大 王 天 皇

 

 

 1 法隆寺金堂薬師像銘から

 

 最近はダイオウイカとかダイオウグソクムシとか大王ばやりですが、1400年前の日本……というか倭国に「大王天皇」という人がいました。いたそうです。いたとする資料があります。法隆寺金堂の金銅薬師如来坐像の光背銘に見えます。

 「大王天皇」とは推古天皇のことを指します。

 

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳

次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大

御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然

当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天

皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

 

 「池邊大宮治天下天皇」(用明天皇)がご病気となった折の丙午年(≒586)に、「大王天皇」(推古天皇)と「太子」(廐戸皇子。聖徳太子のこと)を召されて誓願され、「私は病気が快復するよう望むので、寺を造り薬師像を造って仕えまつりたい」と詔された。しかし崩御されて造ることができなかったため、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古)および「東宮聖王」(廐戸)が「大命」、オホミコトをうけたまわって丁卯年(≒607)に仕えまつった――といった解釈でいいのでしょうか。

 かつてはこの銘文などをもとに、津田左右吉さんが「天皇」号の使用について推古朝ごろに開始されたものと見ておられたようですが、その後この銘文にも像自体の制作年代にも、さらには「薬師」像という銘文の主張にさえ疑問符がついてしまいました。

 法隆寺金堂ではこの像の西に釈迦三尊像が安置されますが、釈迦三尊像は鋳造のさいに銅が回りきらず後から直したような箇所が見られるのだそうで、これに対しこの薬師像は1回の鋳造のみで仕上げており、技術的に進歩している、つまり年代の下がるものだ……といった話をどこかで拝見した記憶があります。仏像の様式などはまるでわからないのですが、その他釈迦三尊像と比較して丸みを帯びてきているなどといった話もうかがうと、たしかに時代の下るものなのだろうとも思えてきます。

 

 梅原猛さんは『隠された十字架 −法隆寺論−』(新潮社 1972)の中で、まず戦前に福山敏男さんが「法隆寺の金石文に関する二三の問題」(1935)でこの光背銘の年代について疑ったことを引用したうえで、この光背銘は天平19年(≒747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財帳部分に見えるこの薬師像銘についての記述から逆に作り出されたものだ、といった説を述べておられます。『法隆寺−』のその資財帳部分に見えるこの像銘の記述というのは「金埿銅薬師像壱具 / 右奉為池辺大宮御宇 天皇 / 小治田大宮御宇 天皇 / 并東宮上宮聖徳法王、丁卯年敬造請坐者」(「 / 」は改行)といったものですが、梅原さんはこれを「用明天皇と推古天皇と聖徳太子のために、丁卯年に造られた」と読んで、現在の金堂薬師像銘のほうは天平19年より後に『資財帳』の文から導いた「巧みな文献の偽造」であるとされ、『資財帳』に見える像銘の「丁卯年」については天智6年と見ておられます。

 

 また大山誠一さんも『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館 1999)の中で、「天皇」「東宮」「聖王」といった語の存在することや、用明が大后の穴穂部間人王でなく妹の推古を召すことの不自然さなどを挙げて、この銘文の成立時期の上限については天皇号が採用されたとされる飛鳥浄御原令の持統3年(≒689)、下限を『法隆寺資財帳』の天平19年とされています。なお大山さんは天皇号については「今日では、中国で、唐の高宗の上元元年(六七四)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代わったが、その情報が、天武朝に日本に伝わり、持統三年(六八九)に編纂された飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説となっている」とされ、つづけて「最近(一九九八年)、奈良の飛鳥寺の近くの飛鳥池遺跡から「天皇」の語を記した木簡が出土したが、その年代は、天武・持統朝ということで、最古の使用例と報道された」と記されています。

 

 福山敏男さんの「法隆寺の金石文に関する二三の問題」では、まず「天皇」の語について、江田船山銀錯銘大刀の「治天下獲□□□歯大王……」や隅田八幡神社人物画像鏡銘の「癸未年八月日十大王年……」、『釈日本紀』所引『上宮記』の「伊久牟尼利比古大王」「伊波礼宮治天下乎富等大公王」、『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』の「他田宮治天下大王」の例を挙げて、古い時代にはいずれも「大王」だったとし、「天皇」の「正確な記文に見ゆる最初のものは天智天皇五年のものと推定される野中寺藏彌勒像の台座銘に「中宮天皇」とあるものである」とされ、この薬師像銘を推古朝のものと見ることに否定的見解を示されています(また「天皇」の語の見える「天壽國曼荼羅」――天寿国繍帳についても同様に見ておられます)。

