楽陶の会8に続く
令和4年12月31日 大晦日
人生の一寸先は誰にもわからない。
釈尊はそれを無情と呼ばれた。ギリシャではパンタレイといっている。
人は生々流転と呼ぶ。
私の遁世への憧れは四十過ぎあたりから心の中に醸されていた。
晩年意識はもっと早く、人生五十年という言葉が、私の骨に沁み込んでいた。

ひたむきに 年を駆けぬけ 除夜の鐘

令和4年12月25日 樋口一葉
一葉の本名は樋口奈津といい、東京府庁構内の官舎で生まれた。
明治二十八年、一葉が二十三歳のときに 『大つごもり』 『にごりえ』 『たけくらべ』 など、後世に残る名作を相次いで発表。
しかし、このとき彼女は胸を病んでいた。「文学界」 同人の馬場弧蝶が一葉を見舞った折に、「冬休みにまた来ましょう」 というと、
「その時分には、私は何になっていましょう。石にでもなっていましょうか」 と苦しい息の下で答えた。
それから二十日後の十一月二十三日、息を引き取った。
美登利と信如が主人公の 『たけくらべ』、お関と緑之介の別れを描いた 『十三夜』 、源七と酌婦お力の無理心中の 『にごりえ』 等の作品で、一葉は明治の女の悲しみと不幸を描いたが、実に彼女自身その不幸のもとに短い生を終えた。
年賀状 書ける暮らしのありがたさ

令和4年12月18日 風と共に去りぬ
『風と共に去りぬ』 の主人公のスカーレット・オハラは、「いまは考えまい」 と枕に顔をうずめてつぶやく。
『いま考えるのはよそう、あとになって心がおちついてから考えることにしよう』 と困難に出会い、くじけそうになったときに、いつも言う。

令和4年12月11日
「人間は誰でも屁と同じように生まれたのだと思う。生まれたことなどタイしたことではない。だから死んでゆくこともタイしたことではない」 深沢七郎
自分はいつ死ぬかもしれない動物だったという現実にようやく気が付いた。
何とそれは遅い自覚であった。

淡々と去り逝きし人 冬の雲

令和4年12月4日 他人
残りの人生、自分にできることことをやるだけ。書けることを書くだけ。
それ以外はどうでもいい。どう思われてもいい。

なんとかなりますよと言うのは他人
櫻田宏
秋風 行きたい方へ行けるところまで
山頭火

令和4年11月26日 忘年会
食事会を"とんねるや"でしました。
コロナは8波真っただ中です。お酒なしで注意しながらの開催です。
毎年に同じような顔ぶれですが、これで今年も終わったな、と私はしみじみとした気分に浸ることが出来る。
光陰矢の如し

令和4年11月6日 誕生日
下諏訪町から陶芸の火を絶やさない、そんなきっかけで楽陶の会を立ち上げて、十五年もの月日が流れようとは想像もしていなかった。
軽い気持ちで始め、最近やっと何とかやれるようになったかな、とは思うものの、生徒さんから得たことを思い起こすと恩返しはまだまだ。
私は講師でありながら、生徒さんを仕切り、教え、引っ張るということは一切なし。
生徒さんから頂いてるのは、自分を見直したり、成長させてもらう、かけがえのない時間と体験だとつくづく感じます。
生徒さんも当初より十歳〜十五歳年をとっています。
そろそろ恩返しをしなくてはと思う毎日です。
    器干す 陶人たちの 白い息

令和4年10月30日 性格
加齢に伴い人間の持つ種々の機能は変化していく。しかし、唯一変化しないもの、それは性格である。
痴呆の初期症状に性格の変化があることは事実である。だから、もしも性格が変わったとしたら病気であるといっていい。
私の真面目で騙されやすい性格は七十五歳になっても若い頃と何も変わっていない。

令和4年10月22日 第78 回下諏訪美術展受賞式
コロナ蔓延のため今年も授賞式のみで、親睦会はありません。

審査をして一言
審査はアラ探しじゃない。褒めて褒めて褒め抜けばいい。
だって、自分が造ろう、描こうたって、造れない、描けないんだから。
パッと見て良いなと思うものが良い。これが私の持論。
何ごとも 「あれはいけない」、「こうしなければだめ」 では人生はつまらない。
だから、「もう爺さんだから」と年齢相応で老け込むのは大損だと思う。
人生を楽しむために全力投球する。

令和4年10月15日 第78回下諏訪美術展
今年もコロナが蔓延していますが、第七波は治まりつつあります。
第78回下諏訪美術展が始まりました。10月16日〜10月23日までです。
楽陶の会では14人が「下諏訪美術展」に入選し、内4人が入賞しました。
下諏訪町長賞 (つぼみ)岩田信一。
下諏訪市民新聞社賞 (ミルク缶)増沢規江
彩美堂賞 (想う)宮島八重子。
奨励賞 (春霞)野中五十鈴。
入選  (祈り)湊美由紀。(備前るいざ壺)増沢ふみ子。(雨音)中沢智寿。 (帯・帯留)宮坂由紀子。
(空模様)宮坂美奈恵。
(てっせん花皿)小松真弓。 (桜のランプシェード)山田尚子。 (お好み鉢 )林啓子。
 (梅花藻の咲く頃)伊藤とし子 。 (緋色壺)増沢道夫。

