令和7年5月6日 連城三紀彦
去年の夏、寝たきりの母に病院で一晩付き添った。見知らぬ病院の隅っこで、枯れ枝のような母の腕をつかんで一晩を明かすというのは相当に心細い。おまけに、隣のベッドには植物化したような中年女性がいる。この数年、老母の介護に追われ、自分の人生も息絶えはじめたのでは・・・などと考えていると、夜勤の看護師がそっと入ってきて、隣の患者の世話を始めた。
「きょうは顔色いいですねえ。美肌だから本当にきれい。あ、タオル、熱くなかったですか。××さんは笑った方が美人だからもっと笑ってください」 と深夜の静寂に気がねした小声で語りかけ続ける。
相手には聞こえない。でも耳には届かなくとも心には届くかもしれない。そう思わせるほどの澄んだ光のような声で、今や死語となった『白衣の天使』 という言葉を思い出した。
それから、一年が経ち、介護の疲労でいっそう暗くなった体に、その声は響き残っている。介護というのは本当に重労働だ。ついいら立って声を荒げることもある。そのときあの声を思い出してあわてて口を閉じる。ただそんな風に天使を真似るようになって、先日、ふっと気が゜ついた。
あれは患者というより、自分を励ます声だったのかもしれない・・・深夜、たった一人で病人の世話をするのは、新人看護師には大変な苦労だろう。つい負けそうになる自分を、患者に語りかける「笑って」 という声で励ましていただけなのだ。
一年が過ぎ、そう感じ取って、天使になれそうもない僕は逆にホッとした。

令和7年5月5日 酒井田柿右衛門
もの作りは四六時中なにかに困っているんですよ。なにかいい色はないかとかですね。
草花にしても、なにかちょっとしたたヒントというか、そういうものをいつも探しているんです。

ものを頼むときに忙しい人に頼めといいますが、忙しければ忙しい人ほど、さっさと片付けてくれる。
そういえば、仕事のできる人に仕事が集まるって言います

令和7年5月4日 続 小沢昭一
嬉しかったことは、「小鳥来る小鳥となりて口笛を」 の私の句への岡本主宰のお言葉でした。
「無邪気で、小鳥と仲間入りするように、にごりのない心がよろしい」
無邪気どころか邪鬼満々の私としては首をすくめたのでありますが、作る時間のないまま、無邪気にならざるを得ず、普段やっていることそのままの即製句だったのです。しかしナルホドなとも、ひそかに思いました。
ああだこうだとヒネルより、無邪気がいちばんなんですかな。
そういえば先日、さる誌上の対談で、鷹羽狩行先生が紹介されていた、どこかの子供さんの句で、
天国はもう秋ですかお父さん
私、この句にナキました。子供俳句は無邪気です。
年をとると呆けてきて、だんだん子供にかえるといいますが、わたし、呆けはだいぶ進んでおりますものの、これからは俳句も無邪気に。今回は、一つ指針をいただきましたなぁ。でも、にがてな素直になれるかなぁ。

令和7年5月3日 小沢昭一
岡本眸句集はいささか拝読しておりまして、ご夫君を亡くされた前後の句など、とりわけ絶唱で、
喪主という妻の終の座秋袷
冬めく駅他人の夫の肩ばかり
四囲枯れて倚るも支ふもおのれのみ
命とは神意とは冬紅葉かな
などなど、まだまだ手を合わせたくなるような句が並ぶのですが、
落ち葉なほおのれの幹の辺りを去らず
今日生きて明日は明日紅生姜
というような句も好きです。 続く

令和7年4月27日 椿
黒澤明が「椿三十郎」で、水に流す椿の色を隣家への討ち入りの合図にし、花だけに色をつけようとしたが、費用の点で諦めたのは有名な話である。その無念さを晴らすように、映画では大量の椿を水に投げ込んでいる。
落椿が水に流れるのは、思うだに美しい様だから、当然、落ちる光景に秀句が多い。
愛すとき水面を椿寝て流る
視点や位置関係がどうも妄想をそそるが、それはそれで良いではないか。

