売っていた。
バスの中で匂うと困るが小松さんが買ったので私も買う。家で醤油に付け込んだ。
気が付けば初夏の長い日差しもようやく翳って、道路沿いの樹々もトワイライトの陰を見せ始めた。
皆も見学疲れ食べ疲れたらしい。それではまた来年の旅行を楽しみに、バスの中で眠ることにしましょう。


帰りはトイレ休憩を一回にして、到着は30分短縮されて4時間で下諏訪に到着。
今、写真を見ると、私は喜寿の老躯に長旅が影を落としていることは確かである。

令和6年6月9日 におい
においという字は、匂い、臭いと書きますが、匂いはイイにおい、臭いはワルイにおいと区別しているんですね。
物の本によりますと、「匂い」は丹色(にいろ)つまり赤い色のつやつやと光るさまを表し、これが転じて香気を発する意となったそうで、香気ですからイイにおいですね。
「臭」の字の上半分の白は鼻をあらわし、犬の鼻がよく嗅ぎわけることから、下に犬をつけて出来た文字だと知りました。
「臭」は悪臭、異臭などと、イイにおいには使われないようで、犬の嗅ぐのはワルイにおいばかりなんでしょうか、かわいそうに。ともかく、字というものはオモシロイですね。

令和6年5月26日 元気なうちの辞世の句 瀬川なるみ 神奈川県・六十四歳
つけて 傷つけられて 紫苑かな
若い頃は友人や恋人と傷つけあい、結婚してからは夫、家族と傷つけあってきた。人間は傷つけあわずに生きていけないようである。今歳を重ねて紫苑が揺れる野にたたずめば、それらも遠い想い出になりつつある。
紫苑の花言葉は「追憶・君を忘れない」素朴な花。

令和6年5月19日 阿久悠
日本人は「仲良く」が好きである。水や平和や安全と同じように、これもまた只で手に入れるものと考えている。
その思いが過ぎるために、つまり、「仲良く」が絶対だと考えるために、ギクシャクすることが多い。
この世に只のものはない。
水や平和や安全と同じように「仲良く」も、努力して等価交換しなければ手に入らないものなのである。
人と人でも、国と国でも同じである。仲良きことを前提とするから腹が立つ。
半端に好意で解釈するより、仲の悪いことを承知のうえで、お互いが「行儀」を考えることが唯一の道である。
仲悪くったっていいじゃないか、失礼でさえなかったら。

令和6年5月12日
山小屋の楊貴妃桜。暮れた空に薄桃色の桜が映えて、しばらくその場から動けずにいました。
こんなとき、自然の底知れぬ偉大さや、何か逆らえない深い力を感じます。

春には桜を愛で、
夏には緑の香りに遊び、
秋には木々が織りなす紅葉を楽しみ、
冬には静寂の世界を知る。
そんなふうに、季節に敏感な生活をしていきたいものです。

令和6年5月5日 おやじの背中 檀ふみ
よく父が言っていたことなんですけど、「魂というものは真っ白で、それに思い思いの絵をかいていくのが人生なんだ」て。困難を避けて楽な道を歩こうとする子供たちを、父は嘆かわしく思っていたのでしょうね。
物心ついたときから、父は夜中に子供たちをたたき起こして人生訓をたれることがしょっちゅうありました。
「人間は奮闘しなくてはいけない。人の百倍奮闘しなさい。私の目の黒いうちは、応援してあげるけれど、そんなに生きられない。だから奮闘しなさい。」と、いつも同じことを言うので、多感な子供の頭には嫌でも染みつきます。
父は人を愛し、自分を愛していた。時間への愛情も深かった。ご飯を食べながら新聞を読むようなことはせずに、「背中」を真っすぐ伸ばして、一つのことに一生懸命取り組む。いつも潔い人でした。
亡くなってもう二十年ですが、作品を残していますから、父とはいつも対話が出来るんです。

