諏訪湖

工房の椿「玉之浦」

 
 

平成19年12月31日
 大晦日 
今年も残すところわずかになった。一年の残された日々があとわずかと気づくと、この短い時間が急にいとおしくなる。
今年はよく空を見た。雲の輝きや、青空の変化は見ていて厭きない。紅葉の山を空一面の鰯雲が覆い、それが茜色に染まる。日本の秋を再発見しました。


今年の漢字は

白い恋人。赤福(伊勢に行くと必ず買いました)。吉兆(茶の湯の湯木美術館を見ているのでがっかりです)。
年金くいつぶし、C型肝炎の厚生省。おねだり妻の防衛省。役人の不正は無くなりませんね。8年前に「木枯し紋次郎」の参議院議員、中村敦夫が書いた「この国の八百長を見つけたり」という本、読むと、そのころの日本の政治、官僚と今はまったく変わりません。

この国の権力者は誰か。それは、主権在民ではなくて「主権在官」。つまり官僚たちの天国である。裁判所も検察も、やはり役人。公金不正使用で、該当公務員は犯行を認め退職などの処分を受けた。つまり犯罪は疑いようががないものでも、ことごとく不起訴、無罪。脱税は罰せられるが公務員が多額の税金を横領しても無罪では国が滅んでしまう。
東京都の石原新太郎さんに対し、知事は四年だが、こちらは一生だと、うそぶいているという地方公務員。地方自治体の決算項目に「食糧費」がある。これは、ただ酒、タダ食いで一千億円にもなります。公務員を揶揄して、税金ドロボーとよくいいます。それに対して、税金を使うのが公務員の仕事だと応酬した人がいましたが、税金を使う側の大原則は、透明性が条件です。裏金を捻出して費消するなどは以ての外です。
東京には中央集権を絵に描いたような場所が三か所あります。国会議員のいる「永田町」。官庁が密集している官僚の町「霞が関」。そしてあまり注目されていない「虎ノ門」。ここは官僚の天下り先である悪徳特殊法人、官製公益法人が密集しています。ここは、元高級官僚が天文学的数字の税金を使う、我々節約生活者とは全く違う世界なのです。
私の耳奥には、上条恒彦さんの歌う「木枯し紋次郎」の主題曲の「心は昔に、死んだ」というフレーズが遠い潮騒のように聴こえてきました。

今年は本焼き5回、素焼き2回と少ししか焚けなかった。

来年は公務員が悪いことをしない年になりますよう(絶対に無理か)、そして、私たち庶民にも幸せが来ますように。

平成19年12月30日
 記念品  
人生第二幕は濡れ落ち葉になりたくない。そして定年後の人生は好きなことをして送りたいと思う。
そして、やりたいことを数えると、平均寿命の八十才ではとても時間が足りない。

第二の人生思い巡らす、もらって嬉しい退職記念品
1.旅行券
2.商品券
3.花、フラワーアレンジメント
4.腕時計
5.寄せ書き 旅行カバン  十年日記  万歩計
団塊世代の定年退職。第二の人生に移る際にまずは旅にでも出て長年の仕事のあかを落とし、新たな生活に思いを巡らせたいと考える人は多いようだ。

平成19年12月24日
 美は乱調にあり  
「花はさかりに、月はくまなきをのみ賞するものかは」  徒然草
完全形よりいささかの過不足に味わいを求める。
美は乱調にあり。歪んだり、高熱でへたっている器物に美を発見する喜び。
しかし、お役人の公僕意識となると、不足や欠如はご愛嬌ではすまない。C型肝炎の厚生省。それが判明した後の対応も含め、公務への誠実さが無残にもそっくり抜け落ちているのが悲しい。

平成19年12月23日
 発つ   
  俵万智
備前焼の店
閉ざされていたことも思い出として発つ
冬の朝

窓のない喫茶店にて
明日からのこと考える
カフェカプチーノ    

ありがとうなんて
言うのも今さらのような気がするけど
ありがとう              
仲間から贈られた本。「男の料理塾」と「花をいける」。
食器と花器は実際に使用して、より良いものを作りたい。

平成19年12月16日
 団塊世代の定年
       サラリーマン川柳
サラリーマンに聞きました。老後資金はいくら必要。
一千万円〜五千万円 55%
五千万円〜一億円   19%
百万円〜一千万円   17%
必要額の根拠は「年間200万円×25年」と現実的な数字を挙げる。しかし、実際には「無理」「かなり難しい」が56%

意識して節約しているのは。
食費           55%
外食を控える。リフォームでオール電化にしたら、想像以上に節約できた。
格差。
豊になった           18%
貧しくなった           82%
税金や社会保険料がアップし、手元に残るお金が減っている。お金はあるところにはあるんだなあと感じるときが多い。


定年の 朝の赤飯 噛みしめる。

侘びと錆 身につく頃が 定年時
定年後 帰宅時間を 妻に聞く
退職を してもやっぱり こまねずみ
やめたいと 思った頃が 懐かしい
とりあえず 生きてみようか 新世紀
少数に なって精鋭だけが 欠け
我が人生 ピークは生まれた ときだった
ついに来た 俺も週休七日制

平成19年12月9日
 得心   
  森 一夫
退陣を表明した英国のトニー・ブレア首相は在任十年でまだ54歳である。三っ年上の筆者は中原中也の詩の一節を思い浮かべる。
「あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・吹き来る風が私に云ふ」(帰郷)
明治時代に住友の基礎を盤石にした伊庭貞剛は五七歳で引退した。出処進退の模範例としてよく知られた人物である。伝記『幽翁』に含蓄のある言葉が載っている。「退くということは、働かぬということではない。
その年に応じてそれぞれの働きがある退くということ、そのことすでに、老年の働きである
しかしこうはいかないのが大方の人生である。
老害と陰でけなされても地位に執着する人もいる。人生にはどうにもならない宿命的な要素もある。それを受け入れてなお得心のいく生き方ができるかどうか。人それぞれの一生の価値はその辺りで決まるのではないか。

平成19年12月2日
 定年
定年退職しました。
還暦になり、私の人生に残り時間がどれだけあるかはわからない。
人生80年時代とはいえ、元気で何かを出来るのは70才までか。
とすると、この1〜2年は大切で、新しい人生に遅れは致命的だ。

月曜日から徹夜で窯を焚き、エッセイ集を読んでいると、セカンドライフの第一歩を踏み出した実感が湧く。そして、二歩、三歩ときてしまった「やきもの」。どんな第一歩も、どこまで歩けるかはわからない。けれど二歩目を踏み出すのは自分。歩き続けるのも自分。

私は会社のストレスから解放され少し太ったようだ。
其一
         陶淵明
盛年不重来
一日難再晨
及時当勉励
歳月不待人
せいねん かさねてはきたらず
いちじつ ふたたび あしたなりがたし
ときにおよんで まさにべんれいすべし
さいげつ ひとをまたず
若さは 二度と取り返せないし
一日に 二回朝が来ることもない
だから時間を無駄にしないで、大いに楽しもう
年月は、残念ながら人を待ってくれることはない

平成19年11月25日
 マーフィーの法則
失敗する可能性のあるものは、失敗する。
階級組織は、浄化槽によく似ている。大きな汚物の塊が、いつも上層部に浮かんでいる。
官僚は、ライバルを望まず、部下を増やしたがる。
官僚は、お互いの仕事を作り出す。
いろいろな専門家に相談してみれば、どんな意見でも正当化できる。
規則は、黄金を持つ者によって作られる。
若いときは、一度きり。しかし、一生未熟でいることはできる。
いびきをかく人が先に寝つく。
美しさは皮一枚のもの、醜さは骨の随まで。
金持ちであるかないかを気にする必要はない。欲しいものがすべて手に入り、快適に暮らせれば十分である。
賢者は真実を発見して喜び、凡人は間違いを発見して喜ぶ。