 ついで「大王天皇」の語にも疑いを持たれ、「大王」と「天皇」とは「全くの同義語」であり、この文の書かれたころにはもっぱら「天皇」が用いられ「大王」は用いられなかったであろうと推測されたうえで「從つて推古天皇のことを「大王」と記した古い記文などによつて、漫然と「大王天皇」なる語を構成したものであらう」と記されます。「聖王」の語についても境野黄洋さんの「太子薨去後世人が呼んだ尊称」と見る説に賛同され、またこの薬師像銘が野中寺(やちゅうじ)弥勒半跏像銘に類似することを指摘されています。

 さらにはこの像が「薬師像」であることも不審とされ、仏教伝来以降釈迦−阿弥陀−弥勒の順に造像が見られ、薬師像は天武朝になってようやく現れること、中国でも同様の傾向にあることなどを数多くの例を挙げて述べておられます。そして用明・推古・聖徳太子の発願による勅願寺だと訴える「縁起文」である薬師像銘の成立年代を「天武朝から持統朝にかけて、現在天皇の御願として、藥師寺が莊麗な形で造營されつゝあつた頃、又はそれ以降」といった形で見ておられるようです。

 この後では、用明の死に際し鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が用明のために出家して坂田寺の丈六仏像と寺とを造ると申し出たという『日本書紀』用明紀の話を引き、『日本書紀』が使ったであろう坂田寺縁起を、薬師像銘もまた発展させて用いたのではないかとの見通しを示しておられます。

 ちなみに野中寺の銅像弥勒菩薩半跏思惟像銘を掲げておきます。

 

丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞坐之時

誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也

 

 この銘文が円盤状の台座の側面、框(きょう・かまち)といわれる部分に1行2字で彫り込まれています。

 

 ですから……法隆寺金堂の薬師像銘は、いうならばニセモノです。

 私も「丁卯年」、小野妹子が遣隋使として隋に向かった推古15年に書かれたものだとは思っていません。ただ、銘文が後世の新しいものだからといって造像の年代まで天武・持統朝以降に下げるというのはどうでしょうか。福山さんも「この文が何時書かれたのか又は何時こゝに彫り込まれたのかは記されてゐないから、推古朝の丁卯年のことゝも考へられる一方、丁卯年を多少、又は遙かに降つた頃、この像の「縁起文」として書かれ、こゝに彫られたと見ても少しも差支へはない」と述べておられます。

 

 法隆寺は1949年(昭和24年)金堂が火災に遭いましたが、そのさい焼損した金堂壁画と薬師寺金堂の薬師三尊像、それにこの薬師像とを見比べて、どうなるだろうかなどと思ってしまいます。その昭和24年の火災……ではなく天智9年の火災のおりに、もとの斑鳩寺だか法隆寺だかの金堂の本尊も焼けてしまったのかもしれない。その後、由来も不明なら造像銘もない、どこの馬の骨ともしれぬ古い仏像を持ってきて新築成った現在の法隆寺金堂に安置。台座はなぜか斑鳩宮の戸板などから作った古いものが残っていたのかもしれません。それ以後に、口伝などの形で伝わっていた由来を刻銘した――などといった可能性も考えられないではないでしょう。「馬の骨」は言い過ぎかもしれませんが。

 

 個人的には、福山さんの説は非常に説得力を持って響きます。しかし「推古天皇のことを「大王」と記した古い記文などによつて、漫然と「大王天皇」なる語を構成したものであらう」とされるのには異論があります。福山さんはなぜか『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)を挙げておられませんが、その『大安寺−』の縁起部分の冒頭に、やはり推古が「太帝天皇」「太皇天皇」などといった形で見えているのです。

 

