楽陶の会9に続く
令和5年12月31日 晦日
故山田師匠から指導していただいた陶芸を杖にもう少し教室を続けて行こうと思っております。
会員皆様、今後ともご協力を賜りますようお願い申し上げます。
冬本番になり、寒さ日増しに強くなりますのでお体大切にお願い申し上げます。

除夜の奥 金と鐘との浮世かな
緋色窯主人 拝

令和5年12月30日 歳月
光陰矢の如し今年もあと数日を残すのみとなりました。
誰がどう力んでみても、人生の主役はいつも歳月です。
だから、「歳をとることは素敵なことだ」 と、気持ちの持ち方を、意識して楽しくする。
人生や、家族や、世の中には"流れ" というものがある。
私はこの流れに逆らわず、流されず、優しく寄り添って生きていきたい。
志はあるけれど、肩ひじ張らず、自然に年を重ねていきたい。
今までどのように生きてきたか」 というよりは
「これからどう生きていこう」 という思いが強い人のほうが、
幸せをつかむチャンスがあると思う。

令和5年12月24日 中村伸郎
平成三年七月五日に心不全で亡くなった中村伸郎は、没後に上梓する予定で遺稿集を用意していた。
その遺稿集 『永くもながの酒びたり』 の中に、自ら 「悼、中村伸郎」 という一文を綴っている。
<彼、中村伸郎がこんなに永生きするとは思わなかった。・・・素質のない自分と知りながら、やめる気はなかった彼・・・やりたいことを我慢せずにやった彼・・・良かったね、と言ってやりたい>
この "遺言" には、次のような辞世の句も入っていた。
除夜の鐘死んでしまいしエゴイスト
生きていてまた顔つくり初芝居
はぐれ鴨残るときめて浮き沈み

令和5年12月17日 河野静雲
   落葉してからりと高き一樹かな
最期の一葉まで落として裸木となった一樹が、冬空に背を伸ばしてすっくと立っています。
葉が生い茂っていた頃は気がつかなかった木の高さに着目した筆者。
厳しい冬の只中で、枯れ木となってなお毅然と立つ、一樹を眩しく仰ぎます。
"からりと"には、一樹の潔さのみならず、冬晴れの空の青さと高さもよく表れています。
人の晩年にも通ずる一句です

令和5年12月10日
汚名挽回、汚名を取り返してどうする。挽回するのは名誉で、汚名は返上するもの。
先立つ不幸はもちろん先立つ不孝が正しい。

令和5年12月 3日 ホラチウス
「センペル・アヴァルス・エゲット」  欲深い人間は常に窮乏している     ホラチウス

令和5年11月26日 五代目市川団十郎
江戸歌舞伎全盛時代の名優、五代目市川団十郎は晩年、舞台を退いて閑雅な隠居生活を送り、こんな辞世の句を残している。
   凩に 雨もつ雲の 行衛かな

令和5年11月25日 忘年会
忘年会を「ゆうむ25」諏訪市湖岸通りで16名出席で行いました。
一年間無事に、充実した教室が出来たことに感謝です。
諏訪湖の見えるゆったりとした部屋。
湖岸の桜は葉がみんな散ってしまいました。
美味しい料理とお酒、穏やかな生徒さん達。
来年も頑張ります。

令和5年11月12日 老い
人は老いを軽蔑する。しかし、自分もその仲間に足を踏み入れていることに気が付かない。
だから自分が老いた時、悔やむことになる。
そうならないために、早くから老いに対する人生設計を考えておくべきである。
「身老心未老」  身は老いても心はまだ若い

令和5年11月6日 誕生日
「継続は力なり」 といいますが、楽陶の会を始めた時、六十歳だった私も 七十六歳になりました。
これからも 「したいことをする、したくないことはしない」 と割り切って、転ばず、風邪ひかず、義理を欠くをモットーに生きる。
「備えあれば憂いなし」 といいます。
「先憂後楽」 も同意語でしょうが、私は 「先楽後楽」 が良いですね

その昔 座れば牡丹 今立てず

靴下を 立って履くのは E難度

令和5年10月29日 秋田県 後藤貴子 46歳
「老々介護」の問題が深刻化している。
山奥の小さな湯治場を営む我が家も深刻だ。常連さんの老齢化。紙おむつを着けている人も少なくない。
「小便臭い!」 と苦情を言われ、若い客を失うことも・・・。
ある日、83歳のお客さんが、88歳のお客さんの風呂敷包みを持ち帰るのを目撃。えっ?彼女まで呆けた?
実は、一緒に洗濯してあげていたのだ。同居の家族でさえ嫌がるおしっこ臭い衣類やタオル!
子供だから年寄りだから、障害者だから守ってやらねばと、奇妙な先入観で 「親切の対象の有無」 を考えてしまいがちだ。
年齢も健康度も関係あるものか。肝心なのは気持ちだ。
そんな当たり前のことに気付かせてくれて、朗々と親切をし会う高齢の常連さんたち。
「おめも、としょれば わかるす」
あなたも年をとれば理解できるよ、と優しく言い放つ素敵な人たちです。

