平成21年12月31日 大晦日 
今年も残すところ今日一日。
今年は一年間とても忙しかった・・・・。陶芸教室で教え、薪を割り、作品を作り、穴窯を焚いた。
陶芸教室で、生徒さんは都合が悪ければ休めるが、先生は絶対に休めないことを知りました。大変です。
秋の窯では、奥の段に初めて緋色が出ました。

12月20日パソコンが壊れました。リカバリーなど知識をフル動員しましたがハードデスクが壊れたようでどうにもならず、買い換えました。そのためメールアドレス、住所録などすべてのデータが消えました。正月は紙データをパソコンに入力します。


今年の流行語大賞は「政権交代」。と民主党が政権をとった。
ホトトギスを信長は殺し、秀吉は鳴かせ、家康は待つのだが、外国人に聞くと
「取り替えましょうほととぎす」となる。
日本という特殊な封建社会では、いままで
政権交代が行われなかったが、もう、鳴かないホトトギスの自民党、用はないですよ、ということだろう。
民主党は、間違ってもいい、混乱してもいい、国民は革命を選択したのだから、古い体質の中で、甘い蜜を吸っていた人、団体を徹底的に排除してほしい。道路やダムなど、箱ものが完成するとその仕事をしていた会社や人は、次の仕事が欲しい。で、永遠にダムや道路は作り続けられる。既得権を奪われたキツネやタヌキは、学者や、スポーツ選手などを使い非難するだろうがそんなもの無視してガンガンやってほしいと思う。その、陰で操っている理事長などの天下役員が無駄なのだ。
3000以上もある独立行政法人、特殊法人は一度全部つぶして、必要なものだけまた作ったらどうか。
ガソリ税の暫定税率、高速道路の無料化、子供手当、天下り禁止など成果を出さないと、四年後はまた政権選択の選挙になると思う。


師走に行った草津温泉。帰りに見た八ツ場ダム。そこは観光客でいっぱい。そこでこんな川柳を見た。
   いじわるね
    途中でやめちゃ
     い〜八ん場ダム


今年穴窯焚き2回、本焼22回、素焼8回と陶芸教室のものがほとんどでした

平成21年12月30 死ぬ時に後悔すること25   終末期医療医 大津秀一
・健康を大切にしなかったこと。
・自分のやりたいことをやらなかったこと。

・感情に振り回された一生を過ごしたこと。
・他人に優しくしなかったこと。
・故郷に帰らなかったこと。
・仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと。
・行きたい場所に旅行しなかったこと。
・記憶に残る恋愛をしなかったこと。
・結婚をしなかったこと。
・子供を育てなかったこと。
・自分の生きた証を残さなかったこと。
・愛する人に「ありがとう」を伝えなかったこと。


平成21年12月27日 さよならだけが人生さ 5  五社英雄という生き方  五社巴
四十半ばで墓地を買い、五年後に墓石を建てることになった。生前にお墓を建てる気になったのには、特別な意味があった。、一般には生前に墓を建てると長生きするともいわれるが、父の場合は違う。借金、私の交通事故と災難が続き、会社からも見放された父は、本当の意味で裸一貫になったのである。父にとって墓を建てることは、これから生きていくうえでの一つの区切りだった。過去と決別し、それまでの自分を墓に葬る気持ちが込められていた。墓石の正面に大きな文字で「五社英雄の墓」、墓石の左面には父の座右の銘であった漢詩の訳「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生さ」と刻んだ。

平成21年12月23日 さよならだけが人生さ 4  五社英雄という生き方  五社巴
父から送られた封書には、月刊「文藝春秋」から切り取った記事が同封されていた。「第八回・別れの日まで」というタイトルで曽野綾子さんの書簡がのっていた。〈・・・・・ただ、人間は五十から先の生き方が大切だとしみじみ思いはじめました。それはその時期をすぎると、人間は一日一日弱り、病気がちになるという、絶対の運命を持っているからです。それは、負け戦にも似ておりますね。どのような人も例外なく揃ってこの負け戦に組み込まれねばなりません。治りにくくなる病気、機能の退化、親しいものとの死別、社会で不要な存在と思われる運命も待っていると思わねばなりません。このような状況に耐えられなくなるからでしょう。・・・・・ただ唯一の面白さは、負け戦と決まっているものなら、ちょっと気楽という点です。まずく行っても、まあまあ当たり前、万が一、幸福とまわりの方たちのおかげで、晩年がおもしろく、さわやかに、悲しみにも愛にも自制にも満ち満ちているものになり得たら、これは本当に人生最後の芸術を創り上げることになりますから・・・・・

平成21年12月20日 さよならだけが人生さ 3   五社英雄という生き方  五社巴
父が亡くなってから、父に言われて撮ったたくさんの写真が出てきた。その中には1981年2月、借金を背負い、再起に賭けていた頃のポラロイド写真もあった。その写真の横に父の文字で、"荒海に黒い昆布の舞うばかり"と書かれている。まるまると太った父の横には、やっと髪の毛が生え揃った私が、ぼんやりとした目をして座っている。

平成21年12月13日 さよならだけが人生さ 2  五社英雄という生き方  五社巴
『「五社組」スタッフの飲み会は、飲めや歌えと大盛り上がり大会になるんだよ』と父から聞かされていた。私は一度だけ京都で彼らの飲み会に参加したことがあった。「せっかく監督のお嬢さんが見えたのだから一曲唄ってもらいましょう」と、どういうわけか私にお鉢が回ってきてしまった。私は恥ずかしい気持ちが先に立って、彼らの中に入っていくことができずにとうとう最後まで唄うことができなかった。「皆が楽しもうとしているときに、恥ずかしがってちゃ駄目だ。自分から率先して馬鹿にならなければ、誰からも愛されやしないぞ」と、あとで父に叱られた。それからだろうか、仕事仲間と飲みに行っても決して唄わなかった私は、今では率先してマイクを持ち、羽目を外して騒ぐことができるようになった。

平成21年12月6日 さよならだけが人生さ 1  五社英雄という生き方  五社巴
窓の外はかんかん照りの暑い夏の日の午後のことだった。父が亡くなった日、私は自分でも不思議なくらい冷静でいられたように思う。それは、常々父は私に、突然の別れが訪れても悲しまないように、私に会うたびに言い聞かせていたからである。「今日会ったら、これが最後の別れになると思いなさい。人生は一期一会。今日会えたことを大切にして、これからはお互いにこれが最後だという気持ちで別れることにしよう」 衝撃的な出来事も、それが不意に訪れるのではなく、慣れることさえ出来れば驚きは薄れるものだという。手を振って別れた後、振り向くと父は必ず私の後ろ姿を眺めていた。自分の視界から私の姿が見えなくなるまで歩きだすことはなかった。

癌と闘いながら撮った『女殺油地獄』の台本の一ページ目の余白に、父は力強い文字でこう記している。
「未練は力なり」
波乱万丈に生きた父の心の呟きであった。

平成21年11月29日 綾小路きみまろ
人生の幸せ・はひふへほ
 は・・・・半分でいい。
 ひ・・・・人並みでいい。
 ふ・・・・普通でいい。
 へ・・・・平凡でいい。
 ほ・・・・ほどほどでいい。
人生欲張りすぎはいけないのです。