令和4年10月9日 美術鑑賞の旅
三年ぶりの美術鑑賞の旅です。
旅の始まりはいつも嬉しいものだが、とりわけ今回はコロナに負けず、出発出来たことが嬉しい。
バスに乗り込むと、旅行気分が一気に盛り上がった。
「よし、低迷する日本経済を救うぞ」
「は、何か言いました」と幹事。
「いや、だから日本経済を救いたいと」
「どうやって」 と幹事。
「旅行だよ」
「自分が旅行したいだけでしょう」
幹事の性格はドライである。

令和4年10月8日 第十二回 美術鑑賞の旅
新型コロナの流行で美術鑑賞の旅は二年間休みました。
美濃は楽陶の会で三回目、陶芸を始めたころから妻と十数回、美術会でも数回来ています。
何回来ても新しい発見、気付きがあります。

  遠き日の こと思い出す 美濃の旅

令和 4 年 10 月 8 日 (土曜日)
コロナ過ですから、面白い、参考になる美術館を巡ります。
岐阜県東美濃地域は良質な陶土に恵まれ、1300年の長きに亘りやきものの産業と文化が息づいています。
作家や窯元が集うこの世界有数の生産地を「セラミックバレー」とし、この地で作られるやきものは美濃焼と呼ばれています。
多治見市では、美濃焼の技が代々受け継がれ、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)を生み出しました。
美濃には、陶芸の人間国宝が6人、荒川豊蔵(志野・瀬戸黒)、加藤土師萌(色絵磁器)、
塚本快示(白磁・青白磁)、鈴木 藏(志野)、加藤卓男(三彩)、加藤孝造(瀬戸黒)です。

AM6:30       下諏訪発
恵那峡SA 休憩後 多治見IC

AM9:00〜AM10:20    モザイクタイルミュージアム
多治見市笠原町で、昭和初期から生産されはじめたモザイクタイル。
表面積が50平方cm以下のタイルは、その色の豊かさ、形の面白さで人々の暮らしを豊かに彩ってきました。
ミュージアムでは、膨大なコレクションを生かした国産タイルの展示をしています。
可愛らしい外観は建築家 藤森照信・諏訪の出身による設計。やきもの産地の「採土場」をイメージした小山の形です。

  竜胆の 花咲く路地の 美術館

学芸員さんの案内で四階までの大階段を登る。
中小企業が多いタイル製造。28年前から古いタイルの収集を続け、2011年から5年の歳月をかけて2016年開館している。
現在の製造方法は、粉末の粘土を高圧で圧着し施釉焼成している。懐かしいタイルのカマド、風呂、銭湯の壁もある。
学芸員さんの熱心な解説で少し時間オーバーする。
四階への階段は登り窯のよう 学芸員さんの解説を聞く タイルの洗面台 屋根が無いタイルの簾

AM10:40〜AM11:40    とうしん美濃陶芸美術館
美濃陶芸の名品が並ぶ円形美術館。東濃信用金庫が所蔵する現代美濃陶芸の作品が数多く並びます。
館内には陽の光が差し込む茶室風休憩スペースもあるので、ゆったりと現代美濃陶芸の世界を楽めます。

  美術館 誰もが紳士 淑女なり

上席学芸員の與語さんの説明を受けながら見学しました。
「美濃陶芸、6人の人間国宝展」 今月は加藤卓男さんです。
加藤卓男さんの自伝を読みましたが、「三彩」で人間国宝になっています。
正倉院三彩の復元をし、ペルシャのラスター彩で有名です。
無料で素晴らしい作品をみさせていただきました。感激です。


AM12:00〜PM1:20    うまいものや 円茶寮
「円茶寮」は、「おばあちゃんの家」を感じさせる会席料理店です。
広々とした空間と昔懐かしい雰囲気の中で、地元の新鮮な食材にこだわった季節の移ろいを表現する雅なお料理です。


  出迎えは 風鈴の音 古き宿

昔は民家だったという。広い中庭を囲む幾つもの部屋と2つの蔵も座敷になっている。
美味しい料理とお酒。自家製パンもありました。ゆっくりとして時間超過しました。

PM1:30〜PM2:00    織部 本店 お買い物
多治見陶器祭りの初日で大変な人ででした。
広いお店で何でもあります。


PM2:30〜PM3:40    美濃焼ミュージアム
瀬戸黒や黄瀬戸、志野、織部といった桃山陶など、約1300年の歴史を持つ美濃焼の流れと、
人間国宝をはじめ美濃の代表的な陶芸家の作品を展示。

美濃焼への理解を深めるよう館長さんにより展示解説をしていただきました。
立礼茶席では、美濃の人間国宝をはじめとする有名作家の茶碗で抹茶をいただきました。
瀬戸黒、黒織部の作品解説が良かった。


志野の作品、そこを通り過ぎる時、足がピタッと止まってしまった。
茶碗の持っているたたずまいというか、
力強さというか、気品というか、
作者のこめた気魄が、何百年経っても見る者の心を打つ、その不思議さ、
眺める者の歩を止めさせる不思議な力がなんなのか、私にはわからない。


PM3:45     多治見IC
PM4:20〜PM4:50   恵那峡SA にて買い物
PM6:30    下諏訪着

 
日帰りの 小さな旅も 十二回

令和4年10月7日 『第13回楽陶の会展』
『第13回楽陶の会展』が会期10月7日〜10月11まで、下諏訪総合文化センターで始まりました。
参加者は19人、穴窯作品・写真建て、お地蔵さん、急須、縄文土器・徳利とぐい飲み・陶灯・盆栽鉢・花器・食器など、
自分の使いたいものを、丈夫で使いやすい、そして飽きのこないものを楽しんで作った個性あふれる逸品です。
山小屋のガマズミを飾りました。
参加者
   小松真弓、増沢ふみ子、中澤智寿、宮坂美奈恵、山田尚子、萩原正代。
林智子、武井梢、平林靖久、湊美由紀、伊藤とし子、野中五十鈴、増澤視江、
宮島八重子、藤村修二、加藤節子、宮坂由紀子、阿部真紀子、増沢道夫。

