(大王天皇)

 

 4 なぜ穴穂部間人でなく推古なの?

 

 法隆寺金堂の薬師如来坐像の西隣、釈迦三尊像の光背銘の主役はもちろん「上宮法皇」廐戸皇子とその母の「鬼前太后」穴穂部間人皇女、そして膳氏出身の菩岐岐美郎女らしい「干食王后」の3人と思われます。これが中宮寺等にその残欠が伝えられてきた天寿国繍帳銘(銘文は『上宮聖徳法王帝説』等から復元される)では「等已刀弥弥乃弥己等」「太子」「我大王」廐戸とその母の「孔部間人公主」穴穂部間人、そして尾治大王の娘の「多至波奈大女郎」位奈部橘王の3人となっています。そして……これらの資料もまた “ニセモノ”、ことに「聖徳太子非実在説」的な意見の方々からは糾弾されがちなものなのですが、話の骨子としては「辛巳」年(≒6211221日に穴穂部間人が没し(釈迦三尊銘「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」、繍帳銘「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」)、翌年正月22日に廐戸が病の床に伏し(釈迦三尊銘「明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」)、「干食王后」も病に倒れて221日に他界(釈迦三尊銘「二月廿一日癸酉王后即世」)、翌222日廐戸も亡くなった(釈迦三尊銘「翌日法皇登遐」、繍帳銘「明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」)といったものなのでしょう。穴穂部間人・「干食王后」・廐戸と近しい関係者がちょうど2カ月ほどの間に次々と亡くなってしまい、その月日がいずれも12ばかりで構成される日付だったため覚えやすく、不思議だ不思議だとうわさされ記憶された……そんなものではなかったかと想像しています。全部事実なのか、部分的に事実なのか、まったく事実無根の作り話なのかわかりません。

 こういった話に登場する穴穂部間人皇女ですが、『日本書紀』にはほとんど登場せず、推古紀の廐戸を皇太子とした記事に、廐の戸に当たり労せずして出産したという話が見えるくらいです。皇位継承のうえでも全く問題とされていない。敏達皇后であった推古が敏達崩御後も一貫して権威を保持しているように見えるのとは大きな違いです。

 また『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』によれば、穴穂部間人は用明没後に用明と石寸名(いしきな。蘇我稲目の娘)との間の子である田目皇子(ためのみこ。『上宮聖徳法王帝説』等で「多米王」)に嫁いで佐富女王を産んだと見えています。

 そういえば天寿国繍帳銘でも穴穂部間人は「孔部間人公主」、訓読みの固有名詞にヒメミコあたりを中国風に言い換えたらしい「公主」という肩書で、推古が「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」、廐戸が「等已刀弥弥乃弥己等」、堅塩媛が「吉多斯比弥乃弥己等」で穴穂部間人の生母の小姉君までが「乎阿尼乃弥己等」と、1字ずつの字音表記にミコト付きなのとは大きく違っています。「天皇」号が見えるために年代を下げられ、和風諡号は記紀撰進のさい作られたものではと言われ、作成された年月が記されないと言われ、また欽明と推古(?)のみ「天皇」とされ敏達と用明が「天皇」とされないのは不審で、さまざまな資料を寄せ集めたからではないかなどとも言われる悪評ふんぷんの繍帳銘ですが、おそらく100年近くたっている過去のことだろうに、妙なところには配慮したものだと思います。針を入れた人はどんな気持ちで縫ったのやら。そもそも文字が読めたでしょうか?

 

 推古と比較したときの穴穂部間人のある意味での遜色・見劣りのようなものは、そのまま用明の地位の相対的な弱さといったものにつながるのではないでしょうか。

 用明は欽明と堅塩媛との間の子ですから、先ほど見た血統のうえでの要件といった意味では、雄略や仁賢の血統、また近江・越の血統といったものは受け継いでいるわけですが、半分は蘇我氏の血です。雄略…仁賢の血統は手白香の1系統からしか受け継いでおらず、尾張氏の血統も引いていません。天寿国繍帳銘では用明の生母の堅塩媛(「吉多斯比弥乃弥己等」)が「大后」、その妹の小姉君(「乎阿尼乃弥己等」)が「后」とされていますが、これは『日本書紀』とは見解を異にするもので、欽明紀では欽明「皇后」は宣化の娘の石姫であり、堅塩媛も小姉君も「妃」のあつかいです。いや、血統という問題では推古も用明と同じなのですが、推古は石姫の子である敏達と配偶関係になっています。敏達の血統については先ほど述べました。

 この時期の敏達−用明−崇峻−推古という皇位継承について「兄弟相承」といった言い方もされてきたかとも思われますが、単純な兄弟相承とは言えないように思います。というよりも、用明の時代に推古がすでに「大王天皇」と表記されるような地位にあったものと考えるなら、兄弟相承か直系相承かといったことはそもそも問題とはならないのですが。

