楽陶の会11に続く

令和7年12月31日 大晦日
今年もあと一日。トランプ旋風が吹き荒れ、日本もいろいろありました。こんな時こそゆとりが大切としみじみ思いますね。
この一年間、大勢の方と賑やかに陶芸ができました。感謝です。一期一会です。
さて来年は「午」の歳、皆さんと
うまくやりたいですね。
では陶縁の皆さま、お体を大切に良いお年をお迎えください。
いざや寝ん元日は又翌(あす)の事 蕪村
翁の達観に寄せ、御慶言上

令和7年12月28日 五木寛之
長谷寺の観音信仰は「現世利益」を願うものだ。けれども、いくら現世利益を祈願していても、それが簡単にかなうと思っている人は、実際には少ないだろう。やはりそれ以上に、祈ることで心の安らぎを得ることの方が、その人にとっては大きな意味があるのではないか。
長谷寺に詣でて、あの巨大な十一面観音菩薩像と対面して両手を合わせる。その時、ふと声なき声を耳にする。
「あなたは、こうして存在するだけでいいのだよ」
「生きているだけで意味があるんだよ」
誰かが自分を見つめ、そうやさしく語りかけてくれている気がする。そうすると、つらくて苦しい生活のなかで心が落ち着く。
もちろん、それでも人生の苦悩は尽きない。では、いったい何が変わるのか。
たぶん、それは苦しみながらもそれに耐えていける、ということではないか。

令和7年12月21日 夏井いつき
薬屋に 辛夷咲いたと父の言う (西田月旦)
お父さんは二年前に亡くなられたという作者月旦さん。「晩年は、病院とかに行くぐらいしか用事がありませんでした。実家に行くと、父が、薬局に薬を取りに行ったら辛夷が咲いていたと話すわけです。散っていく辛夷は汚くてね・・ただ、その言葉がずっと心に残って・・」 と噛みしめるように語る彼の言葉に、みな深く頷くばかり。おウチde俳句への共感は、さざ波のように、私たちの心に打ち寄せてやまない。

令和7年12月14日 夏井いつき
いい人だ 犬もかわいい夏の雲 (五歳くらいの男の子)
無花果ジャムさんが、犬の散歩中に採取た言葉。犬の散歩中にゴミを拾っていたら、五歳くらいの男の子に 「なにしてるの」 と聞かれ 「ゴミを拾ってるよ」 と答えたら、その子が大きな声で叫んだのが、この台詞だったんだって。
エピソードをひっくるめていいよね。無花果ジャムさんの選んだ季語 「夏の雲」 も元気でいい。
いい人に出会う度に、この句が口をついて出てくる。そんな口誦性もまた 「おしゃべり俳句」の大きな魅力だ。

令和7年12月7日 リスト
私の作品と物々交換できる、頂きたい物リスト。
重たい金塊、現金。
おうちで眠っている
お酒、ビール、焼酎。
荒れ放題の畑。
薪とそれを運ぶ軽トラック。

令和7年11月30日 仏像
お寺の仏像は最初金ぴかだった。いまの落ち着きや安らぎとは正反対に、華やかさやエネルギーに満ちた姿だった。古い伽藍も仏像も、最初は私たちを仰天させるようなバロック的な色合いだったのだ。それが、時間がたつにつれて、少しずつものさびた感じになってくる。
私のようにぎとぎとした青年時代をすごした人間が、ある程度の年齢になって、お寺詣りをするのもそうかも知れない。
まだとても枯淡の境地には達していないが、そんな風にして人も枯れていくのだろう。

青丹よし 奈良や眩き 花ススキ
11月29日楽陶の会の忘年会を、諏訪市 割烹 仙岳で、出席者19名でしました。
風邪が流行っていて四人欠席です。
今年一年無事に会ができたことに感謝です。
自作の作品を持ちより交換をしました。私は生徒さんのスープ皿、妻はご飯茶碗をいただきました。
今まで我が家では自作の作品を使用していましたが、生徒さんの作品を使ってみると、使い心地もよく感心しました。

令和7年11月23日 あきらめて
デパートで六歳の息子が迷子になった。
親はなかなか現れず、諦めた息子は係のお姉さんを見て、
「これからこの女の人と生活していかなきゃいけないのか」 と、思ったそうです。
東京・冷静な息子とあわてた母・34歳

令和7年11月16日 不自然
自然に逆らって無理なことをしようとすれば、それは必ず破綻する。いわゆる不自然である。
世の中の事象のすべてを、理屈だけでは割り切れない。要は物事のとらえ方であって、神や仏がある、と考えた方が楽しい

不便があっても、どこかに「これは楽しい」ということを見つける

この稿を夜更けの炬燵で書いておりまして、外は雨です。

令和7年11月9日 荀子
『荀子』には、学問をする目的は、出世や生活の手段ではなく、どんなに困っても苦しまないため、どんな心配事があってもへこたれないことと記されています。

好きなもの苺コーヒー花美人古本あさりに茶の湯俳諧

令和7年11月6日 誕生日
両親の介護の後、精神的にも肉体的にもどん底の状態に陥り、生きているのが精一杯という三、四年間を経験してから、精神が初期化され、からだも変態を遂げたのか、すこぶるもの覚えが悪くなるのと引き換えに体力が無くなった。得るものがあれば失うものもある。
そんなときに彼岸がめぐってきたゆえ、にわかに信心深くなり、神社仏閣巡りをしている。
岡谷市湊の日吉神社に、しょうずか婆さんの石像がある。三途の川の奪衣婆だという。
年をとるにつれて体にガタがくるのは生きものの自然の摂理、そう思う一方で、この年で早くも故障した体になってみると、高齢になるまで体力気力知力が健康で長寿を全うする人に頭が下がる。

令和7年11月2日 イマジン
ジョン・レノンの名曲「イマジン」では、「イマジン(想像してごらん)」という言葉に導かれて、一番で「天国」と「地獄」が否定され、二番で「国家」が否定され、さらに三番では「所有」が否定される。
レノン自身は、「イマジン」は彼の二番目の妻ヨーコ・オノとの合作と語っている。
彼は1940年に生まれ、1980年に四十歳で銃撃により殺された。ジョン・ロバートソンは「今となってはイマジンを、自分自身と世界への希望を歌ったレノン最大の傑作だとする神話と切り離して考えるのはひどく難しい。しかしその歌詞は、実のところはるかに複雑だった。「所有なんてない、と想像してごらん/はたしてきみにできるかな」とレノンは、自分が富を捨て去ることは出来ないことを承知の上で書いた」と記している。
しかし、レノンとオノが自らの資産をさまざまな慈善事業につぎ込んでいたことはよく知られている。
「イマジン」を聴きながら、ここから近代というものをやり直すことはできないものかと、私は夢想にかられる。
上手に年齢を重ねたつもりですが、オチメ街道まっしぐらの五体に不安が・・。