令和4年10月2日 下諏訪総合文化祭
9月30日〜10月2日まで下諏訪総合文化祭に参加しました。
コロナで中止していましたが、三年ぶりの文化祭は参加団体が三分の一でした、残念。

令和4年9月11日 高岡智照尼
祇王寺の庵主、高岡智照尼は三十九歳の秋、久米寺で出家しました。
「墨染の 我が初姿 萩の前」
九十九歳の秋、智照尼さん逝去。
「露の身と すずしき言葉 身にはしむ」が辞世。
秋冷えの空の下に祇王寺の楓が色づく前の緑を広げ、爽やかな朝日に輝いていた。

令和4年9月4日 文化
働きづめの日々の後にくる六十歳以降こそ、文化に触れ、今までとは全く異なった人生を歩むことを喜びとしなくてはいけないと思う。
いくら稼ぐかが人間的価値になっている今の日本、老後が不安でいっぱいという事情なのか、日本人の老後はいつから楽しめるようになるのだろうか。

共白髪 あれそれこれで こと足れり

令和4年8月16日
死とは 「モーツァルトが聞けなくなること」 アインシュタイン

令和4年8月15日 楽陶の会
楽陶の会がまさか、こんなに続くとは思っておりませんでしたが、これも会員皆様のおかげと心よりお礼申し上げます。
この会がこんなに続いているのは、長く付き合っていても、なれ合いになったり、このくらいは良いだろうという甘えがないからです。
陶芸は損得でやっているものではありません。だからこそ適当な距離感が必要です。皆さん大人なんですね。
楽陶の会で学んだことは 「親しき仲にも礼儀あり」 という事です。

令和4年8月14日 井口昭久     名古屋大学医学部付属病院長
K先生は中原中也の詩が好きだった。
汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる。汚れちまった悲しみにきょうも風さえ吹き過ぎる…・。
飲み屋の喧噪の中で、傍らに座った私の耳元で中也の詩を聞かせてくれた。私は自分が汚れちまったのか、と思い悩んだりした。
私はK先生が好きであった。K先生は亡くなった。一年前に亡くなった。誰も葬式に行かなかった。葬式がなかったのだ。
遺書に葬式はするなとあったそうだ。風の便りに知ればいい、だから誰にも俺の死を知らせるな、とあったそうだ。
生前親しかった人でも彼の死を知ったのは数か月後のことだった。

令和4年7月17日 過去
バックミラーを見る奴は馬鹿。
過去を振り返っちゃ駄目さ、良いことなんて何もないからね。

令和4年6月12日 難聴
「この陶芸の会で作陶しなきゃ、どんなに楽しい会だろう」と言う人がいます。
陶芸なんかどうでもいいと思っている人が、何人かいるんですね。
陶芸が好きな人がもちろん多いのですが、陶芸をダシにワイワイガヤガヤ、女子会とは一味違う楽しみが味わえるこの幸せ。
「遊び半分」という言葉のあとの半分もほどほど。陶芸に命を懸けず、ただ命の洗濯をする会。
日頃のストレスを忘れる時間、その仲立ちをしてくれる陶芸にも手を合わせます。
でも、私、もう耳が遠くなりまして、皆さんのお話、半分は聞き取れないのです。
聞こえれば話は弾むのですが、若い人ほど小声で早口。聞こえませんから私は黙っているしかありません。
とにかく、十五年、元気に話して、やきものを作れることは、とってもしあわせなことでしょう。
陶芸や 同じ顔ぶれ 同じ場所
「独りで沈黙しているよりも、井戸端会議でだべったほうがよい」 宗教改革者ルター

令和4年5月5日 尾崎放哉
大正十五年四月七日、俳人 尾崎放哉が、四十二歳で亡くなった。
東大をでて、酒におぼれて寺男になってからも、挫折するたびに、詩的感覚を共有する師匠の荻原井泉水に、厄介のかけっぱなしだった。
そして、ついに、荻原井泉水から贈られた 「あすからは禁酒の酒がこぼれる」 の扇子を手にして、小豆島へ渡った。
放浪をし続けたこの俳人は、この世への執着は何にもなくて、死が訪れたな、と思うと、枕もとの紙切れに、
     春の山のうしろから烟が出だした
と書いて煙さながらに消えていった。
四年たった昭和五年、荻原井泉水が、この句を書いて山の見える鳥取の寺に、碑をたてた。
放哉のことを想いながら、句をかいた荻原井泉水の、筆のタッチは、さらさらと流れている。
放哉の心の襞をやさしく撫でているように。

令和4年5月4日 そうだよネ     水島淳子 横浜市
先日、テレビを見ていたら若いカップルが楽しそうにイチャイチャしてました。
十才を過ぎた息子に、お父さんとお母さんも昔、ああだったのにどうして、こうなっちゃったんだろう?と聞いてみました。
別に仲が悪いわけではないのですが、近頃はすっかりさび付いちゃってます。
恋の経験もない息子ですが、考えた挙句に一言。
「生活してくって大変なんだよネ」
思わず、そうだヨネと、深くうなずいてしまいまました。

令和4年5月3日 出会い
人は一生に何人の人と出会うのでしょうか。
めぐり逢う人は誰も大切な人。
楽陶の会で、百人を超える生徒さんと出会った。
短い間のめぐり逢いでも、みんないろいろな生き方を見せてくれる。
難しいけれど、まず自分という人間を大切にしなければ。