平成19年11月18日
 夢嶺窯
岡谷市の夢嶺窯の窯詰めを見学。
棚板が3列で奥へ5の15枚、捨て間に2列の奥へ2の4枚という大きな穴窯。
奥へ非常に長いのが特徴。煙道は短い。
薪は豊富にあり、薪割り機は2台、温度計は3つ。
会員33名という大所帯、窯入口の左右に空気孔があり、左右へ振った熾きを燃やすようだ。
夢嶺窯 捨て間入口 煙突 煙道から煙突
薪は太い チェーンソーで2つに 薪割り機 入口

平成19年11月11日
 耳順
六十歳の誕生日をむかえました。私は耳順。
「六十にして耳順う」《論語》で、六十歳は『耳順』である。六十歳にもなれば修養が進み、理にかなえば聞くことは何の障害もなくただちに理解できるという意味ですが、とてもこのようにはいかない今の私、たとえとして誤用だと主張するなかれ。
この60歳よりまえはよく知られている以下の言葉です。
「吾十五にして学に志す」で、『志学』は十五歳の別称。学問を志す年ということ。
「三十にして立つ」で、『而立』は三十歳のこと。世に独立するの意。
「四十にして惑わず」で、『不惑』は四十歳の別称。進退に迷わないの意。
「五十にして天命を知る」で、『知命』は五十歳。天命を知るの意。

平成19年11月4日
 一筆啓上2   
        日本一短い「家族」への手紙
合格発表の時、
「車で本読んでる」と言ったお父さん。
あの時、本逆さだったよ。

急須にご飯を詰めたお婆ちゃんを叱ったら
゛いつもすまないね゛と言った。ごめん。

父さん゛われもこう゛が咲きました。
まねして俳句を作ってみます。笑わないでね。

癌で亡くなった夫へ・・・・・
辛い転移より、残す私を案じてくれた
貴方ありがとう 風呂で泣きました。

私達の車が見えなくなるまで手を振る義母。
本当に「一人暮らしは気楽」ですか。

平成19年10月28日
 一筆啓上   
        日本一短い「家族」への手紙
大切な夫へ・・・・・
三十数年間、殆ど単身赴任だった貴方
定年の日を心から楽しみにしています。

今年銀婚式。やっと解り合えたのかなぁ。
これからの二十五年で、私達の色出したいね。

夫へ・・・・・
十匹も焼いていた夕餉の秋刀魚
二匹になりましたねお父さん。一匹にしないでね。

専業主婦は楽じゃないと口説くけど、
定年控えた窓際族も決して楽じゃないよ。

夫へ・・・・・
ガンなら告知してください。
感謝を伝えずに死ぬ方がつらい。

平成19年10月21日
 長井 秀和
の間違いない
オヤジ・ギャグとは寒いものではない。ほろ苦いんだ。間違いない。
子役タレントの両親は結局離婚する。
焼肉食べ放題とは「焼かなきゃとても・・・・・焼いてもどうだか」の肉食べ放題って事なんだ。
風水は当たるのではない。儲かるんだ。コパがそう言ってた。
パンツの面積が小さい女ほど腹の面積は大きい。
30を過ぎた女が集うネイルサロン、磨けるのはもう爪しかない!
本屋さんの店員はやっぱり本が好きそう。ペット屋さんの店員はやっぱり動物が好きそう。歯医者さんの助手をやっている人はお金が好きそう。そういう事です。
日本人女性、「イタリアでナンパされちゃって〜」って、落とされやすいのがわかっているからナンパしてくるんです。ペペロンチーノ、フォッカッチョ、カンツォーネって本場の発音で言われたらもうイチコロなんです。日本男児、指をくわえて見てないで、雅(みやび)、匠(たくみ)、勅(みことのり)、ジャパネスクに訴えて甘く囁いてやりなさい。頑張れ!

平成19年10月14日
 
第8回陶友会展
第8回陶友会展が下諏訪町の彩美堂で10月6日〜8日の3日間開催されました。
全員 浜 博人先生 平川 てる子先生 平尾 政行先生
阿部 信一郎先生 増沢 ふみ子先生 石井 宏子先生 緋色窯主人

平成19年10月8日
 FMに出ました

エルシーブイ FM769 の「いい朝7時」−「いま輝いて」 のコーナーに8月8日(水)夫婦で出ました。
司会の臼井則孔さん、打ち合わせ一切無しで始めました。話を聞いてしまうと感動がなくなるため?。とにかく緊張の1時間でした。その時リクエストした「時代おくれ」が都合により、小林あきらの「熱き心に」に変わったので、雰囲気だけでも味わえるようここに載せてみます。


時代おくれ
   唄 河島英五  昭和61年(1986)
作詞 阿久悠 作曲  森田公一 

 

一日二杯の酒を飲み

魚は特にこだわらず

マイクが来たなら 微笑んで

十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ

妻には涙を見せないで

子供に愚痴をきかせずに

男の嘆きはほろ酔いで

酒場の隅に置いて行く

目立たぬように はしゃがぬように

似合わぬことは 無理をせず

人の心を見つめつづける

時代おくれの男になりたい

 

不器用だけれど しらけずに

純粋だけど 野暮じゃなく

上手なお酒を飲みながら

一年一度 酔っぱらう

昔の友には やさしくて

変わらぬ友と信じこみ

あれこれ仕事もあるくせに

自分のことは後にする

ねたまぬように あせらぬように

飾った世界に流されず

好きな誰かを思いつづける

時代おくれの男になりたい


平成19年10月7日
 高齢者クラブ   
        
老人クラブ数、会員数が減少し続けている。長野県ではクラブ数が3200から2000に、会員数も24万人が14万人になっている。青年団や婦人会、各種団体が衰退消滅し、今度は老人クラブ。地域ぐるみは好まれない時代だ。入会しない理由は「60代は使い走りにされる」「組織に縛られたくない」が大部分。解散した理由は「会長のなり手がいなかった−−−」。時代が変わり、肩書きが欲しい人は少数になり、価値観が変わっているのだ。昔の考え方では組織は消滅していく。

平成19年9月30日
 定年2   
作家 堺屋 太一        
団塊の世代が社会に出た1960年代後半、まだ貧しい発展途上国だった日本に道路をつくり、住宅を建て、教育を普及させ、外貨も貯めた。熱心に働いた割には楽しまないで貯蓄をした。戦後の最大の功労者といえる団塊世代が失敗したのは子弟教育だった。子供に勇気とか覚悟とか独創といった、美徳を教えなかった。自分で考え選択する気力を与えなかった。一流の学校を出て会社にはいるのが幸せなんだと。優しさと安易さだけが美徳と教えた。今の現役の多くは決断と勇気がなく、臆病を慎重と言い換えてしまう。
戦後のサラリーマンは先憂後楽。まず心配して貯蓄して人生を読み切る生活が良いとされたが、これからは健全な楽観主義が必要だ。人生は予定通りにはいかない。昔の人は「その時はその時」という覚悟があった。変動がきても慌てない。覚悟があれは楽観的に生きられる

平成19年9月23日
 定年1   作家 落合 恵子
        記事より
 日本の豊かさとは「より多く、より早く、より大きく」だった。ほかの人が階段を一段ずつ上がるなら、自分は三段跳びで上がって行こうという人は女性にも男性にもいる。「人生における成功って本当にそれなのですか」 と問いかけたい。在宅で母を7年介護してしみじみ思ったのは、急いで行ってもゆっくり行ってもゴールは意外と同じところにあるのだな、ということ。彼女の介護に要した時間は、効率万能の社会から見ると効率が良いものではなかった。でも、それによって私はいい生活者になれたと思えた。仕事しか見えない時期があることも大事な体験だとは思うが、豊かな人生とは何なのかを一度立ち止まって考えてもいいのではないか。

