平成22年12月31日 大晦日 
今年も残すところ今日一日。
今年も一年間とても忙しかった・・・・
 工房と山の窯場で陶芸を教え、研修バス旅行に行き、穴窯を焚いた。

秋の窯では、奥の段の備前がまずまずだった。

韓国のイケ面俳優にのぼせるおばさん達、年下の男に熱を上げる醜
(みにく ) さにオェッです。
あのおばさん達には、私の隠れた必殺技
「見えない左ハイキック」をお見舞いしたいところですが、とりあえずこの言葉を贈りたい。「老醜」

民主党にはがっかりでした。去年の暮れに書いたけど、長くはないのだから思い切って公約を実行しなければ、と応援したのに。
高速道路の無料化、ガソリンの暫定税率、天下りの撲滅など、何一つ出来なかった。
今は醜い内輪もめか。小沢さんを叩いて政権浮揚狙いは三度目で、管さん、もうそうはいかないよ。
国民は仲間を売る管総理を信用するわけが無い。私は今年の参議院選挙から見放していたが、もう終わりだね。


日本の、国と県・市町村の借金は1000兆円を超える。莫大な借金を子や孫に残すわけだ。
日本はいずれ・・・・・、たぶん子供の代にはギリシャのように破綻するだろう。
公共事業という美名に隠れて、不必要な道路、空港、港、建物やダムを造り続けてきた日本。
だいたい、三代続けて政治家一家などと、政治が家業になっている人を選ぶからそうなるのである。
政治は給料ゼロのボランティアで交通費などの実費だけにすべきだ。
そうすれば金目的、公共工事目的の輩は排除されるのではないだろうか。
この責任はいうまでもなく、政治家や役人であるが、私達国民も、その私利私欲の無能な政治家を選挙で選んできた責任はあると思う。

今年穴窯焚き2回、本焼17回、素焼11回でした

平成22年12月30日 朝日新聞記者が書いたアメリカ人  近藤康太郎
 シェイスタジアムが教えること
メジャーリーグで、僕はニューヨーク・メッツの病的なファンである。
この球場では、僕の見た試合で10連敗ということがあった。いくら弱くたって、そんな仕打ち、ないでしょ。
まわりの同好の士は、7回裏の攻撃が終わり、点差が開いていたら、どんどん帰っていく。しかし、僕は意地でも帰らない。
試合が終了し、観客が口々にメッツの悪口を言いながら出口に向かい、客席に清掃係が入ったとき、スタジアムに静かに流れるその曲を聴きたいのだ。
哀愁あふれるあのメロディーを聴いてからでないと帰れない。
   ビリー・ジョエルの
 「ニューヨーク・ステート・オブ・マインド

 「みんなホリデーシーズンになると   近所から出て行っちまう
 マイアミやハリウッドに行くんだって   でも俺はハドソンリバー沿い
 グレイハウンド・バスに乗っている    ニューヨークな気分なんだ」

ブルーなメロディーが、これ以上、似合う場所を、他に知らない。
人生は結局負け続き。敗戦だけが人生さ。
負け戦を負け戦と知りながら、それでも投げずに生きていく。
だって、ほかに方法がないじゃないか。

・・・僕がシェイ・スタジアムでお教わったことがあるとすれば、そういうことだった。

平成22年12月29日 明日があるさ  青島 幸男編  歌:坂本九
 まだまだわしは 若いんじゃ
 今日もこれから ランニング
 まずは飯じゃ 飯はまだか
 「さっき食べたでしょ!」
 
明日がある 明日がある 明日がある・・・・・

平成22年12月28日 夫婦茶碗
金婚式祝いの夫婦茶碗を頼まれました。
穴窯で作品を焼き、特注の桐箱を作りました。

平成22年12月26日 青い鳥  「裁判官の爆笑お言葉集」8 長嶺超輝
知る人ぞ知る「青い鳥判決」
結婚生活30年の熟年夫婦が対立した離婚裁判です。
仕事一筋の夫に嫌気がさし、
「第二の人生を送りたい」と離婚を要求した妻。そんな二人の間に入り、名古屋地裁・宗哲朗裁判官は、
「もう少し結婚生活を続けてみなさい」と諭したわけです。
 
二人して、
 どこを探しても見つからなかった青い鳥を身近に探すべく、
 じっくり腰を据えて真剣に気長に話し合うよう、
 離婚の請求を棄却する次第である。

離婚が認められないというのは全体の3%、と珍しい事例です。


平成22年12月19日 身から出たサビ  「裁判官の爆笑お言葉集」7 長嶺超輝
千葉・成田市議会議長選をめぐる贈収賄事件で市議会議長だった被告人に対し、千葉地裁・小池洋吉裁判長は有罪判決を言い渡して、
 
「鉄サビは、鉄より出でて鉄を滅ぼす」と昔から言う。
 心のサビがはびこらないようにしてほしい。
 名誉欲に身を焦がすことなく、
 存在そのものの薫り高さから尊敬されるように。

お釈迦様の言葉が、数千年の時を超えて汚職政治家に向けられた。

平成22年12月12日 被害者は誰  「裁判官の爆笑お言葉集」6 長嶺超輝
役人に現金を渡して予定価格を教えてもらった土木建設業の役員だった被告人。
「現金を渡した県職員や、警察の皆さんに迷惑をかけた」と述べたことに対して、甲府地裁の山本武久裁判官は、
 本当に謝るべきは、
 県民に対してではないですか。

なぜ自分が裁かれているか理解していない被告人の発言を見ると、かばう気持ちも萎えてきますね。

平成22年12月5日 ポケットティッシュ  「裁判官の爆笑お言葉集」5 長嶺超輝
親子水入らずで、一緒に銭湯ー行った帰り道「お母さん先に行ってアイス買ってくるね」・・・・・。母の目の前で突然、幸せな日常が砕け散りました。
飲酒運転と赤信号無視で発生した交通死亡事故。京都地裁の藤田清臣裁判官は被害者の生命があまりに軽んじられている交通事故裁判への憤りを、抑えきれなかったのでしょう。
 交通事故裁判での、被害者の命の重みは、
 駅前で配られるポケットティッシュのように軽い。
 遺族の悲嘆に比して、
 加害者はあまりにも過保護である。
 命の尊さに、法が無慈悲であってはならない。

この判決が画期的だったのは、ユニークな表現だけではありません。
検察官の求刑は懲役2年6カ月。
なのに、判決は懲役3年。我が国の刑事裁判では非常に珍しい「求刑超え判決」です。

平成22年11月28日 犬のフン  「裁判官の爆笑お言葉集」4 長嶺超輝
暴走族の少年が足を洗おうとして、他のメンバーから殴る蹴るの集団暴行を受け、非業の死をとげた。
勇気を振り絞って群れから抜けようとする人間を、群れなきゃ何もできない輩(やから)が、群れて袋叩きにする。
本件は少年院送りなどの保護処分よりも刑事処分が相当として、水戸地裁に起訴された。
水戸地裁の富永判事は、少年審判の趣旨は懲罰ではなく少年の立ち直りですが、批判を覚悟の上で、産業廃棄物以下、すなわちリサイクル不能と発言しました。
 暴走族は暴力団の少年部だ。
 犬のうんこですら肥料になるのに、
 君たちは何の役にも立たない、産業廃棄物以下じゃないか。