平成21年11月23日 風、凪んでまた吹いて  池部 良
石坂先生と僕の偽青春
 撮影に入る前、先生にお会いしたら「青い山脈は、現れる人物どれもが主役です。主役ですが、特に主役は六助です。六助の青春の記録でもありますから、っかり演って下さい」と言われた。先生は青森御出身だから「し」と「す」を取り違えていると呑み込んでいたので、先生の激励もちゃんと理解し、しっかりと胸に納めた。
「池部君が下手だということはよく解ってます。ですが下手は問題になりません。上手と言うのは花魁の簪のようなもので、無用なものでも沢山くっつけるから見る人は驚かされるに過ぎない。」 
偽りでも第二の青春を作ってくださったのは石坂先生の他にはいない。有り難い好きなお方だった。

平成21年11月22日 撃壌歌  無名氏
日出而作
日入而息
鑿井而飮
耕田而食
帝力于我何有哉
日出でて働き
日入りて休む
井を掘って 飮み
田を耕して 食らう
帝力我において 何か有らんや
日が出ると働き
日が沈めば休む
井戸を掘って飲み
田を耕して食べる。
天子の力など、わしに何のかかわりがあろう
3500年前の五帝のひとり堯の時代。いかにも聖帝の時代らしく暮らしを楽しむ様子が読み取れる。

平成21年11月15日 四字列語 所ジョージ著
骨灰議員(こっかいぎいん)
骨身をケズって人の為に働く立場のお仕事に、もはや何の期待もできない。ケズるものもない。ただ居るだけの役職のこと。カルシウムの粉は、カルシウムにしか使えない、という事。同音語に国会議員というのがあり、よく同じ意味にとられる。
残念無言
(ざんねんむごん)
何も話さないところを見ると、うまくいかなかったのだ。あまりにも残念すぎて、後悔を通り越してエネルギー0の状態を表す。愚かで、悔しさも感じないこと。同意語に残念無念がある。

平成21年11月8日 『さるびあ街』  松田さえ子
硝子戸の中に対照の世界あり そこにも吾は憂鬱(ゆううつ)に佇つ   昭和32年
後記に「私の20代の墓碑銘」とある

平成21年11月3日 アカデミー賞  川本三郎
87年度のビリーワイルダー監督のスピーチも素晴らしいものだった。「とりわけウイル・ロジャーズに似た名前も分からないアメリカ人の紳士に感謝したい。彼がいなかったらいまの私はない」とこんなエピソードを語った。彼は1943年にナチスドイツを逃れてアメリカに亡命しようとした。しかし、メキシコでアメリカへの正式入国許可証がないことがわかった。彼はメキシコのアメリカ領事館へ出頭した。ここでヴィザが降りなかったら彼はドイツに送り返される。それは死を意味する(彼の母親はアウシュヴィッツで死んでいる)不安な気持ちで彼は一人のアメリカ人の役人の前に立った。役人は職業は何かと聞いた。ビリーワイルダーは「ライト・ムービーズ(映画の脚本を書く)」と答えた。すると役人は「いいのを書くんだ」と言って入国許可証をくれた。「それ以来、私はいい作品を書くよう努力してきた。あの名前も分からないアメリカ人のおかげでいまの私がいる。彼に感謝したい」 ・・・・・ 受賞式の会場中が大きな感動の拍手に包まれた。

平成21年11月1日 疑問   
スポーツの秋 素朴な疑問
エアロビックのレオタード?  
  
競技で採点する際、体の線をはっきり見るために着用が規定されている。
ねんざ、筋肉痛は、冷やす、温める  
初期治療は冷やすのが基本
ジョギングの「速い」「ゆっくり」の違い 
 速いと呼吸循環器系が鍛えられる。
ジョギングの呼吸法は 
 吸う、吸う、吐く、吐くの「4歩1呼吸」が基本
腹筋運動の手とひざ 
 手を頭の後ろは負荷大。ひざは立てて骨盤を固定するのが基本

平成21年10月25日 柿の葉
柿の実が色づき始める。美しかった新緑がいつしか色褪せ、やがて落ち葉が舞い始める。季節は確実に流れていく。まるで自分の人生を見るようである。
  
昨日 今日 そして明日の柿の色
  舞い踏まれ 吾身に似たる 枯葉かな
草物盆栽講座の作品展が行われた。

平成21年10月18日 産経抄   石井英夫
明治の大ロマンチスト・宮崎滔天に『三十三年の夢』がある。中国革命に肩入れして東奔西走した男の回想録で、それは「ああ半生夢さめて落花を思う」と書き出されている。
「ああ世事人事、悟り来たればすべて夢なり、悟らざるもまた夢なり。夢の世に夢を追うて、また更に新たなる夢に入る・・・・・」
豪快侠気、天真爛漫、波乱万丈な滔天の半生は、東アジアを駆けめぐりつづけた夢だったのだろう。

平成21年10月11日 産経抄 4
小倉遊亀  2000.7.26
女流日本画壇の巨匠・小倉遊亀(ゆき)さんが百五歳の天寿を全うしたが、遊亀という美しい名前はてっきり雅号だと思ってきた。ところがこれは本名なのだという。「子供のころお習字で名前を書くとき、遊の字は横に広がり、亀の字は縦に伸びて困りましたと語っている。子供の筆には典雅すぎる名前だったかもしれない。しかしのびやかな名前とは裏腹に、画家としての遊亀さんのたたずまいは端正そのものだったという。明治女の気骨というのか、背筋をしゃんとして正座し、ツバキの油ですいた髪を黒ぐろと引っ詰めにして、凛とした姿で画布に向かった。あまり正座し続けたため晩年はひざを痛めてしまうほどだったという。遊亀さんがインタビューにこたえた九十八歳の述懐に「今日は今日、あしたはあした。一瞬一瞬を大切に。あしたのことは今からは何もわからない。それでいいんです」という言葉がある。そうですよね、そうですよねと、こちらがうれしくなるのだ。

平成21年10月4日 産経抄 3
嫌なら出ていけ  1996.6.3
修学旅行の京都・妙心寺で座禅を体験学習した神奈川県の中学生たちが、ひそひそ話や姿勢を崩したりして指導僧に警策で肩や背中をたたかれた。「嫌なら出ていけ」と怒鳴られもしたらしい。
これに驚いた校長は寺に出向いて「中学生には厳しすぎる」と抗議し、その後、抗議文を郵送、生徒の父母も抗議の電話をかけたという。この話を新聞社会面で読んで、
まずは笑ってしまった。この体験学習は恐らく学校側が頼んで行ったものだろう。わざわざお願いして座禅の厳しさを勉強しようとしたに違いないのである。「禅は見るものでも、聞くものでも、知るものでもない、禅は行ずるものである」という。妙心寺の中学生たちには雲水はテレビの一点景に映ったのかもしれない。

平成21年9月27日 産経抄 2
責任をとらない   1996.3.5
「だれも責任をとろうとしない」ことの不思議さ。腹立たしくも、天下の奇観というしかない。
捜しても捜しても見つからなかった厚生省の薬害エイズの資料は、大臣が代わったとたんにわんさと出てきた。ところがだれ一人責任をとろうというものがない。厚生省幹部は
「確たることは申し上げられない」「これ以上はわからない」の一点張りで、真相究明に協力するふうがない。思うに戦後五十年目にして、国家運営システムそのものが制度疲労をおこし、構造的腐蝕をきたしてきた。どうやら自己浄化の機能もマヒしているようなのである。「だれも責任をとろうとしない」悲しい姿と形は、その特徴的現象なのであろう。