初飛鳥岡基宮御宇 天皇之未登極位 / 号曰田村皇子是時小治田宮御宇  / 太帝天皇召田村皇子以遣飽浪葦墻宮 / 令問廐戸皇子之病勅 病状如何思欲 / 事在耶樂求事在耶復命 蒙天皇之頼 / 無樂思事唯臣〈伊〉羆凝村始在道場仰願 / 奉為於古御世御世之帝皇將来御世御 / 世御宇 帝皇此道場〈乎〉欲成大寺營 / 造伏願此之一願恐 朝庭譲獻〈止〉〈支〉 / 太皇天皇受賜已訖又退三箇日間皇 / 子私參向飽浪問御病状於茲上宮 / 皇子命謂田村皇子曰愛哉善哉汝 / 姪男自来問吾病矣為吾思慶可奉財 / 物然財物易亡而不可永保但三寳之法不 / 絶而可以永傳故以羆凝寺付汝¥ウ / 而永傳三寳之法者田村皇子奉命大 / 悦再拜白曰唯命受賜而奉為遠皇祖 / 并大王及継治天下 天皇御世御世不絶 / 流傳此寺仍率將妻子以衣齋褁土營成 / 而永興三寳皇祚無窮白後時 天皇臨 / 崩日之召田村皇子遺詔皇孫 朕病篤 / 矣令汝登極位授奉寳位與上宮皇子 / 譲 朕羆凝寺亦於汝〈毛〉〈祁利〉此寺後世流 / 傳勅〈支〉仍即 天皇位十一年歳次己亥春 / 二月於百済川側子部社〈乎〉切排而院寺家 / 建九重塔入賜三百戸封号曰百済大寺此時社 / 神怨而失火焼破九重塔並金堂石鴟尾 / 天皇將崩賜時勅太后尊此寺如意造建 / 此事為事給仕耳尓時後岡基宮御宇 天 / 皇造此寺司阿倍倉橋麻呂穂積百足二人任 / 賜以後 天皇行車筑志朝倉宮将崩賜 / 時甚痛憂勅〈久〉此寺授誰參来〈止〉先帝待 / 問賜者如何答申〈止〉憂賜〈支〉尓時近江宮 / 御宇 天皇奏〈久〉〈伊〉髻墨刺〈乎〉刺肩負 / 鉝腰刺斧奉為奏〈支〉仲天皇奏〈久〉〈毛〉 / 妋等炊女而奉造〈止〉〈支〉尓時手柏慶賜 / 而崩賜之以後飛鳥浄御原宮御宇  / 天皇二年歳次癸酉十二月壬午朔戊戌造寺司 / 小紫冠御野王小錦下紀臣訶多麻呂二人任 / 賜自百済地移高市地始院寺家入賜七百 / 戸封九百三十二町墾田地卅万束論定出擧 / 稲六年歳次丁丑九月康申朔丙寅改高市 / 大寺号大官大寺十三年 天皇寝膳不安 / 是時東宮草壁太子尊奉 勅率親王諸王 / 諸臣百官人等天下公民誓願賜〈久〉大寺營 / 造近今三年天皇大御壽然則大御壽更 / 三年大坐坐〈支〉以後藤原宮御宇 天皇朝 / 〈尓〉寺主恵勢法師〈乎〉令鑄鍾之尓後藤原 / 朝庭御宇天皇九重塔立金堂作建並 / 丈六像敬奉造之次平城宮御宇 天皇天 / 平十六年歳次甲申六月十七日九百九十四町 / 墾地入賜〈支〉(後略)

(『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』縁起部分。『大安寺の美術』 大安寺 2010 の写真版から起こしましたが、不明の字等については群書類従版を参考にさせていただいた部分があります。不正確なもので、あくまで参考に掲げました)

 

 天平18年(≒74610月、寺院を管轄する僧綱所という役所から各寺院に対し「寺院の由来と所有する財産目録を記録し提出せよ」との通達があり、それを受けて各寺院はその由来である「縁起」と財産目録の「資財帳」を作成、翌天平19年2月に提出した――。『○○寺伽藍縁起并流記資財帳』というのはこういった由来のもののようで、そういった事情は『続日本紀』には記録されず各『−伽藍縁起并流記資財帳』の巻末に記されているようです。現在伝わるのは大安寺・法隆寺・元興寺のものだけ。しかし残念なことに現在伝わる『元興寺縁起』(もっとも題には「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」とあるようですが)については、本来の『元興寺縁起』を後世に書き改めたものと見る説があるのだそうです。

 

