タラシヒコ・タラシヒメ

 

 『隋書』倭国伝には、開皇20年(≒600。『日本書紀』によれば推古8年)のこととして「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」――倭王、姓は「阿毎」(アメ?)、字(あざな。実名である「諱」に対し通称のこと)は「多利思比孤」(タリシヒコ?)、「阿輩雞彌」(オホキミ? アメキミ?)と号する人が使者を遣わしたことが見えます。

 そこで皇帝は役人に倭の「風俗」を質問させた。すると倭国の使者は「俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聴政跏趺坐日出便停理務云委我弟」――倭王は天を兄、日を弟とし、未明に出て聴政しあぐらをかいて坐り、日が出れば仕事をやめて「弟に任す」と言う――などと言った。それを聞いて「高祖」文帝は「此太無義理」、そんなのはおかしいと言って「訓令」し改めさせたと見えます。

 それにつづけて「王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利」――王の妻を「雞彌」(キミ?)と号する。「後宮」には女性が600700人いる。「太子」を名づけて「利歌彌多弗利」(? 「和歌彌多弗利」の誤でワカミタフリ?)とする――などと見えています。

 同じ『隋書』倭国伝には、大業3年(≒607。『日本書紀』によれば推古15年)の使者がもたらした倭の国書に「日出處天子致書日没處天子」、日出ずるところの天子日没するところの天子に書を致す、などと書いてあって煬帝を怒らせたなどという話も見えるのですが、それは『隋書』倭国伝でもずっとあとのほうに出ているものです。

 

 西暦600年の使者の言葉はいろいろな意味でおかしい。

 著名な研究者の方でも一般向けの概説書などで、この『隋書』倭国伝の記述を引いて、当時倭には「太子」がいたことがわかるとか、当時は女性の天皇である推古天皇の時代なのに、倭王の名が「アメタリシヒコ」らしかったり、王に妻がいたりと、当時倭王がまるで男性であったかのように書かれているのは不審だ――などと書かれているのを目にします。

 しかし中国の史書だからといってそんなに尊重するのはどうでしょうか。たしかにこの時代の倭の同時代史料というものはほとんど存在しない。100年以上後に書かれた『日本書紀』に頼るぐらいしかありません。その『日本書紀』が信頼できないから困りますが、かといって中国史書が何でもかんでも信頼できるのかといえば、ずいぶんおかしなことも書かれています。

 たとえば――この『隋書』倭国伝には倭王の姓が「阿毎」、アメ氏だったと書かれています。一般的に倭王が姓を名乗ったのは例の倭の五王の時代の、『宋書』倭国伝に見える「倭讃」などの「倭」氏のみとされているのではないでしょうか。しかし『隋書』倭国伝には倭王が「阿毎」氏だったと見える。

 ほかにもあります。ずっと時代が下って唐・五代のあとの宋の時代。『宋史』日本伝には「國王以王為姓」、日本の国王の姓が「王」だったと見えています。ちょうど宋の時代は朝鮮半島は高麗の時代で、高麗の王が「王」氏でしたが、『宋史』日本伝を信じるなら高麗王も日本の王も「王」氏ということになってしまう。

 その記述が見えるあたりは、基本的に雍熙元年(≒984)に日本僧の「然(ちょうねん。姓は藤原だったと見える)がもたらした『王年代紀』という書物にもとづいて書かれているらしいのですが、「國王以王為姓」の記述の直前には「畜有水牛驢羊多犀象」、家畜には水牛・ロバ・羊があり、サイやゾウが多い――などと書かれています。もちろん『王年代紀』にそんなことが書かれていたとは思えません。中国史書ばかり信じれば倭→日本の王は「倭」氏→「阿毎」氏→「王」氏と変化したことになります(高麗が滅亡したころには「源」氏だったのかもしれませんが)。これを信頼して記述している文献はないでしょう。

 

 日本の王が「王」氏だったという認識の淵源……もとになるのは、おそらく733年出発の遣唐使が持っていった日本の国書あたりだったのではないでしょうか。この遣唐使もご多分に漏れず帰国の際に遭難するのですが、そのあたりの経緯が唐の玄宗皇帝が日本国王あてに書いた(実際には役人の張九齢が書いた)勅書に記されているようで、その勅書が『唐丞相曲江張先生文集』巻12とか、『文苑英華』巻471に「勅日本国王書」として見えています。

 その「勅日本国王書」の冒頭に――『文苑英華』巻471によれば「勅日本国王主明楽美御徳」と見えるようなのですが、『唐丞相曲江張先生文集』巻12ではそれが「勅日本国王王明楽美御徳」だっだように見えます(「王明楽美御徳」というのも、「主」の上の点が版本で欠けたもののようにも見えるのですが)。

 「主明楽美御徳」――スメラミコトです。ときの「日本国王」聖武天皇が、スメラミコトという「称号」がまるで「日本国王」の「名」であるかのように書いた、たとえば「日本国王主明楽美御徳敬白」(森公章さんが「古代日本における対唐観の研究 −「対等外交」と国書問題を中心に−」弘前大学國史研究 1988 の中で触れておられます)などと始まるような国書を733年の遣唐使に持たせて送るなどといったことがあって、それにもとづいて玄宗……張九齢が勅書冒頭に「勅日本国王主明楽美御徳」と書いたのではないでしょうか。それが誤って「王明楽美御徳」と伝わり、姓が「王」、名が「明楽美御徳」と見なされて『宋史』日本伝の「國王以王為姓」につながっていったのではないか……などと想像します。