令和7年10月26日 秋
一年のうちで、今が一番いい季節、用をするにも遊ぶにも、寝るのさえもいい気持ちだ。このいい気候の一日終わるのがもったいなくて、あれもこれも、出来ればもう一つと欲張って、無理を承知で用を抱え込む。体の疲れは気を張って乗りきる。くたびれたくたびれたと言いながら、満足して、翌日のことなど考える暇もなく眠ってしまう。

令和7年10月19日 夏井いつき2
俳句甲子園で、困り果てた時も、私はバンさんを頼った。俳句甲子園を観たことのない人達の間で、俳句甲子園バッシングが起こった時期だ。「夏井某というのが高校生を集めて俳句の悪口を言わせ合っている」と。噂だけが恐ろしい勢いで独り歩きし、当時審査員の手配を一手に引き受けていた私は窮地に陥った。審査員をお願いしようと電話をかけても、怒鳴られた。「お前が夏井か !」 「俳人として恥を知れ !」と。私は、バンさんに助けてほしいと泣きついた。バンさんが交渉してくれると誰もが一も二も無く気持ちよく審査員を引き受けてくれた。
バンさんはNHKを退職すると、「いつき組」組員を名乗ってくれた。バンさに最後に会ったのは、道後公園での「いつき組」花見大会の日。食道癌の放射線治療。完治はないと知っていたバンさんは「みんなに会いたかったから」と来てくれた。偏屈で繊細で人見知りなバンさんが、会いたいと素直な思いを口にしてくれてることに、心中で涙した。村重蕃句集「からころと」の一句。
無患子(ムクロジ)のからからころと別れよか
バンさんが眠っているのは、道後湯月町上人坂の宝厳寺
ムクロジの種子は固く数珠などに利用される。
秋晴れや ひと日ひと日の 花の咲く


令和7年10月12日 夏井いつき1
三十年前、「俳句王国」第一回放送への出演で「俳号バンさん」こと村重尚プロデューサーの存在を知った。収録前日の夕食会でバンさんは、「なあ、あんた。俳句やるって、子ども置いて家出て、好き勝手なことしてんだって?」
あまりの物言いに面食らって、たぶん私もキッとなって言い返したんだと思う。
「子ども二人と一緒に、踏ん張って暮らしております!」 バンさんの表情が硬くなった。そして、別のテーブルへ移っていった。なんて失礼な人だと思ったが、
世間の噂とはそんなふうに広がるものなのだろうと妙に納得した。
私はずーっと知らなかった。バンさんは、正義感がもの凄く強く、情が恐ろしく深いということを。私はまったく知らなかったが、バンさんが、いつの頃からか、水面下であちらこちらに私を推してくれたり、仕事を廻してくれたりしたことを。続く

令和7年10月4日 第15回 楽陶の会 箱根熱海の旅
令和 7 年 10 月 4 日 (土曜日) 23人参加
会長 武井 会計 小松
AM6:30 下諏訪赤砂崎発(中沢.宮坂.山田.萩原.田村.田村雄.早出.藤村.永田.宮坂.伊藤.高柳.東城.野中.湊.増澤規.漆戸.漆戸芳.小口.増沢.増沢ふ)
AM10:00〜AM11:20 箱根ガラスの森美術館 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原940-48
AM11:50〜PM0:40 昼食 箱根湖畔荘 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根78
PM1:30〜PM3:00 MOA美術館 静岡県熱海市桃山町26-2
PM3:30〜PM4:20 漁港の駅TOTOCO小田原 お買い物 神奈川県小田原市早川
PM7:50 下諏訪赤砂崎着

箱根ガラスの森美術館
箱根ガラスの森美術館は、緑豊かな箱根仙石原にあるヴェネチアン・グラス専門の美術館です。大涌谷を望む庭園では、四季の花々と陽光に輝くクリスタルガラスの競演が見えます。2025年 特別企画展、軌跡のきらめき 〜神秘の光彩、ガラスと貝細工〜自然の神秘的な色彩と輝きは、職人の創作の源。銀化した古代ガラス、ラスター彩ガラス、ヴェネチアン・グラス、螺鈿細工など約90点を展示。 職人たちが探求した色彩と輝きの軌跡をたどり、神秘の光彩の世界を堪能しました。
箱根ガラスの森美術館に到着。バスを降りると小雨が降ったりやんだりしています。皆さん手足を伸ばしてリラックスし、学芸員さんの案内で説明を聞きながら館内を廻る。紀元前六世紀の古代ガラスの表面は薄い膜になったように変化している。陶芸でも使われるラスター彩のガラス作品は知りませんでした。貝のきらめき螺鈿細工は奈良時代日本に伝わり日本の伝統工芸となっています。

昼食 箱根湖畔荘
お酒も入って賑やかに乾杯。小雨が降っておりますので箱根神社参拝は中止し、MOA美術館へ急ぐ。

MOA美術館
1982年に開館したMOA美術館は、熱海駅の背後に位置する海抜250mの丘陵地に建ち、初島や伊豆大島が浮かぶ相模灘など雄大な景観が見渡せる。つつじ山、梅園などがある瑞雲郷と名付けられた約236,400�u(約71,500坪)の広大な庭園内に位置し、四季折々の豊かな自然の景観を堪能することができる。MOA美術館は、国宝3件、重要文化財67件、重要美術品46件を含む約3500件を所蔵している。野々村仁清は丹波国桑田郡野々村の出で、本名を清右衛門という。瀬戸で轆轤の修業を積み、洛西の仁和寺門前に御室窯を開いた。「仁清」という号は、仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたもので、仁和寺を中心とする貴顕たちと交流を深め、それらの人々の求めに応じて華麗で典雅な作品を数多く残している。尾形乾山(1663〜1743)は光琳の弟で、野々村仁清に陶法を学び、元禄12年(1699)に京都の鳴滝に開窯し、独自の陶境を展開している。乾山の号は、鳴滝の地が京都の乾(いぬい)の方角にあたることにちなみ、この時期の作品を「鳴滝乾山」と呼び、享保16年(1731)江戸へ出て、入谷で焼いた晩年の作を「入谷乾山」と呼ぶ。
何回も来ていますが、入口から最上階までのエスカレーターは長い。黄金の茶室を観て浄瑠璃物語絵巻、国宝の壷などを観てカフェでコーヒー。
秋昼のぼくしか居ない美術館