令和5年10月22日
秋は実りの季節ですが、それが深まりゆくにつれて凋落の季節へと移ろってゆく。
人生の終焉を意味する冬にはまだ大分間があるが、人生の晩秋には、それまでの季節とはどこか違った雰囲気がある。
生まれてから老いるまで、人間の一生を全体を通して眺めてみると、それまでの人生で築いてきた大切なものを次々に失ってゆく季節が人生の晩秋に始まっていることに気づく。
定年退職によって仕事や社会的地位、それに経済的安定を、子供が巣立っていって子育ての楽しみを、老いの兆しが始まって心身の健康を、そして身近な人々の死によって社会的なつながりを失い始めるのである。
このように様々なものを失い始めるのが晩秋である。

令和5年10月20日 『第14回楽陶の会展』
『第14回楽陶の会展』が会期10月20日〜10月26日まで、下諏訪総合文化センターで始まりました。
参加者は22人、穴窯作品・写真建て、お地蔵さん、急須、縄文土器・徳利とぐい飲み・陶灯・盆栽鉢・花器・食器など、
自分の使いたいものを、丈夫で使いやすい、そして飽きのこないものを楽しんで作った個性あふれる逸品です。
山小屋のガマズミを飾りました。
参加者   小松真弓、中澤智寿、宮坂美奈恵、山田尚子、萩原正代、宮下茂、加藤節子、林智子。
       宮島八重子、武井梢、宮坂邦子、平林靖久、湊美由紀、伊藤とし子、野中五十鈴。
       藤村修二、永田陽一、東条ゆかり、増澤規江、宮坂由紀子、増沢ふみ子、増沢道夫。

令和5年10月8日 折れない心 広島県 下平悦子
私は実母の介護をして、二年三ヵ月、母の介護で手一杯。
卒寿の義母は、義父の介護をしている。病を抱えながら、手をぬくことも無く、真摯に介護と向き合っている。
義母には何もしてあげられないのに、私と母のことをいつも気遣い、電話や心づくしの手料理、甘党の私たちにケーキやお饅頭の差し入れをしてくれる。
心が折れそうなとき、義母の苦労を知りながらも口をついて出る愚痴を腹も立てずに聞いてくれる。
「人に善くしていたら、いつか自分に返ってくるから」 と励ましてくれる。
何があっても前向きで、楽天的。人生のお手本のような義母。どうしたらあんなに頑張れるんだろう。私には到底、真似ができない。
「あんたが頑張っていると思えば、私も頑張れるよ」 と言ってくれる義母。
元気をもらっているのは、私のほうです。
わたしの義母でいてくれて、ありがとう。・・・お母さん。

令和5年10月1日
睦月、如月、弥生(旧暦の春)、卯月、皐月、水無月(夏)、文月、葉月、長月(秋)、神無月、霜月、師走(冬)。
その名の由来を知れば豊かに季節感がせまってくることに惹かれるが、ここで月に注目しよう。
明るく照らす昼の陽にくらべて、闇の夜空に澄みわたる月が儚くも哀切に満ちた風情であるだけに、移ろいゆく人の情けや切なく燃える恋心を重ねて詠む相聞歌として月は格好の材料だった。
月齢 0を新月 、3・三日月、7・上弦の月、14・待宵、15・十五夜・望月・満月、
16・十六夜、17・立待月、18・居待月、19・寝待月、20・更(ふけ)待月、23・下弦の月、29・晦(つごもり)の月。
有明の月とは、そろそろ夜が明けようとしているのに、まだ天空に残っている月のことを言う。

令和5年9月28日 下諏訪総合文化祭
9月29日〜10月1日まで下諏訪総合文化祭に参加しました。
私は窯を焚いていましたので、会長さんを中心に皆さんが展示してくれました。

令和5年9月24日 魯山人
明治から続く老舗料理店「辻留」。三代目主人の 辻義一さんは、20代の頃、魯山人のもとで料理を修行して以来、魯山人の器で客をもてなしてきた。
「魯山人先生の家の一角にあり、多くの美術品を納めていた「参考館」 には、割れた鉢や発掘した破片も沢山ありました。それをひとつずつ見ていると、ああ、これが作品のあの部分に生きているんだな、という事が分かる。でも、魯山人の器に写しはないんです。いっぺん、いいところが魯山人の体に入って、それが昇華されて現れる。魯山人の凄さでしょうね、料理をよく知っておられたから、寸法もよくて実に盛り付けやすい。」
料理が映える魯山人の器。その秘密は、独特の「間」 にあると辻さんはいう。器の中にあるその間を見極め、料理を盛りつけていく。そのとき、器と料理は、ともにいっそう輝きを増すのである。
魯山人が常々言っていた言葉がある。「器は料理の着物」。「器と料理は車の両輪」

令和5年9月10日 烏賊
イカの種類はなんと460種もありますが、私たちにはスルメイカ、ヤリイカ、コウイカ、アオリイカ、ホタルイカ くらいがおなじみです。
イカはカロリーが低くたんぱく質が豊富なので栄養面からも優秀です。ホタルイカは内臓ごと食べるので、ビタミンAが補給できます。
さて、イカは漢字でカラスの賊と書きます。これはイカが海で泳いでいるとカラスが死骸だと思って、ついばもうとやって来るが、イカは逆に手足でカラスに絡みつき、海に引きずり込んで食べるという故事から来ています。
つまりカラスをだましたわけですが、「イカサマ」という言葉もここからかもしれません。
だますわけではありませんが、イカは敵が来ると墨を吐きますので、「墨魚」 と呼ばれることもあります。
セピア色の思い出といいますが、実はセピア色はもともとイカの墨から作って絵の具のこと。
イカの足を「ゲソ」といいますが、昔は下足を整理するに十足づつ集めたので、イカの足の十本と粋な符丁として呼ぶようになりました。
また、婚礼のときのスルメは、花嫁が逃げ出さないように「寿留女」と書き、これに「よろこぶ」の昆布をそえて使われます。
  昆布するめ どらを封じる道具にて
「どら」とはドラ息子のこと。放蕩息子をおとなしくさせるには結婚させるしかないというわけです。