 これが当たっているとすれば、唐→宋(『宋史』の成立は元代ですが)でも日本でもトンチンカンなことをしています。いや日本の「主明楽美御徳」については、言葉は悪いですが意図的な隠蔽とも見られます。聖武天皇には姓はもちろんありませんし、実名など現代でもわかりません(私は根拠もなく個人的に「豊桜彦」あたりではなかったかと思っていますが)。

 

 立ち返って、開皇20年の「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号す」についてもそのまま受け取ってよいのかという疑問を持ちます。

 王号の「阿輩雞弥」についてはどう読んでいいのかわかりません。また「倭王……号阿輩雞弥」と「王妻号雞弥」とは同じ書き方でも「太子為利歌弥多弗利」は少し書き方が違いますが、仮に王−「阿輩雞弥」、王妻−「雞弥」、太子−「利歌弥多弗利」という形で見てよいのなら、これは『日本書紀』などに見える称号とは大きく違っているのではないでしょうか。

 「王妻」というのは――そもそもそのころの倭王(男)にも複数の配偶者がいたのであり、『日本書紀』ではその正妻格の人については「皇后」と書いて「きさき」と読ませ、それ以外の配偶者については「妃」「嬪」などと書いて「みめ」、また「夫人」と書いて「おほとじ」と読ませる、そんな例が多いようです。また『日本書紀』では各天皇の即位の記事につづけて天皇の生母について「尊皇后曰皇太后」、キサキを尊びてオホキサキとまうす、などとする記事があり、「皇太后」を「おほきさき」と読ませているようですが、また「皇太夫人」「大后」などを「おほきさき」と読ませる例もあるようで、本居宣長は複数キサキの中の最上位の人をオホキサキと見ていたようです。もっとも『日本書紀』の記すような配偶者の序列化が当時の倭に存在していたのかという問題もあるでしょうが、岸俊男さんの説では敏達朝の推古のあたりから序列化が始まったと見ておられるようで、これが有力な見解となっているように思われます。

 「王妻」というのが「皇后」(キサキ?)についての質問に対する答えだったのか配偶者全体について聞かれたのかわかりませんが、こちらとしては「王妻」というか「皇后」がキサキだったのかオホキサキだったのか知りたいところなのに、「キミ」では答えになっていない。「キミ」といって思い出すのは『日本書紀』に三輪君・上毛野君・胸形君とか三国公・当麻公・息長公などといった形で見える地方豪族のカバネあたりではないでしょうか。「公」姓の多くは天武13年に「真人」を賜姓されたようですが、『古事記』段階では『日本書紀』が「公」姓とする氏族でも「君」姓で見えているようですから、もとは同じキミで、一般的な尊称由来の語のようにも思えます。

 また「太子」の「利歌彌多弗利」については、渡辺三男さんが源氏物語等に見える「わかんどほり」に当て、東野治之さんは長屋王家木簡に見える「若翁」もこれに当てておられるそうです。「わかんどほり」はもともと祖先が天皇につながる人といった程度の意味のようであり、また「若翁」も長屋王家木簡では「円方若翁」「膳若翁」「林若翁」「小治田若翁」など長屋王の子のクラスで複数見えるようですから、ワカミタフリを皇太子的な唯一の存在と見るのは、これらに従うならやはり疑問に思えます。6世紀と7世紀の境に「皇太子」の意味で使われていた言葉が100年ほどしたら払い下げになって諸王以下に使われる……そんなことがあり得るでしょうか。『日本書紀』が「皇太子」に「ひつぎのみこ」といった読みを与えていることも、「利歌彌多弗利」を「太子」「皇太子」と見ることを躊躇させます。

 個人的には「阿輩雞彌」「雞彌」「利歌彌多弗利」などは王・王妻・太子を意味する倭での称号ではなく、現代でいうなら「陛下」「殿下」的な2人称・3人称の呼びかけの語ではないかとされるご見解に従いたく思います。隋側から発せられた、本来「おまえの国では王・王妻・太子のことをどういった発音の語で呼んでいるか」といった意味内容の質問が、翻訳を経るうちに「おまえは王・王妻・太子を何と呼んでいるか」などと曲解されてしまった――。あるいは、倭の使者が意図的に外して答えたかのいずれかだと思っています。

 

 中国史書が非常に真面目な態度で編集されており信頼性が高いとしても、隋の役人と倭の使者との間で意思疎通がうまく成立したかどうかはまた別問題でしょう。この『隋書』倭国伝に見える600年の遣隋使は『日本書紀』には見えませんが、事実とすれば『宋書』倭国伝に見える昇明2年(≒478)の遣使以来およそ120年ぶりの中国への遣使となるもののようです。