令和4年4月24日 食事会
18日、諏訪市湖南、お食事処 楪 (ゆずりは)で会食です。
桜は散ってしまいましたが久しぶりの会食でした。

令和4年4月10日 桜咲く
     誰が来て 誰が去っても 桜咲く
     春迎え 七十路の夢は風の中

令和4年3月27日 手習歌 (いろは歌) 11世紀ころ成立
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

令和4年3月13日 手習歌 (あめつちのうた)
平安初期の、手習いの教材。仮名48文字を重複しないように使って作ったもの。
「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すえ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(慣れ居て)」

令和4年2月27日 白魚
     陰膳の 白魚 もはや鮭になり
昔は、旅行に出かけた人が食べ物に困らないことを祈って、仮の形にせよ三度三度食膳を用意しました。。
その膳に、留守の初めの頃はシラウオをのせていました。その時は春だったわけです。
けれども時のたつのは早いもので、もうサケを食べる秋、そして師走を迎えている。
亭主の帰りを待ちわびる、けなげな妻の心を詠んだ句なのです。
このように、シラウオは、春の魚の代表です。
シラウオはサケ・マス類に近いシラウオ科の魚。生きているものは半透明ですが、湯がくと白くなるのでシラウオと呼びます。
このシラウオとよく間違われるものに「シロウオ」があります。これはスズキの親戚にあたるハゼ科の魚で、「素魚」と書きます。
また、「シラス」という言葉がありますが、これは魚の名前ではなく食品名で、イワシやサバの稚魚を湯通しして乾燥させたものです。
シラウオは実に可憐な姿をした魚で、「シラウオのような指」と、ご婦人のほっそりした指が形容されるほどです。

令和4年2月13日 恥ずかしい
夜、ベットで手足を伸ばした時、フッと、あ、今日は我ながら、嫌なことを言ってしまった。
あの言葉、消しゴムで消してしまいたい。もう二度と言いません。などと汗をかき、身を縮める。
その恥ずかしさが、自分の甘えやおごりを少しでも押さえてくれるはずなのに、それがうまくゆかないから人間は始末が悪い。

令和4年1月30日 上木啓二
「仮令、草を食み土を齧り野に伏すとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」
と人心を鼓舞する布告を出したのが、ときの阿南陸相であったが、この非現実的にしてかつ格調高い名文に人々がどう反応したのか、一層竹やりの訓練に励んだのかどうか、私は知らない。
占領軍の最高司令官として君臨した後、母国に帰るマッカーサー元帥には数十万人の人々からファンレターが殺到し、羽田までの沿道をニ十万人の日本人が見送ったという。そのことを「それらは占領の世界史の唯一の例外であった」と書いている人がいる。
そのわずか三週間後、アメリカ上院の聴聞会でマッカーサーは「日本人は十二歳」 発言をしたのだったが、それを聞いた日本人は自らをどう反省したのだろうか。
原爆投下という人類史上最大の愚行を行った敵国アメリカの司令官に対する日本人のファン心理を、どう理解すればよいのだろうか。
まさに十二歳の少年のように、世間知らずのお人好しが日本人なのだ。
日本は唯一の被爆国だという事をよく言うが、アメリカが唯一の核使用国として糾弾されたという話は聞かない。
当時は「朕より上」というので、子供たちはカゲでマッカーサーを「ヘソ」と呼んでいた。

令和4年1月16日 熱燗
冷える夜は熱燗を、ぐいっとやりたい。
人肌程度の時は、唇になじむ感じの華奢な磁器もいいが、熱燗には焼き締めのぐい呑がいい。
熱燗は繊細なお酒に向かないから、杯も素朴なものの方が合う。
お酒が焼き締めの肌に染みる様な感じで、杯になる以前の、土の時代の話が聞けそうな気がする。
     熱燗を注げば 素焼きのぐい呑みの 土の時代が匂う深秋      俵万智
一月十日食事会を「とんねるや」でしました。
新型コロナが収まっているときでした。その後オミクロンで六波がきました。

令和4年1月5日 ロンドンにて       森下紀代美
私は看護婦として七年間勤務した病院を辞め、英語学校に通うためイギリスにやって来た。
その日、私はロンドンのパークロイヤルという駅のホームにいた。
日本から自分で送った冬用の衣類の入った小包を受け取って帰る途中だった。
地図を片手に歩いた。地理がよくわからず、しかも誰も歩いていない場所、というのは私を不安にさせるのに十分だった。
そして、ホームで電車を待つ間に、一つの平凡な、でも忘れられない光景を目にした。
反対車線の電車が、ホームに停車していた。私の立っている場所からよく見える窓に、若い夫婦とその間に子供が座っていた。
貧しい身なりをしていた。子供は二歳くらいだろうか。質素な服を着ていたが、白い肌にピンクの口元が愛らしい。
そのうち、お母さんがバックから一個のリンゴを取り出した。子供の小さな口がリンゴにかじりついた。無邪気に、嬉しそうに。
次にお父さんがそのリンゴを受け取って一口かじる。また子供がリンゴに食いついた。その次にお母さんが一口。
そうして三人は、一個のリンゴを幸せそうに三人で食べたのだった。
見ている私は、泣いてしまっていた。そこだけマッチで照らされたように温かくて、明るい光景。
三人は貧しくても、それ以上にきっと幸せだ。純粋に幸せな場面を見て、それまで張りつめていた糸が溶けてしまったのかもしれない。
涙が止まらなかった。
今でも、ロンドンのことを思い出すたびに、まず目に浮かぶのは幸せそうだったあの親子の姿だ。
本当の幸福の意味を、あの光景から教えられた。そんな気がしてならない。