平成22年11月21日   「裁判官の爆笑お言葉集」3 長嶺超輝
日本歯科医師連盟から旧橋本派に渡された「一億円献金」で、罪に問われた元官房長官・村岡兼三氏に、
無罪判決を言い渡して、東京地裁の川口正明裁判長は、
「今回の事件でパソコンを覚えられ、最終陳述の書面もパソコンで作成されたとのことで・・・・・。
この先、それを使わなくてよければ、それに越したことはないと思います。」

 いま、ちょうど桜が咲いています。
 これから先、どうなるかわかりませんが、
 せめて今日一晩ぐらいは平穏な気持ちで、
 桜を楽しまれたらいかがでしょうか。

最後の付言に村岡さんは深々と頭を下げておられました。

平成22年11月14日 敏腕助役  「裁判官の爆笑お言葉集」2 長嶺超輝
川越市の初野敬彦元助役。日ごろから癒着していた業者に仕事をまわしていて、競争入札妨害の罪に問われて、
「後援者の頼みを、むげに断れなかった事情などを、皆さんに分かってもらいたい」、と話したことに対して、山口裕之裁判官は。
 
そういう線引きができないひとは、
 公務員をやってはいけない。
 
「分かってもらいたい」と言っているという事は、
 いまだにそれが分かっていないという事でしょう。

平成22年11月7日 がんばりや  「裁判官の爆笑お言葉集」1 長嶺超輝
育ち盛りの二人の子供を持つ母親。
パートで働いていたものの、家出した夫の借金まで抱え込み、追いつめられた末に、スーパーで万引きを繰り返していました。
大阪地裁の杉田宗久裁判官は執行猶予つきの有罪判決を言い渡して、
閉廷後、被告人が退廷する時に、一段高い裁判官席から身を乗り出し、被告人の手を握りながら、
 
もうやったらあかんで
 がんばりや
裁判官に励まされた本件の被告人は、その場に泣き崩れたといいます。

平成22年10月31日 石川啄木
わがこころ
けふもひそかに 泣かむとす
友みな己が 道をあゆめり


何となく 明日はよき事あるごとく
思ふ心を
叱りて眠る

平成22年10月24日 一人で作る   美術作家 奈良 美智
乾燥や焼成の段階で偶然の要素が加わることが、当初は許せなかった
「でもやっているうちに、陶芸は大自然みたいにコントロールできないものと分かった。形を作ることに対して、自分が割りと傲慢だったかなと反省した」
あえて完璧には作らず、しかし偶然に頼り切るのでもない。窯の力に感謝しつつ
、自らの深層心理から引き出されたものを形にした。
人が好むものではなく、自分が求めるものを作る。
内なる自分と向き合い、そこから生まれたものを形にする。
そういう自らの原点を、陶芸家達と信楽で交流し、初心者として教わる日々を通して取り戻した。

平成22年10月17日 夫よ   山路みさを
ミヤコワスレの薄紅のやさしさを、濃い紫の気品ある美しさを、それを好んだ夫を思い出す長い花の季節も過ぎようとしています。
夫を見送って、早や四度目の春を迎えました。時の流れは、それなりに悲しみを鎮めてくれました。
  
辛き治療に耐えいる 夫と日だまりに
   賜物のごとき 命あたたむ

夫は黙々と医師の指示通りに日課をこなしていました。私にはよく怒りましたが、手を貸そうとすると、激しく拒否するのです。
  
病み細り なお頑なに 不条理を
   通す髭しろき わがソクラテス

三月二十一日、お彼岸の中日で、しかも私たちの四十七回目の結婚記念日でした。
何でもきっちりする男でしたから、会いたい人には会い、笑って別れを告げたかったのかも知れません。
  
命終の 夫の頭を 掻き抱く
   かくまで激しく 恋いし日ありや
妻である私にさえ、決して弱みを見せない夫を時に寂しく思うこともありました。
ようやく夫の遺品に目を通す気持ちになり、開いた病床日記に
「吹雪の中を妻が来た。外は寒いだろう」の一行に出逢い、急に心が温かくなってくるように思いました。
  吹雪のなか 妻来るとあり 遺されし
    病床日記の ある日のページ

平成22年10月11日 愛すべき名歌たち 6   阿久 悠 
 昭和枯れすすき   昭和49年 
               作詞 山田 孝雄   作曲 むつ ひろし  歌 さくらと一郎

演出家の久世光彦好みの設定だと思うのだが、ドラマの筋立てとはあまり関係のない居酒屋のシーンがあって、そこにいささか時代離れのしたワケありの男女がいたりする。
その居酒屋のシーンに、常に
ワケありと感じさせる歌が流れていて、いつの場合にも大いに気になったものだが、中でも衝撃的だったのは、「昭和枯れすすき」であった。ドラマは「時間ですよ」である。
   〜貧しさに負けた いえ 世間に負けた
    この街も追われた いっそきれいに死のうか ・・・・・

退嬰的な出口のない暗さが迫り、特に〜貧しさに負けた・・・・・ と男が歌うと、それを受けた女が いえ 世間に負けたと歌うのだが、この「
いえ」が耳に残った。
昭和四十九年の歌である。そして時代の暗さを思い出す。豊かさの仮面に踏みにじられるささやかな心、といったものを気遣った暗さではないかと思うのである。
「心中」がキーワードになっていた。ぼくも「花心中」という理由なき心中を劇画の原作として書いた。
そういう時代であった。

平成22年10月10日 榊莫山
ひょうひょうとした自由な書風で親しまれ、私の大好きな榊莫山(さかき・ばくざん)さんは3日奈良県天理市で死去した。八十四歳。
戦後、日本書芸院展などでで受賞を重ねたが、書壇の
権威主義を嫌って離れ、三十代で個展中心の活動になる。
「芸術のありようが権威権力に対して、卑屈になっている」として「莫山美学」「書百話」などの著書で感じるままにつづった絵と書を世に送り出した。仙人のような風貌から、愛称は「莫山先生」
長い歴史を見ると、芸術作品が残るのは権威を求めたものではなく、権威を嫌った者であることがわかる。
芸術は仲間を組んでお互いに褒めあうことではなく、個人がどこまで自分を表現できるかだと思う。
展覧会で賞がほしい人、展覧会の理事など肩書きがほしい人、有名画廊やギャラリーで個展をして箔をつけたい人などの、世にへつらった作品に魅力がないのは自明の理である。
美術館などで作品を買うのに必要な官展の賞や、文化勲章などをほしがる人の作品が未来に残ることはない。

平成22年10月3日 愛すべき名歌たち 5   阿久 悠 
 神田川   昭和48年 
               作詞 喜多 条忠   作曲 南 こうせつ  歌 かぐや姫

大辞林によると、神田川は「東京都の中心部をほぼ東西に流れ隅田川にそそぐ川。
かっては上流部を神田上水、中流部を江戸川といった。」とある。
しかし、この歌は、「神田川」というタイトルではあるが、別に神田川の成り立ちや風情を歌ったものでないことは明らかで、長い詞の中でもたった一行、〜窓の外には神田川 ・・・・・
とあるだけである。

 〜若かったあの頃 何も怖くなかった
   ただ貴方のやさしさが 怖かった・・・・・
というくり返しが、如何にも七十年代の、寄るべなき男と女のいじらしさを感じさせて、共感を得たのだと思う。
僕よりも十歳若い世代の歌である。
六十年安保と七十年安保の世代の違いは、
実にこの、ただ貴方のやさしさが 怖かったいうところにある気がしてならない。
僕らには、怖いと感じさせるほどのやさしさを示すことは出来なかったように思う。なぜとは言えないが・・・・・。