平成19年9月16日
 道路の権力  
道路公団民営化の攻防1000日   猪瀬 直樹
答申の前文
 バブル経済崩壊後、日本国は「失われた10年」と呼ばれる空回りの停滞期に突入するようになる。原因をさぐれば、官僚機構の変質と肥大化と向き合わざるを
得ない。
官僚機構は縄張り争いをしつつ、天下りをはじめとする利権を拡張し民間の自由な経済活動を阻害するさまさ゜まな規制を張り巡らせた。特殊法人、認可法人、その傘下に群がる社団・財団法人、さらにはファミリー企業をつぎつぎと自己増殖させ、国民の利益をむしりとりはじめていたのだった。そういうなか国民の危機の認識を背景に小泉内閣が誕生し、歴史的使命として構造改革が宣言された。

道路四公団に40兆円もの借金がなぜ累積したのか。不必要な道路を、コスト意識もなくつくりつづけ、ファミリー企業という寄生虫をその醜い肉体に無数に宿らせたからである。道路公団の民営化は、単に国営企業を民間企業に転換させるためだけにするのではない。白昼堂々と行われてきた不正が、誰にも監視されずに放置されてきた状態を浄化する必要があるのだ。

「北朝鮮と戦っているようなものですよ」。道路公団を民営化しようとすれば自ずと、官僚「独裁国家」が支配する統制経済との対決になるのだから。道路公団は特殊法人で、特殊法人というのはわかりやすく言えば社会主義国にみられる特権を持った閉鎖的で非効率な組織、不正の温床でもあった国営企業のことである。道路公団、国土交通省とは別にもうひとつ、北朝鮮的なるものが存在する。デマゴギーによる妨害である。言論表現の自由がない北朝鮮では、拉致された人物の墓が洪水で流されたなどというデマが白昼、公然と流される。

藤井治芳という化け物を誰がつくったのか。
ゴキブリと同じで一匹が見つかれば、同等同格の化け物は十匹ではすまない。いまや毀れた官僚機構は軋んだ音をたてながらつぎからつぎへと化け物を量産する装置と化している。

平成19年9月9日
 睡眠
ヒトは、人生の三分の一を眠って過ごす。もし眠らずにすむのなら、使える時間は1.5倍に増える。しかし、睡眠は決して無駄なものではなく、ヒトにとって必要不可欠なものです。ところが、その大切な睡眠について、我々はあまりにも無頓着ではないだろうか。寝ている間、ヒトは交互に訪れる二種類の睡眠を繰り返す。「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」です。
ノンレム睡眠の役割は、何よりもまず大脳を休ませること。大脳は、ヒトが消費するエネルギーの20%も使っているので、休息を与えなければ人間として正常な活動をすることは出来ない。優先的に大脳を休ませるために、熟睡状態は最初の三時間に集中します。また、新陳代謝に必要な成長ホルモンが分泌され、まさに「寝る子は育つ」というわけです。さらに、からだが細菌に感染したときには熟睡状態が増えて、免疫機能を増強してくれます。風邪などをひいてからだが弱っているときには、深く眠ることを心掛けなければいけません。
一方、脳が起きているレム睡眠は、起床前のウォーミングアップのための睡眠です
。ノンレム睡眠からレム睡眠への移行は、一晩におよそ90分単位で4〜5回繰り返されますので、4時間半、6時間、
7時間半と90分の倍数で設定すれば、レム睡眠で起き、目覚めが良くなるのです。


平成19年9月2日
 夭折画家   

村山槐多(むらやま・かいた) 明治二十九年九月十五日、横浜市に生まれる。京都一中時代に早くも戯曲を発表した早熟児であったが、大正八年二月二十日没。22歳。

「四月短章」(1913年)
     四
血染めのラッパ吹き鳴らせ
耽美の風は濃く薄く
われらが胸にせまるなり
五月末日日は赤く
焦げてめぐれりなつかしく

ああされば
血染めのラッパ吹き鳴らせ
われらは武装終へたれば。

 
塊多15歳の詩が今日も、「戦え!」と、私の怯懦を打つ。
大正3年5月、少年は京都を発った、画家になるためだ。貧乏を蹴散らし、恋し、躓き、描きまくった。「のらくら者」の奔放、放胆、大らかな線描を見よ。ぎらぎらした達観を見よ。この至純の魂を讃え、「火だるま塊多」と歌ってみせたのは高村光太郎である。
大正6年、2度目の日本美術院賞を受賞、だが、翌春喀血。転地療養先の浜辺で絶望の酒を呷る。命をとりとめ、代々木に転居、冬を越す。炭もなく布団に綿もない。「血が出る/肺から/こはれたふいごから/心から」の詩は悲痛だ。大正8年2月、雪まじりの嵐の中に飛び出す。20日死去。「生きて居れば空が見られ木がみられ画が描ける」。そうだとも世界はあまくなやましく痺れるほどの怪楽にあふれ  歌集「デカダン村山塊多」一巻を私は、時代の青春に献じた。
  歌人 福島泰樹


平成19年8月26日
 魯山人   
        奥本大三郎
「そう、魯山人は目利きでもあるし、作品も上手です。魯山人の作品は将来残る物だと思います。そういう意味では天才なんです。そして、人間や作品を一遍で見ぬく人だったんですよ。この人は駄目だとか、どういう才能があるとかいうことがぱっと見える。しかも、それをはっきり言わずにはいられない人だったんです。だからみんなに嫌がられるんです」「たしかにね、魯山人に社交術があれば、晩年あんなに寂しくならなかったということでしょうか」「しかし、逆に言うと、そういう人間ではほんとのものは出来ないということも言えるんですよ。いい人といい作品とは両立しない。魯山人は寂しい人だと私は思いますね」「魯山人は非常に直線的な人で嘘をつかない。嘘も方便と言いますよね。でも、その方便さえも使わないんですね。だからそこらじゅうで摩擦が起きるんです」
「・・・・・カリスマ性のある人というのは、その人がそこにいるだけで、まわりの人間が変わってきます。
魯山人の没後、弟子たちが最後の窯を焼いたけれど、ぜんぜん駄目だったそうですよ」  塚田さんは最後にそう言った。

平成19年8月19日
 前衛   
  建畠 哲
陶芸の分野にも前衛はありうるのだろうか。一般的に言えば、陶芸は技術的な伝統と用の美という価値観に深く依拠しており、既成の概念の継承を拒絶する前衛芸術とは最も遠いところに位置しているように思われる。もし用の美を否定してしまえば、陶芸とはもはや陶芸ではなく、単に陶を素材にした彫刻と見なされかねない。1949年に京都で八木一夫らを中心に結成された「走泥社」は、そのようなアンビバレント(二律背反的)な問題を引き受けつつ、陶芸の表現の大胆な改革を押し進めた、他に類例のない結社であった。京都・五条坂の陶芸家の家に生まれた八木は、一方でこの歴史のある街の職人であることを自負しながらも、多面的なキャパシティーをもった人物であった。従来の鑑賞用陶器の範疇を逸脱したオブジェの概念(「壷の口を閉ざせばオブジェになった」と彼はいう)を導入しえたのは、八木ならではの発想の卓抜さがあってのことなのである。「ザムザ氏の散歩」は、走泥社結成後の1954年に制作された、その嚆矢をなす記念碑的な作品である。ザムザとはフランツ・カフカの小説「変身」の昆虫に変身してしまった主人公の名だが、珍妙なるそのザムザ氏の散歩する姿は陶芸自体の、あるいは陶芸家である彼自身の変身の比喩であっただろう。
「ザムザ氏の散歩」は、私は岐阜県現代陶芸美術館で見ましたが凄いとしか言いようのないものでした。