令和7年4月20日 中村伸郎
中村伸郎は 「おれのことなら放っといて」 で昭和六十一年、第三十四回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したが、その中にこんな一節がある。
<諸行無常と思えばこそ、うたかたの短い一生、私はやりたいことをやって、除夜の鐘おれのことなら放っといて、などとうそぶいてはきたが七十五歳の今日悔いはないようである。女房も呆れて、私が一文にもならない芝居で、過労になったり、酒や煙草が過ぎたりしても、知らん顔している>
一班のお花見会を富士見町カフェバー&グリルぞうさんでしました。
参加者9名、美味しい料理と、おしゃべり。パンとケーキは食べ放題です。

令和7年4月13日 靴が鳴る 愛媛県 佐々木真理 (三十歳)
私は小さいころよく父と手をつないだ。温かく大きい手、人差し指一本を手の平いっぱいで握りしめ、"せーの"で「お手(てて)つないで」と歌いはじめる。迎えに来てもらっていたのか、思い出すのはだんだん暗くなる景色だった。影を見ながら、振り回すくらい大きく手を振り、終わりになるほど叫ぶように歌う。
「お父さん、小鳥になったら靴は履けんよ」「靴ってどうやったら鳴るん」と幼い疑問を父に問う。いったい何と答えてくれていたのだろう。
大好きな父が病気のため歩きにくくなると、恥ずかしさから遠ざけてしまった小学生の私。父の両手をとり、歩かせた高校生の私。
そして、ベッドの上の白く冷たくなった父の手。今度は子供と愛を込めて手をつなぎ、歌いたい。

お手つないで 野道を行けば
みんなかわい 小鳥になって
唄をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る
二班のお花見会を茅野市北山の古民家カフェギャラリー指北庵でしました。
参加者14名、美味しい料理と、おしゃべり。古民家の見学、二階はギャラリーです。

令和7年4月6日 旅愁 東京都 宮下さつき (37歳)
母が、私と妹によそ行きの服を着せて連れて行ってくれた場所も、いまは定かに覚えていないが、この歌を口ずさむたびに、不思議なくらい、私は思い出す情景がある。
それは山中の小さな店で、当時私たちには珍しかったチョコレートを母が買ってくれたことである。チョコレートは一粒づつキラキラ光る金色の紙に大切そうにくるまれていた。思い切って口に入れると、私はもう幸福な気持ちで一杯になっていた。
再び山道を歩きはじめると、母はか細くて頼りなげだが、その優しい声で、「更けゆく秋の夜 旅の空の〜」 と歌いはじめた。
チョコレートの甘さも、光る山も川も、えんえんとつづく細い砂利道も、母の歌の中に見事に溶け込んで、三十年近く過ぎたいまでも私の心の中で輝いている。

令和7年3月30日 旅愁
作詞 犬童球渓 作曲 オードウェイ
更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかしき父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路

「旅愁」 の作詞者・犬童球渓(いんどうきゅうけい)は熊本師範学校時代に音楽の才豊かにあらわし、「吾校のベートーベン」とあだ名された。のちに、兄の援助で東京音楽学校 (現・東京藝術大学)に進学しましたが、その兄は間もなく亡くなり苦学のすえ卒業します。しかし、その経験が作詞活動で大きく実を結ぶのです。兄の死で働き手を失った家族を思い、葬儀後再び上京する際に、泣きむせぶ犬童を叱咤激励してくれたのは祖父でした。家族の固い絆が、夢に向かう犬童の背を押してくれたのです。後ろ髪を引かれながら故郷をあとにした辛い思いが、人の心の奥深くに響く詩を生み、その切ない心を詩(うた)った詩ゆえに人に、"望郷の詩人音楽家"と呼ばれました。

令和7年3月23日 仏様
三歳の子供に「坊や、大きくなったら何になる?」って聞いたんです。そうしたら、「工事のおじさんになる」て答えたんです。
そうしたら子供が、「おじいちゃんは大きくなったら何になるの?」と聞いたんです。
私は頭をかきながら、「いやあ、弱ったなあ。もう仏様にしかならないかもしれないなあ」と言ったんです。
ホントは、悟りを開きたいと言えばよかったんだけど、そんなこと子供に言ってもわからないしね。
雨優しあといくたびの弥生かな

令和7年3月16日 戸板康二
大分前、今日出海につれられて、銀座の「マントゥール」というバーにゆくと、マッチに口をあけた男の顔があり、舌が二枚描いてあった。
マントゥールというのは、うそつきというフランス語なのだ。
今が何かのついでに、「この店の客筋はどういう人だね」と訊くと、ホステスが、
「政治家が多いんですよ」