令和5年9月3日 楽陶の
先生と呼べば事はすむと思って 「先生」 と声かけられて久しい。
だが、先生と呼ばれたからって、必ずしも尊敬に価する先生という意味でないことは百も承知している。
楽陶の会は自由奔放、何のこだわりも気兼ねもなく、ひたすらゆたかな時空に漂いつつ遊んでいる。

令和5年8月27日 長寿の心得
人生は山坂多い旅の道 気はながく 心はまるく 腹たてず 口をつつしめば 命ながらえる
還暦 六十歳でお迎えの来た時は 只今留守と云え
古希 七十歳でお迎えの来た時は まだまだ早いと云え
喜寿 七十七歳でお迎えの来た時は せくな老楽これからよと云え
傘寿 八十歳でお迎えの来た時は なんのまだまだ役に立つと云え
米寿 八十八歳でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云え
卒寿 九十歳でお迎えの来た時は そう急がずともよいと云え
白寿 九十九歳でお迎えの来た時は 頃を見てこちらからボツボツ行くと云え

令和5年8月16日 山小屋
夕方になっても、夏の山小屋はたそがれが長く、なかなか暗くならない。
天心はまだ薄青く、陽気な微光が空一面に広がっていて、快い風が吹く。
暮れそうで、なかなか暮れない空。
その時私は、人生に惑溺していたような気がする。
うっとり、ぼんやり、時間の波のまにまに漂って、ここちよい怠惰に身をまかせ、流れゆく一瞬一瞬を愛をこめて見送っていた。
怠惰の甘美な情感に陶酔していたのだ。

なんとなく、やるせない気持ちも一抹、底にあってーー

令和5年8月15日 辞世の句
 蕪汁の だしにこだわり 死に逝くか  佐々木キミ  埼玉県 九十歳
昆布、煮干し、かつおぶしで煮出し汁のとり方、煮くずれをふせぐための面取りの方法など、姑に鍛えられ、修練をかさね習熟した。
姑とのふとしたトラブルは、だしのこと。終生不和のまま、さびしい二人だった。
怨念の傷心を身につけて、だしへのこだわりが第二の天性になっている。
亡き姑に心からお詫びする。

令和5年8月14日 田辺聖子
祖母は雨の中、爪革をかけた高下駄をはき、私の荷物を持ってくれ、私には、軽くなった鞄を持たせた。
足の悪い私を、祖母は不憫がってくれたのであろうけれど、私は小さい頃から堪えることに慣れているので、祖母の心遣いもさほど有り難く思えず、校門で祖母を追い返したのであった。美しくもない女の子が、仏頂面で言葉惜しみしている風情など、ほんとうに可愛げなかったことであろうと、今になってみれば思われる。
どうしてあの時、祖母にひとこと、少女ながらに感謝をこめて、「あばあちゃん、大きに、堪忍な」 と言えなんだのであろう。
人間はこうやって取り返しのつかぬ悔いを重ね重ね、死んでゆくのであろう。
私はこの頃、こう思う。人は点と点のつきあいでよいのだ。全貌くまなく捉える線のつきあいでなくてもよいのだと。
私は点の部分で、その人をいとおしみ、親しんでいくであろう。
それだけのことが、六十年もたたないとわからないとは、私という人間もまことに痴愚のきわみである。
ともあれ、祖母の記憶も、ようやく私から薄れようとしている。
雨の朝の学校で、「大きに」 とひとこといえなかった悔いも、いまは、痛みというより懐かしいものに変わっている。

令和5年8月13日 田辺聖子
その国の文化度はなんで決めるかというと、私としては、その国の人々が、
@ 自分の意見を持っている。
A 生活を楽しんでいる。
ということに尽きるように思われる。
ところで、人生の楽しみ方に長ける、という点は、昔のほうが、たくさんの能力を持っていたかもしれない。
戦前の大阪では、薬局のおっさんは小唄をうたい、大工の爺さんは浪花節を唸り、酒屋の兄ちゃんはギターが弾け、町内に一人二人は三味線の堪能な婆さんがいて、地蔵盆では盆踊り唄を弾き歌ってくれるのであった。
大阪のミナミに安くてうまい天丼の店があり、ここの七十八歳になる頑固爺さん、店では、とぎれる間なく海老天を揚げているが、家へ帰ると楽しみは読書、それに川柳、水彩画という。
この七十八翁の御贔屓作家は、「うむ、今はスタインベックの 『怒りの葡萄』 読んどるけどな、一番好きなんはレマルクや。これは全冊揃えてまっせ。『凱旋門』 なんか何遍も読んで、本が真っ黒になってるわ。アレ、風景の描写が好きやねん」。
こういう天丼屋のいるのが、文化風土だと私はいいたい。