令和6年5月4日 般若心経
日頃、私たちはいろいろな場面で祈ります。宗教だけでなく、日常の至るところで祈ります。
「明日天気になあれ」と晴れを祈り、「早くよくなりますように」と回復を祈ります。
人間同志の言葉には嘘偽りがつきものですが、真実の祈りに嘘偽りを混ぜることはできません。
その祈りの言葉を、インドの古い言葉であるサンスクリット語で「マントラ」といいます。
今日では、「仏の
実の葉」という意味で「真言」と訳されています。
三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経典のなかでも、特に重要だったのが600巻に及ぶ「大般若経」でした。
名前の通り、般若波羅蜜多の大切さを説いた経典で、その前にあったおびただしい量の般若経典群をまとめたものです。
般若心経は、大般若経には含まれていませんが、その多くの部分が大般若から抜粋されているのです。
日本仏教の全宗派に共通するお経は存在しませんが、一応、すべての僧侶が知っているお経といえば般若心経しかないでしょう。般若心経は名前の通り「般若心を説いたお経」です。では般若心とは何でしょうか。般若は般若波羅蜜多の略です。これは、原典のサンスクリット語の「プラジュニヤー・パーラミター」の音写語です。中国語ですから漢字ですが、音写語は漢字の意味に関係なく、音だけが重要です。般若、すなわち、プラジュニヤーは「知恵」つまり仏の知恵・根本的な知恵を意味します。パーラミターは「完成」という意味です。ですから、知恵の完成という意味になります。

令和6年5月3日 池大雅 細川護熙
池大雅が書を学び始めたのは七歳のことだったが、いかにもいい字を書く。そこである人が黄檗山万福寺に連れて行って、筆をとらせてみたところ、僧たちからも絶賛を博し「七歳神童」と謳われた。彼の書の才能は幼少時から際立っていて、画よりもまず書で注目されたことが分かる。
世に神童と讃えられる人は少なしとしないが、大成するケースはむしろ稀だ。大雅が大成しえたのは、人間性を日々磨くことによって、終生驕り昂ぶることがことのなかったことが与っておおいに力あったものと思う。
安永五年(1776)病を得た大雅は薬石を辞して逝ったという。時に五十四歳。
医療整って長寿を図るのは、それはそれでめでたいことだが、大雅の従容たる死も見事といわねばならない。残された数々の逸話が物語る俗を脱した大雅の生き方は、しばしばユーモラスで人の笑いを誘う。
しかし、その脱俗の裏には、死生観を含む確固とした哲学があったに違いない。
そんなことを思いながら、わたしは大雅が幼少から出入りして禅に触れ、僧俗のさまざまの人と交わって教養を身につける契機を得た万福寺の静かな夕暮れどきの回廊を歩いていた。

令和6年4月28日 添田唖蝉坊
添田唖蝉坊は、明治・大正・昭和と三代にわたり活躍した、演歌一筋の、シンガーソングライターでした。
「東雲節」 (ストライキ節)

~なにをくよくよ川端柳
こがるるなんとしょ
水の流れを見て暮らす
東雲の
ストライキ
さりとはつらいネ
~てなことおっしゃいましたかネ

水の流れを見て暮らすような、儚い運命。東雲(しののめ)とは、夜が明けようとして、東の空が明るくなってきたころのこと。

令和6年4月21日 お花見会
二班のお花見会 (12名) を、水月公園でしました。
満開の桜の下にシートを敷いて乾杯です。とても美味しい桜弁当を食べました。
風が吹くと花びらが大量に散って桜吹雪です。こんな桜吹雪のなかにいることは初めてです。
料理のなかにも花びらが入ってきます。
 
人恋し 灯ともしごろ さくらちる

令和6年4月14日
親の死は、本当に死を身近に感じさせるものだと知りました。
いかに多くの親戚知人の死を見てきても、それはやはり対岸の火事。
親が亡くなると、「いつか自分も死ぬのだなあ」ということを、しみじみ実感するのです。

令和6年4月8日 お花見会
小鳥が少なくなりました。鳥の姿を見るのも、さえずりを聞くのも好きなので、自然、鳥には注意を払う。
カラスや鳩の姿はずいぶん見るが、小鳥は減少している。
杉は鳥の餌にならない。小鳥の減少は杉の植えすぎも関係しているようだ。
また、杉は枝打ちをよくしないと、森が暗くなって小動物が居つかなくなってしまう。
桜も同様で、ソメイヨシノばかりが増えすぎた。ソメイヨシノの花は蜜を出さない。
葉を食べる茶毒蛾のようなものがたくさんつく。ソメイヨシノはあまりに人工的な桜で、自分で子供を作ることができない・・。
「人間は自然がくれる力を無視しすぎているのかもしれない」