令和7年3月9日 戸板康二
三遊亭圓生の妻女の写真を見たら、スラッとした痩せぎすの、小いきな老女であった。何ともいえない、古風なポーズで、座っている。
芥川比呂志がこの妻女を評して、こういったそうだ。
「下町のモジリアニ」
若風に身をよじらせて糸柳

令和7年3月2日 そば屋
日本女子大で西脇順三郎に教わっていた女子学生が、いつも出前をしてくれる店が休みだが、ほかにそば屋はないかと尋ねられ、教授を別の店に案内した。店は混んでおり、おかみさんが背中に子供を背負い、盆も使わずに運んできた。
その学生は、へんな店におつれたと後悔したが、店でも帰り道でも、教授は一言もいわない。
神奈川短大の佐久間直子助教授がその時の学生であるが、西脇の没後、弔問にゆくと、大学の後輩の一人が、先生が授業中に突然、学校のそばにいいそば屋があると言った。どこですかと尋ねると、佐久間がたった一度案内した店を挙げたので、おどろいて「えッ」と一同顔を見合わせると、西脇がこういったというのだ。
「あのそば屋には、人生の哀しみがあります」
私は前々から楽陶の会の人は 「みんないい人」 という表現をこのページに用いたいと考えていた。これは実感である。

令和7年2月23日 中村稔
銅版画の駒井哲郎が肺に転移した癌のため死んでからまもなく満十五年になる。
最近駒井夫人から聞いたことだが、駒井は臨終の三日ほど前見舞客から届いた赤いバラを片付けてほしい、と頼んだそうである。
僕にはもうバラを見られるほど体力がない、と呟いたという。
花を見るにも体力がいるのかと驚き、それほどまでに衰弱した駒井を偲んですこし涙ぐむ思いであった。
だが、しばらくして花を見るにも体力、気力がいるらしいと考え直した。
一輪挿しのようなものならともかく、身のまわりにいつも鑑賞用の花があることは、住む人にとっては時に息苦しく、神経の苛立つことではなかろうか。ランやバラなど、美しさは千変万化、神秘的といってよいが、そんな美と四六時中向かい合っているのはかえって負担だと思うのは、欧米の人々と私たちの体力、気力の差だろうか。
駒井哲郎にかぎらず、病人に花を届けるには、よほど花を選ぶ必要がありそうである。

令和7年2月16日 作者不明
去る者は日に以て疎く
生きる者は日に以て親し
人間、生きているうちにずいぶんたくさんの人に出逢い、そして別れるものです。
別れた人とは日がたつにつれて疎遠になるのは、しかたのないこと。つぎつぎにまた新しい出逢いがあり、人間の頭脳(あたま)は、生まれてからのすべてを鮮明に記憶しておくようにはできていないのですから。
「去る者は日に疎し」とは中国の古い詩から出た言葉です。唐詩などよりはずっと古い、紀元一、二世紀の漢代のころといわれています。

梅香馥郁(ふくいく)風動くなよ動くなよ
老梅のまさか咲くまじ咲きにけり

令和7年2月9日 宗教
宗教に興味はないが、宗教を彩る芸術を心から尊敬している。人間であるかぎり誰しもまぬがれざる苦悩、行きつく果ての死。
そうした救いがたいものを現世にせよ来世にせよ救わんとする精神の具体は、どれもみな美しい。
美しい阿弥陀は饒舌である。人間が苦悩をうちあけたり、何かを願ったりするよりさきに、はっきりとものを言う。
どうした。立て。歩め。おのれの力で進めーー。
真に美しいものは、一瞬にして見る者に力を与える。あるいは眠れる力を喚起させる。
感動とはそういうものにちがいない。
第四回楽陶の会小品展が下諏訪図書館ではじまりました。
会員二十四人が楽しい小物を4〜5点出品しています。

令和7年2月2日 法律
国の代表がワイロをもらって、他国と条約を結んだら、無効にしてよい。(ウィーン条約 1981年日本も加盟)
ちなみに、この条約にはワイロだけでなく、無理矢理サインさせられた条約は無効。
条約を抜けたければ、やめればいい。など、まさに会社なみ。