平成22年10月1日 たけしのテレビタックル
国民50人と国会議員の討論を見ました。
民主党のマニフェスト、ガソリンの暫定税率廃止高速道路無料化は完全にウソつき呼ばわり。
そして、
民主党と自民党は目くそと鼻くそ国会議員に対してはこいつらといい。
公務員
冬のボーナス半分、給料の二割カットに大拍手。
公務員の給料は年に35兆円、二割カットで7兆円の巨費が出てくるという。

いまほど
国会議員が馬鹿にされ、公務員が恨まれ嫌われている時代はないと思う。
その原因は
馬鹿でうそつきの国会議員と、強欲で国民をばかにしている公務員の責任ではあるが、国会議員が尊敬されず、公務員が信用されない国の将来はどうなるのだろうか。

平成22年9月26日 さら川
恋女房 何時か知らずに 肥え女房
目は一重 アゴが二重に 腹は三重
ねむれない! ひつじのよこに ぶたがいる

厚化粧 ハエはとまれど 蚊は刺せず

平成22年9月19日 太宰府の句碑  榊莫山14
菅原道真という人は、果報な人だと思う。太宰府に流されて、非業の死をとげたばっかりに、天満天人となって人々に仰がれ続けているのである。
道真の流謫は、政治のヘゲモニーを握っていた藤原軍団の讒言という。誠実温厚な道真が、天皇の廃立を企てるはずがない。
とも思うが、政治というのはいつの時代でも不思議のかたまりである。
失脚した道真の死は、大宰府で二年後にやってきた。死後、天変地異があいついで、世間は道真のたたりとおののきつづけた。

大宰府を訪ねた
萩原井泉水は、境内の巨大なクスノキの木かげで、茫茫たる歴史を想いつづけた、と思う。
  
くすの木千年
   さらに今年の若葉なり

と感懐する。碑陰に、
明治九十九年建立としゃれこんだ大きな碑で、井泉水の字は、大樹にも、巨碑にも負けず劣らず豪爽だ。少々字がくずれようが歪もうが、知らん顔なのがよい。
種田山頭火もここへきて、クスノキを眺めて句を作っている。山頭火のほうは、
  
大樟も 私も犬も しぐれつつ
と、小気味がよい。今年もクスノキは、さかんに若葉をのばしていた。

平成22年9月12日 松花堂  榊莫山13
松花堂ーと聞けば、「ああ、弁当の」と思う世になってしまった。
というのも、松花堂昭乗は江戸は寛永のころの僧であり画家であり、はたまた書家であり茶の数寄者だったことを、知る人は少なくなっているのだ。
この松花堂は、沢庵や光悦、小堀遠州らと仲の良い変わり者だった。
絵具箱といって、田の字に仕切った箱に薬や種を入れて楽しんでいたらしい。昭和の初め、その昭乗遺愛の箱を見て
「これをひとつ料理に・・・・・」と、思いついたのが、大阪の料亭”吉兆”の主人・湯木貞一さんである。
松花堂昭乗が、晩年を過ごした小さな庵が、京都の南はずれ八幡に残っている。
軒の扁額には
〈松花堂〉と、いきな隷書を彫ってある。手のひらにのるほどの小さな木額だが、
昭乗の生活空間を象徴してじつに楽しい。さりげないこの字の風姿には、只者ではない表情のやわらぎがある。
おだやかそうだが奇をはらみ、木々の梢を眺めつつ、朝の風にも黄昏の光にも、この松花堂の額は融けてなごんで美しい。

落款はハンコが一つーーー
惺々翁(せいせいおう)。老いてなお、こころは冴え冴え、というのだが、寛永16年松花堂はようがもとで死んだとき、年は五十六歳だった。光悦の八十にくらべると若かった。

平成22年9月5日 植物の牧野  榊莫山12
 草を褥に 木の根を枕
 花を恋して 九十年

      
我が回顧  牧野結網
と彫ったこの碑は、牧野富太郎の生まれ故郷である高知の県立牧野植物園に建っている。
植物がお好きな天皇が、かってここで
「さまざまの 草木をみつつあゆみきて 牧野の銅像の 前に立ちたり」と歌われたほど、植物学者・牧野富太郎は慕われていたのである。
牧野の書いた碑の文字は、人をにらむ。
どう見ても素晴らしい書とは言えないが、、博士が九十年の人生で手にした自信と誇りが、書にもあふれているのである。
そして、この言葉を書いた牧野の小さな額が、牧野文庫にかかっていて、このほうには自信がおっとり凝縮し、碑の書よりもはるかに
気分の良い書であった。
なにかにつけ気の強かった牧野は、大きい紙に太い筆というので、一発気負いを込め過ぎたのであろう。
日常性をこえた大きい紙に太い筆というのは、それに負けて字が委縮するか、負けるものかと、気負いこんでしまうか、のどちらかになりやすい。難しいものである。

平成22年9月1日 ローマ帝国の落日  ワールドオブライズより
ローマ時代の美しい町「ペトラ」
ローマの円形劇場は完全な形で残り、空っぽの舞台を囲むように、石の座席が並んでいる。
まるで、観客と演者たちが、とつぜん風に乗って逃げ去ったかのように。
彼らに一体何があったのか。
ローマ人が消えたのは、彼らが失敗を犯したから。
全ては
無能な統治者が原因だった。賢帝ハドリアヌスから悪帝コンモドウスまで、たったの60年。
それだけの短い間に、あの偉大なローマ帝国は衰退していった。あまりに早すぎる。
近衛兵団はまだまだ強大な力を保持していた。弱くなったのは政治制度。そのあとに汚職や破滅が続き、ローマは内部から腐っていった。
歴史は繰り返す。
まるで今の日本のようです。
無為無策の総理大臣のもと、過去にはNo1だった教育、産業、農業、などすべての分野で、日本は衰退していく。

平成22年8月29日 宇治橋断碑  榊莫山11
数年前の夏、私は中国山東省曲阜にいた。曲阜は孔子のいたところで、文物委員会に候さんという気のよい学者がいた。彼は突然、
「宇治橋断碑はどうなっていますか」と言い出した。まさか中国に来て、宇治橋断碑のことを聞かれるとは思ってもみなかった。
「健在なんです宇治橋のほとりの放生院というお寺の庭に立っているんです」
「見たいものですなァ」と候さんは目を光らせた。彼は北京大学で考古学を専攻し、この碑のことに詳しかった。

碑は宇治川の流れの凄まじさを語るモニュメント。大化二年(646)のことである。
しかし、その古い碑は、上の三分の一だけで、下は後世の復元だ。ために
宇治橋断碑と、変な呼び名で通っている。
誰が書いて誰が彫ったのか、上三分の一の書は、中国は六朝のころの雄渾な書風にさえ、負けず劣らずの凄みを秘めて、古色も蒼然とたたずんでいるのだ。復元された下の文字はいかんせんスケールが小さく、気の毒になってくる。
私は
「其疾如」のあたりに、この碑の躍如たる面目を感じ、一拝二拝して夕暮れの家路へと向かった。