漁港の駅TOTOCO小田原

お土産のお買い物。新鮮なお魚があり皆さん大量に買っていました。
小雨降る中、無事に下諏訪に帰りました。

令和7年9月28日 下諏訪総合文化祭
下諏訪総合文化祭が27日と28日下諏訪総合文化センターで行われます。山小屋の庭からガマズミ、クリ、アナベルを飾りました。
下諏訪総合文化祭開会の27日。書・写真・染付など見学後、茶席で一服いただく。産業祭りに行き、姉妹都市の南知多町特産アジの干物など海産物を買い、四王そばの会のソバでお昼。夜、花火を見る。

令和7年9月21日 最後の親不孝 森明美(34歳) 千葉県
父は末期の癌だった。それを父は知らなかった。その間の生活費や入院費は、私のお給料でまかなっていた。そんなわけで、私のおこづかいはほとんどなかった。
一度目の退院で、父は二ヶ月の間家に戻ることができた。そんなある日、母とちょっとした喧嘩をした時、私は思わず怒鳴ってしまった。「いくら働いたって、自分の欲しい物なんて何も買えないじゃない?」と・・・。
翌朝、父が新聞を見ていた。そっとのぞくと求人広告だった。「お父さんよぉ、いいところがあったら働こうと思ってよ」
やせこけた青黒い顔に、ぱんぱんにはり出したお腹姿の父が、うつむきながら、やさしく私にそう言った。
「何言ってんの、お父さんはもう働かなくていいんだよ」。
そう言って、父に背を向けた私は、走るように家を出た。ポロポロとほおを伝う涙を止めることができなかった。
決して言ってはならない言葉だった。「ごめんなさい、ごめんなさい」。心の中で何度も叫んだ。
父が旅立ったのは、それから4か月後の寒い冬の日だった。
親という宝はみんな持っている
孝行もしたが不孝はもっとした 井上剣花坊の川柳

令和7年9月14日 鈴木純子 (千葉県 四十七歳)
母は編物の内職をしながら勉強を教えてくれ、寝る時には枕元で本を読んでくれた。だが、歌は聞いたことがなかった。母は幼いころの中耳炎が原因で聴力が低かった。いまでは補聴器も役にたたないほど悪化している。
そんな母の歌を一度だけ耳にした。「月の砂漠」である。細く高い、消え入りそうな声で二番まで歌った。
「この歌、とっても好きなの」
母は後ろを向いたままいった。あれは私が嫁ぐ日を前に二人で荷造りをしていたときだった。
私は「月の砂漠」を子守歌に子どもたちを育ててきた。娘が嫁ぐ日には、この歌を母と同じように、最後の子守歌として送りたい。

月の砂漠 作詞 加藤まさお 作曲 佐々木すぐる
月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くらおいて
二つならんで 行きました

月の砂漠記念館は千葉県御宿にあります。

令和7年9月7日 青春の詩
アメリカの詩人サムエル・ウルマンの「青春の詩」
「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失った時、老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失った時、精神はしぼむ」
が好きだ。
俺こんな 顔が秋立つ 鏡かな

令和7年8月31日 人と会う
「人と会うこと」が私には大切。
たった一度だけ会っただけの人々から多くの事柄を学び、そのことがいつの間にか私の心の中で柱のように私を支えているようにも思うのです。私は多くの生徒さんと出会いながら,、多くのことを学び教えられてきました。人生は人との出会いの連続であり、出会いの分だけ自分の辞書は厚くなっていきます。その私の人間辞書をどこまで厚く出来るか、ということが私の人生の目標でもあります。
結局人間は、そう大きな違いのある生きものではないのかもしれません。

令和7年8月24日 芸術
「芸術は教えられるものじゃない」と言います。
技術は習うことがはできますが、それを使って何をするかは、自分で見つけるしかない。
もう捨てる つもりの靴や 夏終わる

令和7年8月24日 アンドルー・マーヴェル
墓所は静謐なるところ
されど、そこに在りて幸いなる者はなし

令和7年8月17日 河瀬直美 映画作家
わたしには両親がいない。育ててもらったのは、母方の叔母にあたる老夫婦だった。彼らには子がなく、本当は私の母を養女にもらいたいと願っていたのだということを成人してから知った。養父は、こつこつと自分の暮らしを愛おしむように生きていた。偏屈でとおっていた部分は、かたくななまでのこだわりを捨てられない彼の資質であり、わたしはそこにあこがれもした。
中学二年の秋、養父が突然倒れた。悪性脳腫で余命数ヶ月、彼はわたしに「なおみに残しておきたい言葉があるからテープレコーダーを持ってきてくれ」。わたしは、それが養父の死を意味することだと悟り、彼からの願いを聞き入れなかった。ほどなくして、彼は世を去る。わたしは、大きな糧を失った。
あれから二十年以上の養母との日々は静かに過ぎ、わたしに家族と呼べるものができたとき、養母の認知症が発覚する。その現実にいたたまれず冷たくあしらってしまう自分をまた悔やむ日々。彼女に少しでも元気になってもらおうと、結婚式を計画したわたし。
前日の夜、わたしは一人で自宅のお風呂に浸かっていると、養母がノックして風呂場に現れ、背中を流してやると言ってきかなかった。彼女はわたしの背を丁寧にこすりながら 「あんたが幸せやったらわたしはそれでええんやで」 と呟いた。親はいつまでたっても、どんな状態でも親として偉大であり、そんな人たちの前で子はいつまでたってもちっぽけな存在でいていいのだ。張りつめていものが溶けるように、わたしを包んでくれた養母のひと言だった。