 もっとも福山さんは別の論文でこの『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』についても批判的に見られていて、その中に見える熊凝寺についても架空の寺としておられるそうです。残念ながらその論文を拝見していないのですが、だとすればこの「太帝天皇」「太皇天皇」についても否定的に見ておられるか、あるいは法隆寺の薬師像銘の「大王天皇」から発展させた程度のものとして処理されているのでしょうか。

 薬師像銘の「大王天皇」、『大安寺−』の「太帝天皇」「太皇天皇」に類する表現は『元興寺縁起』にも「大々王」と見えています。しかしその「大々王」は文中で年代を追って「大々王」→「大后大々王」→「大々王天皇(命)」などと変化していくようで、固有名詞として扱われているように見え、どうやら本来の形をとどめてはいないように思われます。

 

 薬師像銘に「小治田大宮治天下大王天皇」、『大安寺−』に「小治田宮御宇太帝天皇」とあるところを見れば「大王天皇」「太帝天皇」は固有名詞でなく称号、タイトルだったと見るべきでしょう。漫然と「大王天皇」なる語を構成したわけでなく、口伝で「○○○○ノスメラミコト」などと伝わっていたものに漢字表記を当てるさい、ある人は「大王天皇」と、またある人は「太帝天皇」「太皇天皇」などと表記した、といったことではないでしょうか。もしくは……『元興寺縁起』にも「大々王天皇命」などとあるところからすれば、もともとは「○○○○ノスメラミコト」に対し後世一般的に「大王天皇」といった表記が当てられていたが、「大王」と「天皇」とは同じことだなどといった批判があり、それを嫌って「太帝天皇」「太皇天皇」などと……やめておきます。

 

 ちなみに『日本書紀』孝徳紀の大化元年8月癸卯(8日)には大化の僧尼への詔などと呼ばれるものが見えますが、その中に「……於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百済明王……於訳語田宮御宇天皇之世……於小墾田宮御宇之世……」と、推古のみ「小墾田宮御宇之世」、「天皇」をつけていない記述があるようです。もちろん写本によっては「小墾田宮御宇天皇之世」としているものもあるようですが、有名な写本でも「小墾田宮御宇之世」、「天皇」をつけないものが複数あるらしく、『日本書紀』原本にもともとなかったもののように思われます。

 この例などは――引用元の仏教関係の資料には「小治田宮治天下大王天皇」的な表記で見えていたものを、原稿に写す段階で「治天下」は「御宇」に直したが「大王天皇」は直し忘れていた。これに「大王」を削除する修正が入ったところ、清書のさい誤って「大王天皇」全体を削除してしまった――そんな経過があったのではないかと想像しています。いや、「小治田」も「小墾田」に改めたといったことがあったか……。どなたか孝徳紀の文を「於小治田宮御宇之世」だと書いて何年も平気でほったらかしているバカな人もいますが。

 その少しあとの大化22月戊申(15日)、蘇我右大臣(石川麻呂)が先に設置した「鍾匱」への反応について読み上げる記事には「明神御宇日本倭根子天皇」、「日本倭」という奇妙な表記が見えます。これについて古典文学大系では「日本倭」全体で「やまと」と読ませていますが、これも原稿では「倭根子天皇」などとあったものに「倭」を「日本」と直せとの修正が入り、清書の段階で「日本」は加えたものの「倭」のほうは削除し忘れた……などといった経過があったのではないか。そんなふうに思います。

 

 私個人としては「大王天皇」「太帝天皇」といった表記の先に「○○○○ノスメラミコト」といった話し言葉、発音としての語の存在を想定していますので、その「○○○○ノスメラミコト」が何だったのかを知りたいのですが、「オホキミノスメラミコト」「オホキミカドノスメラミコト」……字面からでは判断できません。「大王」「太帝」などの意味について考えるのも、結局字面を追っていくのと同じことです。

 では推古朝に至る王権の流れ、また政治上における推古の性格といったものから「大王天皇」「太帝天皇」の先の「○○○○ノスメラミコト」を想定できないか――そう思って薬師像銘を見直すと、直接関係のないことながら、おかしな点に気づきます。

 

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳 / 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 / 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然 / 当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天 / 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

 

 「池邊大宮治天下天皇」が丙午年に病気になったとき「大王天皇」と「太子」を呼んで「……」と誓願したが、崩御されて出来なかったので「小治田大宮治天下大王天皇」と「東宮聖王」が遺志にそって丁卯年に……。