令和4年1月4日 柿本人麻呂       細川護熙
数ある万葉の歌人のなかでも「歌の聖」と讃えられるのが人麻呂だ。
次は彼が妻と別れて旅立つ折に故郷の岩見(島根県)で詠んだという長歌の一部である。
       岩見のや 高角山の 木の間より
       我が振る袖を 妹見つらむか
のびやかにことばの諧調を重ねつつ、最後に「目の前の山を平らに削っても愛する妻の家を見たい」
と吐露するこの歌にもその特徴は出ている。
万葉の心を訪ねて岩見に遊んだわたしは、益田の柿本神社に詣で、人麻呂の視線を遮った峠の山々を眺めたその足で、ほど近い海辺の道を辿ってみた。
そして千三百年以上も前の人麻呂夫婦の情愛と別れに思いを馳せて、しみじみといにしえを偲んだ。
日本海の水と空は沖の島影を包み込み、どこまでも太古の風景を思わせるように美しく沈んでいた。

令和4年1月3日 わらい       金子みすゞ
それはきれいなばらいろで、
けしつぶよりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
おおきな花がひらくのよ。

もしもなみだがこぼれるように、
こんなわらいがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。

令和4年1月2日 年中注連縄      河井須也子
父(河井寛次郎)は、お正月に飾る注連縄をこよなく愛した人でした。
京都にも、それを取り外して焼く行事がありますが、我が家は父があまりにもそれを愛惜するために、取りはずすことをためらいました。
京都に生まれ育った母には、お正月も過ぎて、注連縄が下がっていることは、もっとも不細工なことでありました。
そんな母が気の毒で、父が旅行に出たのを幸いに、取り外して物置に入れておきました。
数日して父が帰館、「今年の正月もどうやら済んじまったようだな」と開口一番あたりを見まわしました。
私は正直に事の次第を言ってしまいました。
父は「そうだよな、もっともだ、それが当たり前というものだ」と、叱られている子供のようになったので、今度は父がかわいそうになり、
「それほど好きな注連縄なら、人に迷惑をかけるものでなし、大いにおつりになるといいわ」と申し、大笑いになりました。
それ以来、我が家は注連縄を年中はずさず、お正月に新しいのに取り換えております。
いまや私どもにとって、年中お正月の新しい気持ちを忘れないために、有り難いことだと思います。
父は、あの清浄を感じさせる注連縄のもつシンプルな美しいシルエットを愛し、またそれを、囲炉裏端で無造作にやってのける無名の作者さんの仕事を、いつも見ていたかったのにちがいないと思います。

令和4年1月1日 元旦
会員の皆様、あけましておめでとうございます。
昨年の「楽陶の会」は新型コロナで自粛。一年間教室で作陶する以外は活動できませんでした。
今年は新型コロナの国産ワクチン・治療薬が出来ることを祈るばかりです。
 
のびる土
 
すなほに 茶碗は
  まわりをり
   備前の陶工   藤原啓
今日は今日の風が吹く。
お互いに健康で寿命を全うしましょう。

令和四年

令和3年12月31日 大晦日
今年もまた生き延びた。
数限りない人間が泡のように浮かんでは消える世の中に、たかが一人の陶芸家がどの道をどう歩いてもどうでもいいようなものだが、こうしてゆっくり振り返ってみると、なんのことはない、私はその時々の社会の波に、押し流されてきただけだった。

人生をやり直すことはできるだろうか。
今更やり直しても、どんな生き方をすればいいのかわからない。
やっぱり、同じようなことしかできないかもしれない・・・・
それでもいい、人を裏切らず、人に迷惑をかけず・・・・・命の終わるまで、一生懸命生きてみたい。

私はいつも、ひっそりと、穏やかに生きたかった。
もちろん、名誉にもお金にも、なんの興味もなかった。
ただ、人間らしく、誠実に生きてゆきたかっただけだ。
    実らぬが 頭の低い 夫です

令和3年12月26日 貝原益軒       細川護熙
貝原益軒はまた旅行を好み、その足跡は江戸、京都を始め各地に印されているが、長崎も彼が若い頃から何度も訪れたところだ。
益軒はこの地で中国の新刊、珍書をもとめ、新知識に目を開かれていった。
彼の時代を超えた視野の広さ、人間性あふれる柔軟な思考形成は、当時世界に開かれた唯一の窓だった長崎体験と無縁ではないに違いない。
おそらく益軒もいくたびか眺めたであろう眼鏡橋は、いまや益軒について何も語ってくれないが、江戸という時代に長崎がもった意味を静かに示してくれているようだった。

令和3年12月19日 貝原益軒       細川護熙
貝原益軒といえば「養生訓」を思い浮かべる人が多いだろうが、益軒は福岡の黒田藩の儒者である。
益軒がようやく辞職を許された時、彼はすでに七十歳を超えていた。
驚くのはそれからの十五年近い晩年の人生で、死の直前まで書を読み、著述することをやめず、『養生訓』は死の前年、彼の思想の原点、『慎想録』は実に死の年に成ったものだ。その知的関心と情熱には頭が下がる。
『慎想録』には幼少時貧困のなかで学び、一時は藩主の怒りにふれて浪人生活を余儀なくされなくされるなど、決して平坦とばかりはいえなかった益軒その人の生涯の経験と思索と知恵が籠められている。
「忙なればすなわち失う」などは私も痛感するところだ。
「世の貶誉は、おうおう理にあたらざるもの多し、憂喜をなすに足らざるなり」もいい、貶されたからといって悲しまず。
褒められたからといって喜ぶこともない。世の評判など気にかけず自らの信ずるところを勇気をもって行えという事だ。
至言である。
続く