令和5年8月6日 田辺聖子
大阪の新聞にこんな話がのっている。七十七のお婆ちゃんが一人、夕方留守番をしていると、包丁を持った中年男が入ってきた。
お婆ちゃんはびっくりして強盗やなと思ったが、「何しに来たんや。その包丁はウチのやろ。台所に直しておいで」 といった。
「しまう」 ことを大阪弁では 「なおす」 というのである。男は素直にお婆ちゃんの言葉に従ったので、お婆ちゃんは、うどんでも食べ、と五百円を渡すと、男はすんまへんと帰りかけたが、何思いけん、「もう千円」 とねだった。
「甘えたらあかん」 とお婆ちゃんが叱ると、男は 「ハイ」 といって消えた。これを聞いた大阪人は、この「けったいな強盗」を、
「えらい奴ちゃ、見どころある、あかんとわかっても一応は粘るところがえらい」 とほめ、お婆ちゃんをおびやかした不逞な狼藉については咎めない。更に、お婆ちゃんが強盗にもたじろがず渡り合い、五百円を与えた大福中の処置よりも、強盗にねだられて「甘えたらあかん」としりぞけたのは、称賛すべき見識である、というのである。まことにもう、すかたんばかりという風土である。
こういう風土の中で、あえかな恋物語や、清く正しく美しき宝塚文化礼賛を書き続けている私の苦衷も察してほしい。

令和5年8月5日 下諏訪美術展授賞式
8月5日中川旅館で第79回下諏訪美術展授賞式が行われました。
四年ぶりの懇親会の入った授賞式でした。

令和5年7月29日 下諏訪美術展
第79回下諏訪美術展が7月30日〜8月5日まで下諏訪総合文化センターでおこなわれます。
私は賞というものは濫発すべきだと思っているので、どんどんあげたらよいではないか、と思っている。
「疑わしきは罰せず」という言葉があるが、「疑わしきは賞す」である。
どっちにしようかと思うときは、まあ、あげときゃいいだろうがよいのだ。
今年はコロナが治まりましたので受賞式と親睦会を従来の中川旅館で行われます。

第79回下諏訪美術展、楽陶の会では13人が「下諏訪美術展」に入選し、内5人が入賞しました。
下諏訪美術会賞 (タチスガタ )岩田信一
お舟祭り実行委員会賞(夏の花入れ )宮坂美奈恵
下諏訪市民新聞社賞 (山のたより )中沢智寿
諏訪ガラスの里賞(初夏の皿 )萩原正代
奨励
賞(涼花皿 )山田尚子。
入選  (青幻 )湊美由紀。(朝やけ)増沢ふみ子。 (夢 )野中五十鈴。 (花器 )林啓子。
(透かし皿 ) 小松真弓。
(蕾・つぼみ ) 増沢規江。 (かさ立 )宮島八重子。 (緋色壺)増沢道夫。


令和5年7月22日 納涼会
17名が下諏訪町 "だんらん"で 納涼会です。四年ぶりに十分なお酒の入った宴会です。
料理は一品づつ温かいうちに、量は少ないですが品数が多く、お腹いっぱいです。
ゲームあり、全員の一言ありで盛り上がりました。

令和5年7月16日 江戸っ子
江戸っ子の基本は三無い。持たない、出世しない、悩まない
人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らし振り。
いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだというのが 江戸の人々の心意気。

二百年前、世界最大の都市人だった江戸っ子のライフスタイルは、その日暮らし
お金はためるものじゃなくて、右から左へ流すものというのが一般的な江戸時代の感覚だったようですね。

令和5年7月2日 体力
体力が大分落ちました。
鉄棒の懸垂で手が離れてしまったとは、やはり腕力不足がたたったのでしょう。
ま、ナサケナイことで、とにかく腕力のなさは、私の生涯の弱点でありますが、
「色男、金と力はなかりけり」という諺だけが、私を支えてくれております。

令和5年6月25日 早坂暁
若い頃から覇気がない。欲がない。ほとんど怒らない。子供を抱いてかわいがるようなこともしない。ふうさいは上がらない。子供心にものたりないおやじだった。
父の優しさに最初に気づいたのは中学生の時、ぼけ始めた祖母を実家から連れ帰った。
僕が「汚いなあ」とつぶやくと、「そんなことをいうもんじゃない、年をとったら誰でも汚くなる。お前のおばあさんじゃないか」と叱られた。
優しさは、おふくろとの生活で見事なまでに発揮されていきました。
おふくろが倒れて、寝たきりになると、二年間つきっきりで看病した。
おふくろの体はだれにも触らせない。着替えや、しもの世話をするときは、部屋に鍵をかけてしまう。黙々と看病をした。
この優しさにはかないませんね。おふくろは不自由な体で、時々手を合わせていたそうです。
おふくろが死んで三年後に、おやじも逝った。
離れから母屋へ、「ふろに入りたい、ちょっと具合が悪い」とやって来て、翌日、ぽっくり死んだ。
振り返ってみると、ただ物足りないだけの人じゃなかった。
他人を貶めず、名誉を求めず、ひたすら優しい。お大師様のようなおやじだった、と今は思っています。

令和5年6月18日 松村邦洋
上京したてのころ生活費が払えなくておやじに電話したら、わけも聞かずに送ってくれました。十万円だったでしょうか。
なのにコンビニで無駄遣いしてしまって。
毎月少しづつ返しました。当然のことをしているだけなのに、そのたびに必ず電話をかけて、「ありがとう」 と言ってくれました。
その言葉が忘れられません。
最近、二人で甲子園に行ったことがあります。
電話で話をしていた時、
「退職したんだし、どうせ見るなら甲子園で見たらいいんじゃない。明日、ぼく休みだけれど行く?」
と聞いたら、そうするか、って。新大阪駅で待ち合わせて行きました。
おやじ、だいぶ小さくなってました。背中も小さく見えちゃって。
年とったんですね。