 用明が「池邊大宮治天下天皇」であった時点ですでに推古が「大王天皇」であったかのような書き方がされています。

 「いや、それは」……おかしな考え方で、ここで推古を「大王天皇」と表記していてもそれはその人の最終的な肩書、最高位にあったときの地位呼称で代表させて呼んでいるだけで、この時点で推古が「大王天皇」だと言っているわけではない。じっさい『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にも、「後岡基宮御宇天皇」斉明の臨終の場面で「この寺をだれに授けてきたんだと “先帝” 舒明に問われたら何と答えたらいいか」と斉明が憂えたところ、「近江宮御宇天皇」天智が「 “開” 伊(開=天智が)、モトドリに墨刺しを差し肩に「鉝」(ノコギリ?)をかつぎ腰に斧を差して造ります」と申し上げ、 “仲天皇” (ナカツスメラミコト? のちほど考えます)も「私もわが “妋” (せ。夫を意味するとの説も、兄を意味するとの説もあります)とともに飯炊きとなってお造りします」などと申し上げたので、斉明は手を打って喜んで崩御したとある。「後岡基宮御宇天皇」臨終のさいに天智が「近江宮御宇天皇」とあるけれどじっさいに天智が即位したのはその7年後で、この時点で天智が天皇だったと言っているわけじゃない。天智という人を、最終的な、最高位の「近江宮御宇天皇」という名称で代表させて呼んでいるだけであって、天智を「天智」と称しているのと同じことだ。

 ……そんな反論があるかもしれません。

 

 しかし、もしそうであるなら初出こそ「小治田大宮治天下大王天皇」とフルの名称で表記し、後出は「大王天皇」という省略した表記で済ますというのが普通ではないでしょうか。

 じっさいそうしている資料があります。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』がそれで、「初飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位。号曰田村皇子。是時小治田宮御宇太帝天皇。召田村皇子。以遣飽浪葦墻宮。令問廐戸皇子之病。(中略)此道場〈乎〉欲成大寺營造。伏願此之一願。恐朝庭譲獻〈止〉〈支〉。太皇天皇受賜已訖。(中略)後時天皇臨崩日之、召田村皇子遺詔。(後略)」、初出を「小治田宮御宇太帝天皇」とし、次が「太皇天皇」で、最後には「天皇」だけになっています。「太帝」が「太皇」と変わっているのは同語反復を避けるためでしょうか。

 また法隆寺金堂で薬師像の西隣にある釈迦三尊像の光背銘にも、廐戸が初出で「上宮法皇」と表記されたのち(「尺寸王身」の「王」を除き)2度目には「法皇」と省略された形になっており、膳(かしはで)氏出身の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)と思われる女性についても初出が「干食王后」で2度目は「王后」だけになっています。最終的な称号で代表させて記述するというのなら、『大安寺−』やこの釈迦三尊像銘のような表記が一般的なのではないでしょうか。

 

 薬師像銘のように初出が「大王天皇」で後出が「小治田大宮治天下大王天皇」というのは、これとはいっしょに見なせません。時間的な流れにそって肩書も変化したとの意識があるのでは? 用明が「池邊大宮治天下天皇」だったときに推古は「小治田大宮治天下」ではなかったけれどすでに「大王天皇」ではあった、そして廐戸は「太子」だった。用明没後の丁卯年には推古は「小治田大宮治天下大王天皇」となっており廐戸は「東宮聖王」だった……そういった意識のもとに書かれた銘文だと思うのです。

 あるいは「大王天皇」と「小治田大宮治天下大王天皇」とを別人と見るという手もあるかもしれません。大山誠一さんは『〈聖徳太子〉の誕生』の中で薬師像銘について「病気の用明天皇が、大后(正妻のこと)の穴穂部間人王ではなく、妹の推古を召したのも不自然ではなかろうか」としておられますが、先の「大王天皇」がじつは用明皇后の穴穂部間人だったとしたら……。そういったウルトラCをどなたか提示されないでしょうか。

 

 「大王天皇」「太帝天皇」といった称号はもちろん『日本書紀』には見えていません。しかし用明在位のうちに推古が「大王天皇」、「○○○○ノスメラミコト」といった地位にあったと考えるとしっくりと来るような記述はあるのです。