令和7年8月15日 川端康成
友みなの いのちはすでにほろびたり
われの生くるは 火中の蓮華
(友達は皆死んでしまって世におらず、私だけが生きている。こうして、生きのびていること自体が信じがたいことだ)
人の心の闇は測りがたい。 昭和四十三年川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞したが、その四年後、ガス自殺する。
『伊豆の踊子』をはじめ、わかりやすい文章で日本の美をつづった康成の文学。その奥にはひっそりと孤独がうずくまっていたような気がする。掲出の句の「火中の蓮華」は、仏教用語で"ありうべかざること"を意味するという。
最高の栄誉に輝きながらも、生きる意味に作家の魂は苦悶していたのだろう。人の闇の深さを見る思いがする。
昭和四十七年四月十六日自殺 享年七十四
天の川 俺にも俺の さみしさが

令和7年8月14日 教えることは学ぶこと 森本毅郎2
この番組で、斎藤さんは語りたいと思うことを必死で吐き出したようだった。というのも、斎藤さんの体調はその頃決して良くはなかったからである。斎藤さんは病院から局に出向き、収録が終わるとまた病院へ戻るという無理を通して収録を乗り切った。
「死ぬ前に、いいたいことを言っておかないとね。この番組はぼくの遺言状みたいなものですよ」
全部の収録が終わった時、斎藤さんははじめて笑った。あの郵便貯金ホールで見たはげしい斎藤さんとは別人のような、やさしい笑顔だった。それから半年後、斎藤秀雄さんはこの世を去った。
「女性手帳」の最初の出演者が斎藤秀雄さんであったというのは、いま考えてみると私にとってとても恵まれた出会いだったように思う。
私は以来、初対面の印象にあまりこだわらないことにした。これから先、何人の人に出逢うかわからない。そのたびに初めの印象で相手を決め込んでしまっては、語りたいことがいっぱい詰まっている相手の心など読み取ることができないのである。

令和7年8月13日 教えることは学ぶこと 森本毅郎1
「バイオリン、音が聞こえない」「管はもっと抑えて」オーケストラに激しい口調で、斎藤さんの声がとんでいる。
約束の時間を過ぎてもう一時間も待たされている。困ったなあと、私は気が重かった。早くもすさまじい人に出逢ってしまった。。うっかりしたことを聞けば、学生達と同じように私も叱りとばされるのではなかろうか、私は縮み上がった。
昭和四十九年「女性手帳」の第一回は大学教授の斎藤秀雄さんへのインタビューだった。
緊張で固くなった私が、今でもはっきり覚えているのは、斎藤さんが「教える」ということについて語った次のくだりである。
「教えているとね、次第に相手の才能が見えてくるんです」
「才能にあふれている人って、沢山はいないわけでしょう」
「それはそうです。すごい奴とだめな奴、圧倒的にだめなやつが多い」
「で、だめな奴はどうするんです。見切りをつけて捨ててしまうんですか」 私は思い切って聞いた。
「いいえ、捨てません。不思議なんですが、そういう人を教えていると、逆に音楽のむずかしさ、面白さが見えてくるんです。こちらも教えられるわけですよ」 といった。
天才は、こちらが道を示せば自分で歩く。しかし非才な人間には努力しかない。だから、だめだ、だめだといいながら、少しずつその人の持っている一番いいところまで伸ばす。斎藤さんの教育に対する信念が見えた一瞬だったと私は思う。
続く

令和7年8月10日 夏井いつき
『ホトトギス雑詠選集』という本がある。高浜虚子が俳誌 『ホトトギス』にて選をした俳句をまとめた本なのだか、自在な選による多彩な作品がずらりと並び、驚くやら愉快やら。流石は虚子だと感じ入ってしまった。
出歩きや梅雨の戸じまりこれでよし 高田つや女
俳句ってこれでいいの ? とキョトンとする人だっていると思う。でも、一読ふふっと笑ってしまう。「出歩きや」の五音にウキウキした心がこもっているし、「梅雨」だから雨戸もきちんと閉めて、トイレの窓はちゃんと閉まってたかしらなんて、いちいち指さし点検しているみたいで楽しい。そして最後に「これでよし」って声に出してから、颯爽とお出かけするんだろう。
旅の仕事が多い私としては、「出歩きや」どころか、家に籠(こも)っていられる時間が嬉しい。読みかけの本、読みたい本を積み上げ、あとは真昼のハイボール一杯あれば幸せ。
幾百の本を砦に梅雨籠

令和7年8月3日 石川達三
人間は誰しも、他人から完全に理解されるということはありえないだろう。誤解されたままで生き、誤解されたままで死んでゆく。結局は孤独なのだ。 <私ひとりの私>より

令和7年7月27日 狂歌
世の中に人の来るこそうるさけれ とはいうもののお前ではなし 蜀山人の狂歌 江戸時代
(世の中で人が来る事くらい煩わしい事はない。しかし、お前のことではないよ気心の知れたいい奴だからね) を元にして内田百�閧ェ、
世の中に人の来るこそうれしけれ とはいうもののお前ではなし

令和7年7月20日 菖蒲あや
サルビアを咲かせ老後の無計画
小さな家の小さな庭にサルビアの種を植えたら見事に咲いた。朝に昼に夕に、飽かずに眺めている。狭いながらも老後を暮らす家があり、庭もある。老後の計画などはとりたてて何もないが、少なくともサルビアの花は、自分が死ぬまで毎年咲いてくれるだろう。
19日、納涼会を諏訪市の藍屋で、三連休の初日でしたが、13名が出席してしました。
陶芸教室と同様、和気あいあい、日々の生き方、そして陶芸の情報交換まで話し合いました。
こういう会食は仲間意識を高め、皆さんが仲良くなります。出席していただいた皆さんありがとうございました。

令和7年7月13日 芭蕉
元禄七年の五月、芭蕉は病中の寿貞尼(じゅていに)を庵に残して西への旅に出た。芭蕉にとって最後の旅である。
そして六月、留守宅から寿貞の訃報が届く。
「寿貞無仕合せもの、まさ、おふう同じく、無仕合とかくもうしがたくそうろう、・・(中略)・・何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理屈はこれなくそうろう」と芭蕉は書き送っている。ここには芭蕉の深い嘆きが込められている。
数ならぬ身とな思いそ玉祭
決して数ならぬ身などと思わないでくれ寿貞に呼びかけているこの句には、大切な人を亡くした哀しみと同時に、彼の心にひろがっているどうしようもない孤独の気配がたちこめている。