令和5年6月17日 第十三回 美術鑑賞の旅
第13回楽陶の会  常滑やきものの旅 
令和5年6月17日 (土) AM 6:00 〜PM 9:00  17名
楽陶の会で常滑旅行はニ回目です。新型コロナは第五類になりましたが、諏訪では少し流行しています。

足の向くまま気の向くまま、というのも心惹かれる旅ですが、目的やテーマを持って出かける旅もまた、充実感と大きな満足をもたらしてくれるものです。それが焼き物の旅なら・・・。全国各地に、長い間かかってその土地と風土に育まれた焼き物の故郷が点在しています。手作業を重んじ、伝統から生まれた知恵と技法を今に伝えるこれらの土地では、人間の営みや創造の素晴らしさをつぶさに感じることが出来るでしょう。観光名所を巡る旅とはひと味もふた味も異なった、クオリティーの高い旅が期待できます。 
常滑(とこなめ)は六古窯の一つで、中世における無釉焼き締め陶の一大産地として知られます。茶褐色の大きな壺を焼き、近代には焼酎瓶なども得意としました。常滑の主力は工場で作られ、土管の後、真っ白な衛生陶器が作られました。常滑はその歴史において明治時代に急須の文化が中国からもたらされます。その立役者として「陶祖」と呼ばれる鯉江方寿(こいえ ほうじゅ )がいます。山田家の三代にあたる山田常山(1924年〜2005年)は常滑焼(急須)の人間国宝として知られます。朱泥・紫泥・自然釉など多彩な作品を遺しました。発色は素地に含まれる鉄分によるものです。作品の造形は、鎌倉期の常滑壺のように肩が衝きだした「鎌倉形」、ソロバンの玉のように胴部が盛り上がった「ソロバン玉」など。明治以降は伊奈初之丞により衛生陶器を生産しました。現在は大きな窯の特性を生かしタイルの生産が行われています。

AM5:50  下諏訪旧ジャスコ前
AM6:00  赤砂崎公園
岡谷IC・・ 恵那峡SA 休憩後 常滑IC
AM9:40〜AM9:50
トイレパーク
AM10:00〜AM11:30
INAX ライブミュージアム 窯のある広場資料館・世界のタイル美術館・他6館
AM11:30〜PM0:40 昼食 
レストラン ピッツェリア ラ・フォルナーチェ
PM1:00〜PM2:00
陶の森・資料館・陶芸研究所
PM2:10〜PM2:20
鯉江方寿像
PM2:30〜PM3:00
かねふく めんたいパーク
PM3:00〜PM3:30 刈谷ハイウェイオアシス
PM3:30〜PM9:20
下諏訪着

トイレパーク INAXが考えたトイレが主役の公園
INAXライブミュージアム 窯のある広場
「世界のタイル博物館」「窯のある広場・資料館」「土・どろんこ館」「陶楽工房」「ものづくり工房」「建築陶器のはじまり館」の6つの館からなります。 「登録有形文化財」平成9年6月指定(窯のある広場・資料館及び煙突)「近代化産業遺産」平成19年11月認定(窯のある広場・資料館の石炭窯及び煉瓦煙突)
広い敷地に六つの館があり、窯のある広場・資料館から見学。大きな土管を焼いていた窯、運搬機、型押し機、トンネル炉。
世界のタイル館は古代からのタイルを展示。
陶楽工房では数人がタイルアートに挑戦していました。。
ミニチュアの便器と、アルファベット (緋色窯) のタイル、常滑の急須つくりの本を買う。


昼食 レストラン ピッツェリア ラ・フォルナーチェ
「la fornace ― ラ・フォルナーチェ」とは、「窯からできたもの」の意味。ミュージアムの心地良い空気の中で、知多半島の恵みを味わっていただけるPizzaとPastaのお店です。開放感あふれる店内、薪窯で焼くイタリア産の粉を使ったPizza、旬の野菜を楽しめる前菜類、 二種類の前菜 パスタ  ピッツァ ケーキ ドリンク
美味しい料理とお酒。ビールで乾杯。ゆっくりとして時間超過しました。

陶の森・資料館・陶芸研究所 
古くからの常滑の人々と焼き物とのかかわりを学ぶことができる施設です。建物は著名な建築家、故 堀口捨己氏により設計されました。 昭和36年10月に建物が完成し、展示室には常滑市が収集してきた現代陶芸の名品を展示しています。展示室には、国指定の重要有形民俗文化財である「常滑の陶器の生産用具及び製品」1,655点のうち約300点を展示してあります。 国の重要有形民俗文化財に指定された生産用具や窯跡から出土した壺等を展示しています。
学芸員さんの説明を受けながら見学しました。
中世の壺、そこには力強さというか、気品というか、作者のこめた気魄が、何百年経っても見る者の心を打つ。
大きな壺の中には人骨が。昔の高貴な人。
様々な急須の作り方を映像で確認しました。

忘れたき事 置いてきし 美術館


鯉江方寿像
朱泥の急須を作った。
常滑市の天神山の麓にあり、全長三メートルで焼き物でできている。
誰も行かないのか、草が伸び放題で、藪蚊が多い。素早く退散しました。