平成22年8月22日 マネー川柳
自分への 投資と言って 無駄使い
夢はある 暇もあるけど 金がない
退職し 時間余りて 金足らず

平成22年8月15日 高野山2   小谷正夫
高野山の奥の院は、延々二キロ以上にわたって、大昔からの歴史上有名な人々のお墓がぎっしりと並んでおります。
法然上人、親鸞上人、織田信長、石田三成、伊達正宗、また熊谷直実と、直実に首をはねられた平敦盛の墓が寄り添うように建てられているのも、高野山ならではの事です。
ある時代に覇を競い合った人たち、敵同士が同じところに、同じような石の塔の下に犇めくようにして葬られているのをみると、過ぎてしまえば一体人生なんて、歴史なんて何だったんだろうなあ、と思います。
時は常に、永遠に流れて留まる所を知りません。しかし、一人ひとりの人間にとっては、自分の死が時間の終点になります。
なぜならば、客観的時間が幾ら流れようが、亡くなった人にとっては関係がないからです。
言い換えると、我々一人にとっての時間はやがて終わります。だからこそ時間の経つのが怖いのです。
けれども、その時間の終わった後が、最高の権力を持った人でも、この奥の院に見るようなことになるのだとすると、
生きている間の諍いや、悩み、苦しみ、不幸、さらには楽しみや幸せまでが、取るに足らないことに思えます。
  
英雄も 貴人も 同じ石の塔

平成22年8月8日 高野山1   小谷正夫
昨年の秋、ひょんなことから近畿地方を旅行しました。
高野山は初めてでしたが、室生寺は四十年、長谷寺は三十七年ぶりの参詣となり、以前訪れた時のことを思い出しながら、年月の経つのは早いものだと、深い感慨を覚えました。
それぞれの場所を訪れた時の自分の年齢を思い描き、その時から今まで、本当に夢のように過ぎ去った時間を考えると、ある種の恐ろしささえ覚えます。
また、一方では、時の経つことにひるんでいる自分を尻目に、
以前自分が訪れた時と変りなく、いや、それよりも数百年、千年以上も昔から変わりなくそこにある、仏様や建物の時を超えた存在に心打たれました

平成22年8月1日 愛すべき名歌たち 4   阿久 悠 
 おんなの宿   昭和39年 
               作詞 星野 哲郎   作曲 船村 徹  歌 大下 八郎

生意気にも、大して金も持っていない時から、温泉にはよく行った。
少々の思い込みがあって、温泉に行くことが作家になる近道のように考えていた。
それはともかくとして、温泉には独特の非日常の気分があふれており、キリキリした日常を遮断するには、これ以上のところはないと思えるほどであった。
傑作の誕生は別として、恋の一つぐらいは出来るかもしれないと、そんな気にさせたものである。
   〜想い出に降る  雨もある
    恋にぬれゆく  傘もあろ
    伊豆の夜雨を  湯船できけば
    明日の別れが  つらくなる ・・・・・

ぼくの青年の頃の男は、新しい時代に真っ向から対して行く革新的な精神と、温泉宿でひっそりとした退嬰的な時間を持つことに憧れる老成の二面があったようである。現状打破を声高に語り、仕事の上では新しさのみを求め、旧勢力には牙をむきながら、一人になると温泉へ逃げ込んで何ら矛盾を感じていなかったのである。
   〜浮いて騒いだ  夜の明け方は
     箸を持つ手が  重くなる・・・・・
の世界に大いに感心したものだ。

平成22年7月25日 愛すべき名歌たち 3   阿久 悠 
  時代おくれ   昭和61年 
               作詞 阿久 悠   作曲 森田 公一  歌 河島 英五

「時代おくれ」を書いたのは、昭和61年である。バブル景気に浮かれ、誰も彼もが自信満々で闊歩していた頃である。
それなのに、皆不機嫌な顔をしていた。その年の初めに、友人の劇画家上村一夫が急逝した。45歳だった。
彼の死が僕を変えた。君臨しようとするところがあったが、そういうことが空しくなった。
ガツガツはみっともないけど、バリバリならいいと思っていたのに、バリバリすら気が弾まなく思えて来た。
上村一夫の死はそのくらい大きかった。それは、バブルの世の中を何となく似あわないなあ、と感じていたのとどこか共通している。
「時代おくれ」などという言葉を、肯定的に考えたこともなかったのに、大股でスタスタと跨
(また)いでしまった歩幅の中ほどに、大事なものがあった気がしてきた。
    
〜目立たぬように  はしゃがぬように
     似合わぬことは  無理をせず  人の心を見つめつづける
     時代おくれの  男になりたい・・・・・

売れなかったが、この歌は消えなかった。誰かがカラオケなどで歌ってくれていた。ある時から売れるようになった。
発売時期から時差があって、河島英五はこの歌で紅白歌合戦の出場を果たした。
そのうちバブルがはじけた。

平成22年7月18日 愛すべき名歌たち 2   阿久 悠 
  もしもピアノが弾けたなら   昭和56年 
               作詞 阿久 悠   作曲 坂田 晃一  歌 西田 敏行

   〜もしもピアノが弾けたなら
     思いのすべてを歌にして
     君に伝えることだろう・・・・・
はっきりとこれだという根拠はないのだが、この頃あたりから男のタイプが変化してきたように思う。
もてる男の主流ははっきりと、背も高く、顔もよく、明るく、楽しく、軽やかでという条件になり、それまでの男が心の支えにしていた
誠実さも、重厚さも、謙虚さもすっかり旗色が悪くなる。それは同時に、生き方に関しても言えることである。
不器用の奥の真の強さもやさしさも、パフォーマンスがないと感じてもらえない
世の中の薄さに、少し淋しさを覚え始めていたのである。
「ピアノ」は、ピアノであってピアノでない。少しばかり器用なサービス精神と解釈してもらってもいい。
一言でいいのになあと思いながら、その一言を呑み込んでしまういじらしい男が、ちょっと前の時代まではいたのである。
我が家の山百合、山アジサイ、と紫陽花

平成21年7月13日 第57回日府名古屋展
日府名古屋展の先生方に会うのは一年ぶりです。
多治見の滝呂焼五鳳窯の松原先生は九十五歳。とてもお元気で、磁器の焼き物についていろいろ教えて頂いた。
東急ハンズを2店まわって、陶芸材料を見てまわる。今回は、うるしと金粉など金継ぎの材料をたくさん買いました。
阿部信一郎先生が体調不良で、授賞式には妻が代役で久しぶりに出席した。

平成22年7月11日 愛すべき名歌たち 1   阿久 悠 
 思秋期   昭和52年 
             作詞 阿久 悠   作曲 三木 たかし  歌 岩崎 宏美

   〜足音もなく行き過ぎた  季節をひとり見送って
     はらはら涙あふれる  私十八・・・・・
この歌は今でも名曲だと思っている。また岩崎宏美が、少女から女へ移ろう時の中で、揺れる心を見事に歌った。
かってはこのように静かに聴き、じっくりと噛みしめ、自分の思いと重ねてみるという歌も、よく売れたのである。

今はどうか、歌う歌、踊る歌はあっても、聴く歌は求められなくなった。
「思秋期」のレコーディンクは昭和52年の夏前に行われた。岩崎宏美が高校を卒業して三ヶ月後であった。
レコーディンクは歌のうまい彼女にしては考えられないミスの連続で、その日は中止になった。

ミスといっても、泣いて、泣いて、歌えなくなってしまうのであった。
何度やっても気持が異常な高ぶりを示して、彼女は嗚咽するのである。

   〜卒業式の前の日に  心を告げに来た人は
     私の悩む顔を見て  肩をすぼめた・・・・・

後になって、岩崎宏美は僕に、おじさんの年齢の人が、なぜ私の生活や心情がわかるのか不思議でならなかった、と話したことがあった。
「思秋期」を書いた頃、ぼくは40歳で岩崎宏美は18歳。
理解を超えた年齢差で、僕としては祈りに似た思いで少女から女へを書くしかなかったのである。