令和7年7月6日 山口波津女
香水の一滴づつにかくも減る
ほんの一、二滴の香水を手首や耳裏につけ、一日がはじまります。瓶いっぱいに詰められた琥珀の香水。
一滴、また一滴と使ううちに、いつしか瓶の底にわずかに残るだけになっていました。塵も積もれば・・・ですね。
減った香水は、作者が重ねた日々の証でもあります。その中にどれほどのドラマがあったことでしょう。
香水の一滴に等しい一日の積み重ねに、人生はあるのです。

令和7年6月29日 紫陽花
半年があっという間に過ぎた。
年々歳々時の経つのが早くなる。春が過ぎて、夏が来て、木の葉の緑が濃くなり、夜でも暑い日々がくる。
清貧の小あじさいよいとおしき
あじさいや明日天気になあれ

令和7年6月23日 第16回楽陶の会展
第16回楽陶の会展は、会員24名で6月23日から6月30日まで下諏訪総合文化センターで行われます。
生徒さんの作品はそれぞれ個性が際立ち見ごたえがあります。
山小屋から山法師・ウツギ・アヤメなど飾りました。

令和7年6月22日 夏
丘の上空を、北西の方向に雲がたなびいていく。
夏の一日だ。繊細な春はもう終わりつつあり、これから長く暑い季節が始まるのだ。
午後の光が、中庭を通り抜けて差し込み、アトリエの陰を少しずつ動かしていた。
私は、銅色を含んだ昼下がりの陽光を凝視している。
めだかよ 汝も精一杯の命

令和7年6月15日 ボケセン
生きている証拠か今日もけつまずき
一万歩そんなに歩いてどうするの
葬式の帰りは固い握手する
老人は金持ちらしい俺若い

令和7年6月1日 ボケセン
忙しい時期もあったよこの乳も
あの頃が華だった。彼がほめてくれて、夫が大切にしてくれて、赤ちゃんが縋りついてくれたこの乳。
いまは誰も構ってくれない。乳の定年制反対

令和7年5月25日 アステカの葬送の詩
枯れる花のように私は行くのだろうか。
私の名は何も残らないのだろうか。
この地上で私の名声は何も残らないのか。
せめて私の花を、せめて私の歌を!
この世は刹那の領域なのだから。

私は彼の地に下りねばならない、
誰もが赴き、さまよっている地へと。
何も私は期待しない。
私はあなたたちから去ってゆく、
悲しみに身を任せて。

令和7年5月18日 香気
楽陶の会に来る大半の人は単に美しいものを求め、何ら解釈に苦しむ余地のない、容易に美しいと認められる作品を作る。
でも、一部の人は違う。そんな虚栄心は皆無、凡百の人々から賞揚され受け入れられるものを望まない。
卑俗な賞賛に無関心なその姿からは、洗練された香気すら漂う。
楽陶の会に入会される方、ヘンな先生ですが、どうかこれをご縁に面体お見知りおかれまして、向後万端、よろしくオタノモウシマス。

令和7年5月11日 山上宗二
千利休の高弟、山上宗二が書き残した書物の中に、茶会で口にしてはならないことが、狂歌の形でいくつかあげられている。
「わが仏、隣の宝、むこしうと、天下のいくさ、人の善悪」。
「わが仏」は、宗教、「隣の宝」は、近所のだれがもうけたという経済、金銭の話、「むこしうと」は、嫁姑をふくめ家族のプライバシー、「天下のいくさ」は、戦争や政治のこと、「人の善悪」は、個人の批判だ。
これらは、現代でも、親しい者同士が集まったとき一番興味を集める話題だ。しかし、利休時代に茶の席では、この一番面白い話題を避けるようになったのには、相当の理由があるのだが…。
フランスなどのサロンでも、宗教と政治とプライバシーを話題とすることはタブーになっていた。
英国でも、パーティーで女性の年齢を聞くような連中は、二度と招待されなかったという。

令和7年5月6日 連城三紀彦
去年の夏、寝たきりの母に病院で一晩付き添った。見知らぬ病院の隅っこで、枯れ枝のような母の腕をつかんで一晩を明かすというのは相当に心細い。おまけに、隣のベッドには植物化したような中年女性がいる。この数年、老母の介護に追われ、自分の人生も息絶えはじめたのでは・・・などと考えていると、夜勤の看護師がそっと入ってきて、隣の患者の世話を始めた。
「きょうは顔色いいですねえ。美肌だから本当にきれい。あ、タオル、熱くなかったですか。××さんは笑った方が美人だからもっと笑ってください」 と深夜の静寂に気がねした小声で語りかけ続ける。
相手には聞こえない。でも耳には届かなくとも心には届くかもしれない。そう思わせるほどの澄んだ光のような声で、今や死語となった『白衣の天使』 という言葉を思い出した。
それから、一年が経ち、介護の疲労でいっそう暗くなった体に、その声は響き残っている。介護というのは本当に重労働だ。ついいら立って声を荒げることもある。そのときあの声を思い出してあわてて口を閉じる。ただそんな風に天使を真似るようになって、先日、ふっと気が゜ついた。
あれは患者というより、自分を励ます声だったのかもしれない・・・深夜、たった一人で病人の世話をするのは、新人看護師には大変な苦労だろう。つい負けそうになる自分を、患者に語りかける「笑って」 という声で励ましていただけなのだ。
一年が過ぎ、そう感じ取って、天使になれそうもない僕は逆にホッとした。

令和7年5月5日 酒井田柿右衛門
もの作りは四六時中なにかに困っているんですよ。なにかいい色はないかとかですね。
草花にしても、なにかちょっとしたたヒントというか、そういうものをいつも探しているんです。

ものを頼むときに忙しい人に頼めといいますが、忙しければ忙しい人ほど、さっさと片付けてくれる。
そういえば、仕事のできる人に仕事が集まるって言います
。

令和7年5月4日 続 小沢昭一
嬉しかったことは、「小鳥来る小鳥となりて口笛を」 の私の句への岡本主宰のお言葉でした。
「無邪気で、小鳥と仲間入りするように、にごりのない心がよろしい」
無邪気どころか邪鬼満々の私としては首をすくめたのでありますが、作る時間のないまま、無邪気にならざるを得ず、普段やっていることそのままの即製句だったのです。しかしナルホドなとも、ひそかに思いました。
ああだこうだとヒネルより、無邪気がいちばんなんですかな。
そういえば先日、さる誌上の対談で、鷹羽狩行先生が紹介されていた、どこかの子供さんの句で、
天国はもう秋ですかお父さん
私、この句にナキました。子供俳句は無邪気です。
年をとると呆けてきて、だんだん子供にかえるといいますが、わたし、呆けはだいぶ進んでおりますものの、これからは俳句も無邪気に。今回は、一つ指針をいただきましたなぁ。でも、にがてな素直になれるかなぁ。