令和3年12月5日 岸充昭 (新潟県)
乳がんでお前が亡くなってから、四度目の冬が近づいている。
独りで観る四季折々の風景は、いつも見たことがない気がする。そして目に滲みる。
男は生きるのが不器用だから、やっぱり女房より先に逝くべきだと思うよ。
助産婦だったお前は、多くの新生児を取り上げた体験をもとに、小・中学校の生徒たちに、命の誕生までの道のりと、その大切さについて講演をしていたが、講演を聞いた生徒たちの感想文集を見つけた。
そしてお前が生徒たちに残したという言葉を知ったよ。
「生きているだけで百点満点」
その言葉に勇気を持った生徒が多くいた。
お前に頼みたい、どうか千の風になって、残された俺や、まだ独り立ちしたとは言えない我が家の、三人の子供たちの耳元に立ち寄り、励ましてほしい。そして言って欲しい。
「生きているだけで百点満点」と

令和3年11月28日 河井須也子
父(河井寛次郎)にとって、私はけっしていい娘とはいえなかったと思います。
人一倍、敏感な心を持っていた父は、喜びも人より大きく、悲しみも人より深く受け止めた人でした。
そんな父に時に抵抗をした私から、父は傷ついたこともあったかと思うと、今を贖罪の気持ちで一杯です。
父は西洋かぶれをしたことが嫌いでしたのに、私はわざと爪を伸ばしてマニキュアをして、父の目の前へぐっと突き出したことがあります。
父は笑って「鷹の爪さん」と言ったきりでした。
天邪鬼の私は当然叱られることを期待していたのですが、この時ほどどきんとしたことはありません。
叱られた以上の衝撃でした。
父を試そうとしている醜い自分がつくづく情けなくなるのでした。

令和3年11月11日 『第12回楽陶の会展』
昨年はコロナ過で中止した楽陶の会展をしました。
『第12回楽陶の会展』
が会期11月11日〜11月15日まで、下諏訪総合文化センターで始まりました。
参加者は20人、穴窯作品・写真建て、お地蔵さん、急須、縄文土器・徳利とぐい飲み・陶灯・盆栽鉢・花器・食器など、
自分の使いたいものを、丈夫で使いやすい、そして飽きのこないものを楽しんで作った個性あふれる逸品です。
山小屋の紅葉を飾りました。
参加者   宮坂邦子、小松真弓、増沢ふみ子、中澤智寿、宮坂美奈恵、宮下茂、花岡美知子
       
林智子、
武井梢、平林靖久、湊美由紀、伊藤とし子、野中五十鈴、増澤規江
       井上寿子、原瞳、宮島八重子、藤村修二増沢道夫、野沢文子、。

令和3年11月6日 誕生日
人、それぞれに、ふるさとがあります。
ふるさとは味であり、音であり、何より人である。
自分にとって大切なもの、自分だけのもの、他人にはわからないが自分の宝物。
そんなつつましい思い出がふるさとなのでしょう。
私は、自分のふるさとはどこだろうと考えてみた。
親父の机にあった本の粗い紙の感触。
師匠に弟子入りして、夢中で粘土と格闘していた頃、奥さんからご馳走された食事。
楽陶の会で仲間と焼き物造りに熱中している現在。
陶芸教室は私の遊び心ですが、私も年ですからあと何年続けられることか。

令和3年10月31日 希望
ビタミンCとユーモアで末期がんを治した人の話を読んだ。
ビタミンCだけでなく、ユーモアががんの治療に役立つとは知らなかった。
日本人は子供の頃から頑張ることばかり勉強してきた。
ユーモアが大事だとは誰も教えてくれなかった。

令和3年10月10日 個展
人生にとって老齢期こそが最も充実した人生の時期であるという。
『人は成熟するにつれて若くなる』 ヘルマン・ヘッセ
陶芸の先生として、また薪窯を焚いている現在を大切に、残り少なくなった老後を健康に留意しつつ生きていきたいと願っている。

令和3年9月5日 続 呪詛       加門七海
神道系で、明王に匹敵するのは八幡神である。国家鎮護の八幡神を祀った神社は、全国に多数存在する。
神仏習合色の濃い神様で、八幡大菩薩の名前でも、未だに十分通用する。
神像のあるところは、大概が僧形八幡神となっていて、神様は僧侶の格好をしている。
そして、僧侶八幡神のお顔は妙に穏やかである。
普段、穏やかな人ほど、怒らせるとコワいというのは、どうやら本当のことらしい。
九州の筥崎八幡宮の拝殿には、「敵国調伏」と記された、額がかかっている。
敵国?こんなにターゲットがはっきりしている神社で一体何を祈ればいいのだろう。
(今の敵国って、×国か、×国、××ア・・・・・?)