平成22年7月4日 酔芙蓉    安原 サツキ
  酌み交わす 主亡き庭の 酔芙蓉
    愛
(め)でつつ我は 酔うすべもなし
夫が逝って、はや三年が過ぎました。
その夏の酔芙蓉は、亡き人へのレクイエムの如く、例年にも増して美しく、そして長く咲き続けました。
神戸から横浜に引っ越して来て今年で十二年、植木鉢で買ってきた酔芙蓉を庭におろしたのは、引っ越して間もなくの頃でした。
酔芙蓉とは、誰が、いみじくも名づけたものでしょう。
本当に、その大輪の花は、朝、白い八重の花びらを開き、昼過ぎから少しずつ色づいて、夕方には、淡紅に染まるのです。
大きな枝を広げた梢の花が、一せいに、ほろ酔いとなる見事さは、それが、一日の命であることを忘れさせます。
思えば、終戦後間もなく結婚した私たちの、四十七年の歴史は、激動の日本と共にありました。
共に生きてきた歳月には、あまりにもいろいろの事があり過ぎて、夫の死によるその突然の終焉は、かえって、すべてが、一炊の夢であったかのように思われたのでした。
亡き人を偲ばせて、酔芙蓉は、今年も一人、夏の日の宴を繰り広げてくれることでしょう。

  
一炊の 夢にてありしか 夫逝きて
    現
(うつつ)の夏に 咲く酔芙蓉

平成22年6月27日 最新型体重計  世界の日本人ジョーク集
日本製の最新型の体重計が発売された。なんと、声でアドバイスしてくれるというのだ。例えば。
「体重が徐々に増えています。お気を付け下さい」。というように。
健康指向の高まるアメリカで、これを買ったとある御婦人。
「いったいどんなアドバイスをしてくれるのかしら」。 
彼女はドキドキしながら、嬉しそうに体重計に乗った。するとしばらくして体重計が喋りはじめた。
  「一人づつ乗ってください」

平成22年6月20日 喧嘩の発端  世界の日本人ジョーク集
ある時、日本人と中国人が殴り合いの喧嘩をしていた。やがて警察がやってきて仲介に入った。中国人が口を開いた。
「とにかく無茶苦茶な話なんですよ」
中国人は続けた。
「そこの
生意気な日本人が、私に殴り返してきたのが喧嘩の発端なんですよ」

    中国人は日本人が嫌い、そして日本人はいつまでも殴られ続ける、というのが世界が見る目

平成22年6月13日 自分    武士語でござる
     我という意味があり、通常は殿様など身分の高い武士が、家来などに自分のことを指すときに使う。
身共    同輩やそれ以下の者に対して、自分のことを指すときに使う。
拙者    拙者の「拙」は「つたない」や「くだらない」という意味で、武士が謙遜して使う言葉である。
それがし 漢字で「某」と書く。名前のはっきりしない人物は「なにがし」といい「某」と同じ漢字である。
     語源は「己」(おのれ)で、男女ともに用いる。くだけた調子での会話に使う
     中国では素朴の朴と同系の語で、荒削りで作法を知らない者という意味。「下僕」「僕夫」と用いられる。
自分    私自身のことを「自分」という。

平成22年6月6日 いのち点描   たかはし・とみお
 時雨降る 夕べなりけり 初孫とふ
   ほのかなる うつつに触れて みたりき

十年前、初孫を得た時その思いを詠んだものだが、孫を得るということは、老いかけた己れの前に、天から新たな一冊の人生論を与えられることだと思った。
自らが育てられ、やがて自らの子を育てて、この世を生きついで来た者が、老いの傾斜に差し掛かった時、待てよ、まだ人生の謎は残っているのだと、ゆくりなくも与えられるのが初孫というものではないか。
ほのぼのとした一個の生命を前にして、私は何か深い世界に入り込む思いがする。祖父になるということは系図をまた一つ遡ることだ。
ああ、こうして人は祖先になっていくのか、と己れのいのちの歴史を実感する思いがした。
 
山のあなたは これなりしかと 茶をすする
   吾を見ている 少年の日のわれが

平成22年5月30日 無茶の芸4    川喜田半泥子
半泥子は、「土師香記」(はじかき)なる句画集を描いている。
     
貧乏口
      教えられたる
       寒さかな

これは津の郊外、多為の農家である稲垣水昭の家で描いたもの。
あるとき、出された徳利の口の尖った方から酒をついだら、水昭から

「それは貧乏口といいますのや、大人は広い方からつがないとあきまへん」
と言われ、そのことを俳句にし、絵に描いたもの。

平成22年5月23日 無茶の芸3    川喜田半泥子 
「愛夢倶楽通志友」 この書を  I'm giad to see you と読む。「お目にかかれて嬉しい」。ここに半泥子の遊び心を見る。
芸術とは本来遊びである。権勢に媚びるための手段でも、生活の糧を得るための手段でもあるべきではない。
光悦の茶碗も、良寛の書も、雪舟の画も徹底した遊びであった。それだからこそ、純粋な美しさがあった。
半泥子は、天ぷら「天一」の弟子だと言って、客にみずから天ぷらを揚げてふるまった。
海老や魚は良かったが、椎茸になるとみんな変な顔をしている。乾燥椎茸を水で戻すことを知らなかったのである。

平成21年5月17日 日府展
日府展の先生方に会うのは一年ぶり、諏訪の御柱祭で亡くなった方が私と同じ名字だということで皆さんに心配をかけたようだ。
今回は(緋色壺)で、日府展最高賞の
「日府賞」を頂いた。
師匠の故山田剛敏先生が「日府賞」に輝いたのは十五年前。私が日府展初入選の年だった。
過ぎ去りし昔を思い、感無量です。
今回は阿部信一郎先生も(早春の信濃路)で努力賞をいただき、喜びが倍になりました。

平成22年5月16日 無茶の芸2    川喜田半泥子
土橋嘉平治の本邸は京都の鷹ヶ峰にあり、半泥子とは乾山窯を発掘して以来の仲である。嘉平治は玄庵と号した。
のち八十二歳で没したとき、
「総理大臣の代わりは幾らもあるが、玄庵の代わりは無し」と半泥子をして嘆かせた人である。
その嘉平治の家で観た伊賀の
「蹲る」(うずくまる)風の水差しに「五体の震えるほど」の魅力を、半泥子は覚えた。
その土橋の金婚式に呼ばれた時、この水差しを贈られた。半泥子は持ち帰って、怖い物を見るように、家人が寝静まったあと、この水差しを床の間に飾り、なでたりさすったりという有様であったという。
鬼の首を取った気持だというので、命名していわく、
「鬼の首」。  歌っていわく。
   古伊賀叶うた私のおもい 胸のどうきも鷹ヶ峰

平成22年5月9日 無茶の芸1    川喜田半泥子
本阿弥光悦は桃山期に刀剣の鑑定を業とした。彼の名を不滅のものとした書や、陶芸・漆芸は、すべて余技であった。
余技だから売る必要がない。ゆえに自分の理想とするものを作ることができる。
と半泥子も同様に考えた。
   
光悦を  ゆめにひる寝の 伽羅枕
家に伝来した伽羅枕に香を焚き、光悦を夢に見ることを願って寝た、というのである。
中京におけるある会合で、半泥子は焼物について講演したことがある。
「下手で不器用で、上品で力強いものが上の上です。昔なら本阿弥光悦です」と半泥子は言った。 質問する人がいた。
「いまなら誰ですか」
「いまなら・・・・・、少し待って下さい。そのうちなりますから。」
みんなドッと笑った。