令和7年5月3日 小沢昭一
岡本眸句集はいささか拝読しておりまして、ご夫君を亡くされた前後の句など、とりわけ絶唱で、
喪主という妻の終の座秋袷
冬めく駅他人の夫の肩ばかり
四囲枯れて倚るも支ふもおのれのみ
命とは神意とは冬紅葉かな
などなど、まだまだ手を合わせたくなるような句が並ぶのですが、
落ち葉なほおのれの幹の辺りを去らず
今日生きて明日は明日紅生姜
というような句も好きです。 続く

令和7年4月27日 椿
黒澤明が「椿三十郎」で、水に流す椿の色を隣家への討ち入りの合図にし、花だけに色をつけようとしたが、費用の点で諦めたのは有名な話である。その無念さを晴らすように、映画では大量の椿を水に投げ込んでいる。
落椿が水に流れるのは、思うだに美しい様だから、当然、落ちる光景に秀句が多い。
愛すとき水面を椿寝て流る
視点や位置関係がどうも妄想をそそるが、それはそれで良いではないか。

令和7年4月20日 中村伸郎
中村伸郎は 「おれのことなら放っといて」 で昭和六十一年、第三十四回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したが、その中にこんな一節がある。
<諸行無常と思えばこそ、うたかたの短い一生、私はやりたいことをやって、除夜の鐘おれのことなら放っといて、などとうそぶいてはきたが七十五歳の今日悔いはないようである。女房も呆れて、私が一文にもならない芝居で、過労になったり、酒や煙草が過ぎたりしても、知らん顔している>
一班のお花見会を富士見町カフェバー&グリルぞうさんでしました。
参加者9名、美味しい料理と、おしゃべり。パンとケーキは食べ放題です。

令和7年4月13日 靴が鳴る 愛媛県 佐々木真理 (三十歳)
私は小さいころよく父と手をつないだ。温かく大きい手、人差し指一本を手の平いっぱいで握りしめ、"せーの"で「お手(てて)つないで」と歌いはじめる。迎えに来てもらっていたのか、思い出すのはだんだん暗くなる景色だった。影を見ながら、振り回すくらい大きく手を振り、終わりになるほど叫ぶように歌う。
「お父さん、小鳥になったら靴は履けんよ」「靴ってどうやったら鳴るん」と幼い疑問を父に問う。いったい何と答えてくれていたのだろう。
大好きな父が病気のため歩きにくくなると、恥ずかしさから遠ざけてしまった小学生の私。父の両手をとり、歩かせた高校生の私。
そして、ベッドの上の白く冷たくなった父の手。今度は子供と愛を込めて手をつなぎ、歌いたい。

お手つないで 野道を行けば
みんなかわい 小鳥になって
唄をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る
二班のお花見会を茅野市北山の古民家カフェギャラリー指北庵でしました。
参加者14名、美味しい料理と、おしゃべり。古民家の見学、二階はギャラリーです。

令和7年4月6日 旅愁 東京都 宮下さつき (37歳)
母が、私と妹によそ行きの服を着せて連れて行ってくれた場所も、いまは定かに覚えていないが、この歌を口ずさむたびに、不思議なくらい、私は思い出す情景がある。
それは山中の小さな店で、当時私たちには珍しかったチョコレートを母が買ってくれたことである。チョコレートは一粒づつキラキラ光る金色の紙に大切そうにくるまれていた。思い切って口に入れると、私はもう幸福な気持ちで一杯になっていた。
再び山道を歩きはじめると、母はか細くて頼りなげだが、その優しい声で、「更けゆく秋の夜 旅の空の〜」 と歌いはじめた。
チョコレートの甘さも、光る山も川も、えんえんとつづく細い砂利道も、母の歌の中に見事に溶け込んで、三十年近く過ぎたいまでも私の心の中で輝いている。

令和7年3月30日 旅愁
作詞 犬童球渓 作曲 オードウェイ
更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかしき父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路

「旅愁」 の作詞者・犬童球渓(いんどうきゅうけい)は熊本師範学校時代に音楽の才豊かにあらわし、「吾校のベートーベン」とあだ名された。のちに、兄の援助で東京音楽学校 (現・東京藝術大学)に進学しましたが、その兄は間もなく亡くなり苦学のすえ卒業します。しかし、その経験が作詞活動で大きく実を結ぶのです。兄の死で働き手を失った家族を思い、葬儀後再び上京する際に、泣きむせぶ犬童を叱咤激励してくれたのは祖父でした。家族の固い絆が、夢に向かう犬童の背を押してくれたのです。後ろ髪を引かれながら故郷をあとにした辛い思いが、人の心の奥深くに響く詩を生み、その切ない心を詩(うた)った詩ゆえに人に、"望郷の詩人音楽家"と呼ばれました。

令和7年3月23日 仏様
三歳の子供に「坊や、大きくなったら何になる?」って聞いたんです。そうしたら、「工事のおじさんになる」て答えたんです。
そうしたら子供が、「おじいちゃんは大きくなったら何になるの?」と聞いたんです。
私は頭をかきながら、「いやあ、弱ったなあ。もう仏様にしかならないかもしれないなあ」と言ったんです。
ホントは、悟りを開きたいと言えばよかったんだけど、そんなこと子供に言ってもわからないしね。
雨優しあといくたびの弥生かな

令和7年3月16日 戸板康二
大分前、今日出海につれられて、銀座の「マントゥール」というバーにゆくと、マッチに口をあけた男の顔があり、舌が二枚描いてあった。
マントゥールというのは、うそつきというフランス語なのだ。
今が何かのついでに、「この店の客筋はどういう人だね」と訊くと、ホステスが、
「政治家が多いんですよ」

令和7年3月9日 戸板康二
三遊亭圓生の妻女の写真を見たら、スラッとした痩せぎすの、小いきな老女であった。何ともいえない、古風なポーズで、座っている。
芥川比呂志がこの妻女を評して、こういったそうだ。
「下町のモジリアニ」
若風に身をよじらせて糸柳