 敏達崩御から崇峻即位にいたるあたりの『日本書紀』の記述をざっと見てみます。

 

 敏達崩御後、穴穂部皇子(あなほべのみこ。用明皇后の穴穂部間人皇女の同母弟で廐戸の叔父)が「炊屋姫皇后」(かしきやひめのきさき。推古)を「姧」するため殯宮(もがりのみや。「殯」は一種の葬送儀礼のようです)に乱入しようとした。このときは敏達の寵臣である三輪君逆(みわのきみさかふ)に妨害されるのですが、天下を狙う穴穂部は逆の無礼を馬子・守屋に訴え、逆の討伐を口実に守屋とともに磐余池辺(いはれのいけのへ。用明の宮の所在地)を包囲した。このさいは馬子の諫止を受けて穴穂部は実力行使を思いとどまったように見えますが、逆は守屋に討たれてしまいます。以来「炊屋姫皇后」と馬子は穴穂部を恨むようになった。

 翌用明2年4月、用明は「新嘗」(にひなへ。即位儀礼の一種かと思われ、本来11月に行われるべきもののようです)を行った当日に発病して宮に帰り、仏教に帰依することの可否を群臣に諮ったところ、守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は反対し馬子は賛成した。そこに「皇弟皇子」(すめいろどのみこ。穴穂部皇子)が「豊国法師」(とよくにのほふし)なる人を連れてきて守屋が激怒したなどといったエピソードがあり、また勝海は太子彦人皇子(ひつぎのみこひこひとのみこ。敏達と広姫の間の長男である押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子(たけだのみこ。敏達と推古の間の長男)の像をつくって呪ったが、事の成りがたきを悟って彦人皇子に寝返り、退出するところを舎人(とねり)の迹見赤檮(とみのいちひ)なる人に待ち伏せされ討たれてしまった――といった話も見えます。

 用明崩御後、守屋は兵士らに示威行動をさせたり、狩猟を口実に穴穂部を天皇にしようと図ったりしたかのように描かれますが、その陰謀が漏れ、機先を制して馬子らは6月に「炊屋姫尊」推古を奉じて穴穂部と宅部皇子(やかべのみこ。宣化の子とあるが系譜不明。穴穂部と親しかったと見える)を誅殺せよとの詔を出し、結局穴穂部・宅部は討たれます。7月には馬子と泊瀬部皇子(はつせべのみこ。崇峻)・竹田皇子・廐戸皇子らの皇子たち、それに諸豪族の連合軍が物部守屋を相手に戦い、最終的に守屋が討たれて物部本宗家は滅亡します。14歳くらいの廐戸がみずからつくった四天王像を頭につけて「勝ったら護世四王のおんために寺を造ります」と戦勝祈願したなどといった話も、この戦いのさいの話として見えています。

 戦後の8月、「炊屋姫尊」推古と群臣とが崇峻に勧めて即位させた――と見えます。

 

 ……ざっとこんなところですが、注目すべきは崇峻紀に「炊屋姫尊」の表記で見える2例の記事かと思われます。1例目は「六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真嚙曰、汝等厳兵速往、誅殺穴穂部皇子与宅部皇子(後略)」、馬子らが推古を奉じて穴穂部・宅部両皇子誅殺を「詔」しています。

 ここは素直に読めば「蘇我馬子宿禰等……詔……」と、馬子らが「詔」を出したように読めるところで、本来天皇のお言葉・命令である「詔」を臣下が出したとなればたいへんですが、それも「炊屋姫尊」推古を奉じたことで、その権威を背景として可能になったということでしょう。しかしこの「炊屋姫尊」がすでに「大王天皇」といった存在であったとすれば、「詔」というのも無理なく解釈できるように思うのです。

 2例目は「八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊与群臣、勧進天皇、即天皇之位(後略)」、「炊屋姫尊」推古と群臣とが「天皇」崇峻に勧めて即位させたとする記事です。「群臣」とともに「炊屋姫尊」が特記されています。ここを「大王天皇」と置き換えると……「大王天皇」と群臣とが勧めて「天皇」を即位させたなどといった妙なことになりますが、それは「天皇」は1人でなければならないという先入観から来ることでしょう。ここでも推古の権威の強さのようなものが際立っています。