 だれが通訳に立ったのか。

 百済あたりからの渡来人の中に倭語も中国語もできるバイリンガル――でなくトライリンガルの人がいたとしたら話は早いですが、そんな人がいたかどうか。いなかったとすれば、たとえば百済語も倭語もできる渡来系の人を通訳として連れていき、さらに中継地の百済で母語の百済語に加えて中国語もできる人を通訳として雇い、役人から倭使までの間に2人の通訳が立って中国語−百済語−倭語という面倒くさいやりとりが行われた――などといった可能性も想定できるでしょう。そうしたら、うまく伝わらない、途中で誤解を生じてしまったといったこともあり得たでしょうし、そもそもその言語・文化にないような概念を質問されたとしたら、何と訳し何と伝えたか、そしてどう答えたか……などと考えてしまうのです。

 まして「勅日本国王書」から想定される「日本国王主明楽美御徳」のような書き方の発想から考えれば、倭使が本当のことを話したかどうかも疑わしく思われるのです。もしも通訳が2人も立っていたとすれば……「いいや、通訳のせいにしちゃえば」。

 

 大王乃 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

 (大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ)

 ……『万葉集』巻3の304は、その前の303とともに柿本人麻呂が筑紫国(九州。具体的には大宰府を指すのでしょう)に下向する海路で作った歌と題詞に見えますが、「遠の朝廷」は一般的には大宰府を指すものととらえられています。ほかに多賀城なども「遠の朝廷」と意識されたのでしょうが、個人的には遣唐使・遣新羅使それ自体も「遠の朝廷」などと意識されたのではないかと空想しています。人麻呂の生存中、とくに作歌した時代には遣唐使は702年と、かろうじて717年のものが確認できるか程度で、「あり通ふ」……いつも通っているなどといったイメージには遠いのですが、遣新羅使ならけっこう頻繁な往来があったようです。

 東野治之さんの『遣唐使』(岩波新書 2007)などを拝見しますと、遣唐使というのは大使館クラス、いやそれ以上の役所がそのまま船で中国に渡るイメージのように感じます。現代の大使館なら交信の盗聴などは心配になるところでしょうが、遣唐使にはほとんどその心配はなかったでしょう。本国との通信手段がなかったから。

 行ってしまったら、問題が発生しても現地で解決するしかありません。大使あるいは押使が全権を掌握し天皇大権を代行したのでしょう。軍隊に例えるのはよくないかもしれませんが、もしも部下に犯罪者が出たら大使みずから処断しなければならなかったでしょうし、交渉のさいに不測の事態が発生したら、これも大使みずから判断しなければならなかったでしょう。本国との通信手段はありませんから。

 そういった状況は600年の遣隋使でも同じではなかったかと思います。

 『隋書』倭国伝に見える「倭王姓阿毎字多利思比孤」や「王妻」といった語については、よく「当時は女性の天皇である推古天皇の時代なのに……」などといった言い方もされますが、後世のものですがたとえば新羅・高句麗・百済3カ国の歴史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀では、女性の王であった善徳王(在位632647)の時代を評するのに『書経』牧誓篇に見える「牝鶏之晨」――メンドリがときを告げる(と家が滅ぶ)。女性による統治をさげすんだ言葉らしいです――を用いているようです。もしも600年の倭使、あるいは想定される渡来人か百済人あたりの通訳にこの「牝鶏之晨」、中国では女治を嫌うなどといった知識があったとすれば、倭使が「倭王は女性の推古天皇です」などとしゃべることができたはずはない、そう思うのです。もちろん「天皇」表記もまだ定まっていなかったでしょうし、「推古」も150年以上あとにおくられた「諡」(おくりな)でしょうが。

 

 そうなるとあるいは――「倭王姓阿毎字多利思比孤」についても、極論すれば倭使の作り話の可能性もあるのではないかと疑います。なお「勅日本国王書」の文から推測すれば、733年の遣唐使が持っていった国書の書き出しには「日本国王主明楽美御徳敬白」などとあったのではないかと思うのですが、では607年の例の「日出処天子致書日没処天子無恙……」と見える国書の書き出しは何と始まっていたのか? 600年の遣隋使は国書を持っていかなかったようだけれど、607年の遣隋使は、たとえば「倭王阿毎多利思比孤敬白」などといった書き出しで始まる国書を持っていったのでは……などという可能性は、あまりないように感じられます。まず後代の「主明楽美御徳」の発想からして、倭人自身が「阿毎 多利思比孤」といった文字を当てて国書に記すかどうか。それから「倭王阿毎多利思比孤敬白」などといった言い回しのあとに「日出処天子致書日没処天子」はつづくでしょうか。このように並べると「日出処天子致書日没処天子」の尊大さのようなものが際立つ感じがしますし、もしも「倭王阿毎多利思比孤敬白」のあとに「日出処天子致書日没処天子」がそのままつづいていたとしたら、よほどおかしな感覚だと思うのです。

 

 「タラシヒコ」「タラシヒメ」といった称が天皇の和風諡号(わふうしごう。崩御後におくった「諡」=おくりな=の日本風のもの)に見えるようになるのは、推古のつぎの舒明のオキナガタラシヒヒロヌカ(息長足日広額天皇)・皇極のアメトヨタカライカシヒタラシヒメ(天豊財重日足姫天皇)あたりからのようです。