平成19年8月12日
 私の履歴書  
明日に向かって   新藤 兼人
監督した映画は47本。書いた映画のシナリオは238本。わたしのテーマは、ただ一つ「人間」であった。この奥深い不可思議な捉えにくいものを捉えようとして一途に生きてきたが、はたして何を捉えたであろうか。95歳になって、アタマも少し弱ってきたし、足腰も衰えた。だが今年は、一本映画を撮ろうと思う。題名は「花は散れども」。小学校の先生の話だ。わたしは小学校のとき一人の先生に感銘を受けた。黒板と生徒の間に立って教科書にそって教えていただけなのに、何か大きなものを教わったような気がしている。多分それは先生の人柄だろう。竹の根でできた鞭を持っていて、生徒が騒ぐと激しく黒板を叩いて、静まれと怒鳴った。その声が懐かしい。それを描いてみたいと思った。・・・小学校は建て替えられていたが、むかしのままの位置にあった。校庭は花崗岩土壌だから白い。雨が降ったあくる日は眩しいほどだ。その白さは今も変わらない。先生は定年退職後、学校の近くに家を求めた。なぜなら子供たちの声を聞いていたいからだと言う。いまも学校に先生の写真は残っているが、どんな先生だったか誰も知らない。

平成19年8月5日
 練上(ねりあげ)  
 信州と工芸より   滝沢 正幸
明治以降顕著になった工芸の職人や作家が「芸術」をめざす動きは、戦後の日展に向かってますます加速してゆく。しかしこれは工芸の特質である「用の美」、すなわち手にとって愛玩し使用するという価値観を希薄にし、他の美術分野と同様の視覚的鑑賞への誘導、翻って工芸世界の限定化、矮小化に進む危険性もはらんでいた。こうしたなか、1954年の第一回無形文化財日本伝統工芸展の開催と翌年の日本工芸会の結成は、急速に失われつつあった伝統技術に対する国の主導による保存と啓蒙とを意図したものであった。そこから人間国宝(重要無形文化財保持者)の制度も生まれてくる。陶芸分野における信州出身唯一の人間国宝が松井康成である。古陶磁の研究をはじめた彼は、やがて練上技法に焦点を絞り、1971年の日本伝統工芸展出品作「練上線文鉢」によって最高賞を受賞する。練上とは、色違いの粘土を組み合わせて文様を生み出す、極めて複雑な陶芸技術である。

平成19年7月29日
無言館   
  福島泰樹
画家を夢見ながら志半ばで戦争で亡くなった画学生を追悼する「無言忌」が上田市の「無言館」で毎年開かれている。

「裸婦」の作者日高安典は、種子島南端の小村に生まれ、東京美術学校で油絵を学ぶが、昭和17年春、満州に出征。家の外では、出征兵士を送る万歳の声が村中に谺していた。しかし、日高は自室に籠もり続けた。「あと五分、あと十分この絵を描かせて欲しい」、家族に残した最期の言葉である。直前まで描いていたのは、恋人の裸身像であったという。
闇に溶けいる豊かな黒髪、聡明の額。くっきりした目鼻立ち。かたく結ばれた唇。清らかな首筋、幼さの残る肩先。そして凛とした瞳は、何を凝視しているであろうか。「永遠に凍結した静謐」、ふとそんな言葉が脳裏を過ぎる。そう、日高は、時間を止めたのだ。不条理な戦争も二人を待ち受ける運命も、かなぐり捨てて、美と真向かったのである。
「この画を仕上げたい」。だが、昭和二十年四月フィリピン、ルソン島で戦死。二十七歳だった。

平成19年7月22日
 平和   
  記事より
若い世代に広がる戦後否定の心情。「平和とはいったい、何なのだろう」。定職をもてない若者にとって「平和な社会の実現」とは、有職者の既得権の維持にしか見えない。「反戦平和というスローガンこそが『持つ者』の傲漫」「戦争が起き、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいる」−現状へのいらだちが挑戦的な言葉に転化し、矛先は「戦後体制」へ向けられる。「僕らの世代は国家など意識せずにきた。だがそれは価値や行動基準を失い、漂い続けるだけの生で、自分が何者かも分からない」。
視野の外に追いやられていったのが、「米国の庇護下にある平和国家」という現実だった。
「外国から見ると平和憲法も日米安保があって成り立つので、九条も米軍の存在抜きには語れない」
さらに、バブル経済後の社会の階層化、米国流の競争をあおる新自由主義経済が「国民」のまとまりを寸断し、社会はバラバラな個人の集積体へ姿を変える。「平和」は既得権維持の表現とされ急速に色あせていく。

平成19年7月15日
不祥事
下諏訪町から「町職員の不祥事のおわび」が配布された。役所の灯油代として自宅の電化製品を購入していたという。懲戒免職2人、減給6人。しかし、こういう税金泥棒は役人全体にあることで、誰も驚いていないのがすごい。「預け」といわれて役所のものを買ったことにして、自分の物を購入するのはどこにでもあることだ。裏金もよく発見されるが、氷山の一角。
では、給料が安いのか、7月4日の新聞にこんな記事が載っている。
総務省が比較調査したら、現業公務員の年収、民間の2倍超。
清掃職員  419万円(民間) 730万円(公務員)
調理師    351万円(民間) 589万円(公務員)
運転手    387万円(民間) 670万円(公務員)
守衛     363万円(民間) 693万円(公務員)
昔から役人の悪事は無くならない。今、中国ではあまりにひどいので、一罰百戒として、即死刑を執行しているが、日本にも必要なのかも知れない。

平成19年7月8日
 介護   
  記事より
病院で妻が認知症と指摘されたのは2004年6月。認知症については「物忘れがひどくなるくらいだろう」と深く考えなかった。05年妻は一人で入浴も出来なくなった。「なぜ京都に行くの?」不思議そうにそう問いかける妻(56)。ついに自宅も分からなくなったか・・・・。
芦田さんが妻に声を荒らげることはない。認知症患者は
「合わせ鏡」といわれ、介護する側の対応次第で患者の様子が大きく変化するからだ。疲れて帰宅すると、たたんでおいた衣類が散乱していたり、貴重品をしまい込んで見つからなくなったり。非難すると、穏やかだった妻がひょう変、途端に言うことを聞かなくなった。仕事の憂さを抱えたまま帰宅すると、妻はいら立ちを見透かすように不機嫌になる。「いかんいかん切り替えないと」と言い聞かせて自宅のドアを開ける。
妻はブランド物ひとつ持たず、衣類に頓着しなかった。妻の衣類を洗うとき、倹約に努めた妻のつつましい日常生活が浮かぶ。
定年がちらつくようになって、ふと頭をよぎるのが、妻にもしものことがあったら・・・・・。それはある日突然、現実のものとなる。

平成19年7月1日
京都人 
  京都市美術館 尾崎眞人
「僕はそこに育ったことを悲しみやしない」と1895年、四条高倉に生まれた里見勝蔵は因習な京都について語った。「しかし、京都のすべてが馬鹿者と卑怯者ばかしではない。時たまには、この妥協と平凡の小人根性性に我慢し切れなくて、反逆する者が生まれる」。こうした革新性を「純真な人間性の爆発」と里見はいう。パリに渡り、絵を見せたヴラマンクに「この絵の女には命がない」とアカデミズムを指摘され、その後フォーヴィスムの生命感に影響を受ける。「優雅を知らなければ人生はさみしい」と、一方で京都への恩恵と故郷を思う意識が、理論的裸婦の形態追及から「生命としての女」の裸婦を創造した。それはヴラマンクと京都が、里見と心の中で出会った成果ともいえる。