令和3年8月29日 呪詛       加門七海
民間の呪詛といえば、木に藁人形を打ち付ける丑の刻参り。
宗教で呪詛のマニュアルが揃っているのは密教だ。
大メジャー不動明王から始まって、降三世明王、大威徳明王などの五大明王、そして大元帥明王などと目的によってあらゆる御仏が今か今かと、手をこまねいて待っている。
これらの御仏を前に壇を整え、供物を捧げ、真言唱えて密教僧は調伏をする。
まったく庶民の藁人形では、太刀打ちできないものがある。
殊に大元帥明王は、国家の敵の調伏には、すごい威力を発揮する。
平将門も元寇勢も、噂によると、この御仏に睨まれて、あえない最期を遂げたらしい。
ちなみに昔、軍人に与えられた「元帥」という称号は、国の敵を滅ぼすこの御仏に由来している。
高野山にある大元帥明王画像は、三つの目を持つ十八の顔と、三十六本の腕を持ち、体中を蛇と髑髏で飾って、炎を纏うコワモテである。
続く。

令和3年8月22日 納涼会
諏訪は今、コロナが蔓延していますので、予定していました納涼会は中止しました。
教室で私の第68回日府展、長野県知事賞を受賞したお祝いが、突然行われびっくり、そして感謝です。
皆さんから花束と甚平をいただきました。ありがとうございました。

令和3年8月15日 高村光太郎
      半ば狂える妻は草をしいて坐し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のように慟哭する・・・・わたしもうぢき駄目になる。
発病して精神が不安定になった妻の智恵子を連れて、光太郎は東北旅行に出た。
『山麓の二人』と題された、この詩の地を訪れてから五年後の昭和十三年、南品川のゼームズ坂病院に入院していた智恵子は、粟粒性肺結核で亡くなった、五十二歳。
高村光太郎は彫刻家だが、詩人としても有名だった。
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る。ああ自然よ 父よ (後略)」と書いた『道程』をはじめ、智恵子との愛をつづった詩集『智恵子抄』などは、今なお多くのファンに読み継がれている。
戦後、光太郎は、岩手県稗貫郡太田村山口(現・花巻市)に小さな小屋を建て、農耕自炊の生活をしながら、心の中の智恵子と暮らした。
七年後、依頼された十和田湖畔の乙女の像の制作のために、東京中野区のアトリエに転居。
像は翌年完成したが、若い頃から抱えていた肺炎が悪化し、それがもとで亡くなった。享年73。
四月二日深夜のことで、季節外れの雪が降っていた。

令和3年8月14日 善根
「善根」とは「よきこと」のことです。
ひとに喜んでもらえる仕事をこつこつとやり遂げることです。
こういうのを「よろこばれるよろこび」といって、お釈迦様はそれを「幸福な人」と言っています。

令和元年8月7日 第77回下諏訪美術展授賞式
コロナが蔓延しておりますので、第77回下諏訪美術展授賞式は下諏訪総合文化センターで行われました。

令和3年8月1日 第77回下諏訪美術展
猛暑です。今年も暑い。コロナが蔓延しています。
第77回下諏訪美術展が始まりました。8月1日〜8月7日までです。
楽陶の会では10人が「下諏訪美術展」に入選し、内5人が入賞しました。
下諏訪美術会賞 (初夏の雨) 湊美由紀
下諏訪市民新聞社賞 (初秋) 増沢ふみ子。
彩美堂賞 (露時) 中沢智寿。
奨励賞 (涼感) 宮坂由紀子。
奨励賞 (花入) 宮坂美奈恵。
入選  (山波み) 野中五十鈴、(残雪) 武井梢、(心の響き) 林啓子、(飾皿) 小松真弓、(緋色壺) 増沢道夫。

令和3年6月20日 渥美清       出久根達郎
カミさんは結婚する前、銀座の新刊書店でアルバイトをしていた。
渥美さんは大変な本好きで、しょっちゅうその店にやってきた。来ると何十冊も、まとめて買う。文学書が多かったそうだ。
或る日、書棚の最上段にある『広辞苑』を希望された。机上版の、重いほうである。
カミさんが脚立に乗っておろした。細い腕を伸ばして、慎重におろしていると、渥美さんが「骨折しないようにね」と声をかけた。
カミさんが、「どうぞ」と手渡すと、「わあ、重いな」とよろけた。
「こりゃ重いや、二十万語の重みだね」と苦笑いし、「言葉って重いんだよ」と言った。
帰りがけ、「すっかり骨を折らせちゃったね」と笑った。しゃれを言ったのである。

令和3年5月5日 小唄       梅は 咲いたか
梅は 咲いたか桜はまだかいな 柳やなよなよ風しだい
山吹や浮気で 色ばっかりしょんがいな
あさりとれたか蛤やまだかいな 鮑くよくよ片想いさざえは悋気で 角ばっかりしょんがいな
柳橋から小船を急がせ舟はゆらゆら波しだい 舟から上がって土手八丁吉原へご案内ひ

令和3年5月4日 癌め        江國滋
一夜にして 手品のごとく 牡丹咲く
死神に あかんべえして 四月馬鹿
夏は来ぬ われは 骨皮筋右衛門
まだ生きていたかと つぶやき 朝涼し
おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の風

令和3年5月3日 癌め        江國滋
残寒や この俺が この俺が癌
木の芽風 癌 他人事と 思いしに
春一番に 抗し一歩を 踏み出さん
ニン月の あの日より 涙もろくなり
百回も 「なぜだ」と自問 春寒し
見をさめと 思う我が家を 出れば春

令和3年5月2日 抗議
或る時、アメリカの新聞が「日本人は表現が曖昧で、何を言いたいのかハッキリしない。
日本人は堂々と主張のできない民族だ」という題名で特集を組んだ。
数日後、日本人らしき人物からの投書があった。それにはこう書かれていた。

先日の貴誌の記事についてですが、より幅広い議論を検討していただいた上で、前向きに善処していただければ幸いと存じますが、いかがなものでしょうか。      匿名希望