かねふく めんたいパーク
(お買い物)
明太子の親であるスケソウダラの生態や明太子の製造工場を見学することができます
出来たての明太子などが購入できる工場直売店を併設した明太子のテーマパークです。
明太子のジャンボおにぎりを買う。

刈谷ハイウェイオアシス
お買い物

日帰りの 小さな旅も 十三回
帰りの高速道路、中津川、飯田間が不通で木曽路を塩尻まで来て帰る。スマホ紛失 (結局見つかる) もあり、到着が二時間遅れる。
常滑は何回来ても新しい発見、気付きがあります。
  旅は帰る処が目的地

令和5年6月11日 河井寛次郎
売るという事が始まってからの物の乱れ、わかりもしない人の好みを相手に作る事からの物の乱れ。
先ず自分の為に作らねばならない、自分を喜ばす物から作らねばならない。
それからだ。

令和5年5月28日 落語
フランス小話
亭主が病気で寝たきりになって、死にかけてまんのや、そこへ嫁さんが
「あんた、何か言うことないのん?」
「あー、あー、あー、おまえ、置いて、先にいってしもて、悪いなあ」 亭主がそないいうたら、
嫁はんが 「いつもやんか」

令和5年5月21日 落語
二人の兄弟がおってね、夜になって、弟がホウキを持って、空に向かってホウキをふる。
それを見た兄きが 「おーい、おまえ、何しとんのや」 て聞くと、「いやぁ、空のお星さん取ろう思うてんのや」
なかなかメルヘンチックなお話ですけども、ほな、兄きが
「おまえ、あほか、そんなとこで取れるか。二階の屋根に上がれェ」
それを聞いた親が、「はあ、やっぱり、兄きは兄きだけのことはあるなあ」 て、家族全員がボケてはると。

令和5年5月14日 狭山市 小熊重子
母が亡くなって、三年が過ぎる。
倒れた年の春、梅の木に花が咲かなかった。そして、母は亡くなった。
母が一人で守った田舎の家。
役目を終えたように老木も枯れてしまった。
最後の母の味となる梅干し漬けも残りわずか。
母の一生を深い悲しみとともに、梅の木に見る。
ありがとう お母さん。
ありがとう 梅の老木よ。

令和5年5月7日 小咄 退職願
身体の各臓器がある時会議を開き、退職願を募ることになりました。真っ先にこの身体の各臓器の中で手を挙げたのは心臓でした。
「私は一生このろくでもない男のためにポンプ運動をやっているけれど、もう、へとへと。そろそろ引退させてちょうだい」 と訴えます。
他の臓器は慌ててこの心臓を引き止めにかかります。
「きみに引かれてしまったら、我々はみな一蓮托生ではないか。もう少し、大変だろうけど頑張ってくれたまえ」
と、何とか説得に成功しまして思いとどまります。次に、肺とか、胃とか、各臓器が希望を出すのですが、どれもみな却下されます。
そのとき、片隅のほうから小さな声が微かに聞こえてまいります。
「あのー、僕もうダメなんで引退させていただきたいのですが」。
一同は、その声の方角に向かって、「ちょっとキミー、よく聞こえないぞー、大体発言するときぐらいはせめて立って言いたまえ」
と非難しますと、その声が答えるように、「立てるほどならこんなことは申しません」

令和5年5月5日 石岡市 須藤曜子
目玉焼きを作ろうと卵を割ったら、小さな黄身が二つ、双子でした。
卵の大きさは普通なのだから、容量は変わらないのに、ちょっとトクしたみたい、幸せな気分。
娘たちが小さい頃なら一緒に喜んだけど、高校生になった今は、台所で嬉しがってるのは私一人。
でもこんなサイズの幸せが、私には一番合っているなあ、と思いました。
もう少しで主婦歴二十年になります。

令和5年5月4日 菅原和子さんから 黒田杏子   続
公的な仕事から離れた父は、専ら菩提寺の諸事に心血を注ぎ、写経に取り組みました。
時間を見つけては私たちを伴い、ある時は母と共に神社、仏閣詣でをしながら、何幅かの写経を仕上げました。
何事にも行動的な父は、晩年は己と向き合う静かな刻を送った典型的な明治男。そんな父は、矢張り大黒柱でありました。
一方母は、生命を産み育て守りながら、明治女のしたたかさとしなやかさを持ち続けました。
父は八十八歳、母は九十四歳で逝きました。
生前願っていたように、二人とも四月の桜花風に揺れる日に旅立ちました。
厳しい環境の中にも父母達はたのしく生きていました。そこには芸術も文化も宗教もあったのです。
少し朝寝した日は写真に詫びながら、私はそっとお茶を供えるのです。

令和5年5月3日 菅原和子さんから 黒田杏子
父のこと、母のこと   菅原和子
母には隠れた趣味がありました。百人一首の全首を諳じていて、その日の気分に乗せて吟じます。
山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思えば   源宗干朝臣
八十歳を過ぎたころ、よく人生の昏れ刻と言って、この歌を口ずさんでいました。