平成19年6月24日
 祈り 
   中上 紀
人は生きるために祈る。どんな思いであれ、どんな形であれ、どんな時代であれ、それは変わらない。丸木位里、丸木俊。二人の作品に共通するのは優しさ、そして人間や、自然、動物たちへの愛である。「原爆の図 第12部 『とうろう流し』」は連作の中で、最もその部分が出ているかも知れない。滔々と揺らめきながら、海へと向かっていく小さな炎の群。灯篭たちの一つ一つに乗せられている亡くなった人々の魂が、旅に出ようとしている場面である。埼玉県東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」を訪れた。夫妻が住んだという家もすぐ近くにあり、裏手に都幾川が流れていた。どの川も、行き着く先は海である。我々人間は、灯篭のように流れて消えてしまう脆い存在なのかもしれないが、命は常に生まれ続ける。そこに未来がある限り。

平成19年6月17日
 お役所の掟  
宮本政於
国会答弁のコツ
第一に、けっして言質を取られず、責任の所在が明らかにできないようにする。
第二に、できるだけ現状維持の状態を保てるような内容にする。
第三に、聞いている誰もが不満を言わないような文章にする。
第四に、突っ込んでくるような質問に対しては、はぐらかしていないようで、実際には上手にはぐらかすような文体とする。

国会答弁の「適切な言葉」
前向きに         遠い将来にはなんとかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせる言い方。
鋭意 明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。
十分 時間をたっぷりかせぎたいということ。
努める 結果的に責任をとらないこと。
配慮する 机の上に積んでおく。
検討する 検討するだけで実際にはなにもしないこと。
見守る 人にやらせて自分はなにもしないこと
お聞きする 聞くだけでなにもしないこと
慎重に ほぼどうしょうもないが、断り切れないとき使う。だが実際には何も行われないということ。

平成19年6月10日
 
諏訪展
第60回記念諏訪展で2回目の諏訪美術会賞を受賞しました。
パンフレット 受賞作品 60周年記念誌 10年間の諏訪美術会賞受賞作品展示コーナーにある私の前回受賞作品

平成19年6月3日
 サラ川 
今年のサラリーマン川柳 
1位 脳年齢 年金すでに もらえます
2位 このオレに あたたかいのは 便座だけ
5位 「ありがとう」 そのひとことが 潤滑油
迷作選
よく言うよ 金は天下で 回りっぱなし
わが家にも 「もののけ」いるが 姫じゃない
久々の 化粧に子ども あとずさり
ふりむくな 運転中と 化粧中
売る人の 顔見てやめた 化粧品

宝くじ 馬鹿にしながら 根は本気

平成19年5月27日
 チェンストホーヴァの黒い聖母  
貴志 祐介
チェンストホーヴァの黒い聖母は、度重なる略奪で頬に二つの切り傷を負いながらも、人々の崇拝を集めてきたイコンである。だが、なぜ聖母の肌が黒いのだろうか。黒いマリア像は、全世界に約450体が存在する。カトリック教会は蝋燭の煤が付いたと弁明しているが、おそらく、キリスト教の布教過程で、地中海地方で広く信仰されていた大地母神イシスと習合したためらしい。黒は大地の色なのだ。
幻視かもしれないが、私は黒い聖母に、全ての人類の母であるイブの面影を見てしまう。我々のDNAを遡ると、すべて15万年前に東アフリカにいた一人の黒人女性に行き着くというのだ。
だが、人類の来し方行く末を見つめてきた黒い聖母のまなざしは、なぜ、こんなにも悲嘆にくれて見えるのだろう。過去に我々が犯した過ちのせいなのか、それとも、我々を待つ未来は、それほどまでに荒涼としたものなのだろうか。

平成19年5月20日
 池内美術 
   奥本大三郎著 「東京美術骨董繁盛記」
フランスのシラク大統領(64歳)が辞任しサルコジ氏が新大統領となった。
シラク氏は日本通として知られ、公私にわたり頻繁に訪日(過去に42回)した。

シラク大統領が日本に来た時、外務省が吉兆に席を用意した、と先方に伝えると、「吉兆はもう厭きたけれど、熊野懐紙を見せてくれるなら行きたい」と言ったそうである。
その昔、「蟻の熊野詣」と、蟻の行列にたとえられるほど、人々は熊野に参詣した。公家たちが道中和歌を詠み、鎌倉時代初期のものが残っているが、特に後鳥羽上皇のたびたびの熊野御幸の折の、歌会の和歌懐紙を熊野懐紙という。後京極良経筆で、重要文化財である。
法学部を出て外交官試験をパスした秀才でも、日本では文学、美術の教養というようなこととは無関係に過ごしているから、そんなことを言われても周章る。
逆に村山総理がパリに行った時のこと、シラク大統領は会談前、ルーブル美術館から取り寄せた美術品を見せるのが恒例だったが、
村山さんはその前をすーっと素通りしたそうである。

平成19年5月13日
 ピロリ菌
感染すると胃ガンになりやすくなる細菌ヘリコバクター・ピロリ菌が胃ガンを引き起こす仕組みを北海道大の畠山教授が解明した。ピロリ菌は胃の表面の細胞同士を結合させているタンパク質の働きを阻害。細胞はお互いに隙間なくつながることで胃酸から守ったり、細胞が勝手に増殖したりしないようにしているが、そのつながりを断ち切る。さらに、細胞同士をばらばらにする仕組みが細胞増殖にもかかわり、胃ガンにつながることも判明した。

平成19年5月6日
 ムンク
   日本画家 福井爽人
夜、暗闇で目を閉じ眠る。そして私たちは夢を見る。夢の中には、自分をはじめとして意外な人物、動物、植物、まれには色彩までもが見えてくる。目を閉じて見えてくる映像こそ、私たちの内なる現実世界なのかも知れない。
ムンクは、深く自己の内側を凝視しながら、実験的制作を続けた。そこには繰り返し自画像らしき人物が出てくる。「芸術作品は、作者の内面からのみ生み出されるしかない」とムンクは言っている。
「謙虚で友情に厚く、毅然として神経の鋭い人に思えた」老年のムンクをオスロ郊外のアトリエに尋ねた人はそう評している。
先駆的な道を歩んだ作家の宿命でもあるが、生前は理解者が少なく、晩年は孤独な生活を過ごしたという。

平成19年5月5日
 国家の品格4 
藤原正彦
私は勉強はめざましく出来ましたが、女性にはいっこうにもてません。いまだに何とかならないかと思っておりますが、世界中の女性の目がくもっているので、なんともなりません。夫婦喧嘩では女房にすら敵わない。人の能力はなにひとつ平等ではないのです。「人間はすべて平等」などと言っても、子供でも直感的に「ウソ」とわかっているはずです。
紀元前二世紀に、ローマ軍は宿敵のカルタゴを殲滅し、建物をことごとく壊し、廃墟を鍬でならし、不毛の地とすべく一面に塩をまき、老若男女すべてを奴隷として売り飛ばしました。カルタゴは地上から消滅しました。二千年以上後の米国国民の三分の一が、日本に対し同じ事を考えたのです。国民は賢くならないのです。国民が国をリードすることはありえない。なのに主権在民が金科玉条となっているのです。

英国という国を見てください。世界中の国が、英国の言うことには耳を傾けます。英国が現在そんなに凄い国かと言えば、それほどでもない。日本の言うことには誰も耳を傾けないのに、なぜ経済的にも軍事的にも大したことのない英国の言うことに耳を傾けるのでしょうか。英国の生んできた「普遍的価値」というものに対する敬意があるからと思います。例えば議会制民主主義という制度は英国生まれです。シェイクスピアやディケンズ、力学のニュートン、電磁気学のマックスウェル、遺伝学のダーウィン、経済学のケインズ。みんな英国人です。
日本人の道徳の高さについては、戦国の終わりから安土桃山時代にかけて我が国を訪れた宣教師をはじめとする人々が、異口同音に驚きの声を上げました。これは明治になっても同じでした。明治初年に来日し、大森貝塚を発見したアメリカの生物学者モースは、日本人の優雅さと温厚に感銘し「なぜ日本人が我々を南蛮夷狄と呼び来ったかが、段々判ってくる」と書きました。モースはさらにこう書きます。「自分の国では道徳的教訓として重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っていることに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」と。