平成21年9月20日 産経抄 1
雨後天晴  2000.9.19
秋の空はやわらかな色調で、しかも濃く深く、そのうえ澄んでいる。「秘色」(ひそく)というのはこんな空の色調だろうか。秘色とは、中国・越窯でつくられた青磁のことだが、一般にはルリ色を指すらしい。唐の時代、その色は天子専用のもの、庶民が使うことを禁じられていたからそう呼ばれた。宗の黴宗に皇子が誕生したとき、雨がやんで雲が切れ、澄んだ青空が顔を出した。黴宗はその空を指し「あの空の色を再現せよ」と命じた。その結果、工人たちが苦心して創り出した「青」だといわれる。中国の陶磁器の青の発色は時代によって微妙に違うが、国力が盛んな時は鮮明に、国力が傾けば濁ったというから恐ろしい。

平成21年9月13日 モネ  酒井健
ある晩夏、農場へ散歩にでてきたモネは陽を浴びた積み藁に目がとまりそれを描く気になる。だが描き出してみると陽射しが変わり積み藁は別の表情を見せ始めた。そこでもう一枚画布が必要になった。積み藁の表情の変化は時刻だけでなく天候や季節によっても生じたから、結局モネは同じ題材で二十五枚もの絵を制作することになる。彼のライフワーク「連作」の誕生である。このときモネは五十歳、以後八十六歳で逝くまで睡蓮などの題材で自然による変化を次々連作に表した。自然の力はモネをも変えた。本作に向かう前、彼は絵を描けずにいた。雨の多い夏で、その湿気にリウマチの痛みが再発したからだ。野外制作で彼の身は確実に朽ちていった。精神のほうもルーアン大聖堂の連作時に危機に陥る。光の移ろいに追いつけない筆の遅さに苦悩したのだ。そして睡蓮の連作時には画家にとって致命的な失明の危機に陥る。
が、命を賭して描かれた彼の絵には喜びが溢れる。それはモネの喜びではない。
人を魅惑しては滅ぼす自然の喜びだ。積み藁の連作では特に白や紫の筆触が混ざる陰の表情が見事で、彼を弄んだ自然が嬉々とした闇の表情を浮かべている。

平成21年9月6日 魔邪
ひとつ !
ミニスカートはいて
「危ない ! 今見えそうじゃなかった ? 」 って言う女 !
見えそうじゃなかった ?  ハア ?
お前のケツばかり見てるような、人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ !
それに「見えそうじゃなかった?」って見えてねぇなら大丈夫じゃねぇかよ !
いちいち気にするぐれぇなら、ミニスカートなんかはかないで、ちゃんと臭いもんにフタしとけ
コノヤロー !!

渋谷で聞いたムカつく女
 不幸話だけ よく聞いてくれる女
 目当ての男がいると いつもより早く酔いが回る女
 「お見合いもいいんじゃない ? それも出逢いのひとつだよ」と言って、自分は絶対にしない女

平成21年8月30日
「博多の一休さん」といわれた仙香Bたいていの住職は上位の衣を着けたいと本山に金品を積む。ところが、仙高ヘ「わしは、生涯、黒衣のままでよい。坊主の衣は、本来、黒衣のはずじゃ」と申請しない。本山は、権威を否定する仙高怒り、申請してきたら却下してやると息巻いたが、何年たっても仙高ヘ申請しない。悟りとはおよそ縁遠い生臭坊主が賄賂で買った紫衣を着けているのに、名声高まる仙高ェ黒衣では都合が悪いと本山が焦れて、大本山妙心寺は「紫衣が内定したので、上洛して受けるよう」と言ってくる。

世間でも、会社でもよくある話で、権威をもとめ、権威を振りかざす人には、ろくな者がいないのは今も昔も同じ。

平成21年8月23日 小泉純一郎の暴論・青論 
小泉  学生ばかりの会へ行って講演をすることがあるんです。そこで『還暦に親が立ち会う長寿国』という川柳がはやっていると話した。シーンとして誰も笑わないんだよ。逆に、老人クラブへ行って同じ話をすると、大笑いするんだ。
テリー伊藤  還暦が分からない。日本人が長生きになって、若い人との世代ギャップが広がって、それで日本人らしさが希薄になったんですかね。政界なんか長生きの人がいっぱいですよね。
小泉  政界では、60.70 はな垂れ小僧といわれる。ただ、そういう意味で、若い人の感覚とお年寄りの感覚が、政治にうまく結合していかない。実生活でも、日本らしさが薄れていくのもそのせいなのかな。   
1997年

平成21年8月16日 小泉純一郎の暴論・青論  
小泉  日本人が、本当の安全保障感覚を取り戻すのは、日米安全保障条約がなくなったときでしょう。そのとき初めて、防衛とはなにかということを、みんなが理解する。そして、安全保障についても、自前で責任をもつような国にならないと、世界が一人前と言ってくれないでしょう。アメリカは、というより多くの国は、『軍隊は正義だ、自分たちの国は自分で守るんだ』という信念がある。ところが日本は、五十年前の戦争によって、『軍隊は国民をいじめた、被害をもたらした』 という感情が強く残っている。
テリー伊藤
  
何度も言いますが、僕が日本人が日本人を捨てたというのは、ここなんですけどね。もう、自前で自分の国を守らないといけない。極論すれば、今のままでは51番目のアメリカの州みたいです。(笑)   1997年

平成21年8月15日 断崖
昭和17年5月31日、月の美しい夜、三隻の日本海軍特殊潜航艇がオーストラリアのシドニー湾に突入し、六名の軍人が壮烈な戦死を遂げた。この時、オーストラリア海軍は、軍艦一隻が沈み、十九名の戦死者を出した。しかし彼らは敵国日本の軍人に対しても、名誉ある海軍葬をもって丁重に葬ったのであった。
伴勝久中尉が出撃の前に残した歌。
  
わが帰り指折り数へて待つ人に
  帰られまじと告げよ白雲

そして戦死から26年過ぎた昭和43年4月、83才になった松尾大尉の母、まつ枝さんは、息子に対して与えられたオーストラリア海軍の行為にお礼を述べるため、シドニーを訪れ大歓迎を受けたという。

平成21年8月9日 「風の男 白洲次郎」 青柳恵介
遺言により、葬式は行わず、遺族だけが集まって酒盛りをした。彼は葬式が嫌いで、知りもしない人たちが、お義理で来るのがいやだ、もし背いたら、化けて出るぞ、といつもいっていた。そういうことは書いておかないと、世間が承知しないというと、しぶしぶしたためたのが、「葬式無用 戒名不用」の二行だけである。

平成21年8月2日 「風の男 白洲次郎」 青柳恵介
若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない。白洲が晩年に至るまで、仲良く付き合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当に愛情のある人。・・・・・白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、『イヤシイ奴』と決してつき合おうとしなかったことだろう、・・・・・」と。
ある宴席に招かれた堤が新橋におもむくと、その料亭の玄関で白洲を見つけた。一緒に案内されて座敷に入ると、彼はそこに居並ぶ面々の顔を立ったまま眺めわたし、
「そうか、今日はこんな会合だったのか」と呟いて、座りもせず、そのまま風のように帰ってしまったという。白洲次郎の最晩年の話である。彼の判断は常に素早く、そしてその行動は最後まで機敏であった。