 安閑−宣化−欽明についても兄弟相承とされ、和風諡号で継体のヲホドに対しこの兄弟から長たらしいものになって共通性があるなどともいわれていますが、いっぽうで紀年の問題から安閑・宣化と欽明との間で対立があったのではないかなどとも騒がれてきました。これについての私の考えは先に「母系を通じ前王統の血を引くという意味で血統の上からはまごうかたなき『天皇』、スメラミコトでありながら、執政能力のある年齢に達しないということで即位できない欽明と、年齢的には十分な執政能力がありながら、仮に事実としても応神6世孫ということで血統の上ではあまり問題とされない、執政面のみが期待された『天皇』である安閑・宣化との、2人の『天皇』が共存していた時代」といった形で述べております。やはり手白香を通じて仁賢さらには雄略の血を引く「嫡子」欽明と、言うならば応神6世孫というだけの安閑・宣化とでは、血統のうえで大きな開きがあったのではないでしょうか。ちなみに欽明も応神6世孫ではありますが。

 和風諡号についても、欽明のそれ(紀「天国排開広庭天皇」、記「天国押波流岐広庭天皇」)が先に決まっており、安閑(紀「広国押武金日天皇」、記「広国押建金日王」)・宣化(紀「武小広国押盾天皇」、記「建小広国押楯命」)についてはずっとあとになって決められたものではなかったかと私は思っています。なぜか。

 どなたかすでに述べておられるのかもしれませんが――『古事記』と『日本書紀』とで和風諡号を比較してもっとも大きく異なるのは雄略の子の清寧(紀「白髪武広国押稚日本根子天皇」、記「白髪大倭根子命」)ですが、記の「大-倭」が紀で「稚-日本」とかわっていることを除くと、紀で大幅に付加されたように見える「武」「広国押」という要素についてはそっくりそのまま安閑・宣化の和風諡号の中に見られ、これを除くと安閑で「金日」、宣化で「小・盾」が残る……そんな結果になるから。残った「金日」「小盾」についてはあるいは安閑・宣化の実名ではなかったかと疑っているのですが、ともかく「武」「広国押」の付加が『古事記』と『日本書紀』の間の時代に行われたとすれば、安閑・宣化の和風諡号に見える「武」「広国押」が付加されたのも『古事記』をさかのぼることそんなに古くない時代なのではないか――などと考えるのです。

 

 欽明は「嫡子」、跡継ぎとされ、皇位継承とか血統といった意味で安閑・宣化よりもはるかに優位にあった。ただ、安閑・宣化が先んじて「天皇」となった……。そうなった理由、またはそのように書かれることとなった理由は、おそらく年齢的な問題だけでしょう。仁藤敦司さんは『女帝の世紀』(角川選書 2006)の中で、『皇代記』『本朝皇胤紹運録』『神皇正統記』などの資料に見えるこの時期の歴代天皇の享年のデータから即位時の年齢を逆算され、即位年齢はおおよそ40歳以上と推定される、との見通しを示しておられます。この40歳というボーダーラインを気にしながら見ていくと、たしかに推古や天智、そして敏達の場合などについても意外と大きな意味を持ってくるように思われるのです。

 つぎの敏達については “嫡子” ――というわけにはいかなくて、敏達は広姫の二男です。長男には箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおほえのみこ)がいましたが、欽明13年に亡くなったことが見えます。ですから敏達は “嫡子”、嫡長男ではないのですが、血統のうえからは箭田珠勝大兄と同じ血を引いていることになります。欽明紀の15年正月には「皇子渟中倉太珠敷尊」(敏達)が「皇太子」とされたとの記事が見え、いっぽう敏達紀の冒頭には欽明29年に「皇太子」になったとあって矛盾するのですが、もしも「皇太子」(あるいはヒツギノミコ)といった地位を草壁皇子か文武天皇あたりから始まったものと見、それ以前に見える廐戸や天智の「皇太子」については全部『日本書紀』の捏造だといった形で否定した場合、敏達の立太子が欽明紀では欽明15年、敏達紀では欽明29年と見えるなどという事態は考えづらくなるようにも思うのです。なぜ、ごく最近捏造されたはずの地位の記述が2種の異伝を生じているのか――。この14年の差は仏教伝来の538年説と552年説との年代の差、あるいは敏達の治世の年数14年と重なるのですが、それはともかく、敏達「立太子」に関しては「皇太子」といった地位ではないにせよ、何らかの古い所伝があったのではないかとも考えます。

 

 こうして欽明−敏達と見てくると、じつは当時すでに「直系相承」、嫡長男による継承といった発想があったのではないかという気がしてきます。兄弟相承とされてきた安閑−宣化−欽明についても、じつは欽明こそが「嫡子」であって、安閑・宣化は欽明が幼少である間の執政的位置づけではなかったか。また敏達−用明−崇峻−推古についても、血統の面では敏達と推古のペアこそが “嫡” 的な位置を占め、敏達崩御後も推古が「大王天皇」と記されるような高い地位にあったのでは。用明や崇峻はむしろ女性単独での執政を嫌って共同執政のような形で立てられた、ややもすると形式的な天皇(大王?)ではなかっただろうかなどと疑っています。そして廐戸のいわゆる「皇太子」執政についても、その延長のような形で考えられないかと思うのです。

 