平成19年5月4日
 国家の品格3 
藤原正彦
茶道、華道、書道など、自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒が、日本人の核となって、世界に例を見ない芸術を形作っている。「悠久の自然と儚い人生」という対比の中に美を感じる、という類いまれな能力が日本人にはあります。
無常観というのはもともと、インドのお釈迦様が言ったことです。お釈迦様の言う無情は哲学です。万物は流転する。永遠に不変なものは存在しない。どんどん変わってしまう。いまあなたがいる建物も必ずいつかは朽ち果てる。あなたの周りの人間も百年後には誰もいない。何もかも永遠に同じ形を保つことは出来ない、という当たり前ともいえる哲学です。日本人の無常観は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生して、
弱者へのいたわりとか、敗者への涙という情緒を生み出した。儚く悲しい宿命を共有する人間同士の連帯、そして不運な者への共感へと変質していったのでしょう。
この無常観はさらに抽象化されて、
「もののあわれ」という情緒になりました。十年ほど前に、スタンフォード大学の教授が私の家に遊びに来ました。秋だったのですが、夕方ご飯を食べていると、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。その時この教授は、「あのノイズは何だ」と言いました。彼にとって虫の音は雑音だったのです。その言葉を聞いた時、私は信州の田舎に住んでいたおばあちゃんが、秋になって虫の音が聞こえ、枯れ葉が舞い散り始めると「ああ、もう秋だねえ」と言って、目に涙を浮かべていたのを思い出しました。「なんでこんな奴らに戦争で負けたんだろう」と思ったのをよく覚えています。

平成19年5月3日
 国家の品格2 
藤原正彦
小学校で英語を教え始めたら、日本から国際人がいなくなります。英語は話すための手段に過ぎません。表現する手段よりも内容を整える方がずっと重要なのです。英語はたどたどしくてもいい、内容が全てなのです。私にも苦い経験があります。ケンブリッジ大学で研究生活を送っている頃、ある大教授がこう訊いてきました。
「夏目漱石の『こころ』の中の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とは何か関係があるのか」
私はもちろん作品は読んでいましたが、こんな質問にいきなり答えられるだけの用意はありません。何とか誤魔化したのですが、彼が納得したかどうか自信はありません。世界のトップエリートというのは、そういうことをいきなり訊いてくるのです。英国の歴史やシェイクスピアについては決して訊いてこない。だから、日本人としての教養をきちんと身につけていないと、会話がはずまない。
ある商社マンがお得意さんの家に夕食に呼ばれた。そこでいきなり、こう訊かれたそうです。
「縄文式土器と弥生式土器はどう違うんだ」唖然としていると「元寇は二度あった。最初のと後のとでは、何がどう違ったんだ」。
こういう質問に答えられないと、
「この人は文化のわからないつまらない人だ」となり、もう次から呼んでくれないそうです。

平成19年4月30日
 国家の品格1 
藤原正彦
内容が濃い1冊の本をここで紹介するのは無理だと言うことは、前回の「バカの壁」でわかっているが、あえて挑戦する。著者は諏訪出身の新田次郎(聖職の碑・八甲田山死の彷徨)と藤原てい(流れる星は生きている)夫妻の次男。
国家の品格は、それ自体が防衛力です。日本が開国したとき、米国、英国が植民地にしようと思えば出来たはずです。しかし、英国人達は江戸の町に来て、町人があちこちで本を立ち読みしている姿を目の当たりにして、
「とてもこの国は植民地には出来ない」と諦めてしまったのです。中国は広いので列強国が分割しました。ビルマ、インドを有する英国とインドシナを有するフランスの緩衝材として、タイだけは植民地になりませんでしたが、他のアジアの国は全部植民地になりました。日本は文化度が高く、品格ある国家であったが故に、植民地にならずに済んだのです。
真の国際人に外国語は関係ない。例えば明治初年の頃、多くの日本人が海外に留学しました。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心と、みな下級武士でした彼らは欧米で賞賛を受けて帰ってくる。彼らは、レディー・ファーストやフォークの使い方も知らないし、シェークスピアやディケンズも読んでいない。肝心の英語さえままならなかったはずです。だけど尊敬されて帰ってきた。彼らが身につけていたものは、日本の古典を読み、漢文を読み、そして武士道精神を身につけていた。すなわち、情緒と形で武装していたのです。
大正末期から駐日フランス大使を務めた詩人のポール・クローデルは、大東亜戦争の帰趨がはっきりした昭和18年に、パリでこう言いました。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。」

平成19年4月29日
 私の履歴書  
 宮城まり子
メキシコの古代都市テオティワカン。ピラミッドがみえるところに着いた頃には、日が暮れかかっていました。壮大なピラミッドは私一人のものでした。夕焼けに赤く輝いた月のピラミッドと太陽のピラミッド。年に2回、太陽が真上を通るように設計された紀元前2世紀の遺跡です。古代の壮大なロマンを私はただ、立ちつくして眺めていました。
何かすれば人に何か言われるんじゃないか。考えて迷っている私はこの砂の一粒より小さな存在です。私が何をしたって、この世界の中で何程のものでもないんだと思いました。テオティワカンの太陽のピラミッドと月のピラミッドは私に大きなことを教えてくれました。


春は、工房の木々が咲きだし、嬉しい季節です。
やぶ椿 オオデマリ 八重椿 白椿 西王母

平成19年4月22日
 剣岳 
立山黒部アルペンルートが、4月17日全線開通した。雄大な山岳が誰にでも見られる素晴らしいルートだ。
私が、仲間3人と剣岳に登頂したのは、昭和45年7月31日から8月2日の3日間。当時のアルペンルートは全線開通していなかったように思う。
7月31日、扇沢からトロリーバスで黒四ダムへ。ケーブルカーとロープウェイで大観峰へ。そこからいよいよ山歩きである。食料とテントで重いザックを背負って室堂へ。ミクリガ池、地獄谷を歩き、雷鳥沢でテントを張る。夕食はいつものカレー。
8月1日、雷鳥沢を出発後夜が明けてくる。別山乗越、剣沢小屋には夏スキーの人が。一服剣、前剣と剣岳は遠い。 最大の難所とされている「カニの縦這い」、「カニの横這い」を過ぎ、剣岳に登頂したのは午後2時でした。そして、その夜もカレー。
8月2日、朝から雨。この日剣岳では六件の遭難があった。雷鳥沢から一ノ越、黒四ダムまで一気に駆け下りる。交通費が高いので節約したのだが、ダムのだいぶ上に出てしまった。トロリーバスで扇沢、大町に出て着宅。

平成19年4月15日
 旅への思い 
高知県立美術館館長 篠雅廣
物見遊山とは異なる、寂寥、哀愁、漂泊といった旅にまつわる果てしなくもはかないイメージを夢二ほど体現した画家は少ない。自分から進んで、あるいは誘われるままに、仕事も恋愛も全てなかばにして、つぎの旅にでかけるほどの度量はわれらにはない。俗世間は難儀なことばかりだが、日々の暮らしの繰り返しだから楽でもある。
昭和6年5月、夢二は榛名湖畔にたどり着き、ここを定住先として産業美術学校創設の企てをおこす。理想郷を発見したのである。木陰に卓を置き、座ってくつろいでいるのは自身の姿。果物を捧げ持つ清純な乙女。そばで見上げる忠実な犬。
だが、これはつかの間の幸せ。夢二画伯はこの後、二年半にもおよぶ長い欧米周遊の果てに帰国、病に伏し、ふたたびこの地に舞い戻ることはなかった。
「ありがとう」。夢二が最期に遺した言葉は、いかにも旅するボヘミアンにふさわしいものだった。
工房の花桃 諏訪湖の桜 諏訪湖畔 諏訪湖の桜