令和3年4月4日 勉強
勉強というのは、先生がどこかから持ってきた知識を、かみくだいて生徒に手渡しすれば終わりということではない。
知識を得るまでにはさまざまな試行錯誤がある。
アンテナを立てて情報をえながら試行錯誤を繰り返していると、困難な状況でもうまく難所を切り抜けられることがある。
これは”教育”と”教養”の問題。
「教養がある」というのは、よく本を読んでいると言う事でない。
モノを学ぶ、感じる、認めるとか批判精神を養うといった勉強の核をどう身につけていくかが最も重要。
それが出来て初めて教育と教養が合致していくんじゃないでしょうか。

令和3年3月27日 お花見会
コロナが蔓延していますが、諏訪は患者が出ていないので感染予防対策を万全にして、旅館 奴で一年ぶりの昼食会です。
お酒はないですが、料理は素晴らしい。
私はコロナウイルスにビビッて計画出来ませんでしたが、武井会長さんの果敢な判断でしました。
よかった。
楽陶の会会員は中年以上の奥様方が多いのだが、いろいろ敵わないなあと言う気がしてしまう。
そんなとき、歴史で習った「無敵艦隊」という言葉が浮かんだりする。
その後、第四波が来ました。


令和3年3月21日 シルバー川柳
まな板の へこみに妻の 苦労知る
老妻の 偽装見て見ぬ 思いやり
突然に 医者がやさしく なる不安

令和3年2月28日 シルバー川柳
厚化粧 笑う亭主は 薄毛症
ばあちゃんの 勝負下着の 診察日
恐いもの 見たさや妻の フラダンス

令和3年1月10日 川口松太郎
昭和十年、川口松太郎は第一回直木賞を受賞。
直木賞の「ご本尊」直木三十五は、生前、松太郎に、お前は何をやっても食いっぱぐれのない男だが、小説だけはだめだからあきらめろ
、と言っていた。
松太郎は内心何くそと思っていた。それだけに、直木賞は嬉しかった。
直木の先見の明を裏切った気がするので、彼の墓に行って謝ってくる。
授賞式のスピーチでそう述べると、来会者が笑って拍手した。
       「生きるということむずかしき夜寒かな」

令和3年1月4日 結城芳夫        出久根達郎      
「ナイショ ナイショ ナイショノ話ハ アノネノネ ニコニコ ニッコリ ネ 母チャン オ耳ヘコッソリ アノネノネ 坊ヤノオネガイ キイテヨネ」
童謡「ナイショ話」は、昭和十四年七月、キングレコードから発売された。作曲は山口保治。
作詩者が、結城芳夫。十九歳の、書店の住み込み定員だった。
芳夫は、パラオ・シンガポール輸送船団がバシー海峡で魚雷攻撃を受け負傷、昭和十九年九月戦病死。二十四歳。
「神様が、私にいいことを教えてくれた。---それは童謡」。
「ナイショ ナイショ ナイショノ話ハ アノネノネ オ耳ヘコッソリ ネ 母チャン 知ッテイルノハ アノネノネ 坊ヤト母チャン 二人ダケ」

令和3年1月3日 三浦しをん
祖母の住む村では、「いいボケかたですな」というのが老人に対する一種の誉め言葉として多用される。
「いいボケかた」とは、物忘れがどんなに激しくても、人にあまり世話をかけずに穏やかに暮らすこと、を指すらしい。
祖母の家に滞在しているとき、二人のおじいさんが毎日何やら語らう姿が見られた。
私は祖母に「今日もおしゃべりしてるね」と言った。すると祖母が教えてくれた。
「私もたまに一緒に話すんやけど、一人はいいボケかたしてはるで、『ここいらも、ずいぶんようけ建物が出来ましたなあ』って言わはるんや」
見渡す限りの山々の間に、人家がちょびっと点在している村である。「そんなに建物が増えたかな?」
「増えへん、増えへん、私が嫁に来たときから、ちぃっとも変わらん風景や。でも私は、『ほんまに、ここらも様変わりしましたな』って相槌を打つ。そうしているうちに、日が暮れるんや」
目にしている風景も違えば、流れる時間の速度も違う。老人だけが知ることのできる静かで不思議な世界が、たしかに存在しているようだ。

令和3年1月2日 井上ひさし
一二五五とは、国土地理院発行五万分一地図の総発行枚数である。
つまり、この一二五五枚の地図図形を並べれは、五万分一の日本列島が出来上がるわけだ。
このうち私が実際に行ったことがあるところは一〇四ヶ所。
すなわち日本列島の、わずか十二分の一しか、自分は知らないと気付いてうろたえた。これでよくもまあ、
「日本とは・・・」
「日本人とは・・・」
などと偉そうな口をきいたものだと、我ながら呆れる。
これと似たようなことが書物の場合にもある。
みっちりと読む本は、週に二冊。一年で百冊。十年で千冊。十歳から勘定してわずか三千冊である。
にもかかわらず、我が家に一万冊近い本があるのはどういうわけだろう。
おそらく積んでおくだけの書物。目次を眺めただけの書物がほとんどなのだ。
そして悲しいことは、いかに長寿に恵まれたとしても、現在手持ちの書物すら読破できぬということ。
つくづく人の一生は短いと思う。

令和3年1月1日 元旦
会員の皆様、あけましておめでとうございます。
昨年の「楽陶の会」は新型コロナで自粛。一年間なにも活動できませんでした。
今年は新型コロナのワクチンと治療薬、特効薬が早く出来ることを祈るばかりです。
この年になりますと1年は大切です、無駄にできません。
とにかく今は般若心経を唱えて心を落ち着かせましょう。
  仏説摩訶般若波羅蜜多心経
   観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
   度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

   空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相・・・