 井上光貞さんは「古代の皇太子」(1964)という論文の中で、この時期の皇位継承について、「兄弟相続」と「長子相続的な観念」である「大兄」制との組み合わせで説明しようとされました。天皇のあとは大兄がつぎ、そのあと同世代内の兄弟に皇位が移って、その世代が終われば皇位はふたたび大兄の系統に戻る――といった形で考えておられたようです。しかしながら、安閑−宣化−欽明の中では「勾大兄」安閑が大兄であり、敏達−用明−崇峻−推古の中では「大兄皇子」用明が大兄でした(敏達の兄に箭田珠勝大兄がありましたが早世)が、この「大兄」の2人はたしかに長子ではあるものの、失礼ながら私には「長子相続的な観念」を代表するというには少し弱い存在のように思えるのです。

 『日本書紀』が基本的に天皇の代ごとに1巻を立てる(巻18の安閑・宣化紀、巻21の用明・崇峻紀など複数で1巻の例も。天武紀は上・下2巻)のと異なり『古事記』は上・中・下の3巻で中巻が神武から応神、下巻が仁徳から推古ですから、『日本書紀』で各天皇紀の題名に相当するのは各天皇の段落の冒頭に見える天皇の表記ということになります。たとえば敏達なら「御子、沼名倉太玉敷命」、推古なら「妹、豊御食炊屋比売命」というように、前段の天皇からの続柄につづけてその和風諡号が見えるのですが、多くの天皇でその称号(?)が「命」、ミコトであるのに対し、欽明は「天国押波流岐広庭天皇」、「天皇」です。ほかに景行(「大帯日子淤斯呂和気天皇」)・成務(「若帯日子天皇」)・仲哀(「帯中日子天皇」)、それからなぜか「長谷部若雀天皇」崇峻が「天皇」です。また『宋書』倭国伝がとくに「世子興」と伝えるらしい安康は「御子、穴穂御子」と「御子」になっています。

 ところが安閑(「広国押建金日王」)と用明(「橘豊日王」)は「王」だったらしいのです。「らしい」というのは写本により違いがあるからで、岩波文庫の『古事記』では「広国押建金日命」「橘豊日命」と「命」表記なのですが、現存最古の写本とされる真福寺本を底本(参照した原本)とする日本思想大系『古事記』では「広国押建金日王」「橘豊日王」となっています。ほかに段冒頭の表記が「王」で見えるのは履中(「伊耶本和気王」)・允恭(「男浅津間若子宿禰王」)・仁賢(「意祁王」)ですが、安閑も継体段の系譜では「広国押建金日命」、用明も欽明段の系譜記事に「橘之豊日命」と見えており、段冒頭で「王」としているのが単純に原典の表記の反映なのか、意図的に書き分けていたのかは判断が難しいところです。

 井上さんが「大兄」としたのは履中・安閑・箭田珠勝大兄・用明・押坂彦人大兄・山背大兄王・天智の7人でしたが、直木孝次郎さんが「厩戸皇子の立太子について」(1969)で、履中は『古事記』仁徳段では大江之伊耶本和気命と見えるから、『日本書紀』仁徳紀で大兄去来穂別天皇と見える大兄は地名の大江だ――とされて以来、履中については大兄とは見なされなくなったようです。

 いっぽう真福寺本『古事記』の履中段冒頭では「伊耶本和気王」。『古事記』は景行段の「日子人之大兄王」以外「大兄」を記さないのですが、『日本書紀』の「大兄」のうち履中・安閑・用明について真福寺本『古事記』の段冒頭では「−王」としているわけです(箭田珠勝大兄・押坂彦人大兄は即位していませんし、山背大兄・天智は『古事記』の範囲外)。間接的に「大兄」の存在を暗示しているようにも見えます。

 しかし允恭と仁賢の「−王」については説明できません。仁賢・顕宗の兄弟では、弟の顕宗が兄より先に即位するというかわった形の皇位継承が見えます。仁賢は市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ。履中の子)の長男で、顕宗の兄ということになりますが、記紀で「大兄」とされているわけではありません。

 允恭については仁徳と皇后磐之媛の間に生まれた履中・住吉仲皇子・反正・允恭という男ばかり4人兄弟の末っ子として見えており、記紀からでは説明がつかないから『宋書』倭国伝に見える珍と済の系譜の……となると話がややこしくなるのでやめます。

 「命」と「王」とを比べるとどうしても「王」のほうが格が低いような印象を受けてしまう。『古事記』の系譜記事では天皇の子で即位しなかった人が「−王」(あるいは「−郎女」「−郎子」など)表記の印象がありますし、『日本書紀』では「諸王」、天皇の孫以下が「−王」表記です。真福寺本『古事記』がなにゆえ「大兄」や長男にあたるらしい存在を中心に段冒頭で「王」表記にしたのかわかりませんが、何か伝えたかった、ほのめかしたかったことがあるような気もしてきます。井上さんは「大兄」を長子相続的な観念の表れととらえられていたようですが、私から見ると少なくとも安閑・用明については皇位継承者としては影が薄いように見えてしまうのです。