平成19年4月8日
 城山三郎逝く
「一個の人間より大儀を大事にする国」。軍隊の体験で得たそんな疑問が戦後の企業社会で「組織と個人」の関係を問う作品につながった。「辛酸」−田中正造と足尾鉱毒事件を読んだときの衝撃を私は忘れられない。国家という強権により蹂躙された早すぎた公害闘争。悲しいまでの結末であるが、わずか100年前の日本で起きていた生活と思うには惨めすぎる。こんな国家があったのかと思うとやり切れず、でも今も大差ないかもとも思えてしまう・・・。私たちが知っているようで知らされていない真実というものは意外と足元にもあるのかもしれない。
城山三郎に好き嫌いがあるとすれば、それはその人物が清潔か卑しいか、ということだけだった。彼は主義主張ではなく、サムライかどうかで人物を見ていた。国鉄総裁石田禮助の「粗にして野だが卑ではない」と言う言葉が彼は好きだった。
大臣が何千万円もの水道料は法的に問題ないというこの国。役人が闇給料、豪華官舎、旅行・宴会をしたくて、うるさい議員に口封じの同じ待遇を持ちかけたのが、政務調査費や赤坂議員宿舎、視察旅行等々。また雪印からパロマ、不二家等の企業トップの品格のなさ。談合や不正の隠蔽が繰り返される一方で、ライブドア事件のような金を持った者の勝ち的な土壌が広がる。
「凛とした生き方」を描き続けた作家はなんと見ていたのだろう。

平成19年4月1日
 究める
「茶碗を芸術にした」(美術評論家の林屋晴三氏)といわれる陶芸界の異才、十五代 楽吉左衛門
「長次郎の茶碗は造形を否定しつつ、造形を超越している」
「長次郎の黒とは、なにもかもをのみこんでいくブラックホール」と評する。
「世の中の価値観をグサッとひと突きする意識だけは失ってはいけないが、も少し、深いものを探りたい」
「世の矛盾を背負い、自己矛盾とも闘いながら土に向かってきた。悩み、苦しみ、七転八倒する自分の世界を、同じように七転八倒する他者は見て、必ずそこに感動の源泉をくみとってくれる」。作陶三十年の確信はゆるがない。
今年の行者ニンニク クリスマスローズ クリスマスローズ

平成19年3月25日
 富本憲吉 
 柳原睦夫
先生の茶陶嫌いは有名です。陶芸はすべて人為の営みであり、合理性、整合性、明晰さが必要と主張される先生にとって、炎の神秘性、偶然性を許容する茶の湯の焼き物は、所詮無縁のものだということです。
1955年に人間国宝61年に文化勲章を受けられます。見せていただいた勲章が意外に小さく地味でしたので、その旨感想を申し上げると、
「文化なんか国家にとってはこんなもんや」といかにも先生らしいお返事でした。
墓所を作らず、
わが作品を墓と思われたし。私たちに遺された先生の言葉です。
工房の梅

平成19年3月21日
 京都人 
京都市美術館学芸課長 尾崎眞人
寂しい絵というものがある。家庭的な親子の親和がテーマと考えられる樹陰(庭)」谷出孝子 はそうした作品である。初秋の柔和な光の中でくつろぐ母娘。卓上のコップは二人だけの時間であることを示すのだろう。だが、なぜか母娘の距離は近くない。
作者の谷出孝子は1932年に結婚、その3年後、穏やかではあるが、淋しさの漂うこの絵を描いた。39年の離婚と関係があるのだろうか。あるいは、自然なままの自己の意識を描いただけなのかもしれない。戦後すぐに谷出は大阪で女流総合美術協会の創立に参加し、京都からは疎遠になる。だが、住むことのない京都の家は晩年まで残されていた。その思いはどこにあったのだろうか。
いずれにせよ、画家が現実を描く眼を持つということは、人として必ずしも幸せなことではないのかもしれない。

平成19年3月18日
 バカの壁2  
養老孟司       東大名誉教授
『平家物語』の書き出しは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。鐘の音は物理的に考えれば、いつも同じように響く。しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは、人間がひたすら変わっているからです。聞くほうの気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。 『方丈記』の冒頭もまったく同じ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」。人間も世界もまったく同じで、万物流転である。
結論は、
「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということでした。学生には「ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話します。では、桜が変わったのか。そうではない、それは自分が変わったということに過ぎない。知るということはそういうことなのです。知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう、それが昨日までと殆ど同じ世界でも。これに一番ふさわしい言葉が『論語』の
「明日に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。

平成19年3月11日
 バカの壁  
養老孟司       東大名誉教授
数学くらい、わかる、わからないがはっきりする学問はありません。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。わかる人でも、あるところまで進むとわからなくなります。それを考えれば、誰でも「バカの壁」という表現はわかるはずだと思っています。イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国、若者と老人は、なぜ互いに話が通じないのか。そこには「バカの壁」が!
現代においては、自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漠然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」。 または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっている。だから、「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえるはずだ」といった勘違いが生ずるのです。
世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ。ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の「藪の中」や黒澤明の「羅生門」のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の主題です。まさに現実は「藪の中」なのです。
モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前でも向こうの世界ならそうじゃないことがある」ということを知っている人だった。もちろん「客観的事実」などを盲目的に信じてはいない。それが常識を知っているということなのです。
ウィーンの科学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べています。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータを集めるだけでは意味が無い、ということです。「全ての白鳥は白い」ということを証明するために、たくさんの白鳥を発見しても意味は無い。「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、生き残るものこそが科学的理論だ、ということです。

平成19年3月4日
 ビートルズ
四十年前のビートルズ来日はまさに社会的事件だった。
彼らが滞在したキャピトル東急ホテル(当時は東京ヒルトン)が高層ビルに建て替えられる。
北大路魯山人の名門料亭(星岡茶寮)跡に誕生した日本初の本格外資系ホテルは数々の逸話を残した。
来日中ビートルズは二カ所で演奏を披露した。一つは武道館。もう一つがホテル地下での飛び入りライブだ。
分刻みの日々の息抜きだったのか。
トレンドスポットがいつの間にか歴史の証人になり、人の平均寿命より短い四十三年で姿を消す。

平成19年2月25日
 落款
4日間の落款講習会に参加した。参加者は書道、俳句、絵手紙、陶芸と多彩である。
道・緋・み・ひ 将・明・ふ・緋(ふみ子)

平成19年2月18日
 老女 
 美術家 やなぎ みわ
「関寺小町」は日舞の義太夫。老いた小野小町をモデルにした演目は「卒都婆小町」「鸚鵡小町」とともに「三老女」といわれ、筋立てはいずれも、落魄の小町が過去の栄華を懐かしんでひと時の舞を舞う、というもの。歌の中には「老いの姿の恥ずかしや」「百年の姥が身の恥ずかしや」と、小町が我が身を嘆く台詞が何度も歌われる。若者顔負けの達者なご老人があふれる現代に生きる私たちには、小町のよろよろした嘆きは、自らの老いにあまりに無防備なように見えてしまうが、世阿弥の能楽の中で老女というのは世の無常の象徴であり、それを体現することが奥義とされていたようだ。
伏し目で上品な老小町、対照的な謡曲「黒塚」の般若面の鬼女。
小町か、鬼女か。女性が温和な「高砂」の媼になるには、双方をくぐり抜ける必要があるのだろうか。