平成21年7月26日 第二の人生は好きなことを  浜田久美子
誰でも夢や空想では考えて、願望として口にはするかもしれない。
これまでとはまったく違った人生をと。でも、現実にそれを実行する人は決して多くない・・・・・。
それまでガムシャラに働いてきたのが、立ち止まり、ふと振り返ってみる。
「すると何もないんですよ。技術も、能力も、このままじゃ何かが足りないって気づいた。このまんまじゃ終われないと。」
まだまだ若さの余力を残した転機。まあ、誰でも考えるのかもしれませんが、一回こっきりの人生ですからね。
銀行で年金取得者の調査をしたが、その数が予想外に少なかった。つまり、退職して四〜五年で亡くなっている人がものすごく多かったんです。銀行員なんて、会社を辞めたら何もできない。この調査の分析でも、定年後の生きがいのなさが原因とあげていました。
老いていくことが経験の積み重ねや熟成になりにくく、時間の消費に頭を悩ませなければならない老後への疑問。

平成21年7月19日 日府展工芸部旅行
日府展工芸部研究旅行が諏訪を目的地に行われ、関東・中部地方から会員が集結した。
一日目は山梨県立美術館、サントリーウィスキー博物館などを見学し、諏訪市のホテルへ。
二日目はサンリツ服部美術館で九州古陶磁を、諏訪市美術館、霧ヶ峰、白樺湖、女神湖で昼食、蓼科アミューズメント水族館を見学しました。
我唯知足(われはただ足るを知る)ーーーかっては人として大切な心得となっていた言葉だが、私達の脳裡からこの言葉が遠のいたのは、いつの頃からであろうか。今日のような飽食の時代になっても、私達はまだある種の飢餓感から脱出していないようだ。私達が幼い頃聞かされた昔話の中には、きまって、欲張り爺さんと正直爺さんの話がでてきたが、私達は今、かって聞いたその欲張り爺さんの道を急いでいるのではないだろうか。あの「夕焼け小焼け」も、「赤トンボ」も、次第に遠い国の話になろうとしている。

平成21年7月12日 老男老女 やなぎ みわ   
生涯に何度も繰り返し自画像を描く作家がいる。ケーテ・コルビッツもその一人だ。若い時から晩年まで、数多くの自画像が残っている。コルビッツの人生のほとんどはドイツの戦争の悲しみと共にあった。二度の大戦で息子と孫を失い、晩年は夫に先立たれ、ベルリンの自宅は爆撃で全焼、1945年4月、終戦の知らせを待たずに亡くなった。
古希を超えてからさらに深まる孤独の中で、平和を希求する思いは衰えることがなかった。自画像の中のコルビッツの目は、常に苦渋に満ちた社会を見つめている。彫刻や素描、日記にいたるまで、
苦悩や希望や理念があまりにまっすぐ表現へ昇華され、直立する逞しい杉の木を見るようだ。
理屈抜きに美しいものーー労働者であれ平和であれ、それを信じてぶれることのない強靭さというのは、私をたじろがせる。自分を理想化したり貶めたり、他人の像を重ね合わせたり。複雑にねじれた表現や、隠蔽され、拠り所を失った自己というリアリティーと闘う葛藤の物語を、多く知りすぎたせいかもしれない。

平成21年7月5日 とっておきの本  俵万知  
三浦哲郎著「忍ぶ川」。とにかく、好き。とにかく、いい。
紹介してくれたのは、40代の男性だった。「読んだ ? 」という問いに、首を横に振ると
、「志乃をつれて、深川へいったーーーっていうんだよね、冒頭が」。それだけ言って、あとは沈黙。その人も今の私と同じように、うまく言葉がみつけられなかったのだろうと思う。翌日さっそく本屋さんへ走った。
読み終えてふっと日頃の母の言葉を思い出した。
「この人となら苦労しないだろう、と思う人を選ぶ ? それとも、この人となら苦労しよう、と思う人を選ぶ ? 」ーーー後者だと思った。

平成21年6月28日 私の履歴書  森 澄雄
妻のアキ子は昭和63年に63才で急逝した。ちょうど「昭和」の年の数だけ生きたことになる。
妻が西武線の駅まで車を運転して送ってくれた。「気をつけて」 「ああ」・・・・・誰もが別れ際に交わす単純な会話、それが妻との最後になった。死後、僕のために一日分ずつ分けてあった薬包紙に次のような句が書かれているのを発見した。

はなはみな いのちのかてと なりにけり  アキ子
俳句はほとんど作らなかった妻がどんな気持ちで詠ったのか、哀れで切ない。 僕も同じ思いで
なれゆえに この世 よかりし 盆の花
を作り、並べて霊園に墓碑銘として刻んである。
 
御殿場も 野山の錦 妻の墓

平成21年6月21日 『警察裏物語』  元刑事 北芝健
大掛かりな暴力団抗争事件や大物政治家が絡んだ疑獄事件では、秘書、運転手、中間管理職的な官僚や社員やらが捜査の重要なカギを握ったまま不慮の事故死を遂げたり、自殺するケースは後を絶たない。こうした事実がある限り、捜査過程を知ることができる弁護士がまったく関与していないとはいいきれない。正義の代弁者をもって任ずる弁護士が、犯罪者に対するちょうちゃくの手をゆるめることに加担していることもあるのは事実なのだ。検察官、判事、弁護士・・・・・。彼らの職務に疑問を差し挟むつもりはないのだが、やはり彼らにも擁護すべき愛しい妻や幼い子供、年老いた両親がいることを思えば、そうした人に類が及ぶ危険を冒してまで正義をまっとうできるかどうかには疑問符をつけざるを得ないのだ。

平成21年6月14日 有害無益
マラソンの瀬古利彦の師、中村清は、春になるとよく知床半島に熊撃ちに出かけた。ある時、道なき道を進んで、千島桜の老木がきれいな花を咲かせているのを見た。その感動を中村は瀬古にこう話したという。
「知床の桜は見てくれる人もいないのに、毎年花をつける。お前も、誰も見ていなくても一生懸命練習しなくてはいけない。練習は人に見せるためのものではないんだ。」

報道される役人の犯罪や、無責任振りを見るにつけ、こんな役所はいらない。こんな
有害無益な役人はいらないとつくづく思う。深山の桜のような存在の役人はどこにもいないだろう。そして彼等に欠けているのは、自分に対して恥ずかしいと言う感覚ではないだろうか。

平成21年6月7日 廃墟
今、廃墟がブームである。
廃墟は汚くて怖い、それとも懐かしく美しい ?
松尾鉱山などの廃坑。友が島などの戦跡。行川アイランドなどの遊園地。その他工場、ホテル、病院、学校、廃村など廃墟は多岐にわたる。日本の総人口が減っていく中、町村は当然過疎化が進む。起死回生を狙って施設を作った夕張市を見ても分かるように、盛者必衰・・・。朽ち果てていくコンクリ、錆つく鉄、割れた窓ガラス、かって栄光を極めた建物も役目を終えて、ひっそりと風化する時を待っている。巨大な人工物が自然と時間により美しく朽ちはて、自然に帰っていく。
人の入らなくなった建物は、魂を失った亡骸のように急速に朽ち果てていく。   そして廃墟と言えば、私はこの歌を思う。
   