令和7年3月2日 そば屋
日本女子大で西脇順三郎に教わっていた女子学生が、いつも出前をしてくれる店が休みだが、ほかにそば屋はないかと尋ねられ、教授を別の店に案内した。店は混んでおり、おかみさんが背中に子供を背負い、盆も使わずに運んできた。
その学生は、へんな店におつれたと後悔したが、店でも帰り道でも、教授は一言もいわない。
神奈川短大の佐久間直子助教授がその時の学生であるが、西脇の没後、弔問にゆくと、大学の後輩の一人が、先生が授業中に突然、学校のそばにいいそば屋があると言った。どこですかと尋ねると、佐久間がたった一度案内した店を挙げたので、おどろいて「えッ」と一同顔を見合わせると、西脇がこういったというのだ。
「あのそば屋には、人生の哀しみがあります」
私は前々から楽陶の会の人は 「みんないい人」 という表現をこのページに用いたいと考えていた。これは実感である。

令和7年2月23日 中村稔
銅版画の駒井哲郎が肺に転移した癌のため死んでからまもなく満十五年になる。
最近駒井夫人から聞いたことだが、駒井は臨終の三日ほど前見舞客から届いた赤いバラを片付けてほしい、と頼んだそうである。
僕にはもうバラを見られるほど体力がない、と呟いたという。
花を見るにも体力がいるのかと驚き、それほどまでに衰弱した駒井を偲んですこし涙ぐむ思いであった。
だが、しばらくして花を見るにも体力、気力がいるらしいと考え直した。
一輪挿しのようなものならともかく、身のまわりにいつも鑑賞用の花があることは、住む人にとっては時に息苦しく、神経の苛立つことではなかろうか。ランやバラなど、美しさは千変万化、神秘的といってよいが、そんな美と四六時中向かい合っているのはかえって負担だと思うのは、欧米の人々と私たちの体力、気力の差だろうか。
駒井哲郎にかぎらず、病人に花を届けるには、よほど花を選ぶ必要がありそうである。

令和7年2月16日 作者不明
去る者は日に以て疎く
生きる者は日に以て親し
人間、生きているうちにずいぶんたくさんの人に出逢い、そして別れるものです。
別れた人とは日がたつにつれて疎遠になるのは、しかたのないこと。つぎつぎにまた新しい出逢いがあり、人間の頭脳(あたま)は、生まれてからのすべてを鮮明に記憶しておくようにはできていないのですから。
「去る者は日に疎し」とは中国の古い詩から出た言葉です。唐詩などよりはずっと古い、紀元一、二世紀の漢代のころといわれています。

梅香馥郁(ふくいく)風動くなよ動くなよ
老梅のまさか咲くまじ咲きにけり

令和7年2月9日 宗教
宗教に興味はないが、宗教を彩る芸術を心から尊敬している。人間であるかぎり誰しもまぬがれざる苦悩、行きつく果ての死。
そうした救いがたいものを現世にせよ来世にせよ救わんとする精神の具体は、どれもみな美しい。
美しい阿弥陀は饒舌である。人間が苦悩をうちあけたり、何かを願ったりするよりさきに、はっきりとものを言う。
どうした。立て。歩め。おのれの力で進めーー。
真に美しいものは、一瞬にして見る者に力を与える。あるいは眠れる力を喚起させる。
感動とはそういうものにちがいない。
第四回楽陶の会小品展が下諏訪図書館ではじまりました。
会員二十四人が楽しい小物を4〜5点出品しています。

令和7年2月2日 法律
国の代表がワイロをもらって、他国と条約を結んだら、無効にしてよい。(ウィーン条約 1981年日本も加盟)
ちなみに、この条約にはワイロだけでなく、無理矢理サインさせられた条約は無効。
条約を抜けたければ、やめればいい。など、まさに会社なみ。

刑法第116条「失火罪」失火によって公共に危険を及ぼしたものは、50万円以下の罰金。
消火にかかった費用は日本では、取られません。ちなみに、放火の場合は、当然ですが、ものすごく罪は重いです。
人が住んでいる家に放火したら、それだけで死刑・無期・懲役五年以上。
みなさんも火遊びには注意してください。
やっていいのは、男と女の火遊びだけ・・・・?
(やりたいよ〜)
27日 一班の新年会 ぱおず屋陽太(ひなた) 包子の名の通り中華 9人参加
美味しい中華料理を食べ、おしゃべり。二次会はガラスの里のレストランでまたおしゃべりをしました。

令和7年1月26日 雪
花も月もいいが、私の最も好きなものは、雪である。
音もなくすべてを埋めつくし、夢のように消えてしまう。
楽陶の会は会って騒ぐだけでも楽しいのです。
それで年に五・六回は食事会をします。多少は老人と若い人達の "生涯学習" にはなっておりますが。
「勝ちから学ぶものなし。負けて学ぶものが大きい」 なんて発言に、皆励まされています。
25日 二班の新年会 旬菜庵 もとき(和食)14人参加
今年初めての会食。楽しい話題と美味しい料理。インフルで二人欠席は残念。

令和7年1月19日 藤原正彦
私はよい点をほめて励ますことが親や教師の仕事と信ずるので、大学でも学生達を励まし、自信と楽観を持たせようとした。
米英の大学にいた時も、同じように学生に接した。
ケンブリッジ大学でのディナーで、同僚の教授が博士を取ったばかりの弟子を私に紹介した。
私は彼に、「君がこれから数学者として歩む上で一番大切なのは何といっても楽観だ。野心的な仕事に取り組むにも、挫折から這い上がるにもこれが必要だ。忘れずに頑張りたまえ」 と励ました。
彼は聡明そうな大きな目を光らせて、「とても意義深いアドバイスをありがとうございます」 と鄭重に礼を言った。
ところがこの十年後、彼は何と数学界最高のフィールズ賞をとったのである。
私は受賞のニュースを目にするや、激しい羞恥心で消え入りそうになった。
私のごときヘッポコが、偉そうに大天才を励ましていたのだ。人を励まして後悔したのはこれだけである。

令和7年1月12日 電気器具
時は流れ、人は年を取り、万物は流転する。物は古くなり、やがて壊れ、販売店に問い合わせると、切々と諸行無常を説いてくれる。
曰く、
「部品はもう製造中止になっちゃっているんですよねー」