チリ地震津波の後、立ち上げた商売は大繁盛し、夫と共に私は忙しく立ち働きました。
そんな或る日、父より一枚のハガキが届きました。

   忙中閑有
忙しくもたまに飲む茶や岩清水   ひさと
たったこれだけのハガキに私は息を呑みました。
故郷への便りもせずに、ただただ仕事に忙殺されていたのですから。父は己を見なさいと言いたかったのです。
間もなくして津波の避難所兼茶室を建てた私に、庵の扁額として 「桜花庵」 と彫り書きし、携えてきました。
この時父と一緒に頂いた抹茶の美味しさは忘れることができません。
すでに八十を越えた父の来訪に驚きましたが、耳の遠くなっていことに気づき、淋しさが広がるばかり。
   いつよりの父の難聴雁渡   和子   続く

令和5年4月23日 楽陶の会
この陶芸の会は 『人の上に人がいない』。
講師である私の美意識や好みのものを作る人はまったくいない。
つまり、のびのび・楽しく・自由に作陶しています。
ここは生徒さんの息抜きの場、人生のオアシスなんですね。

講師を引き受けた以上、私が誠心誠意努力する。不注意から風邪を引いたり、走り回って転んだりしない。
そして私の人生にとってもまた勉強のチャンス。
お互いに相手の力によって前進できるならラッキーです。
一期一会。
いつか夕星が光りだしましたが、山の春は暮れるのが遅い、空はすみれ色でまだまだ明るいのです。

令和5年4月16日 お花見会
二班のお花見会 (8名) を、水月園 (桜の名所) でしました。
ソメイヨシノは散り桜でしたが美しい。しだれ桜と八重桜は満開です。
三年ぶり野外で美味しい桜弁当を食べました。
花に飽き 花見る人を 見に行きぬ

令和5年4月9日
花待つに 胸の病と いうはよき   永作火童
詩歌では"花"といえば"桜"を指します。それくらい日本人にとっては桜は特別なものなのです。
作者の胸は病を患っています。しかし病を悲観的に受け止めるのではなく、
「桜の開花を待つのには、胸の病というのはどこかロマンティックで良いものですよ」とプラスに受けとめています。
作者の病は肺がんで、この句を詠んだ数年後に逝去されました。
凄まじいまでの美意識に裏打ちされた闘病句です。

世の中は地獄の上の花見哉

令和5年4月3日 お花見会
一班のお花見会(12名)を、焼肉南大門でしました。
こんなに早いお花見は初めてです。
窓から見る諏訪湖畔の彼岸桜は満開。ソメイヨシノは八分咲きでした。
三年ぶりにお酒が入った宴会です。
  今日もまた 今年限りと 花見酒


令和5年3月26日 山村暮鳥
   桜
さくらだという
春だという
一寸、お待ち
どこかに
ないてる人もあろうに

令和5年3月19日 未来

"耳が遠くて目は近い、頭悪くて胃が丈夫" 向かうところ敵なし、完全無欠の年寄りとなる。
ハマナスや今も沖には未来あり  中村草田男


令和5年3月12日 灰田勝彦
灰田勝彦の兄・晴彦は、勝彦のために曲を作りました。その代表作の一つが、ご存じ「鈴懸の径(みち)」です。
昭和五十七年十一月三日には、灰田勝彦の出身校、立教大学構内に、この歌の歌碑が建てられました。
除幕式を楽しみにしていた灰田勝彦は、その一週間前に亡くなって、兄一人が出席しました。
♪ 友と語らん 鈴懸の径
  通いなれたる 学舎(まなびや)の街

  やさしの小鈴葉かげに鳴れば
  夢はかえるよ 鈴懸の路径
このごろ、やけに涙もろくなりました。

令和5年3月5日

歌はいいですね。歌は心の点滴。歌を歌わない人、早く呆けるそうです。
なぜ歌を歌うのか。ハイ、ヒトコト。元気を出したいからです。
ちょこっと歌っただけでも、元気モリモリムクムクです。
最後までうたったら、今夜寝かさないよ。
エへへ、誰をって、誰かいるでしょ、誰か。


令和5年2月26日 先生
先生は 「先に生まれた」 だけの存在。
場合によっては 「先ず生きてる」 と読む。「先に生えた」 もありか。

   
「またおいで」 手を振る祖母に 白い雪」

令和5年2月19日 ラジオ体操の歌
「新しい朝が来た、希望の朝だ、喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に 開けよ それ 一 ニ 三 」
散歩しているとどこからか歌声が聞こえてきた。
見ると、身障者の若者だ。どんな気持ちで歌っているのだろうか。
この歌は 「ラジオ体操の歌」 藤浦洸 作詞 藤山一郎 作曲で、藤山の墓碑には五線譜が刻まれている。
私は毎朝 6:25 から TV 「みんなの体操」で体操をしているがこの「ラジオ体操の歌」はかからない。

ラジオ体操には第一と第二がある。現在の体操は三代目で、第一は 「老若男女を問わず誰にでもできる」 ために創案され、第二は 「職場で筋力を鍛える」 ためのもの。太平洋戦争の前後にはラジオ体操第三というのもあったらしいが、戦いには体力が必要ということだろうか。
ちなみに現在の音楽は、第一の作曲は服部正、第二は團伊久磨が作った。

令和5年2月5日 楽陶の会小品展
 今日 何も彼も なにもかも春らしく   稲畑汀子
立春という言葉が耳に届くと、それだけで暖かい春が来るのだという期待感に胸がわくわくしてきます。
シュンという弾けるような語感が、立夏、立秋、立冬などにはない、いかにも春らしい感じを強めているように聞こえます。
実際にはまだ寒く、「ほんとうの春はまだまだね」という日でも、「今日は春だ」と思うだけで、魔術のように春が訪れるのです。