 それ以前にも孝安(紀「日本足彦国押人天皇」・記「大倭帯日子国押人命」)・景行(紀「大足彦忍代別天皇」・記「大帯日子淤斯呂和気天皇」)・成務(紀「稚足彦天皇」・記「若帯日子天皇」)・仲哀(紀「足仲彦天皇」・記「帯中日子天皇」)そして神功皇后(紀「気長足姫尊」・記「息長帯日売命」)の和風諡号に見えていますが、これらは実在した人というよりも、あとから作られたことが強く疑われる存在です。

 また『続日本紀』の時代にもタラシヒメが見えていて、元正天皇の和風諡号がヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメ(日本根子高瑞浄足姫天皇)です。

 しかしタラシヒコ・タラシヒメは天皇とされる人限定ではなくて、たとえば孝徳紀には孝徳天皇の妃で有間皇子の生母の「小足媛」(をたらしひめ。阿倍倉梯麻呂の娘)の名が見えています。雄略紀には妃の葛城韓媛所生の子として「白髪武広国押稚日本根子天皇」(清寧)とともに「稚足姫皇女」(わかたらしひめのひめみこ。またの名を「𣑥幡姫皇女」=たくはたひめのひめみこ=と見えます。『古事記』に「若帯比売命」)が見えています。また垂仁紀には妃の渟葉田瓊入媛所生の子として「鐸石別命」とともに「胆香足姫命」(いかたらしひめのみこと。『古事記』では「苅羽田刀弁」の子として「五十日帯日子王」が見えるがイカタラシヒメは見えない)が見えています。さらに孝昭・孝安紀……といってもピンときませんが、「欠史八代」などといわれ系譜的な記事しか見えない2代から9代までの天皇のうち5代と6代の天皇にあたります。その孝昭の皇后で孝安の生母に「世襲足媛」(よそたらしひめ)の名が見えます。

 

 この「世襲足媛」は『日本書紀』孝安紀には尾張連の遠祖の「瀛津世襲」(おきつよそ)の妹と見え、孝昭皇后として「天足彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと。「和珥臣等始祖」と見える)と「日本足彦国押人天皇」(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと。孝安)を産んだと見えます。

 ところが『古事記』では孝昭が尾張連の祖「奥津余曾」(おきつよそ)の妹「余曾多本毗売命」(よそたほびめのみこと)をめとって生んだ子が「天押帯日子命」(あめおしたらしひこのみこと。「春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣……」ら多数の氏の祖と見える)と「大倭帯日子国押人命」(おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと。孝安)だという話になっています。同じといえば同じですが、微妙に異なる部分もあります。

 

 東野治之さんの『遣唐使』からの孫引きになってしまいますが、600年の遣隋使の「阿毎多利思比孤」について、辻善之助さんの『増訂 海外交通史話』に、遣隋使となった小野妹子の祖先が「天帯日子国押人命」だったところから、対応した隋側が君主の名と間違って記録したとする見解を示しておられるそうです。東野さんご自身は600年の遣隋使が小野妹子とは考えられないとしながらも、2回目の遣隋使の情報が1回目のこととして記録されている可能性までも考慮して、辻さんの見解を肯定的に見ておられるようです。

 これは私にも非常に興味深いご見解と思われます。

 小野妹子の祖先については『古事記』孝昭段に見えています。「春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣……」といった各氏は『日本書紀』の「和珥臣」、ワニ氏の分かれた氏族のようですからけっきょくは同じことなのですが、『古事記』と『日本書紀』の間では「余曾多本毗売命」が「世襲足媛」に、「天押帯日子命」が「天足彦国押人命」にかわっているといった相違が見られます。そんなにこだわることではないのかもしれませんし、こだわるのなら「『古事記』偽書説」なども視野に含めた『古事記』『日本書紀』それぞれの成立といったことも考えなければならないのかもしれませんが、『古事記』と『日本書紀』との相違といった意味でいえば、先ほどあげたタラシヒメたちの記述の中に、『古事記』と『日本書紀』とで名称が大きく変化している存在が出ていました。

 雄略と葛城韓媛の間の子として「稚足姫皇女」とともに見える「白髪武広国押稚日本根子天皇」、清寧天皇の和風諡号です。『古事記』では「白髪大倭根子命」ですが『日本書紀』では「白髪武広国押稚日本根子天皇」となっています。記の「大-倭」が紀で「稚-日本」とかわっていますが、それ以外に『日本書紀』では「武」「広国押」が付加され非常に長くなっています。

 なぜこんなことが気になるのかというと、この「武」「広国押」という要素を和風諡号に含むのが、継体天皇の子の安閑天皇(紀「広国押武金日天皇」、記「広国押建金日王」)と宣化天皇(紀「武小広国押盾天皇」、記「建小広国押楯命」)だからです。この兄弟の生母は尾張連氏出身の目子媛(めのこひめ。『日本書紀』では尾張連草香の娘。『古事記』では尾張連等の祖の凡連の妹の「目子郎女」と伝える)です。どことなく孝昭・孝安紀に見える「瀛津世襲」(記「奥津余曾」)や「世襲足媛」(記「余曾多本毗売命」)などを連想させる存在なのです。