刑法第116条「失火罪」失火によって公共に危険を及ぼしたものは、50万円以下の罰金。
消火にかかった費用は日本では、取られません。ちなみに、放火の場合は、当然ですが、ものすごく罪は重いです。
人が住んでいる家に放火したら、それだけで死刑・無期・懲役五年以上。
みなさんも火遊びには注意してください。
やっていいのは、男と女の火遊びだけ・・・・?
(やりたいよ〜)
27日 一班の新年会 ぱおず屋陽太(ひなた) 包子の名の通り中華 9人参加
美味しい中華料理を食べ、おしゃべり。二次会はガラスの里のレストランでまたおしゃべりをしました。

令和7年1月26日
花も月もいいが、私の最も好きなものは、雪である。
音もなくすべてを埋めつくし、夢のように消えてしまう。
楽陶の会は会って騒ぐだけでも楽しいのです。
それで年に五・六回は食事会をします。多少は老人と若い人達の "生涯学習" にはなっておりますが。
「勝ちから学ぶものなし。負けて学ぶものが大きい」 なんて発言に、皆励まされています。
25日 二班の新年会 旬菜庵 もとき(和食)14人参加
今年初めての会食。楽しい話題と美味しい料理。インフルで二人欠席は残念。

令和7年1月19日 藤原正彦
私はよい点をほめて励ますことが親や教師の仕事と信ずるので、大学でも学生達を励まし、自信と楽観を持たせようとした。
米英の大学にいた時も、同じように学生に接した。
ケンブリッジ大学でのディナーで、同僚の教授が博士を取ったばかりの弟子を私に紹介した。
私は彼に、「君がこれから数学者として歩む上で一番大切なのは何といっても楽観だ。野心的な仕事に取り組むにも、挫折から這い上がるにもこれが必要だ。忘れずに頑張りたまえ」 と励ました。
彼は聡明そうな大きな目を光らせて、「とても意義深いアドバイスをありがとうございます」 と鄭重に礼を言った。
ところがこの十年後、彼は何と数学界最高のフィールズ賞をとったのである。
私は受賞のニュースを目にするや、激しい羞恥心で消え入りそうになった。
私のごときヘッポコが、偉そうに大天才を励ましていたのだ。人を励まして後悔したのはこれだけである。

令和7年1月12日 電気器具
時は流れ、人は年を取り、万物は流転する。物は古くなり、やがて壊れ、販売店に問い合わせると、切々と諸行無常を説いてくれる。
曰く、
「部品はもう製造中止になっちゃっているんですよねー」

令和7年1月5日 五木寛之
敗戦が知らされた夏、私は平壌一中の一年生だった。
私は或る日の夕方、宿舎に帰っていくソ連兵たちの隊列と出会った。連中は自動小銃をだらしなく肩にかけ歩いてゆく。どう見ても物乞いの集団としか思えない一団である。突然、幾人かが低い調子で歌をうたいだした。たちまち全員がそれに和して歌声が大きくなった。なんという歌声だっただろう。胸の底から響くような低音。金管楽器のような澄んだ声。声を通りこして心に響いてくる何か奥深いもの。隊列はたそがれの街を少しずつ遠ざかってゆく。地面にひざまずいて祈りたいと感じた。そして同時に、こんなことがあっていいのか!俺は絶対に許さないぞ、と心の中で繰り返した。
毎晩女たちを連れ去りに来る強姦者たちが、こんな美しい歌をうたうことができるのなら、おれは絶対に歌なんて許さないぞ、と。あの日、少年の私が感じたことは、ケダモノがどうしてあんな美しい歌をうたえるんだ、と打ちのめされただけの話だろうと思う。
のちに私が大学のロシア文学科を受験したいと言ったとき、父はひとこと、
「ソ連はかあさんの敵(かたき)だぞ」と、短く言った。
めでたくもまたこの顔ぶれの 初陶芸
また少し 老けて揃いぬ 初陶会

令和7年1月4日 近藤健3
女将は奥の部屋からアルバムや貝の標本などを次々と持って来て見せてくれた。
この地は、十一月から三月にかけて、"貝寄せの風"が吹き、歌仙貝が打ち寄せる。さくら、なでしこ、いたや、わすれ、にしきといった抒情的な名と、桃、橙、紫、黄の目の覚めるような色彩にすっかり魅了されながら、時間の経つのを忘れていた。
翌朝、浜辺を歩いた。そこは小貝が敷き詰められた海岸であった。小指の爪ほどの貝は大きい方で、ほとんどその半分にも満たない、それでいて完全な貝の形をしていた。出発の時間はまたたく間にやってきた。貝殻のお土産と一包みの握り飯を渡された。私は下げた頭を上げることができなかった。浜辺から戻る途中、立ち寄った小さな本屋で一冊だけあった作家の文庫を求めた。何か記念に書いてほしいと頼むと、女将は流麗な字で、福永氏からもらったという歌をしたためてくれた。
夜もすがら春のしるべの風吹けど
増穂の小貝くだけずにあれ