楽陶の会小品展が、2月5日から19日まで下諏訪町立図書館でおこなわれます。

図書館では、大昔に死んだ人の頭蓋骨が、今生きている人を見つめながらこう語りかけたりする。
「我々もここにいた。生きて、愛して、戦って、苦しんで、死んだ。我々は君たちの歴史だ。我々を発見したまえ。我々を記憶し続けたまえ」
 図書館一棟 知識は無限

見事な調和をみせている小品は、たのしい気分のあふれたもので心休まる思いがします。


令和5年1月28日 食事会ニ班
岡谷市・フレンチレストラン・ ブラッスリー ローズリバーで新年会。10人。
オシャレな雰囲気と食事。

令和5年1月16日 食事会一班
諏訪市、お食事処 楪(ゆずりは)で新年会。11人。
食事もおいしい。甘酒が絶品。

「追分や楪つけし門ならび」 鳥越憲二郎
楪(ゆずりは) は譲葉のこと。杠とも書き、別名・親子草ともいう。
冒頭の句は、昔の面影を残す追分の家々の門に、譲葉が飾られている情景を詠んだもの。
正月にはこの木の枝を飾り、親子相続・子孫繁栄を祈った。
風雪に耐えてきた譲葉の深緑色の葉は、若草色の若い葉がしっかり一人前になるのを見届けてから、ある日さりげなく散っていく。
名前はここからついた。人間社会も、こうありたいと願う。植物には学ぶことが多い。

令和5年1月15日 藤山一郎
藤山一郎の墓は富士山の裾野、富士霊園にある。
墓碑には名前も戒名もない。一本の線で刻んだ富士山の絵に、これも線で描かれた雲がかかっている。
と見えて、よく見ると、その雲、横一の「一」と「ろ」という字を崩して書いてある。
つまり富士山に「一」 と「ろ」で、藤山一郎というしゃれなんです。さすが藤山一郎さん粋です。
藤山一郎を知っている御同輩、お体をお大事に。

令和5年1月5日 森繁久彌
黄瀬戸の展覧会は見事なものであった。
出品点数も多く、グルグル回りながら、こちらの目も回った。
加藤唐九郎翁、享年八十七歳。眼も耳も頭も、豪も衰えぬ頑強な心身の持ち主であった。
「いや、世の中の為政者てえのはツマラン奴が多いネ、そう思わんかネ。いや、まだまだ勉強することがいっぱいだ。あと二十年はお呼びがきても死なれんのウ」
その人が、今はいない。しかし、その輝く作品は永遠のものだ。権力や条例やで芸術は創造され発動するものではない。
この陶匠の情熱は、到底私どもの及ぶ所でない。これからは、ただひざまずいてその命の光を、ガラス越しに拝見するしかない。
「成功して満足するのではない。満足したことを成功というのだ」
ということわざが耳に聞こえるようだ。

令和5年1月4日 中年かるた
あ 浅き夢みし長い一生。
う うしろめたくて妻にやさしき。
め 迷惑がられて長生きをする。
わ 若死にもせずもてもせず。
ん 運の独占禁止法。
ぼ 茫然として一生終わる。

令和5年1月3日 お元気ですか
このところ寒くなったり暖かくなったり、おかしな天気が続き、まるで半病人になったような気持ちがして困っていますが、皆さんお障りなくお過ごしでしょうか。私は年をとり、その罰として厄介な老人病を背負わされていますが、百歳までは生きられそうです。
そうしたら緋色のお茶碗を作り、穴窯を焚こうと思います。
山小屋の庭を完成させ、二人で丹精してきた樹や花の変化に心をとめ、のんびりと生きたいと思います。
生きとし生きる者の辿る道を老人夫婦が辿るというだけのことですが、最後の道は淋しいものです。
これからどんな冬が来るかわかりませんが、ずいぶんお気をつけください。

   書初めや 大きく明日と 書いてみる

令和5年1月2日 初風
   初風を懐に抱きはばたける 渡辺良恵
元日に吹く風を初風と言います。
さあ、年も新たになりました。
初々しい風を羽いっぱいに溜めて、思いっきり羽ばたきましょう。

令和5年1月1日 元旦
会員の皆様、あけましておめでとうございます。
いいお正月を迎えられましたか?
昨年の「楽陶の会」は、コロナ過ではありますが、春・秋の窯焚き、美濃路美術鑑賞の旅、第13回楽陶の会展など通常に近く活動ができました。

「寒青」(かんせい) とは、冬の松を表します。
凍てつく風雪の中で、木も草も枯れ果てているのに松だけは青々と生きている。
一生のうち、どんな厳しい中にあっても、自分は、この松のように、青々と、そして活き活きと人を信じ、触れ合い、楽しませるようにありたいものです。

   新しい旅が始まる初日の出


陶芸を長く続けてきたということは、会員の方にとって計り知れない財産になっているのではないでしょうか。
昔の作品を見返してみると、また違った景色が見えてきて、経験や歳を重ねて分かることが沢山あるんだ、と気付かれます。
作品を見ているとそれぞれの個性が出ます。大げさかもしれませんがその方が何に重きを置いて生きているのかが見えてくる気がします。

楽陶の会が楽老の会 (老いを楽しむ会) になるまではまだまだ時間がありそうです。
お互いに健康で寿命を全うしましょう。