古 城
    
     作詩 高橋掬太郎  作曲 細川潤一  歌 三橋美智也
1 松風騒ぐ 丘の上        古城よ独り 何偲ぶ
  栄華の夢を 胸に追い     ああ 仰げば侘し 天守閣
2 崩れしままの 石垣に     哀れを誘う 病葉
(わくらば)
  矢弾のあとの ここかしこ   ああ 往古
(むかし)を語る 大手門
3 甍
(いらか)は青く 苔むして   古城よ独り 何偲ぶ
  たたずみおれば 身にしみて ああ 空行く雁の 声悲し

平成21年5月31日 ゴヤ   絹谷 幸二
画家としての栄達を上り詰め、ついには宮廷画家の栄誉を手にしたゴヤは、晩年に及んで、制作態度を180度転換せざるを得ないような、世情の激動に見舞われた。ナポレオンのスペイン侵攻である。
もし、ゴヤがこの世界の暗部を凝視する力を目覚めさせなかったら、一介の優れた技量をもった宮廷画家としての薄ぼけた記憶しか歴史にとどめなかったことだろう。宮廷の光輝から暗黒へと意志的に足を踏み入れた瞬間、ゴヤはそれまで想像もしなかった無辺の宇宙へと羽ばたくことになった。
望みうるすべてをやりつくしたかのように見えた人生がいかに薄っぺらなものだったか。
すべての希望を打ち砕くほどのすさまじい闇のエネルギーの照射は、ゴヤに生命の不思議さや芸術の底知れなさを目覚めさせたに違いない。゛巨人゛(プラド美術館所属)は、うちひしぐ力というよりも、情熱の権化となって立ち上がろうとするゴヤ自身の姿ではないだろうか。      

平成21年5月24日 出産用語   いけのえび子
妊娠や出産に関する用語って、なーんか変わってんのよね。たとえば、つわり。漢字だと「悪阻」だもん。産後、子宮から出る血液や老廃物は「悪露」だし・・・・・まるで、ものすごくいけないものみたいです。
赤ちゃんの頭が見えはじめることを
「排臨」、頭が出た状態を「発露」といいます。お母さんは陣痛の波に乗って「いきみ」ます。これがうんこだと「りきみ」ますから、出すものが変われば言葉も変わると。「いきみ」は、医学用語だと「怒責」です。コワイよう。どうして怒って責めるの ? 赤ちゃんがかわいそうです。
それから、産後に子宮が回復することを
「子宮復古」というんです。王政復古とか大政奉還とか連想しちゃうのは、私だけですか ?

平成21年5月17日 魚の母   いけのえび子
妊娠三か月に入り、定期健診に行きました。・・・・・約一か月ぶりに見る赤ちゃんは゛丸゛から魚っぽく変わっていました。尻尾もあるよ。すごーく奇妙な生き物って感じです。
胎児は、子宮の中で人間のたどってきた進化と同じ変化をするそうです。なるほど、だから最初は魚なのね。そのうち手足が生えてきて、オタマジャクシみたくなって、それからカエルになって、トカゲになって、犬になって、猿になって、人間になるのかしら ?

平成21年5月10日 日府展
日府展の先生方に会うのは一年ぶり。昔からの方々がいなくなり、新しい人が多くなった。
栄枯盛衰は世の習い、十年単位で見れば美術団体も会員も大きく変化している。
今回は久しぶりに「努力賞」を頂いた。
長いことお世話になった東京都立美術館は、今年で壊され、二年間かけて建て替えられる。
日府展は銀座で二年間、三年後に東京都立美術館に帰ってくる。
東京国立博物館で興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」を見る。

平成21年5月6日 ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト ニールシュービン
魚が陸に上がった証拠は、ひれの骨の変化である。人間の特徴の一つである器用な手も、そもそもはこのひれから進化した。「私達を悩ます全ての病気は、なんらかの歴史的な要素を含んでいる」 ここでいう歴史とは、遺伝子が変わり、体の仕組みが変わる何億年単位の進化の歴史である。大げさに言えば、私達ヒトの体の奥深くには、三億七千五百万年前に現在の北極圏で海から陸へ上がったあの魚の記憶がいまだに保存されている例えばしゃっくり。あのいまいましい生理現象は、実は私達が魚類と両生類だった時代の遺産であり、それが証拠に、いまでも肺とエラの両方を持つオタマジャクシは、エラ呼吸のときに水が肺に入らないようにするため、しゃっくりのしくみをつかっている。

平成21年5月5日 川柳うきよ鏡4  小沢昭一 
離れても寄っても叱る老夫婦   (福井市  川下明)  1994.5
ちかごろ町で老夫婦が目立ちます。「おい俺のそばについて歩け」と爺が婆を叱ったかと思うと「おい歩きにくい、もっと離れろ」と怒る。爺が婆をただ叱って一日を過ごす老夫婦。いるんじゃないですか。エッ、婆が爺を叱ってる方が多いの ?
比例区は落ちてた屑を拾い上げ  (東京都  岡田話史)  1997.1
屑とは何だ屑とは ! 党が俺を必要としてるから比例区に入ってんだ。地元は俺の値打ちがわからずに落としたの。俺は金も使って党のために尽くしてんだ。えッ ? 党が大事か、国民が大事か ? 党にきまってるじゃないの。屑も積もれば永田山 !

平成21年5月4日 川柳うきよ鏡3  小沢昭一 
体調を良くしてからのドック入り   (千葉県  浅茅 弘)  1994.9
検査の結果をよくしたいですからネ。わかりますこの気持ち。選者は以前、人間ドックに入りまして、どこも異状なしで勇躍退院しましたら、その晩からドッと病の床につき、間もなく入院しました。故に、右のご趣旨賛成です。ハハハハ。
旨いものコレステロールで出来ている
  (相模原市  みわみつる)  2000.11
お医者さん曰く「コレステロール値が高いな。鶏卵、鱈子、数の子、筋子、雲丹などの卵系、レバー、鳥モツ、イカ、タコ、エビなどを控えてください」タハァ、俺の好きな旨いものは全部コレステの塊か。じゃ先生、オンナも ? 「だめです、卵子持ってます」

平成21年5月3日 川柳うきよ鏡2  小沢昭一 
他人事(ひとごと)でなかった こんな年になる   (瀬戸市  芝田緑山人)  2000.9
作者91歳翁の至極率直で自然なご感懐。選者は二十も年下の若造ですが、お気持ちしみじみわかります。ヒネッテいない句もいいもんですね。選者も一句いってみますか。−「他人事でなくてもなりたいそんな歳」・・・・・ヒネッテルなぁ。
万札は 人に上下のあるを説き
  (広島市  樫山照章)  2000.11
「天は人の上に人を造らず」は福沢諭吉先生の珠玉のお言葉。ところが福沢一万円札は集まるところには集まり、来ない人にはまるで来ない。福沢さん、金は人の上に人を造るってこと ? と万札に向かい問いつめようとしたけれど、あいにく万札はなし。
定年後「家事手伝い」を肩書に
定年退職して昼間外出すると、昼間から仕事でなく活動している人が多いのに驚く。 今まで知らなかった社会を体験しているようだ。

平成21年4月26日 川柳うきよ鏡1  小沢昭一 
遺憾です 二度とこんなこと三度四度   (宇部市  久村耕二郎)  1997.1
私、遺憾という言葉です。辞書には「のこりおしいこと、残念、気の毒」ってあります。でも、謝らなきゃならない時に、ゴメンナサイの代わりに使ってごまかすのに便利なことばなんです。政治家さんはじめ偉いさんにご愛用いただいております。ハイ。
改革は オレに学べと言う下着
  (岡山市  林義人)  1997.1
ねえ、行政さぁん、必要最小限の、小さい政府、小さい役所にしてェ。世の中みんな必要最小限で頑張っているのよ。あたしなんて、こんな小っちゃいんだから。でも、殿方みんな喜んでくれてるの。くい込んでも慣れれば、とってもイイわぁ。

