(大王天皇)

 

 10 おわりに

 

 といったわけで、7・8世紀、女性天皇が1代おきに立ったとされる時代の皇位継承の流れについての私見を、7世紀ばかりではありますが述べさせていただきました。

 従来「皇位を継ぐべき有力な皇子が複数存在し、ひとりに絞ろうとすると対立が避けられないような場合に、女性天皇が立って対立を回避した」といった見方が行われてきたかと思いますが、個人的にはこうは見ません。穴穂部皇子、崇峻天皇、山背大兄王、古人大兄皇子、有間皇子、大津皇子……けっきょく対立は回避できていませんし、むしろ女性天皇の代に衝突が頻発している印象さえあります。

 兄弟相承と見えるのは見かけであり、傍系の天皇の治世とされるものも、じつは背後に直系天皇の皇后だった女性が女性天皇といった形で存在しており、理念としては直系相承だったのではないかと見ています。直系「天皇」の時代には皇后がペアに立つ。直系「天皇」崩御後にはその皇后がそのままでオホキサキノスメラミコトとか「大王天皇」などといった称を帯び、それと並ぶ形で傍系「天皇」が立つか、有力な地位にある皇子が「大兄」、あるいはヒジリノミコとかヒナミシノミコ、スメイロドなどといった地位に就いた――。そんな形で考えています。けっきょくは男女共同統治と考えているわけですが、ヒメ・ヒコ制などといったものについても知りませんので何とも言えません。女性天皇の前提となるような存在として飯豊皇女の伝承もありますが、一時的なものと思われますし材料も少ないので、これへの言及も避けます。

 

 やはり女性天皇が継続的に現れるようになったきっかけは継体・手白香あたりに求めたく思います。男系が断絶し女系でつないだというインパクトが契機となったのではないでしょうか。継体は入り婿であり、ヤマト・カハチ周辺の豪族にしてみれば手白香こそ前王統の血脈の継承者だった。この間に生まれた欽明が「嫡子」、前王統の復活・再生と見られたものと思います。

 しかし手白香や欽明皇后の石姫などについては記紀に女性天皇的な記述が見られず、やはり女性天皇は推古からということになってしまう。では推古の「治天下」はどのような形で終わったのかといえば、自身の死によって終わっています。ならば「じつは手白香や石姫も……」などと考えたくはなります。『日本書紀』に見える継体と安閑の間の2年の空位を手白香の治世に当てるとか、立后や遷都が敏達4年に見えることをもって、そこまでを石姫の治世に当てるとか……。個人的にはそう見たい欲求は大いにあるのですが、証拠が何もありません。

 

 その当時をこのような形の男女共同統治だったと見るなら、そのペアの流れは――直系である敏達の代にはまず敏達・広姫ペア、つづいて敏達・推古ペアとなったでしょう。敏達没後は形式的に推古・用明というか用明・推古のペア、そして崇峻・推古ペア。推古が40歳に達し「治天下」となって以降は推古・廐戸ペア、そして廐戸没後は形式的に推古・山背大兄ペアとなったものと想定しています。こういった男女ペアについては、皇位継承とは直接関係ない形式・体裁の上でのものだったと考えています。

 推古没後は直系と見なされた舒明がつぎ、舒明・皇極ペア。舒明没後がいちばん問題だったように思われるのですが、山背大兄が「大兄」として存在していたため、いちおう皇極・山背大兄のペアを想定します。しかしこの体制はうまくいかなかったでしょう。山背大兄が入鹿に討たれて「大兄」が古人に移動し、皇極・古人大兄というペアになったものと思っています。いっぽうで舒明のスメイロド格としての孝徳の存在感も大きかった。乙巳の変で蘇我本宗家が滅び、ひきつづき古人大兄も討たれて、孝徳・皇極ペアとなったものと思います。間人が孝徳の配偶者となったタイミングがわかりませんが、孝徳は傍系ですから孝徳・間人ペアはなかったでしょう。

 退位後の皇極を『日本書紀』は「皇祖母尊」、スメミオヤノミコトと記しますが、文武即位の宣命にも『古事記』にもない「尊」と「命」の使い分けを『日本書紀』周辺が始めたものと見るなら、退位後の皇極の地位はその生母の「吉備嶋皇祖母命」吉備姫王や舒明生母の「嶋皇祖母命」糠手姫とかわらぬスメミオヤノミコトとなってしまいます。それでは『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に見える「右袁智天皇坐難波宮而庚戌年冬十月始辛亥年春三月造畢即請者」の繍仏も納められなければ『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に見える「小治田天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥許世徳(こざとへんに「色」)高臣宣命為而食封三百烟入賜〈岐〉」も嘘になってしまう……と、これは嘘ですが(なにを言っているのかわかりませんが)。

 孝徳朝では阿倍倉梯麻呂没のタイミングで蘇我倉山田石川麻呂が討たれ、遠智娘のストレスの結果建皇子が障害を負ってしまったのかどうかはわかりませんが、大伴長徳没のタイミングで今度はその巨勢徳陀が寝返るかどうかしたのか、孝徳・皇極ペアの体制は崩壊します。孝徳の最後はあるいは110年後の「廃帝」淳仁の最後と一脈通じるものがあったか――などと想像するのですが。