平成19年2月11日
 これはこれでよい
 「景徳鎮からの贈り物」    陳舜臣
「たとえばこの五彩(赤絵)は、いまから二百年前の嘉靖の窯のものだね。これはたしかにすばらしい。だけど、もし・・・・・いいかね、もしもだよ。この私が作るとすれば、こんなものは作らない。これはこれで完成しているからね。・・・そんな意味でいったのじゃよ」
「新しいものだよ。そうではないか。二百年も前に完成したものを、いまさら作ってもしょうがない。いや、作ってもかまわないが、すくなくとも私は作りたくないね。作るとすれば新しいものだ」「新しいってどんなものでしょうか」「困ったね、そんなふうに訊かれると。・・・・・これから生まれる赤ん坊の顔を訊かれるようなものだ。・・・・・まだ生まれていないのだから」

平成19年2月4日
 小椋
 佳
小椋佳といえば私にはこの曲。

 「白い一日」   小椋佳作詞・井上陽水作曲
   
真っ白な 陶磁器を    眺めては あきもせず
   かといって 触れもせず  そんな風に 君のまわりで
   僕の一日が 過ぎてゆく

   目の前の 紙くずは  古くさい 手紙だし
   自分でも おかしいし  破り捨てて 寝ころがれば
   僕の一日が 過ぎてゆく

   ある日 踏切のむこうに 君がいて  通り過ぎる汽車を待つ
   遮断機が上がり 振り向いた君は  もう 大人の顔をしてるだろう

   この腕を さしのべて  その肩を 抱きしめて
   ありふれた幸せに  落ち込めればいいのだけれど
   今日も一日が 過ぎてゆく

平成19年1月28日
 未熟の晩鐘
テレビで小椋佳コンサート 「未熟の晩鐘」 を見る。髪が薄くなり、トイレに行くつもりが風呂に入っていたと加齢を笑う。
私より3歳年上の62歳。団塊の世代には、いどみの時代、個人の価値観を大切に、人間の本来あるべき姿を、と「第二の人生」の応援歌を謳う。
「未熟の晩鐘」は、私はこんなに年寄りになりましたというCD?
  
落日の影 否めず
  残照か 薄暮か 鐘の音鳴り渡る
  遙か地平に 彷徨う姿
  悟りより 迷いを 背負う 道の果て
  悟りとは  無縁の 未熟を 愉しむ

もう、諸症状が愛とか恋とか言っていられないが、詞が爺様の説教だからと、コンサートでは新たに詞を書き直して謳っている。

「愛燦燦」 ヒットしました。
  
雨 潸々(さんさん)と この身に落ちて
  わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして
  人は哀しい 哀しいものですね
  それでも過去達は 優しく睫毛に憩う
  人生って 不思議なものですね
  それでも未来達は 人待ち顔して微笑む
  人生って 嬉しいものですね
 

平成19年1月21日
 墨型
  中村雅勇  日本で唯一の墨型彫刻師
書道などに使う固形の墨。名品は表面に文字や美しい絵柄がほどこされている。それに欠かせないのが木製の墨型だ。
油煙の煤を使う奈良墨の場合、まず灯芯に油を浸して火をつけ、立ち上がる油煙から煤を採取する。ここに膠と香料を混ぜ、こねる。粘土のような堅さになったものを墨型に入れ、万力で固定。型から取りだして灰をまいた箱に入れて水分を除く。次にワラで編み上げ、天上につるして三カ月ほど乾燥させると出来上がる。道具の手入れは大切で、切れ味のいい状態を常に保つ。彫りが浅いほど出来上がりが上品になる。段差は大きいところで0.5ミリ、小さいところで0.2ミリほどだ。ちなみに文字がある方が墨の表面で、絵柄は裏面だ。

平成19年1月14日
 
「墨の華」    陳舜臣
墨が人を磨る。
という言葉がある。人が硯の面で墨を磨るのがとうぜんなのに、かえって人が墨にりつぶされるという意味なのだ。出典は宋の蘇東坡の詩である。彼は多くの名墨を所持していたらしい。だが、墨はそんなに早く磨り減るものではない。毎日、朝から晩まで字をかくとしても、墨の使用量はかぎられている。蘇東坡は自分が死ぬまでに、それらの墨を使い切れないであろうことを、自嘲をこめて詠んだのである。
先年、私は上海で大きな倣古墨を買った。それは程君房が万暦甲辰の年に製した「百子図」のデザインの墨を、そっくり模して造ったものである。いま取り出して値札を見ると日本円で5千円くらい。「ほんものの明墨だったらいくらしますか?」私は案内してくれたK氏にそう訊いた。「無価之宝」ウチャチパオ とK氏は笑いながら答えた。価が無いというのは無価値ではなく、金銭で見積もることができないという意味である。

平成19年1月7日
 美術館
開館できない、展覧会が開けない、作品を修復できない。美術館を蝕む「蓄積疲労」は自治体の財政難を背景に、地方文化の拠点が内側から少しずつ崩れ始めている。1956年に開館した諏訪市美術館では、修復費用の不足から作品の劣化が深刻な状態だ。日本画など千百点ある収蔵品のうち、二百点程度がもはや展示に耐えないレベル。だが、年間十万円の修復費では何も出来ないのに等しい。美術館で朽ちていく貴重な美術品があるのだ。
揺れる入館料、「適正価格」を探す。国立博物館は420円を500円に値上げ。公立美術館の1割は無料、7割が2・3百円。海外では、米メトロポリタン美術館が2400円、大英博物館は無料。ただ、宮崎県立美術館はあえて無料化に踏み切り、入館者数が2倍になっている。
公立美術館は個性で勝負する時代を迎えた。壮麗な建築物の下で美術史を紹介する、といった古典的な美術館のあり方に疑問を持つ熊本市現代美術館。「無理して美術館にしなくていい。歴史も違うのにスタイルだけ欧米のまねをしたって仕方がない」館内はほとんどの場所が無料。「ここは美術館であるより前に『人間の家』なんだ」。

平成19年1月3日
 八木重吉 
「重吉詩稿」より
路をなつかしみうる日は
 みずからがこころおどる日である
 なつかしみうるほどの路をみいでし日は
 うばわれがたきうれしさをおぼえる

・ ものを欲しいとおもわなければ
 こんなにもおだやかなこころになれるのか
 うつろのように考えておったのに
 このきもちをすこし味わってみると
 ここから歩きだしてこそたしかだと思われる
 なんとなく心のそこからはりあいのあるきもちである

・深い人生よりももっといい人生
 それは個に徹した人生
 浅くもなく深くもなく
 浅ければ浅いままに
 深ければ深いままに
 力をつくして残無い人生だ

平成19年1月2日
 八木重吉
 「秋の瞳」より
「青春のノート」のなかに、八木重吉の詩がたくさん書かれている。
いまも私の本棚の片隅に「八木重吉詩集」が久しく読まれないまま収まっている。
私の青春のささやかな証でもある

・或る日のこころ

 ある日のこころ
 山となり
 ある日のこころ
 空となり
 ある日のこころ
 わたしとなりてさぶし

・春
 春は かるくたたずむ
 さくらのみだれさく しずけさのあたりに
 十四の小女

 ちいさいおくれ毛のあたりに
 あきよりはひくい はなやかなそら
 ああ きょうにして 春のかなしさをあざやかにする

平成19年元旦
 賀正
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。

ホームページを開設して7年、工房は11年目です。
やきものはスリリングです。手で造り、火の洗礼を受けて変貌するやきものには、人知を超えた何かがあり、それが人の胸を打つのです。


年頭に当り、今年の目標を考えました。
緋色の美しい作品を焼くこと

古い川柳で 
「雪に寝た 竹を旭がゆり起こし」
朝の光に雪は解け、地に倒れ伏した竹が真っ直ぐ立ち上がる。

恐れを知らぬ竹の子もいいが、雪の重さを知る竹もいい。

2007年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。

工房の椿(西王母)

工房の椿(西王母)