 (※……といったことを、新井喜久夫さんが「古代の尾張氏について」(『信濃』2112)で既に指摘されているのだそうです。たまたまWebで見つけた前之園亮一さんの「「欠史八代」について(上)」のPDFファイルで知りました。遅ればせながら記しておきます。ああ恥ずかし)

 そして孝安の和風諡号(紀「日本足彦国押人天皇」・記「大倭帯日子国押人命」)は記と紀で基本的にかわっていませんが、その兄でワニ氏の祖とされる存在は『古事記』の「天押帯日子命」から『日本書紀』の「天足彦国押人命」へと微妙に変化している。その「国押」という要素が清寧・安閑・宣化の和風諡号に認められることもさることながら、辻さんのご見解のように「アメタラシヒコ」といった存在が607年といった段階で小野妹子の祖先として固定化していたと見るよりは、記紀成立の8世紀初頭でもなおワニ氏とか尾張氏あたりの働き掛けで伝承に手が加えられていたものと見たほうが……などと疑うのです。

 

 先にタラシヒコ・タラシヒメを含む和風諡号が舒明のオキナガタラシヒヒロヌカ・皇極のアメトヨタカライカシヒタラシヒメあたりから見えると述べましたが、舒明は尾張氏の血を引く天皇です。安閑には子がありませんでしたが、宣化の娘はおそらく3人ほどが欽明に嫁いだようで、そのうち「皇后」とされる石姫は箭田珠勝大兄・敏達を産んだと見えます。しかし敏達の子の押坂彦人大兄は即位できませんでしたし、敏達と推古の子の竹田皇子も即位できませんでした。用明・崇峻・推古は尾張氏の血を引いていませんから、舒明は敏達以来ひさびさに尾張氏の血を引く天皇となったわけです。皇極も押坂彦人大兄の孫(押坂彦人大兄−茅渟王−皇極・孝徳)ですから尾張氏の血を引いています。とうぜんその子孫である天智・天武・持統以下もその血を受け継いでいます。

 記紀でタラシヒコ・タラシヒメといった存在をたどっていき、またそれら存在の記紀間での相違を見ていくと、ワニ氏とか尾張氏など、継体−安閑−宣化のバックについていたような勢力が浮かんでくるように思えます。そういえば近江の息長氏などもそういった勢力にあたるのでしょうが、「オキナガタラシヒメ」神功皇后もまたそういったライン上に浮かんできます。

 

 ところで『隋書』倭国伝の「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」の記述からアメタリシヒコを当時の天皇の称号のように解するご見解があるようですが、これは――どうでしょうか。

 まず、天皇の和風諡号以外にもタラシヒコ・タラシヒメと称する存在がいます。もしもタラシヒメが女性天皇とか皇后といった存在にあたる称だったとしたら、孝徳妃で有間皇子の生母の「小足媛」などは少々不遜な印象のネーミングとなるのではないでしょうか。これがひとつ。

 もうひとつは――『風土記』に見えるタラシヒコ・タラシヒメの例です。

 とはいっても『風土記』は多くが散逸してしまい、現在かろうじて残されているのは常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5カ国のもの程度。他は何かの資料に引用されて残った逸文のみのようです。また『風土記』撰進の命については『続日本紀』和銅6年(≒713)5月甲子(2日)に「畿内七道諸国。郡郷名著好字。其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目。及土地沃塉。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍言上」といった形で見えるもののようですが、古典文学大系『風土記』の解説によれば、『風土記』成立のタイミングもこの和銅6年だけではないらしいのです。

 その212年後の延長3年(≒925)にも中央から「五畿七道諸国司」にあてて急ぎ「風土記」を提出せよとの太政官符が出されているようで、現在の『風土記』については「和銅6年に作られ中央に提出されたもの」「和銅6年に作られ各国で保管されたもの」「保管されていたものをもとに延長3年に提出されたもの」「延長3年に新たな記事を加え提出されたもの」「延長3年新たに作られ提出されたもの」「延長3年に各国で保管されたもの」などといった種類が想定されるとのこと。

 『風土記』撰進の命が出された和銅6年は『古事記』が撰上されたとされる和銅5年の翌年に当たりますが、『風土記』がこういった性格のものであるとすると『古事記』や『日本書紀』との単純な比較はしづらくなりそうです。それでも――『風土記』と『古事記』『日本書紀』とを比較することは、『風土記』の立ち位置をはっきりさせると同時に『古事記』『日本書紀』の性格もあぶり出してくれるように思うのです。

 

 常陸・出雲・播磨・豊後・肥前5カ国の『風土記』の主に地名由来説話などに見える天皇名(天皇自身が登場することも、「○○天皇之世」といった形のことも)を見てみますと、正確に数えたわけではなく印象レベルのものですが、国ごとに非常な偏りが見られるようです。

 たとえば『常陸国風土記』では「倭武天皇」、天皇となったヤマトタケルノスメラミコトが圧倒的人気のようですが、意外なことに孝徳天皇も「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」などの表記で多く見えます。