平成21年4月19日 無垢の力  丹尾 安典
沖縄本島と石垣島にはハブがいるのに、その間の宮古島にはこの毒蛇は生息しない。前者では釉薬のかかった花器や酒器、高温で焼き締められた甕などが生産されているのに、後者では陶器は作られず、ヤムチン(焼き物)は土器に限られた。技術的なランクでいうと、陶器は土器より上に位置する。だが、一つの器を「表現」の世界の中で眺めるならば、そのような位階はたちどころに消える。たとえば火炎式土器が志野焼より劣るなんてことはない。
私はここに掲げた宮古島の土器に魅了される。そこには、
ゲイジュツ的志向に伴いがちな臭気がない。自我表明の創作意識が消えている。このちょっと歪んだ宮古の土器壷に接していると、あらゆるものを無心に見ていた日々の景色がおのずと思い出されてくる。ひんまがったキューリがあたりまえだったあのころを。

平成21年4月12日 『詩集サラリーマン・定年前後』  エールフランス元営業部長 岡見裕輔
「一字違い」
  餓えたこともない    ふっくらとした人たちが
  福祉の切り下げの重要さを語っている  貧乏人は国家に甘えてはならぬと。

  労働者が時間外労働までして稼いで  やっと手に出来るひと月分の給料
  その倍以上の報酬で一時間ほど  タレント文化人が講演するーーー
  人間の尊厳や平等などについて。

  慈善と偽善  一字違いのよく似た言葉です

平成21年4月11日 帯祝い
「帯祝い」とは、妊娠5カ月目の頃の「戌(いぬ)の日」に、おなかに腹帯を巻いて妊娠を祝い、安産を祈るならわしのこと。犬は安産といわれているので、それにあやかってこの日に儀礼を行うようです。
帯祝いに使う帯を「岩田帯」と呼び、女性の実家から贈られます。
妊娠五ヶ月目と言えば、安定期に入ってひと安心する頃。おなかのなかで元気に動く赤ちゃんの胎動を感じて、母親になる喜びをしみじみと実感できるときです。

平成21年4月5日 迷言・失言 2
「不倫は文化」の石田純一を筆頭に芸能人も迷言の宝庫
 
同じく石田の「二兎追う者は三兎目が出てくる」 すごい、勇気さえ湧いてくるポジティブ シンキング。
「アイム失礼」
の巨人の長嶋さんもあるある。
 
「今日、初めて還暦を迎えまして・・・・・」
 
この言葉からはしっかりと二回目の還暦(120才)を迎える心意気を感じます。
ガッツ石松も
 好きな数字を聞かれて
「ラッキーセブンの3」
 「バナナがうまいのは最初の20本までだな」
 「あの猿たちはもうすぐしゃべるなぁ」

女子アナ達もすごいことを言う
 旧中山道を
「イチニチジュウヤマミチ」
 
団塊の世代を「ダンコンの世代」
 
地下金庫を「地下チンコ」
 
筋力トレーニングを「禁欲トレーニング」
 
生体肝移植を「日本初の性感帯移植」
こんな政治家、著名人に日本の政治、文化を任せられないと思うのは私だけだろうか。

平成21年3月29日 迷言・失言 1
「女は産む機械」など政治家は失言の宝庫。
まずは小泉ゴーマン語録
「この程度の約束を守らないことは、たいした事ではない!」 2003.1.23
「国債発行三十兆円以下」について問いただした時の発言。さすがの厚顔ぶり
森元首相もあるある
「エイズが来たように思われて」 2000.1.13
「私が選挙応援に行くと農家の皆さんが家の中に入ってしまう、なんだかエイズが来たように思われて」と発言。
「フーアーユー」 2001 クリントン大統領との会談時
How are you」と言おうとしたらしい。クリントンは「ヒラリーの夫です」とジョークで応えたが、知ってか知らずか森首相は「ミーツー」と答えた。
石原都知事も女性紙のインタビューにこたえて
「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババアなんだそうだ」 と発言。さらに
「女性が生殖機能を失っても生きているのは無駄で罪です」とも。・・・・・ぜひ、ご自身の奥様、お母様に言ってほしい。

平成21年3月22日 私の好きな初恋の詩  俵万知  
  観覧車 回れよ回れ思い出は 君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)   栗本 京子
初めての恋、という決め手はないが、「初恋」というとこの歌を思い出す。
危ういまでのひたむきな思い、失恋の予感、そして一生にもうこんな日はないという感覚。あるいは、君にではなく世界に呼びかけてしまう心。そんな、初恋の要素がいっぱいで、口ずさむたびに心がつーんとする。下の句の字面とリズムが、がたんがたんと回る観覧車の姿に重なって、自然に覚えてしまった。
「我には一生」と思えたことが、一生の思い出なのだ
。自分の初恋を、振り返りつつ。

平成21年3月20日 電力の鬼
電力の鬼と呼ばれた松永安左ヱ門は、昭和36年遺書を書いた、95歳で亡くなる10年前だった。
「一つ、死後の計らいのこと、何度も申し置く通り、死後一切の葬儀、法要はうずくの出るほど嫌いに是あり、墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。
死んで勲位位階
(もとより誰もくれまいが、友人の政治家が勘違いで尽力する不心得かたく禁物)これはヘドが出るほど嫌いに候。
財産は倅および遺族に一切くれてはいかぬ。彼らが堕落するだけです
(衣類など形見は親類と懇意の人に分けるべし。)
小田原邸宅、家、美術品、必要什器は一切、記念館に寄付する。これは何度も言った。
つまらぬ物は僕と懇意の者や小田原従業者らに分かち与うべし。
借金はないはずだ。戒名も要らぬ。
この大締めは池田勇人氏にお願いする。」

まさに松永の面目躍如たるものだが、池田元首相のほうが先に亡くなっている。

平成21年3月15日 去者日以疎  無名氏
去者日以疎
来者日以親
出郭門直視
但見邱与墳
古墓犂為田
松柏摧為薪
白楊悲風
肖愁殺

・・・・・・・・・
去る者は日(ひび)に以て疎し
来たる者は日に以て親し
郭門を出でて直視すれば
但だ邱と墳とを見るのみ
古墓は犂かれて田と為り
松柏は摧かれて薪と為る
白楊に悲風多く
として人を愁殺す
・・・・・・・・・
別れて去りゆく者は、日ごとに忘れられ、
通い来る者は、日ごとに親しまれる。
城の門外に出てあたりを見つめると、
目に映るのは、ただ大小さまざまの墓ばかりである。
古い墓地は、いつしかすきかえされて田畑となり、
青々とした松柏の木々も打ち砕かれて、薪となるのが世のならい。
はこやなぎに吹く秋風も、ひときわもの悲しく
さらさらとした葉音までが、人を深くもの思いに沈ませるのである。
・・・・・・・・・

平成21年3月8日 良寛
良寛は名筆家としても知られる。それで、ある時、ある金持ちが召使をよこして揮毫を頼んだ。ところが良寛は機嫌が悪く、「俺はいっさい揮毫はしないから帰れ」と言う。困った召使が、
「私の主人は非常に疑り深いので、良寛さんに断られたといっても信じてくれそうにありません。だから、いまおっしゃったとおりに一筆書いてください」と言うと、良寛は「よしよし」と応じて、「揮毫はいっさいしない」と書いて持たせたのである。
それが、今残っているのだから、おもしろい。