平成22年5月5日 名字と日本人  武光誠
「日本苗字大辞典」には、なんと291,531件もの名字が登録されている。
「みょうじ」を「名字」と書く場合と「苗字」と書く場合がある。学校教育の場では文部省が用いる「名字」と書く。
法務省は「氏」
(うじ)を正式名称としている。そこで法律上は「氏名」・「氏」が使われる。
「氏名」に似た表現に「姓名」がある。「姓」とは一族・やからのことである。

祖先祭祀を重んじなくなった家も多いし、家長である父親が家族を指導し、皆で「家のため」といって働く家も少なくなっている。
これまでの
家がなくなりつつある現在、先祖のことなど無意味で、どうでもいいという考え方もあるだろう。
しかし、個人の時代だからこそ逆に、自らのルーツを知りたいという気持ちが強まるのではあるまいか。

平成22年5月4日 佐理(すけまさ)  榊莫山10
平安三蹟の藤原佐理(すけまさ)。佐理への評価は辛辣である。物臭でなまけ者、酒飲みのぐうたら兵衛だ、と決めつけられている。
佐理の書は、
ことごとくあやまちと失敗の〈詫び状〉ばかりが残ってしまった。
詫び状にみせる佐理の磊落さは尋常ではない。小事にこだわらず、ぬけぬけと詫びやくどきや言いわけを
、流れるような筆さばきで、書状に残すなんて、見上げねばならぬ。これぞ芸術家の鏡だ、と思うことしきりの私である。 では、その書状を眺めよう。
「去夏帖」 上司にあてたくどきの書状である。
わしの家はもうぼろぼろや。修理したいが、この安月給では材木一つ買えぬ、ああ、あ、と窮状を訴えたものである。
まだ四十歳というのに、署名は
〈愚老〉と書いて自虐する。
が、筆致は絶妙で、生気をまき散らしながら美しい。

平成22年5月3日 道風  榊莫山9
小野道風を祀った神社が、琵琶湖の西岸の志賀にある。小野という在所にある道風神社は、晩年の姿さながらに淋しい。
ほんに小さな粗末な社。そして安っぽい扁額。せまい庭は苔むしてしめっぽい。

栄光ある和様の書風を編み出して、平安三蹟のトップランナー
を祀った社だというのに、道風讃仰の碑もなく額もなく絵馬もなく、神社は淋しさと歯がゆさのなかに沈んでいる。
日本的な平安の抒情を、はじめて書に投影した道風の栄光は、どこにあるのか、と思ってしまう。
いま書壇や書塾で、道風の書風を習う人は少ない。

平成22年5月2日 空海  榊莫山 8
平安の書のトップランナー・空海。ふつう、空海の書といえば、「風信帖」がイの一番に顔を出す。
「風信雲書、天より翔臨ス・・・・・」と、オーバーな表情ではじまる「風信帖」は、最澄にあてて差し出した空海の返書である。
この国宝
「風信帖」は、つとにその名は高い。中学や高校の教科書に「風信帖」をのせないものはないほどだ。
空海の書への態度は、はなはだ斬新で近代的である。空海の人生は変幻自在であった。
書のありようも、その人生と全く同じ、といってよい。ひとときといえども、じっとしていなかった空海である。
不変の空海は、どこにも見えない。勇敢といえば、これほど勇敢に人生と書にたち向かった人は、後にも先にも見当たらない。
怪物なのか魔物なのか。
空海ーーーと、まるで森羅万象を飲み込むような名をつけている。

平成22年4月29日 最澄  榊莫山 7
最澄という人は、その名のように心身澄明な人だった。あまり澄み過ぎて、彼は人生において損をすることが多かった、と思う。
この最澄という人の書には、晩秋の風のような気分が漂っている。ひんやりと清麗、なんとなく淋しげなのである。
最澄のかいた書の中で、この気分をそのまま宿すのは
「久隔帖」と呼ばれる手紙だと思う。
わたしは、あの空海の名高い
「風信帖」とならべても、けっして遜色のない名品だと思う。気分の洗われる書と言ってもよい。
ついでに言えば、空海の
「風信帖」は、春の花明りのような書なのである。
最澄の書には、痩せてスマートな王義之
(おうぎし)の書風が見え隠れする。
弘仁十三年(822)三月、最澄は失意と挫折を胸に抱いて、病は篤く床に伏し、比叡山中堂院で入寂した。
山は緑に包まれた六月の四日だった。

平成22年4月25日 天上大風  榊莫山 6
「天上大風」ーーー言葉もよいし文字もよい。それもそのはず、これは良寛の名作として、世上はなはだ評判のよい書なのである。
子供好きの良寛が、
「凧にはるのでかいてくれ」と、鼻たれ小僧にたのまれて「よしよし」と気軽に書かれたもの。
天上大風の碑は、壮大な自然石に、拡大した良寛の書を彫りおこし、ゆゆしいばかりに良寛讃仰のモニュメントとしている。
わたしはこの碑をはじめて仰いだとき、想像を絶する石の大きさに驚き、文字の凄みに圧倒された。
古来、楷書という書体に、筆者のキャラクターを宿すことは、はなはだ難しいとされている。
にもかかわらず、この「天上大風」には、良寛という異にして怪なるキャラクターが、めりはりきかせて棲んでいるではないか。

「どれだけ拡大されたって、わしの字はびくともせんよ」
という禅者良寛の高古天真ぶりを、わたしはいつまでもこの書の中に見すえつづけていた。

平成22年4月18日 虚子忌   中堂高志
昭和三十四年四月一日の夜、いつものように床に就いた虚子は、突然ゴォーという大声をあげて意識を失った。持病の脳溢血であった。
八日午後四時、ついに冥界の人となった。戒名は
「虚子庵高吟椿寿(ちんじゅ)居士」という。
椿の花は長寿の意味に喩えられる。虚子忌を別名椿寿忌というのはそのためで、八十五歳の大往生であった。
晩年の虚子は自在の人となっており、時にこんな言を吐いている。
「生きるだけ生きねばならぬ。
たいして楽しいこともなければそう愉快なこともない。人と会っても特別愉快というでもなく不愉快というでもない」

高浜虚子は、釈迦の手の平である。俳句について練達な他の多くの俳人たちも、いつかその手の平へ還っていく
。だからこの人が、
 
虚子一人 銀河と共に 西へ行く
というのなら、西の方へ行かせてあげたらよいのである。こんな逞しくて、それでいて何かしらノレンに腕押しという感じを与えた俳人はいなかった。こういう人をニックキ御仁というのではなかったかしら。

平成22年4月11日 散る桜
  散る桜 残る桜も 散る桜   良寛
今は美しく咲き放っている桜も最終的には散る桜、つまり我々の命は儚いものです。
しかし、毎年変わらず咲いていく自然は、まさに悠久の世界を奏で、我々人間に永遠の命を示してもいます。
人間は経済性ばかり追求すると、脳が攻撃的となり、他人を傷つけるという。
世間では、人を追い出してはみたものの、自分が次に追い出されるという、喜劇が演じられています。
介護をして初めて、自分もいずれは介護されることに気づきます。
明日は我が身、
いずれ自分も散る桜なのです。