 これが『播磨国風土記』となると、天皇ではありませんが「伊和大神」や「天日槍命」(アメノヒボコノミコト)が多く見え、天皇では「品太天皇」応神が頻出します。

 『豊後国風土記』『肥前国風土記』となると「纏向日代宮御宇天皇」景行が多く見られる印象です。

 なお『出雲国風土記』は独特で、神社の名や産物などはこまごまと列挙されますが、天皇の名はほとんど見えないようです。

 5カ国全体で見れば、おそらく「纏向日代宮御宇天皇」表記のほか『播磨国風土記』にも「大帯日子命」「大帯日子天皇」などと見える景行が最多で、つぎに「品太天皇」応神といったことになるのではないでしょうか。逆に「倭の五王」らしい履中・反正・允恭・安康・雄略あたりとか、敏達・用明・崇峻、また舒明・皇極など記紀で実在性が疑い得ないような天皇は『風土記』にはほとんど見えないか、まったく見えないようなのです。

 こういった傾向を通観すると、『風土記』の地名由来説話を伝えた人々には神話や伝承・説話のみがあって「歴史」はなかった……。そんな印象を覚えます。

 

 『播磨国風土記』讃容郡(さよのこほり)雲濃里(うののさと。兵庫県佐用町、JR姫新線播磨徳久駅の近く?)の地名由来説話には「玉足日子玉足比売命」(たまたらしひこ・たまたらしひめのみこと)という、神らしき存在が見えるようです。説話自体は「大神之子 玉足日子玉足比賣命生子 大石命 此子 稱於父心 故曰有怒」、(伊和)大神の子の玉足日子・玉足比売命の生んだ子である大石命(おほいわのみこと)が父の心に「称ひき」(うずなひき=かなった? 古典文学大系の注にも不明とのこと)ため「有怒」(うの)といった……などという、掛け言葉なのかよくわからない話が見えるのみなのですが。

 これが同国の美嚢郡(みなぎのこほり)高野里(たかののさと。後出「祝田社」は兵庫県三木市別所の三木工業団地あたりにあった?)には「坐於祝田社神 玉帯志比古大稻男 玉帯志比賣豐稻女」、祝田の社に坐す社の神は「玉帯志比古大稲男」(たまたらしひこおほいなを)・「玉帯志比売豊稲女」(たまたらしひめとよいなめ)である、と見えます。ただそれだけなのですが、ともかくも「玉帯志比古大稲男」「玉帯志比売豊稲女」という形で見えているようなのです。

 雲濃里の「玉足日子・玉足比売命」は兄妹でなおかつ夫婦のような存在と思われますが、高野里の「玉帯志比古大稲男・玉帯志比売豊稲女」は、関係は不明ながら豊作を祈る稲の穀霊(?)の神格化のようにも見えます。佐用町と三木市、播州の東西の境と離れていますが、タマタラシヒコ・タマタラシヒメにまつわる説話が広く存在したらしいことをうかがわせるように思われます。そのイメージをたとえるなら――現代でいえば雛人形の内裏雛、というよりは男女の道祖神(Hermes を連想させるほうでないほう)のようなものではなかったでしょうか。

 

 もしもタラシヒコ・タラシヒメが天皇の称号のような形で600年ごろ、あるいはそれより少し前に創出されたものとすれば、それから100年あまりの間にタマタラシヒコ・タマタラシヒメなどというバリエーションを生んで地方に定着するでしょうか? むしろ逆にもともとタマタラシヒコ・タマタラシヒメのような「○○タラシヒコ・○○タラシヒメ」系の伝承・説話が広汎に分布しており、それがワニ氏などによって祖先に取り入れられ、さらに記紀成立までの間に「天皇」としてつくりかえられていったものと見たほうが自然なのでは……。

 そういった観点で見てみると、『播磨国風土記』には神功皇后を「大帯比売命」、オホタラシヒメノミコトとする例がわずかながら揖保郡(いひぼのこほり)言挙阜(ことあげをか。遺称地不明とのこと)・宇須伎津(うすきつ。姫路市網干区宮内付近とのこと)・宇頭川(うづかは。姫路市余部区あたりの揖保川か、とのこと)などに見えているようです。いずれも記紀にも見える「韓国」関係の説話になっていますが、この前後の地名由来説話では「息長帯日女命」「息長帯比売命」「息長帯日売命」などの表記のようですから、オホタラシヒメが残ってくれたのは貴重とも思われます。

 オホタラシヒメ自体は『続日本後紀』承和10年4月己卯(21日)にも、楯列山陵の北の神功皇后陵と南の成務天皇陵とを取り違えていたため神功皇后陵がたたったなどといった話に「大足姫命皇后」といった形で見えるようですが、『播磨国風土記』の神功皇后のオホタラシヒメを見ると、もともとオホタラシヒコ・オホタラシヒメをペアとした説話があったのではないかと想像されるのです。

 