 その後はおそらく天智が、「大兄」かどうかわかりませんが、何らかの地位にあって斉明・天智ペア体制となったのだと思います。斉明没後はだれも……というよりも天智が40歳以下で即位できず、孝徳「皇后」だった間人が仮の「天皇」、ナカツスメラミコトとされ、正式な天皇をいただかないナカツミヤといった政権で天智が「中大兄」となり、形式的には間人・天智ペア体制となった。しかし間人をナカツスメラミコトとすることは、間人「皇后」のもとで孝徳のスメイロドだった天武の存在感を高めることにつながったかもしれません。間人没後は40歳を超えていた天智が即位、天智・倭姫王ペアの体制となったのでしょう。その短い政権下で大友がおそらく「大兄」の後身である「太政大臣」とされ、「大皇弟」天武との確執が深まっていった。

 天智没後は天武が「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政」といったとおり、倭姫王・大友ペア体制となっていたものと思います。壬申の乱でこれが一挙にひっくり返り、天武・持統ペアの体制となった。草壁「皇太子」については疑う向きもあることと思いますが、やはり天武在世中に後継と確認するためヒナミシノミコなどといった「地位」に就けられたのだと思います。天武没後は持統・草壁ペア体制となり、こういった枠組みを浄御原令施行を契機に改めて40歳未満の草壁を即位させたかったのかもしれませんが、浄御原令施行直前に草壁は没してしまった。そこで持統みずから即位、直後に高市を太政大臣として持統・高市ペア体制となり、高市没後は持統・文武ペア体制となった――。こんな流れで考えているのです。

 大宝令後はこういった男女共同統治的なあり方は影をひそめていくのでしょうが、孝謙(称徳)天皇の時代にはそれが復活したかのような面影がうかがえます。聖武太上天皇没後に皇太子が道祖王→大炊王と交代し、結局大炊王が即位して「廃帝」とされる淳仁天皇となり孝謙・淳仁ペアの体制となりますが、淳仁が宣命で「太上天皇」と呼ぶ孝謙は『続日本紀』では一貫して「高野天皇」のようであり、恵美押勝こと藤原仲麻呂が討たれて淳仁が淡路に流されてからは――いや、それ以前から孝謙のペアは道鏡だったのかもしれません。形式・体裁としての意味でですが。

 

 古代東アジアでは日本……倭以外でも女性君主が相次いで現れました。新羅では善徳王(在位632647)・真徳王(在位647654)・真聖王(在位887897)が立ちましたし、唐(周?)では武則天(在位690705)が出ました。しかしこれらの女性君主と倭・日本の女性天皇に共通する性格が見られるのかというと、それは疑問に思うのです。

 むしろその100年ほど前、新羅の王号が「麻立干」から「王」にかわったばかりの法興王の時代に、2種の「王」の並存する状況があったことを伝える金石文があるそうです。礪波護さん・武田幸男さんの『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社 1997)の武田幸男さんの執筆された「朝鮮の古代から新羅・渤海へ」の中に記されているのですが、慶尚北道北部、海に面した蔚珍にある「蔚珍・鳳坪碑」という新羅時代の524年に建立された石碑に、「牟即智/寐錦王」(法興王)と「従夫智/葛文王」(法興王の弟の立宗)という2つの「王」が見えているようなのです。524年は『日本書紀』によれば継体18年にあたるようですが、新羅に存在した2種の「王」の並存という状況が倭でも認められるものとすれば、安閑・宣化と欽明の併存を2朝対立と考えなくても済みますし、「池邊大宮治天下天皇」と「大王天皇」の併存も認められるわけです。

 

 女性君主は珍しくない。近現代、絶対王政以降のヨーロッパがそうです。

 しかし――推古即位前紀に「姿色端麗、進止軌制」とあるからでもないですが、プトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世を例にとってみたく思います。紀元前4世紀末から紀元直前までエジプトで栄えたプトレマイオス朝というのはエジプト人の王朝ではなく、アレクサンドロス3世(Alexander the Great、アレクサンダー「大王」)の部将だったマケドニア人のプトレマイオス1世が開いた王朝ですが、王と女王による共同統治を特徴としており、またその系譜を見ると678世紀のヤマト以上の同族婚が展開したようです。

 史上著名なクレオパトラ7世もまず弟のプトレマイオス13世と結婚して共同で王位に就いたようですが、やがて弟と対立。弟のプトレマイオス13世や妹のアルシノエ4世らによってアレクサンドリアを追放されたクレオパトラ7世は、ローマのカエサルと組んで再びアレクサンドリアに戻り、プトレマイオス13世が敗死(ナイル川で溺死)するとさらに弟のプトレマイオス14世と結婚して復位。カエサルが暗殺されプトレマイオス14世も死亡すると、カエサルとの間の子とされるカエサリオンとの共同統治という形になったようです。