平成22年4月4日 桜前線  大場 明日香
桜吹雪は、やがて花びらの褥となり地に還る。それを養分として吸収し、地球の生理は一年後に、春の目覚めを約束するのであろう。
歳月は繰り返す。やがて私自身、花びらのひとひらとなり、生まれ変わる日がくるのではあるまいか、などとこの春うららかな日に、空恐ろしき空想などしている。
意志強く男まさりで
「男に生まれ変わりたい」と願った澤地久枝さんはその著書にこう書いている。
人間いつかは、死ぬ日を迎える。もしその日を選べるのなら、満目枯れて、荒涼とする季節より、花の季節がいい。
かってこんな人間が生きていたという記憶も、名残もきれいになくなったのちも、その命日には、野の草花、木々の梢の花々が香りを運び、死者の祀りをいとなむ。花野へ還る女の命。無名の女の退場に、せめての贈り物は、花の季節・・・・・
と。
男女を問わず、最後は花で飾られるが、男の人は、どんな最後が理想なのか、と、ふと思う。

平成22年3月28日 青山(せいざん) 「中国の言葉で墳墓の地と言う意味」 鳥越俊太郎
墓地の中をキョロキョロしていた時だ。ある墓石がずれていて、穴の中に茶色っぽい骨壷が見えた。
単なる好奇心だけでのぞいてみた。壺の中にはちらりと白い骨が見えていた。
その骨を見た瞬間、私は雷に打たれたように全身を揺さぶられ、周りの景色が消え失せた。
自分の人生にやがて終りがくることを骨の白さが告げていた。
「ああ、人間って最後はこうなるんだ。」「オレもああなるのか!」と電撃的ショックに貫かれて、私は思わず走り出していた。
この白い骨を見た「あの日」こそが、大人への扉を自分の手で開けた瞬間だと思う。
この経験を経て、私は私にしかない私だけの人生、父親のものでも、母親のものでもない、自分だけが持っている、
限りある人生という時の長さを思った。・・・・・私は幸いなことに、その後、次のような言葉と出会った。
「人間(じんかん)至る処 青山(せいざん)有り」

平成22年3月22日 福翁自伝
若い頃に、これはすごいと思った本は、勝海舟の「氷河清話」と岡倉天心の「茶の本」・福沢諭吉の「福翁自伝」。
その「福翁自伝」を久しぶりに読返してみた。読みにくい本というのが感想である、が、人の一生、生きざまには興味尽きない。

 
十二歳の頃、殿様の名前を書いた紙を踏み叱られて、
兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いといえば、神様の名のあるお札を踏んだらどうだろうと思って、踏んでみたところが何もない。
年寄りなどが話す神罰冥罰なんという事は大嘘だと一人自ら信じ切って、稲荷の社の中には何が入っているか知らぬとあけてみたら、石が入っているから、その石をうっちゃって代わりの石を入れておき、「馬鹿め俺の入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」と、一人嬉しがっていた。
  
咸臨丸でアメリカに行って、
いまワシントンの子孫はどうなっているか尋ねたところが、今どうしているか知らないと如何にも冷淡な答えで、なんとも思っておらぬ。
これは不思議た。ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、こちらの脳中には源頼朝、徳川家康というような考えがあって聞いたところが、今の通りの答えに驚いて、今でもよく覚えている。

平成22年3月21日 日本一短い「愛」の手紙3 一筆啓上
気管支切開のまま逝った夫(あなた) 
唇の動きは「愛しているよ。」だったと、今でも胸が熱くなる。  
加畑京子  57歳

秋にね キンモクセイの香りが 漂うと
あなたに かがせて あげたかったって 思うの   
玉岡信子 34歳

昨日、二人で播いたアサガオが蕾を付けていました。
ただそれだけお伝えしたくて。  
奥田依子  16歳

平成22年3月14日 日本一短い「愛」の手紙2 一筆啓上
あなた、定年過ぎたら散歩してくれる?
お話もしてくれる? あと3年ですね。   
朝比奈洋子  52歳

あなたの回復を願って靴下を編みました。
早く破れますように。  S・H  58歳


10年ぶりに偶然あなたに出会った時、
私化粧をしてて良かった。   
新井直美 34歳

平成22年3月7日 日本一短い「愛」の手紙1 一筆啓上
娘へ・・・・・
由美ちゃんの、成人式の振り袖姿は、とてもきれいな、
我が家の打ち上げ花火でした。   
篠原信子  54歳

たんぽぽ残してくれた畔草刈りのおじさん、
お日さまいっぱいありがとう。   
上條恵津子 36歳

約束より30分遅れます。
一番きれいな私が、なかなか見つからなくて。   
矢尾恭子 22歳

平成22年2月28日 ニュースの職人 「真実をどう伝えるか」 鳥越俊太郎
 遡れば、日本の伝統工芸は江戸時代以前から根付いてきた文化だった。
何の天然資源も持たない日本が、後に豊かな社会を実現できたのは、ものづくりに最も大切な゛職人の直観力゛を持つ人々が現場で創意工夫を重ねてきたからではなかったか。そうした職人芸の系譜の上に、我々マス・メディアで働く人間も位置するはずだ。
アーティストが自分の世界を突っ走るのに比べ、職人はユーザー感覚が大事である
できるだけ多くのユーザーが受け入れてくれなければ、仕事にはならないのだ。ニュースに関わる者として、一個人の身勝手な思いで取り組む仕事は、テレビだけではなく、どのマス・メディアでも成立しないだろう。ニュースの職人としては、そのあたりが勝負どころだ。

平成22年2月21日 大牡丹   富原 ミエ
あるおだやかな日の朝、私は庭先に立ってボンヤリと周囲を見ていました。
気がつくと、私は大きな
牡丹の花の前に立っており、思わず口から出た言葉は 「疲れたなあ」 というひとり言でした。
今はもう六月、この家に嫁いで三か月が経っていました。私は目の前の
牡丹の花が羨ましく思われました。
なぜか急に涙がこぼれました。私は
牡丹の花の前に佇んで、再び引き返すことの出来ない道を歩いている自分のことを思いました。
二十二歳でこの花の前で涙を流した日から、休むことなく毎年咲いてくれたこの
牡丹の花とも、別れる日が来ました。
昨年私は老いを心配する息子の土地に移りました。
牡丹との別れもいたしました。
小株を一本だけ
荷物に入れて、親株は跡を引き受けてくれる人に託しました。
今でも、六十三年前のあの日、牡丹の前で、引き返すことの出来ない道に入ってしまったと思わずに、引き返すことに憚ることなくやり直しの人生を歩いていたら、今頃私はどうしているだろうかと時々考えます。
   客の来る 今朝一本の 牡丹咲く 

平成22年2月14日 望蜀
人は足るを知らざるに苦しむ。既(すで)に隴を得て、復(ま)た蜀を望んや。
「望蜀」とは、後漢初代皇帝の光武帝が隴西(現在の甘粛省)を平定し、さらに蜀に進軍しようとした際に述べたとされる「人は欲望に限りがないことに苦しめられるものだ。隴西(甘粛省)を獲得したのだから、これ以上蜀を望むことはないと言う言葉に基づく。転じて欲望には際限がなく、満足を知らないさまを指すようになった。

平成22年2月11日 プーさんの鼻  俵万智
言葉にはうるさき母が 「おばあちゃんでちゅよ」 と言えり 霜月三日
子が握り 散らしてしまうラベンダー 朝の舗道をうすく香らせ
さよならの 意味を知らないみどりごが 幸せ分かつように手を振る
諏訪湖畔の桜に雪の花が咲きました