 景行(紀「大足彦忍代別天皇」・記「大帯日子淤斯呂和気天皇」)・成務(紀「稚足彦天皇」・記「若帯日子天皇」)・仲哀(紀「足仲彦天皇」・記「帯中日子天皇」)の3代については、井上光貞さんがこれを造作された存在と見、もともと景行−五百木之入日子命−品陀真若王−中比売という系譜があって、中比売が応神天皇と結ばれて仁徳天皇を産んだ、という形が元来のものだったろうと想定されているそうです。何という論文かは知らなくて、私が見ているのは『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社 1965)の記述なのですが、この見解は私には説得力をもって響きます。

 『古事記』の各天皇段冒頭の天皇の表記で「−命」などでなく「−天皇」となっているのは景行・成務・仲哀・欽明・崇峻の5天皇ですが、欽明は新王朝の始祖的な位置づけだったらしく、天寿国繍帳銘でも「−天皇」ですから納得がいきます。しかし崇峻は存在が薄く、じっさいに即位した存在であったのかも疑わしく思われる部分があります。そして景行・成務・仲哀の3代についても、景行はともかく成務・仲哀は実在性が疑わしい。『古事記』の「−天皇」表記はそんな意味も含んだものだったのではないかと疑います。ついでにいえばヤマトタケルノミコトも景行の子で仲哀の父ですが、常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の『風土記』では景行・ヤマトタケル・神功皇后・応神といったあたりが高頻度で見えているのです。

 

 もともと各地への征討説話のようなものを伴ったオホタラシヒコ・オホタラシヒメの説話といったものがあって、『風土記』撰進の直前まで各地に分布していたのはそういった説話ではなかったでしょうか。あるいはその間に生まれた子まで含んだ説話だったかもしれません。

 いっぽう中央では説話のオホタラシヒコ・オホタラシヒメを「天皇・皇后」に仕立てる創作活動が行われていた。600年の遣隋使の「阿毎多利思比孤」はそんな経過の一断面だったのではないでしょうか。さらに記紀撰上の時代までに、既存の系譜に合わせるため、配偶関係だったかもしれないオホタラシヒコ・オホタラシヒメを引き離し、その間に成務・仲哀という存在を架上して系譜に挿入していった。また神功皇后を卑弥呼の時代に合わせる操作なども並行して行われたのでしょう。ヤマトタケルノミコトについてはもととなるような伝承が存在したのか、オホタラシヒコの伝承が拡大して別人格をつくり出させたのか、よくわかりません。

 

 『古事記』序の年代を信じれば『古事記』は712年に撰上されたことになります。翌年には『風土記』撰進の命が出ていますから、あるいは『古事記』のダイジェストに天智・天武のころあたりまでの簡略な歴史を加えた文書が作成され、諸国の国司たちに配布されたのではないでしょうか。国司たちはそれを持って各国に下向。漢字・文章を覚えたばかりの郡司層に書写させ、庶民に伝わっていた伝承を郡司層以下あたりが各天皇に結び付けていったのではないか。地域土着の伝承の中にあったオホタラシヒコの征討説話は、『風土記』作成にあたりあるときは「大帯日子命」「纏向日代宮御宇天皇」に振り分けられ、あるときは「倭武天皇」に振り分けられたりしたのではないか――。そんなふうに想像しています。

 『風土記』に見える “歴史” 観のようなものは、たとえば『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』とか『日本霊異記』のような中央の寺院による “歴史” と比べるとまるきり違う。真逆といってもいいほどです。やはり『風土記』の題材を提供した地方には歴史はなくて伝承・説話しかなかったのでしょう。713年に中央が地方に命じた『風土記』作成という作業は、それ以前に中央で行われた伝承・説話を “歴史” につくりかえる作業を、もういちど地方でも繰り返させることではなかったか――などと考えるのです。

 

 ……こういったことも、もうどなたか既に論じ尽くされていることなのでしょうが。

 

 タラシヒコ・タラシヒメを元来ペアの存在だったと考えると、舒明のオキナガタラシヒヒロヌカ・皇極のアメトヨタカライカシヒタラシヒメは納得のいくもの――というわけにもいきません。皇極はアメトヨタカライカシヒ「タラシヒメ」だからいいのですが、舒明はオキナガ「タラシヒ」ヒロヌカ、タラシヒコではなくタラシヒです。このあたりについて薗田香融さんは「皇祖大兄御名入部について」(1968)で舒明の「タラシヒ」(足日)を「養育する」という意味の「ひだす」のことと見、「息長氏によって養育された」といったことを意味するという形でとらえておられます。この論文は圧倒的な内容をもっているのですが、この「日足す」から「タラシヒ」というご見解については――まことに僭越ながら立場を異にさせていただきたく思います。

 それはヒメ・ヒコという語自体の問題と思うからです。

 

 『魏志』倭人伝に見える「卑狗」がヒコの初見なのかもしれませんが、これは中国人が印象の悪い文字を音に対して当てたものでしょう。次の段階では稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に見える「意富比垝」や『日本書紀』神功紀摂政62年に引かれた『百済記』の「沙至比跪」など、百済人や渡来系の文筆家あたりが用いたらしい「比垝」「比跪」といった表記が現れますが、これが『古事記』あたりになると「比古」(「毗古」)といった形に収まっていくようです。ここまでが字音の段階で、同じ『古事記』では訓の「日子」のほうがむしろ多く使われているように感じます。そしてこの「日子」表記がヒコ本来の意味をもっともよく表しているのではないでしょうか。『日本書紀』になるとヒコは「彦」になってしまいますが、これではかえって原義がわかりません。