平成21年3月1日 「いいもの」つくる国に  ドナルド・キーン
「この六十年で変わったのは、若者。歩き方や話し方など、どこの国の人かさっぱり分からない。外国人との付き合い方も『国は違っても友達』というのではなく、『国はどうでもいい』という感じですね。」
「いま、日本の芸術は、世界中で大変高く評価されている。陶器の世界では世界を制覇したといってもいい。昔、日本人に陶芸品を見せられ、陶器は
『ただ、ものを食べるために』あるのではなく、芸術のひとつだとわかった。」 「日本では、質素だから、歪んでいるから、ひびが入っているから美しいという。実に日本的です。」と目を細めた。「日本で何が一番貴重か。それは文化的なもの、芸術的なものだ。日本はフランスのような国になったらいい。工場の数は少なくても、つくるものはいい。そんな日本ならいいな、と思う。」

平成21年2月22日 『晩鐘』  中上 紀
日本人の心を最も早くとらえた西洋絵画作品のひとつ。夕暮れの鐘に頭を垂れ、祈りを捧げる慎ましやかな農民の夫婦を描いた、深い信仰心に満ちた絵画である。農家の出身であるミレーには、子供時代に愛慕した祖母がいたが、彼女は、農作業の際に鐘が鳴るたび、家族に脱帽させ「気の毒な死者たちのために」祈らせたという。『晩鐘』には幼心に刻みこまれたその光景が写し取られている。有名な『落ち穂拾い』やこの『晩鐘』は、故郷に似た田舎町バルビゾンで描かれた。彼がこだわり続けた風景、土にまみれ労働する姿に人間の本来の美しさを見出した世界に、否応なしに心打たれてしまうのは、太古より我々の遺伝子に備わった、すべての命を生み育む大地への畏敬、いや、憧れのせいではなかろうか。

平成21年2月15日 産経抄 5
東畑さんとコブシ  1998.3.20
コブシの花が咲き始めた。コブシの開花を待っていたように、西から活発な寒冷前線が近づいてくる。春疾風(はやて)だろう。
東畑先生の愛誦句の一つに
「老馬、夜道を知る」というのがあった。中国の『韓非子』には、斉の桓公が敵を討っての帰り、往路の春とちがった冬の道に迷った。そのとき名臣菅仲の進言を入れて老馬を放ち、その馬に導かれて道を見つけたという。
老いた馬は長い年月の知恵と経験を持っている。夜道の判断なら正確で間違うことはない。
「たまには老人のいうことを聞いたほうがいい場合もあるさ」、東畑先生は遠慮しいしいいうのだった。老いたコブシも夜道に匂っている。

平成21年2月11日 産経抄 4
雨奇晴好  1998.2.26
一雨ごとに春が近づいてくる。それも足早に。゛春の雨は花の父母゛といい、木々の芽吹きをうながしている。
そんなおり
「雨奇晴好」という珍しい言葉を、気象庁網代測候所長・平沼洋司さんの著書『空の歳時記』で教わった。平沼さんは春の京都で偶然その言葉を゛発見゛したという。鴨川を渡って祇園社(八坂神社)に向かう途中、お寺さんの山門の額にあったのが目に入った。言葉のわけを尋ねると「降るもよし、晴るるもよし」と教えられた。
「人生には激しい風雨にさらされる時もあるが、悲運や逆境にめげず、努力によってこれを克服しなさい」、仏教はそう教えているということだった。帰り際、
「もう一度仰いでいきなはれ」とさとされたそうだ。寺の名前は仲源寺。「降るもよし、晴るるもよし」、味わい深い自然の言葉だ。

平成21年2月8日 産経抄 3
一犬吠影  1999.10.26
歴史は、いってみればその時代の勝者の記録である。勝者の都合のいいように記述されたり、勝者に迎合して改変されたりすることも少なくない。そういう時の流れが人間の評価を左と右に分けることもある。上坂冬子さんが『我は苦難の道を行く』という大作を書き下ろしたが、、ここにも「売国奴」「漢奸」などのレッテルをはられて時代に断罪された人物が登場する。中国革命の父・孫文の後継者とされていた汪兆銘そのひとだった。彼は日中戦争のさなか、南京国民政府の主席として和平工作を図ったため親日・反共の悪玉としてイメージづけられ、昭和十九年名古屋で客死した。この本のタイトルは汪兆銘が蒋介石にあてた書簡「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」からきている。彼が企てた対日和平の真意は民衆を戦火から守ろうとしたのではなかったか。今、勝者による歴史の呪縛をふりきって、まっとうな評価を下す時がきている。彼の言葉に、「一犬吠影(ばいえい)、百犬吠声」というのがあった。一匹の犬が物影におびえて吠えると、わけも分からず百犬が吠えたてる、と。その言葉は、今の世論やジャーナリズムに対しても通用しそうな気がする。

平成21年2月1日 産経抄 2
遠藤周作  1996.10.1
人間は自分自身の虚と実を、そうそう簡単に使い分けられるものだろうか。遠藤周作氏が、ある時は目立ちたがり屋の狐狸庵山人・雲谷(うんこく)斎を演じたり、ある時は敬けんなカトリック作家となったりしたように・・・・・。随筆の中の山人は、ぐうたら哲学を説く老人となる。一方、カトリック作家の遠藤さんは、「海と毒薬」でキリスト教世界の道徳観と日本人の罪の意識を追及した。しかし、晩年の遠藤さんは秀作「深い河」が問いかけた生と死のテーマをめぐって、悩みを深くしていたふしある。
遠藤さんの小説にしばしば登場するのは、人生に敗北した者や落伍した者であった。そんな弱い自分を優しく見守ってほしいとすがりつくのが信仰だったのかもしれない。ご子息によると「壮絶な死」だったとか。虚も実もない一人の人間として死んでいかれたのだろう。

平成21年1月25日 産経抄 1
イイギリの木  1999.12.14
冬枯れの武蔵野に゛真紅の木゛が立っていた。赤い葡萄さながら美しい果実の房が一斉に垂れ下がっている。イイギリの木だった。イイギリは春に長い柄がついて卵形の大きな葉が茂る。昔はその葉に飯を盛ったから「飯桐」という名がついたという。赤い実がナンテンに似ているから「南天桐」の別名もある。
それにしてもこの真紅の鮮やかさはどうだろう。「赤」という漢字は、大と火を組み合わせたもので、万葉人たちはこの色を最も好んだという。赤と一口にいっても丹
(に)、(あかね)、紅といろいろである。呉藍(くれない)、韓紅(からくれない)、辰砂(しんしゃ)、柑子(こうじ)、紅殻(べんがら)、真赭(ますほ)、臙脂(えんじ)などとわかれているのもそのせいだろうか。
富士百景は、下諏訪町の緋色窯近くの諏訪湖畔に一つ、諏訪市は霧ヶ峰、富士見町には3か所あり、写真を撮りに出かけた。
富士百景(立沢大橋) 八ヶ岳(編笠岳) 南アルプス(甲斐駒) 富士百景(葛窪トンネル)