平成22年2月7日 父の定年  俵万智
第一も第二もなくて人生は 続いてゆくよ 昨日今日明日
三十年ぶりに絵筆をとる父に 母はさほどの興味示さず
根拠なき自信に満ちて花を描く 父は父らしく老いてゆくらし

平成22年1月31日 扁額  榊莫山 5
扁額の下で暮らすというのは、気持のよいものだ。
わたしは庭に
”草庵”と彫った石を建て、門には”山居”の扁額をかけている。
アトリエの額は
”柝庵(たくあん)と気取り、茶庭の門には”夢幻”の額、茶室の軒には”休庵”の額ーーーと欲張っている。
といっても、苫屋
(とまや)の軒だから無責任なもので、思いつくままに彫ったり書いたりしたものばかりで気は楽だ。
さてその草庵、草むしりに困り果てたあげく、いっそ草庵と破れかぶれの思い付きだった。山居は、山中の住まいが故の素直なものだ。
アトリエの
柝庵、柝は拍子木のことである。
組織を離れて30年、浪人暮しのわたしは、自分で尻をたたかねば誰もたたいてくれないので、ちょっと気取って柝庵とやった。
が、どれほど自分の尻をたたいても、なぜか痛くもかゆくもない。柝庵はすこし気取りすぎたかナ。

平成22年1月24日 (すい)  榊莫山 4
京都には粋な菓子屋が多い。(平安殿)もその一つ。白い壁に木額を吊り下げ、「お入りやす」と、ゆったり構えた風情がよい。
平安殿の文字は
陶芸家の富本憲吉が筆をふるったのが昭和28年。
民芸的感覚をもとにして、新しい作風を展開し続けた富本憲吉は、機械主義的な作風に対抗しながら、官展にみなぎる会場芸術主義にも、激しく対立していた。その気分は、彼のかく書にもあらわれて、人々に愛される風格的な書をかいていた。

昔の文人や芸術家には、料亭とか菓子屋の主人と、仲睦まじいのが多かった。
肝胆相照らす中から生まれたそんな文字には、いいナ、と思うのが多い。
平安殿もそうである。ねっとりと古い都人の物腰を思わせながら、
である。
面白み満点で垢抜けしているあたり、いかにも富本憲吉らしい筆さばきである。
まさにモダンでクラシック。古陶磁を現代化した意匠にすぐれる富本の世界そのもの、と思う。
一流の芸術家というのは、絵にも書にも工芸にも建築にも通暁しながら、その造形をたしかに見据えているということだろう。
昨今、これは学ぶべきことである。

諏訪湖は全面結氷して、岸辺に氷が盛り上がっています。遠く八ヶ岳の上部が見えます。

平成22年1月17日   榊莫山 3
仙高ヘ痛烈きわまる禅僧だった。寛政元年、仙高ヘ聖福寺の法灯をつぐ、仙高フ人気は抜群で、みるみる聖福寺は息を吹き返した。
そして54歳、京の本山諸老のサインした紫衣勧奨状がとどく、京へ上り名誉ある儀式を受けよ、というのだが、仙高ヘきかなかった。

「生涯わしは黒衣でよか」
と、紫衣勅任を固辞している。仙高フ胸には、名刹絶対排斥という達磨の哲理が、さんらんと輝いていたのだ。
人々は栄西の再来、と仙高拝み続けたのである。
62歳、仙高ヘ幻住庵に隠居し、手にする筆はいよいよ冴え冴えと澄み始めた。
気取りも作意もない淡い調子の書と絵に、人々はひきつけられていった。書きまくること20年。そして、とうとう、
 
墨染の 袖の湊に筆捨て 書にし恥を さらすなみ風
書いてきたのは恥ばかりーーーと、
自嘲の碑を庭に建てる。なんとも仙高ヘ、はかりしれない恬然たる禅者であった。 

平成22年1月11日 平家の琵琶塚  榊莫山 2
平家が亡んだ鎌倉の初期、琵琶の音にあわせて「平家物語」の語り物が始まった。 誰もが知っている、
 
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。裟羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・・・・
壮大きわまる平家物語という叙事詩を、まるごとかかえこんだような、でっかい平家の琵琶塚の碑が、平家にとっては痛恨の一の谷を、恨むような目つきで立っている。明治35年、太宰府の神官が書いたという琵琶塚の文字は、平家軍団の栄光は亡びず、とでも言いたげに、タッチは痛烈、表情も豪快に、春の光にかがやいていた。
 
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し
なんて知らん顔の、このふてぶてしさがうらやましい。

平成22年1月10日 (夕焼)の碑  榊莫山1
 ゆう焼をあび/手をふり/手をふり/
 胸にはちいさい夢をとぼし/手をにぎりあわせてふりながら/
 このゆうやけをあびていたいよ      八木重吉

この詩を読みながら、碑を眺めている限り、しあわせいっぱいのメルヘンを感じてしまうが、詩人・八木重吉の生涯は、みじかく悲しかった。詩人の草野心平が重吉を訪ねたとき
「家庭はいかにも温暖そうなのに、彼の顔は霙でもふっているような哀しい顔つきだった」そうである。
昭和二年、重吉29歳。肺結核は若い詩人の命を奪った。夕焼けの美しい秋の十月、悲しい詩人の夭折であった。
そして子供の桃子は14歳で、弟の陽二は15歳で、ともに父の後を追う。二人とも肺結核ーーー神はなぜ、と言いたい。
碑は御影師範学校のあった跡に立っている。
重吉のペンの字は、ころころと、ころがるようにやさしい。もうこれ以上のやさしさはない、と思うほど、文字の体温はあたたかい。
60年たったいまも、
重吉の字は、昔のままにあたたかい。涙ぐむほどあたたかい

平成22年1月3日 白菜  小林幸子
近くのスーパーへ買い物に行く途中、冬の寒い、キーンと音がするような青空の下、一面の白菜畑に出会いました。
 
両腰に 両腕あててワハハハと 冬の白菜 畑で笑う
いろんな事につまずいていた私は、そんな白菜達の光景に思わず足を止めて、一緒になって大笑いしたくなりました。
クヨクヨするなんて、バカらしい。こうやって、空に向かって、いつだって笑っていればいいじゃないかと思えました。

平成22年1月2日 ことばのあかり 加瀬 初枝
 えらぶなら ことばのあかりと かきしひと
  いつか想いの あかり灯して

「月明かり、星明かり、雪明かり、花明かり、ひとつだけえらぶなら、ことばのあかり」
灯すことを忘れて、いや、灯すことさえ思わず、知らず、ただあくせくと過ごしてしまった来し方のあけくれ。
言葉の明かりなんて思いもせず、言葉の剣さえ使っていたような来し方。
行く末は わがめぐりすべてのひとに明かりを灯そう。せめてほんのりとでも、それと気づかぬ程度でも、わが心の明かり。

 (しぼ)みたくなくても 萎むか月下美人 うつろう刻(とき)の 容赦もなくて

平成22年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。

  堂々と 無職と書いて 翔ぶ余生
60歳から70歳までを黄金の10年というそうです。全てに充実し、自由にやりたいことが出来ると・・・・・?
若い時は暇がなく、70歳を超えると体の自由が利かず・・・・・と考えると
「悔いを残すな」「気力も体力も充実している間に、第二の人生を歩み出せ」
・・・・・反面、人生最後のあがきのような気もしますが。

 とりあえず、お喜び申し上げます。

*ホームページを開設して10年、工房は14年、穴窯は3年目です。

 元日や 今年もあるぞ 大晦日
2010年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。