 高群逸枝さんの『女性の歴史(上)』(講談社文庫 1972)の中に、姫彦制に関連して「元来、姫彦の名は、日の娘、日の息子を意味したものであったが(後略)」といった記述が見えます。「ムス-メ ムス-コ」「ヒ-メ ヒ-コ」だとすれば「日の娘」「日の息子」というのはそれなりに納得がいくようにも感じます。

 

 個人的には「息長足日広額」の「広額」については舒明の諱(いみな。ここでは実名のこと)ではなかったかと想像しています。以下はめんめ じろうさんの「記紀天皇名の注釈的研究」なども参考にさせていただいているのですが、『日本書紀』皇極2年9月壬午(6日)の舒明を押坂陵に埋葬した記事の分注に「或本云、呼広額天皇、為高市天皇也」、たんに「広額天皇」とする表記が見えています。これを見て思い出すのは『元興寺縁起』の引く「丈六光銘」。その冒頭に欽明を指して「天皇名広庭(在斯帰斯麻宮時……)」などと記されています。根拠――とも言えませんが、これらを実名と考えて和風諡号を通観したばあい、自分としては納得のいく部分が多いように感じられるのです。

 「広額」というのが当時明らかに男性の名だったとすれば、男性を表す「子」と「広額」という名は置き換え可能だったのではないか、などと考えるのです。だから「足--子」から「足--広額」。

 ちなみに皇極の諱、実名については「豊財」、トヨタカラあたりではなかったかと想像しています。「記紀天皇名の注釈的研究」では慎重な見方をされていますが――孝徳即位前紀の皇極4年6月庚戌(14日)には「是日、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊」と見えています。

 

 では、「日」というのは何なのでしょうか。天体としての太陽そのものでしょうか。

 皇極はアメトヨタカライカシヒタラシヒメ(天豊財重日足姫天皇)ですが、「重日」のイカシヒには、「記紀天皇名の注釈的研究」でも想定しておられるように「重祚」の意味が込められているように思います。だとするとこの「日」にもまたヒメ・ヒコの「日」と同じ意味があるのではないでしょうか。

 

 個人的には「日」に「政治」といった意味があったのではないかと想像しています。

 「政治」を意味する言葉にはマツリゴトがありますが、それは祭りとか「水表之軍政」(天智紀)、戦争など「イベント」のように思われます。天体としての太陽から、その太陽の周期である「日」という時間の単位に転じ、さらにその日々を送らせること、生活を成り立たせることといった意味で、「日」が日常に関する政治の意味に転じていったのではないか――そんなふうに考えます。

 

 「玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 〔或云、自宮〕 阿礼座師 神之尽 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎〔或云、食来〕(後略)」――玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御世ゆ 生れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを……。『万葉集』巻129は柿本人麻呂が荒れ果てた近江の旧都を通ったさいに歌った長歌ですが、この中に「日知」の語が見えます。中西進さんの『万葉集 (一)』(講談社文庫 1978)ではこの「橿原乃 日知之御世」に注して「初代と伝える神武天皇のこと。畝火の橿原の宮に定都。「日知り」は農耕の日を知る意、広く聖に用いる」としておられますが、同じ人麻呂が天武と持統の長男である草壁皇子を悼んで歌った巻2の167の挽歌の題詞にも「日並皇子尊」、ヒナミシノミコノミコトと見えています。「日知り」(ヒジリ)と「日並」(ヒナミシ)を並べて見比べると、どうも単純に太陽とかその運行を指すなどとするよりは、「日」を政治の意味ととらえたほうがしっくり来るように思うのです。

 皇極の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」の「重日」も「イカシヒ」という発音からすれば太陽がいかめしいようなイメージですが、「重日」という漢字の字面から見れば「重ねて政権の座にあった」的な意味になりそうです(じっさいそういう形だったかどうかはわかりませんが)。「ヒメ」「ヒコ」の語義も本来は「政治する女性」「政治する男性」といったものではなかったでしょうか。

 

 西暦600年の倭の使者は「倭王以天為兄以日為弟天未明時出聴政跏趺坐日出便停理務云委我弟」――倭王は天を兄、日を弟とし、未明に出て聴政しあぐらをかいて坐り、日が出れば仕事をやめて「弟に任す」と言う――などと言って文帝を呆れさせたように見えます。もちろんそんなことで日々の政治が成り立つはずはない、そんなことは倭使にもわかっていたでしょう。でもここにはまだ「日」を女性の神格である天照大神とする発想はないように思われます。

 倭使の話した内容が、彼の即興の作り話だったのか当時の倭の一種の理念のようなものだったのかはわかりませんが、「日が出たら政務を弟に任す」という言葉の裏には、「日」を政治の意味にとらえていた当時の発想がうかがえるように思えるのです。