 プトレマイオス朝の王位継承と678世紀のヤマトの皇位継承は似ている。女性君主が相次いだことも、同族婚も共通しています。ならば王位継承上要求された形ということで、男女共同統治――と考えるわけです。その要求というのは(問題もあるでしょうが)やはり血統の維持、といったあたりだったのではないでしょうか。

 

 以上、主に7世紀の皇位継承についての卑見を長々と述べさせていただきました。

 よく「論点が多岐にわたったが……」などという表現を目にしますが、「大王天皇」についてと言いながら看板に偽りで、多岐どころか空中分解です。しかしこの当時のことは『日本書紀』の成立論みたいな部分も視野に入れながら包括的に見ていかないと……といった思いもあります。天智の「中大兄」の称の現れ方がおかしい、けれど『家伝 上』でも同じく「中大兄」で見えている、『万葉集』では……なんだ、目録で「中皇命」と「中大兄」を並べて伝えてくれていたのか。『聖徳太子伝暦』には「中大兄皇子」と見えているらしいのに、『家伝 上』も『万葉集』も、そして『日本書紀』にも「中大兄皇子」はなくて「中大兄」だけの表記なのか……などといったことを、本文で研究者が「中大兄」表記のみで書いていながら見出しに「中大兄皇子」と見えている雑誌の記事を横目で眺めながら考えていました。

 

 「東宮」にからんで孝徳紀白雉5年(≒6542月に見える「東宮監門郭丈挙」の名を挙げましたが、彼は唐の役人で、高向玄理を押使とする遣唐使の一行に「悉問日本国之地里及国初之神名」、「日本国」(倭国でしょうが)の地理と「国初之神名」を問うた人として見えています。そんなことを聞かれたら600年の遣隋使ならどう思ったか知りませんが、このさいは「皆随問而答」、聞かれるままに答えたと見えます。そのあとの分注に伊吉博得(いきのはかとこ)なる人の談話らしきものが記されていて、鎌足の子で不比等の兄である定恵(ぢやうゑ。『家伝 上』の「貞慧伝」に「貞慧」)が「乙丑年」(天智4年≒665)に劉徳高らの船で帰国したなどといったことも見えます。

 伊吉博得については、斉明紀5年7月戊寅(3日)の遣唐使出発の記事の分注に、彼の書いたこの遣唐使の記録が「伊吉連博徳書」(いきのむらじはかとこがふみ)として見えています。その回の遣唐使も波瀾万丈だったようですが、閏(うるう)1030日には洛陽で高宗と会見、連れていった「道奥蝦夷男女二人」を高宗に会わせたなどと見えます。のち火事騒ぎのあと讒言により使者が罪を着せられそうになり、伊吉博徳が弁解して許されたなどということもあったようですが、その後彼らは「国家、来年、必有海東之政。汝等倭客、不得東帰」、来年「海東」で戦争をするからお前ら倭の使者は帰るなとの勅により長安に監禁され、バラバラに幽閉されたなどと見えています。

 「伊吉連博徳書」のつづきが見えるのは6年7月乙卯(16日)の分注。同年百済が平定され、9月12日に使者たちは釈放されて19日に長安を出発。1016日に洛陽に着き、11月1日には捕虜となっていた百済の義慈王・太子扶余隆ら50人ばかりが高宗の前に引き立てられ、高宗が彼らを許して釈放するのを目撃したような記述が見えます。このことは『旧唐書』にも「(顕慶5年)十一月戊戌朔、邢国公蘇定方献百済王扶余義慈、太子隆等五十八人俘于則天門、責而宥之」と見えているようで、高宗が義慈王らを見た場所はその名も「則天門」だったようです。このとき武后も則天門で義慈王らを見ていたのかどうか。武后が皇后に立てられたのはその5年ほど前の永徽6年(≒655)のことらしいですが、この顕慶5年(≒660)の前年には権臣の長孫無忌も自死に追い込まれたことが見えます。唐ではこの前後から目まぐるしく改元が行われますが、14年後の上元元年(≒674)、「高宗号天皇、皇后亦号天后、天下之人謂之二聖」、高宗が「天皇」と号したことが見えます。同時に皇后も「天后」と号し、天下の人はこれを「二聖」と称した……。

 「二聖」などというのはむしろ私の想定する当時のヤマトの男女共同統治を表す語のようにさえ思えるのですが、武后はこのあと子の中宗を即位させてすぐに廃位、その弟の睿宗を傀儡として即位させ、最終的に天授元年(≒690)、国号を「周」と改めみずからが「聖神皇帝」となり、睿宗を「皇嗣」に落としています。

 

 「二聖」――まず皇帝と並ぶ位置について男女共同統治のような体裁とし、その後自分の子2人を傀儡の皇帝として廃立、最終的にみずから即位する――こういう階梯を踏む発想をどこから得たのでしょうか。

 

 そして……上元元年に高宗が「天皇」と号したとき、それは高宗みずからの発案で「天皇」と号したのでしょうか? それとも武后が自身「天后」と号するために、高宗を「天皇」と号させたのでしょうか? ……そんな疑問を抱いています。以上です。