 

 薬師像銘が推古を「大王天皇」と記す用明の時代については、『日本書紀』では「炊屋姫皇后」推古を穴穂部皇子が「姧」しようとしたなどという不道徳な印象のエピソードに登場しますが、じつはこのあたりの時代、こういった記述はほかにもあるのです。

 欽明紀2年3月の、欽明が5人の妃(みめ)をいれたとする記事に、筆頭に挙げられている堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目の娘)所生の長女(用明のすぐ下の妹)として磐隈皇女(いはくまのひめみこ。分注に夢皇女ともいったとあります)という人が見えますが、彼女は「初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」――はじめ伊勢斎宮の前身のような地位にあったが、のち「皇子茨城」、茨城皇子(うまらきのみこ)なる人に「姧」されたため役を解かれたとあります。その茨城皇子とはどういう人かというと、その数行あとに見えています。欽明の妃の2番目に堅塩媛の同母妹の小姉君(をあねのきみ)が挙がっていますが、彼女の長男が茨城皇子です。

 磐隈皇女が堅塩媛の娘で茨城皇子が小姉君の息子、「炊屋姫皇后」推古が堅塩媛の娘で穴穂部皇子が小姉君の息子といった関係になっています。この逆のパターンというわけではありませんが、堅塩媛の息子の用明と小姉君の娘の穴穂部間人との間に廐戸皇子以下の兄弟が誕生しています。

 また敏達紀7年3月壬申(5日)には菟道皇女(うぢのひめみこ。敏達と広姫との間の娘で押坂彦人大兄皇子の妹、のようです)を「侍伊勢祠」、やはりのちの斎宮のような地位につけたと見えますが、「即姧池辺皇子。事顕而解」――池辺皇子(いけへのみこ)に「姧」され、露見してやはり役を解かれたとあります。なお池辺皇子について古典文学大系は「他に見えず」とし、『元興寺縁起』は即位前の用明を「池辺皇子」としていますが、『日本書紀』ではこれを除けば「大兄皇子」「橘豊日皇子」としか見えず、また用明が池辺に宮を構えたのが即位後だとすれば、即位前の敏達を「他田皇子」と書く『元興寺縁起』の性格から見ても疑わしさは残ります(敏達も即位後の敏達4年になって「他田宮」に移っているのです)。

 ともかく、こんな例が欽明−用明の時代に3件も記され、しかも男性のほうはとくに処罰されたとも見えず、女性のほうもせいぜいのちの斎宮の前身的な役を解かれただけで、それ以上の処分があったようにも見えませんから、儒教的な道徳意識が普及する以前はそんなに不道徳な行為とは見なされなかったのではないでしょうか。うがった見方をすれば、磐隈皇女と茨城皇子の例、菟道皇女と池辺皇子の例は、斎宮的な役を解かれたという事実があったから記載されただけで、そういった事態を伴わないため記録されなかった例はじつは多かったのではないか、などとも疑います。

 だいたい穴穂部の行為が不道徳であったなら、それこそ馬子が推古を奉じてたちどころに穴穂部誅殺の詔を出してもいいのでは? そんな点からも穴穂部の行為は当時そんなに不道徳なこととは意識されなかったのではないかと考えています。

 『日本書紀』の書かれた8世紀初頭にはある程度儒教的、と言っていいのかわかりませんが、外来の倫理観が浸透していたでしょうし、とくに文筆を業とするような人々の用いたテキストには儒教関係の書物も多かったでしょうから、こういった行為を不道徳なものとする意識のもとに書かれている可能性が高いように思えます。また用明紀から崇峻紀にいたるこの一連の話自体、物語的な潤色が加えられている可能性もあるのではないでしょうか。そういったフィルターを取り払って淡々と事実を追っていく必要があると思います。事実かどうかもわかりませんが。

 さらに――もしも穴穂部の殯宮への乱入が成功し、またもしも推古が配偶関係を認めてしまったとすれば、穴穂部は敏達の権威を受け継ぐことができたのではないか。少なくとも穴穂部にはそんな考えがあったのではないか――。そんなふうに考えてしまいます。少し視点を変えれば意外と大きな推古像が浮かんでくる。薬師像銘が「大王天皇」と記すような推古の地位は、穴穂部に関するこんな記述からもうかがえるように思うのです。