一班のお花見会(10名)を、諏訪市[くらすわ」でしました。
料理はとてもおいしい。
ソメイヨシノは蕾ですが、彼岸桜としだれ桜は満開です。

令和6年3月31日 富安風生
 想うこと春夕焼より美しく
夕焼は一年中見られますが、季節によって趣を変えます。
春の夕焼は、淡く美しくはかなく、ほんのりとした明るさに、明日への希望を感じます。
春夕焼を前に、もの想いしている作者。過ぎし日のこと、未来のこと…。
胸に去来するものは、春夕焼より美しいと言い切っています。
現実は美しいことばかりではありませんが、せめて心に浮かべるものは、常に美しいものでありたいと思います。

令和6年3月24日 隠居
平均寿命がいまよりずっと短かった江戸時代、隠居の年齢というのは、こんにちの定年退職の年齢よりずっと若かった。
商家の旦那は四十代半ばまでには仕事を軌道に乗せて息子に家督を譲り、あとは風雅な趣味に明け暮れることを理想とした。
浮世の生業にあきあきし、芸術に打ち込みたい人士はもっと早く隠居を決め込んだ。
松尾芭蕉が神田川の水道工事の仕事から身を引き、深川に隠棲したのは齢三十六のみぎりである。

令和6年3月10日 蒲田行進曲
JR蒲田駅のプラットホームでは、電車が発車するときに『蒲田行進曲』のメロディーが流れる。この歌は昭和四年(1929)に公開された松竹映画「親父とその子」(監督・五所平之助)の主題曲で、のちに蒲田撮影所の所歌となった。堀内敬三・詞

虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる キネマの天地

令和6年3月3日 あかりをつけましょ ぼんぼりに 京都府 天野 健 (七十七歳)
「うれしいひな祭り」サトウハチロー作詞
あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り
久々に妹にあったのは、瀬戸内の海の見える民宿の二階でした。
男運の悪い妹は、再婚の夫とも死別して、苦労に苦労を重ね、疲労で目を患い失明していました。
妹が「兄さん、京都の家で雛祭りにお友達とみんなで歌を歌って楽しんだ日のことを、今でもはっきり覚えているわ」という。
私は低い声で、「あかりをつけましょぼんぼりに・・・ 」と歌いだしました。
すると妹は目頭を押さえて涙を流していました。幼い日の思い出が浮かんでくるのでしょう。
その姿に私も同じようにもらい泣きしました。今でもその情景は忘れません。
この歌を歌うたびに、雛人形のごとく美しい妹の面影を思い浮かべ、いまは亡き可哀想なはかなき悲しき一生の思い出とし、いつまでもいつまでも私の胸に残っています。

令和6年2月25日 柳家左楽
五代目柳亭左楽の葬儀は盛大だった。東京中の頭連中が駆けつけて棺を担ぎ、文京区根津から上野の寄席「鈴本」まで木槍を歌いながら行列した。
その通夜で、弟子の柳亭痴楽は若手の噺家たちを集めて『エロ勅語』をあげた。
「チン思うに我が皇祖皇祖、クジリ始めること興奮に、我が****よく**、欲情心を一にして夜々その技をなせるは、これ我が肉体の性欲・・・」

令和6年2月18日 落語葬
五代目柳家つばめは、こんな落語のマクラで客を笑わせた。
「五代目柳亭左楽が亡くなった。これはひとつ、大きなお葬式を出さなきゃいけない。国葬にしようじゃないか、ということに決まりまして、さっそく政府のほうにへ通達を出してやりました。ところが政府のほうから申告が来まして、『そういう偉い方を、われわれのような汚れた手で、お葬式を出しては申し訳ないですから、ご遠慮させてください』なんて嘆願してきました。そこで噺家が寄合を開いて、これはもっともなことだ、その通りだと認め、改めて落語葬ということに決めましたんでぇ・・」

令和6年2月4日 楽陶の会小品展
楽陶の会小品展が、2月3日から16日まで下諏訪町立図書館でおこなわれます。
見事な調和を見せている小品は、楽しい気分のあふれたもので心休まる思いがします。。