令和7年1月5日 五木寛之
敗戦が知らされた夏、私は平壌一中の一年生だった。
私は或る日の夕方、宿舎に帰っていくソ連兵たちの隊列と出会った。連中は自動小銃をだらしなく肩にかけ歩いてゆく。どう見ても物乞いの集団としか思えない一団である。突然、幾人かが低い調子で歌をうたいだした。たちまち全員がそれに和して歌声が大きくなった。なんという歌声だっただろう。胸の底から響くような低音。金管楽器のような澄んだ声。声を通りこして心に響いてくる何か奥深いもの。隊列はたそがれの街を少しずつ遠ざかってゆく。地面にひざまずいて祈りたいと感じた。そして同時に、こんなことがあっていいのか!俺は絶対に許さないぞ、と心の中で繰り返した。
毎晩女たちを連れ去りに来る強姦者たちが、こんな美しい歌をうたうことができるのなら、おれは絶対に歌なんて許さないぞ、と。あの日、少年の私が感じたことは、ケダモノがどうしてあんな美しい歌をうたえるんだ、と打ちのめされただけの話だろうと思う。
のちに私が大学のロシア文学科を受験したいと言ったとき、父はひとこと、
「ソ連はかあさんの敵(かたき)だぞ」と、短く言った。
めでたくもまたこの顔ぶれの 初陶芸
また少し 老けて揃いぬ 初陶会

令和7年1月4日 近藤健3
女将は奥の部屋からアルバムや貝の標本などを次々と持って来て見せてくれた。
この地は、十一月から三月にかけて、"貝寄せの風"が吹き、歌仙貝が打ち寄せる。さくら、なでしこ、いたや、わすれ、にしきといった抒情的な名と、桃、橙、紫、黄の目の覚めるような色彩にすっかり魅了されながら、時間の経つのを忘れていた。
翌朝、浜辺を歩いた。そこは小貝が敷き詰められた海岸であった。小指の爪ほどの貝は大きい方で、ほとんどその半分にも満たない、それでいて完全な貝の形をしていた。出発の時間はまたたく間にやってきた。貝殻のお土産と一包みの握り飯を渡された。私は下げた頭を上げることができなかった。浜辺から戻る途中、立ち寄った小さな本屋で一冊だけあった作家の文庫を求めた。何か記念に書いてほしいと頼むと、女将は流麗な字で、福永氏からもらったという歌をしたためてくれた。
夜もすがら春のしるべの風吹けど
増穂の小貝くだけずにあれ

バス停まで送るという申し出を振り切るように断り、私は宿を後にした。
握り飯の温もりを手に感じながら、ふり返るといつまでも手を振る女将の姿があった。
この歌が、恋歌だと気づいたのは、ずっと後になってからのことである。

令和7年1月3日 近藤健2
落ち着き場所を得た安堵感から、忘れていた空腹を覚えた。小さな食堂で親子丼をかき込んで旅館へと急いだ。
こじんまりとした宿は、年に一度のかきいれどきを迎えていた。
「あいにく今日は役場の忘年会があって」という仲居さんに、濡れた服とズボンを脱がされ、そのまま風呂へと追い立てられた。
人心地ついて部屋に戻ると、テーブルいっぱいに並べられた食事が待っていた。
入り口で尻込みする私に、「よく来てくれました」と声をかけてきたのは、一目で女将とわかる女性であった。
「本を読んで訪ねてくれたひとは十四、五年ぶりでしょうか」 そういいながら立ちすくむ私を抱え込むように招き入れてくれた。
「あいにく先生のお気に入りの部屋が埋まっていて、ここで我慢してください」 畳の上にきちんと手を添え、改めて挨拶する女将に、私はひたすら畳に額を擦りつけていた。
小さな談話室で夜更けまで語らった。その部屋の書棚には、福永武彦の著作がずらりと並んでいた。
作家仲間の投宿もあったと語る女将の顔が、にわかに曇った。
「先生は、二年前の夏に亡くなられたんです」 ほんのりと赤みを帯びた頬に、幾筋もの涙が光っていた。続く

令和7年1月2日 近藤健1
昭和五十六年、大学生だった私は北海道に帰省するため京都から日本海回りの特急に乗り込んでいた。
富来という地は、福永武彦随筆集『遠くのこだま』の「貝合わせ」で知った。高校二年の現代国語の教科書にあったものである。
福永武彦が能登で出会ったのが、湖月館という小さな宿の「むすめむすめした若いお嫁さん」と、増穂浦に打ち寄せる小貝であった。
夕暮れが近づいていた。迷ったあげく、私は金沢駅に降り立った。所持金は二万円に満たない。時間だけはたっぷりあった。
湖月館なる旅館は本当にあるのだろうか。もしなかったら、・・不安がよぎった。
バスは二時間後、小さな灯がともる寒々とした街に出た。冷たい雨がしょぼついていた。
近くの電話ボックスの茶色に変色した電話帳に湖月館はあった。宿泊料は七千円からだという。
本を読んできたことなどを説明し、食事はいらない、布団部屋でいいから泊めてもらえないか、という無謀な主張に、いつしか電話口の相手が変わっていた。
「いいですよ、いらっしゃい」その温かい言葉に、私は電話ボックスの中で頭を下げながら、込み上げてくる熱いものに堪えていた。続く

令和7年1月1日 元日
「年令(とし)をとってから、何か夢中になれる楽しみごとを、働き盛りの頃から少しずつ準備しておく」
これが、老後、ボケない秘訣だと教わったことがあります。
私、実は、もう相当にボケが進んではおりますが、でもまあ、何とか元気に暮らしていられるのは、どうも四十年近く前から楽しみとなった陶芸のおかげかなと、近頃しきりに思うようになりました。
といっても、ボケないためにと心掛けて陶芸を始めたわけではありません。
父の代理でいった講習会が始まりです。会社の仲間と違い本音でで話せる仲間との時間が楽しかったのです。
定年後は楽陶の会で新しい仲間が出来ました。この会は陶芸より、ランチが楽しい会ですが、それでも陶芸は楽しいのです。
陶芸は奥が深くて、やればやる程、ムズカシクなることも含めて、飽きがきません。
なるほどボケ予防になっているかも知れません。
初春や 月日の流れ 止まりおり