バス停まで送るという申し出を振り切るように断り、私は宿を後にした。
握り飯の温もりを手に感じながら、ふり返るといつまでも手を振る女将の姿があった。
この歌が、恋歌だと気づいたのは、ずっと後になってからのことである。

令和7年1月3日 近藤健2
落ち着き場所を得た安堵感から、忘れていた空腹を覚えた。小さな食堂で親子丼をかき込んで旅館へと急いだ。
こじんまりとした宿は、年に一度のかきいれどきを迎えていた。
「あいにく今日は役場の忘年会があって」という仲居さんに、濡れた服とズボンを脱がされ、そのまま風呂へと追い立てられた。
人心地ついて部屋に戻ると、テーブルいっぱいに並べられた食事が待っていた。
入り口で尻込みする私に、「よく来てくれました」と声をかけてきたのは、一目で女将とわかる女性であった。
「本を読んで訪ねてくれたひとは十四、五年ぶりでしょうか」 そういいながら立ちすくむ私を抱え込むように招き入れてくれた。
「あいにく先生のお気に入りの部屋が埋まっていて、ここで我慢してください」 畳の上にきちんと手を添え、改めて挨拶する女将に、私はひたすら畳に額を擦りつけていた。
小さな談話室で夜更けまで語らった。その部屋の書棚には、福永武彦の著作がずらりと並んでいた。
作家仲間の投宿もあったと語る女将の顔が、にわかに曇った。
「先生は、二年前の夏に亡くなられたんです」 ほんのりと赤みを帯びた頬に、幾筋もの涙が光っていた。続く

令和7年1月2日 近藤健1
昭和五十六年、大学生だった私は北海道に帰省するため京都から日本海回りの特急に乗り込んでいた。
富来という地は、福永武彦随筆集『遠くのこだま』の「貝合わせ」で知った。高校二年の現代国語の教科書にあったものである。
福永武彦が能登で出会ったのが、湖月館という小さな宿の「むすめむすめした若いお嫁さん」と、増穂浦に打ち寄せる小貝であった。
夕暮れが近づいていた。迷ったあげく、私は金沢駅に降り立った。所持金は二万円に満たない。時間だけはたっぷりあった。
湖月館なる旅館は本当にあるのだろうか。もしなかったら、・・不安がよぎった。
バスは二時間後、小さな灯がともる寒々とした街に出た。冷たい雨がしょぼついていた。
近くの電話ボックスの茶色に変色した電話帳に湖月館はあった。宿泊料は七千円からだという。
本を読んできたことなどを説明し、食事はいらない、布団部屋でいいから泊めてもらえないか、という無謀な主張に、いつしか電話口の相手が変わっていた。
「いいですよ、いらっしゃい」その温かい言葉に、私は電話ボックスの中で頭を下げながら、込み上げてくる熱いものに堪えていた。続く

令和7年1月1日 元日
「年令(とし)をとってから、何か夢中になれる楽しみごとを、働き盛りの頃から少しずつ準備しておく」
これが、老後、ボケない秘訣だと教わったことがあります。
私、実は、もう相当にボケが進んではおりますが、でもまあ、何とか元気に暮らしていられるのは、どうも四十年近く前から楽しみとなった陶芸のおかげかなと、近頃しきりに思うようになりました。
といっても、ボケないためにと心掛けて陶芸を始めたわけではありません。
父の代理でいった講習会が始まりです。会社の仲間と違い本音でで話せる仲間との時間が楽しかったのです。
定年後は楽陶の会で新しい仲間が出来ました。この会は陶芸より、ランチが楽しい会ですが、それでも陶芸は楽しいのです。
陶芸は奥が深くて、やればやる程、ムズカシクなることも含めて、飽きがきません。
なるほどボケ予防になっているかも知れません。
初春や 月日の流れ 止まりおり