令和6年1月21日 黛まどか
北風に 負けないように 眉を引く 藤原紅
少し濃いめに、眉頭を高く、くっきりと眉を引く女性です。鏡の中の表情には、何か決意のような覚悟のようなものが見え隠れします。北風を真っ正面から受けながら、背筋を伸ばし毅然として寒気の中へ歩み出す作者。
そんな自分自身への"今日のエール"が少し濃いめの眉なのです。
あなたの自分自身への"今日のエール"は何ですか ?
15日に中華料理湖苑で一班11名が出席して新年会が行われました。
諏訪湖を見下ろし、遠く雪の八ヶ岳が見える部屋で、いつまでも話しました。
能登の地震で避難所にいる方々のご苦労に話題集中でした。

令和6年1月14日 散歩
旧甲州街道と鎌倉街道を歩きました。柿陰山房(しいんさんぼう)はアララギ派の歌人であった島木赤彦の住まい跡。柿陰山房は古くからこの地には柿の木が多く、歌を発表するとき、赤彦自ら「柿の村人」と号したこととからといわれています。大正十五年逝去。見事な赤松は樹齢三百年。赤彦のお墓は高木津島神社 (須佐之男命が神) から細い山道を登る。
橋本政屋は旧甲州街道添いにある茶屋跡で、諏訪湖を一望できる江戸時代のおもかげそのままの建物です。
新年会
13日に割烹スタンジで二班12名出席して新年会が行われました。
今年入会した人も出席し、初顔合わせの人もいます。
出会いはこれからも果てしなく続きます。
これからどんな人と巡り合うだろう。多くの未知の人達に会いたい。
人と人 一期一会か ほうき星

令和6年1月7日
もう私、喜怒哀楽の怒だけは避けるように暮らしております。
世の中、腹の立つことはいっぱいありますが、腹を立てるのはいちばん身体によくない。
我が身大切を優先させて極力ニコニコしております。

令和6年1月4日 正月にふさわしく「凧の話」
凧の形状には扇、半纏、鳶、蝉、あんどん、奴、三番叟、鳥などの種類がある。
絵柄には、だるま、月浪、童子格子、日の出に鶴、雲竜、玉とり龍、鯉の滝のぼり、山うばに金太郎、三国志や水滸伝。
文字は、鷲、獅子、虎、龍、嵐、魚、鶴ときまっている。
糸目のつけ方には種々あり、喧嘩に最適の、左右へかしぐようにつける「両かしぎ」。たぐると凧が下を向いてくる「下糸目」。ぐんぐん降りてくる「上糸目」。また糸目以外に乳のように左右へ別に二本張るのを「乳糸目」。上下二本の糸目のみの「二本糸目」「三本糸目」もある。
骨は細い紙を巻いたものを巻骨、別名「障子骨」。普通の骨組み(x型)を六本骨七本骨と称する。上等の凧には紙の周囲に糸が入っている。糸は「いはない」または「きんかん」というのが最も良い。(どういう糸か説明はない)。
附属物の「うなり」は鯨を最上とし次が藤。音が違う。凧よりも長いうなりを付けると、江戸ではオイランといって田舎式と侮蔑した。尾をつけないで揚げるのを坊主凧といった。二月の初午過ぎて遊んでいる子供がいると「三月の下り凧」と笑われた。

令和6年1月3日 老いらくの花
楽陶の会は17年目となります。
イイトシをしてまだ皆さんのお役に立っていると思うと「有り難いことだ」とつぶやいています。
老いの花を咲かせてもらっております。
が、実は、老いらくの花も咲いてよし咲かぬもよし、正直、もうどうでもよしの、風まかせであります。
ホント

令和6年1月2日 陶友
陶芸で結ばれる縁を "陶友"と呼びたいと思います
陶芸に出会ったことで、ありふれていた日常の中にさまざまな感動を発見し、襞の深い人生を歩きだされているのを目の当たりにしています。陶器を作るということは、そこに自分の命が存在したという記録を残すことにほかなりません。
できれば教室で、"これなら私にもできそう" と生徒さんが思えるような作り方を指導出来るよう心がけていきます。

雲海に 身を沈め龍の 長い旅

令和6年1月1日 萬歳
萬歳は 雑煮なかばの 春の興 (古川柳)
〜おめでとうさまと祝いこみまつる ヤレ御萬歳とお家も栄えて・・・

ふたりとなりし 元旦の ワイン酌む