平成21年1月18日 ヒロシです・・・ヒロシです・・・ヒロシです・・・
ヒロシです
女の人から
「初めまして」と挨拶されましたが
あなたと会うのは3度目です

ヒロシです
いい所はどこかって聞かれたら
視力と答えるしかありません

ヒロシです
デートの時間には遅れて行くくらいが丁度いいと聞いたので
5分遅れて行きました・・・・・
もういませんでした
ヒロシです・・・ヒロシです・・・ヒロシです・・・

平成21年1月12日 成人式
成人式に出席する姪が晴れ着で来宅した。
人の一生を慮り、少し感動です。
私の四十数年前の成人式は大雪だったことを思い出す。
そして、河島英五にこんな歌がある。

 
野風僧(のふうぞ)
   作詞 伊奈二郎 作曲 山本寛之 唄 河島英五  昭和60年(1985)
お前が二十歳になったら 酒場で二人で飲みたいものだ ぶっかき氷に焼酎入れてつまみはスルメかエイのひれ
お前が二十歳になったら 想い出話で飲みたいものだ したたか飲んでダミ声上げてお前の二十歳を祝うのさ
いいか男は生意気ぐらいが丁度いい  いいか男は大きな夢を持て  野風増 野風増 男は夢を持て

お前が二十歳になったら 女の話で飲みたいものだ  惚れて振られた昔のことを思い出してはにが笑い
お前が二十歳になったら 男の遊びで飲みたいものだ  はしごはしごで明日を忘れお前の二十歳を祝うのさ
いいか男は生意気ぐらいが丁度いい  いいか男は大きな夢を持て  野風増 野風増 男は夢を持て

お前が二十歳になったら旅に出るのもいいじゃないか  旅立つ朝は冷酒干してお前の門出を祝うのさ
いいか男は生意気ぐらいが丁度いい  いいか男は大きな夢を持て  野風増 野風増 男は夢を持て


野風増とは岡山県の方言で”生意気”とか”つっぱり”という意味のようだ
諏訪は今年初めて雪景色。

平成21年1月11日 スカートの風  呉善花
私の祖国韓国では、日本人には夢がなく、人生の目的がはっきりしないとよく言う。韓国人ははっきりとした夢や人生の目的をもつものだ。一つは経済力。他人よりいい生活がしたい。もう一つは権力である。そうした目的のために、常に他人と競争関係にあってこそ、力も出るし、生き生きともする。
しかし、しだいに日本の嫌な面が大きく見えてきた。
表面でのきわめて親切な態度とは裏腹な現実の行い…。また、何を言うにもはっきりと意見を言わないあいまいな態度。友達もできたが、韓国のようにすべての秘密を話し合おうとすると嫌がられる。他人の事にはお互いに深く立ち入らない主義だという人が多いのだ。にこやかな表面の反面、現実の人間関係はいたって冷たい、というのが、当時私が感じた日本人の印象であった。
そのころ私はアルバイトをしていた。「何のために仕事をしているんですか」と聞けば、「家族のためだ」とか「食べるためだ」。「夢は? 目的は? 」と聞いても笑ってごまかす。「社長になりたくないんですか」と聞いても「なりたい」という者はいない。
人並み以上の経済力も社会的な地位も、ましてや権力も望まない人たちが懸命に働いている社会。しかも、そのことによって貧困をほぼ一掃することに成功した社会。その事実を目の前につきつけられて、私は迷うことのなかった自らの人生観・・・・夢を持って生き、その夢の実現へ向かうことで自分と社会を生かしていこうとする考えに、疑いの念を持たざるを得なくなっていったのである。
しかし、日本人はテレビを見てゲラゲラとよく笑う。なぜ夢のない人たちが笑うことができるのか。いったいどういう人たちなのだろう。何もかもわからなくなった。
お金と権力を手に入れて振る舞うことのできる楽しみを思う心が、私のなかではっきりとしぼんでゆくのが感じられた。なぜなら、
「ことさらな事や物」がなくても「平平凡凡たる事や物」であっても充分に楽しく生きていける世界があることを、日本人の具体的な生活のなかで確かに実感できたからである。
1990年に読んだ時とは時代が変わっても、隣人の新たな発見がある。ただ、一冊の本を要約するのは難しいと実感した。

平成21年1月4日 妻への詫び状  
「団塊世代の夫の90%は定年を楽しみにしている。しかし、中身は、「のんびりと自分の世界を楽しみたい」と。でもこれではだめだ。定年退職した男性は二つのタイプに分かれる。何かやる人と、何もしない人だ。80%は何もしない「みのむしおじさん」になる。
男が50、60代ともなれば、糟糠の妻゛に詫びなければならないことは一つや二つではないはず。事実、会社員人生を無我夢中で送り、妻や家庭を振り返ることを持つことのできなかった男。定年後、会社と社会から否応なしに離されて、ある意味で孤独な後半生を送る男たちにとって、すがるべき相手は長年連れ添った妻たちなのでしょう。妻の存在の大きさ、ありがたさを改めて痛感するのが
「定年」なのです。
大切なのは、「妻に無用な口答えをしない、妻が喜ぶ行動をしよう」ということ。これは、老後を夫婦で楽しく仲良く暮らすための「男の最低限の知恵」である。

平成21年1月3日 知られざる魯山人  後藤正治
空襲で灰燼と化したが、戦前、赤坂の地に数寄屋造りの「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)という名の料亭があったことを耳にしたことがある。腕達者な料理人、美麗な食器、行儀の行き届いた給仕・・・・・最高級の店だったという。料亭のプロデューサーであり、鉢・皿はもとより掛け軸から作庭まで手掛けたのが北大路魯山人。
傍若無人、狷介孤高の男であった。美の探究には純粋であった。晩年、重要文化財の指定や、人間国宝への打診をすべて蹴り、「絶対自由人」としての矜持を保ち続けた。その分野を問わず、人物が小粒になったといわれるが、美術界においても同様であろう。魯山人に欠点は多々あれ、スケールの大きい美の風狂人』として貫いた生涯にせせこましい賎しさはない。

平成21年1月2日 奉仕活動  さわやか福祉財団理事長 堀田力
「新しいふれあい社会の創造」を旗印に掲げ、福祉の世界に入りました。ボランティアを始めた時、老後の生活に対する金銭的な不安はありませんでした。ボランティアをやることには、そんなにお金はかかりません。日本には年金制度もあるし、介護保険や医療保険制度もあります。制度を信頼し、問題があれば解決していけばいいのです。
検事時代は特捜部にいたので主に贈収賄などを担当し、金持ちの取り調べをよく行いました。彼らは猜疑(さいぎ)心が強く、人と良い関係が結べずに孤独な人が多い。お金は抽象的な数字なので、いくら貯めても満足しないのです。お金があるからといって幸せにはなれないことを実感しました。

平成21年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。

年頭に当り、今年の目標を考えました。
当然 「
緋色の美しい作品を焼くこと」

そのためには、ビクターフレミングの映画「風と共に去りぬ」でスカーレットが見つめた日時計の上に次の文字が記されていた。
「時を浪費するなかれ 人生は時よりなれば」

今年は「嘘のない 粘土(つち)を相手の 定年後」と陶芸三昧。
そして春と秋には穴窯を焚く予定です。

*ホームページを開設して9年、工房は13年、穴窯は2年目です。
今年の表紙は工房の紅白の山茶花と南天。

2009年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。
椿(初嵐) 講習会で作った注連飾り 冬囲いの穴窯 椿(冬寿楽)