(大王天皇)

 

 3 求められた血統

 

 おそらく推古の子孫はだれも即位していません。

 

五年春三月己卯朔戊子、有司請立皇后。詔立豊御食炊屋姫尊為皇后。是生二男五女。其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子。其三曰小墾田皇女。是嫁於彦人大兄皇子。其四曰鸕鷀守皇女。〈更名、軽守皇女。〉其五曰尾張皇子。其六曰田眼皇女。是嫁於息長足日広額天皇。其七曰桜井弓張皇女。

(古典文学大系『日本書紀』より、敏達53月戊子=10日。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略。なお鷀は偏が「滋」の旁、旁が「鳥」の〔茲鳥〕)

 

 『日本書紀』敏達紀は推古に25女があったことを伝えます(『古事記』では子が8人)。しかし長男の竹田皇子は崇峻紀の丁未の乱、対物部戦争の記述に見えるのを最後に『日本書紀』から姿を消し、推古紀の末尾の推古の遺言の中に「竹田皇子の陵に葬ってほしい」と見えています。これはその時期の不作・飢饉を受け「陵を造り厚く葬ることはやめよ」とする言葉につづけて見えるものですが、ともかく竹田皇子は推古崩御以前に他界していた。それからその竹田の姉である長女の菟道貝鮹皇女(うぢのかひだこのひめみこ)も「東宮聖徳」廐戸との間に子ができなかった。残る男子である尾張皇子(をはりのみこ)は『上宮聖徳法王帝説』の引く天寿国繍帳銘に「尾治王」「尾治大王」と見える程度で即位が問題とされたようには見えませんし、他の女子については『日本書紀』敏達紀によれば小墾田皇女(をはりだのひめみこ)が彦人大兄皇子に、田眼皇女(ためのひめみこ)が「息長足日広額天皇」舒明に嫁いだと見えますが、いずれも子が即位したとは見えないばかりか、子があったかどうかもわかりません。少なくとも田眼皇女については舒明紀の舒明の后妃・所生子の記載の中に見えませんから、子はできなかった可能性が高いでしょう。推古のほかの娘、鸕鷀守皇女(うもりのひめみこ)と桜井弓張皇女(さくらゐのゆみはりのひめみこ)の嫁ぎ先は示されません。

 また『日本書紀』は基本的に即位しなかった人の系譜は記しませんから、押坂彦人大兄皇子の妻子についても舒明紀に見える糠手姫皇女とその子の舒明しかわかりませんし、「東宮聖徳」廐戸皇子の妻子についてもわかりません。持統の子の草壁皇子の系譜も記されないため、文武天皇が草壁皇子の子であるということも『日本書紀』からだけではわからなかったはずだと思いますし、持統紀の末尾にはじめて登場する「皇太子」がだれなのかもわからなかったはず(文武天皇。この1カ所に登場するだけ)。

 『日本書紀』舒明紀・皇極紀には「山背大兄王」ほか「上宮大娘姫王」(かみつみやのいらつめのみこ)・「泊瀬王」(はつせのみこ。「泊瀬仲王」とも)など、廐戸の子女と思われる存在が登場しますが、彼らと廐戸との関係は『日本書紀』からは読み取れず、『上宮聖徳法王帝説』などの太子伝と称されるような資料や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文などの資料からしかわからないようですし、彼らの生母と思われる「刀自古郎女」(とじこのいらつめ)・「菩岐岐美郎女」(ほききみのいらつめ)といった名もこういった資料のみに見えているもののようです。例として、体裁や字体等は正確に表現できませんが『上宮聖徳法王帝説』冒頭の系譜を掲げます。

 

伊波礼池邊雙欟宮治天下橘豊日天皇、娶庶妹□□□□(穴穂部間)

人王為大后生兒、廐戸豊聡耳聖徳法王、

次久米王 次殖栗王 次茨田王

「又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子、名伊志支那郎女生兒多米王、「又天皇、娶葛城当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女生兒乎麻呂古王、次須加弖古女王、〈此王拝祭伊勢神前至于三天皇也〉合聖王兄□□(「弟七」カ)王子也、聖徳法王、娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐ゝ美郎生兒舂米女王、次長谷王 次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王〈已上八人〉

「又聖王、娶蘇我馬古叔尼大臣女子、名刀自古郎女生兒山代大兄王、〈此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也、〉次財王 次日置王 次片岡女王〈已上四人〉

又聖王、娶尾治王女子、位奈部橘王生兒白髪部王、次手□□□(嶋女王)合聖王兒十四王子也、山代大兄王、娶庶妹舂米王生兒難波麻呂古王 次麻呂古王、次弓削王、次佐ゝ女王、次三嶋女王 次甲可王 次尾治王

「聖王庶兄多米王、其父池邊天皇崩後、娶聖王母穴太部間人王生兒佐冨女王也(後略)

(日本思想大系『聖徳太子集』所収の「上宮聖徳法王帝説」、勉誠社刊『上宮聖徳法王帝説』1981 所収の智恩院蔵原本の写真版等によりましたが、もとより不正確なもので、あくまで参考として掲げました)

 

 もう一方の敏達−押坂彦人大兄−舒明という系譜は『日本書紀』では敏達紀、そして舒明紀の冒頭の記述からかろうじてうかがえますが、興味深いことに押坂彦人大兄の系譜は『古事記』の敏達段に残されています。

 

御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下十四歳也。此天皇、娶庶妹豊御食炊屋比売命、生御子、静貝王、亦名貝鮹王。次、竹田王、亦名小貝王。次、小治田王。次、葛城王。次、宇毛理王。次、小張王。次、多米王。次、桜井玄王。〈八柱。〉又、娶伊勢大鹿首之女、小熊子郎女、生御子、布斗比売命。次、宝王、亦名糠代比売王。〈二柱。〉又、娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次、坂騰王。次、宇遅王。〈三柱。〉又、娶春日中若子之女、老女子郎女、生御子、難波王。次、桑田王。次、春日王。次、大俣王。〈四柱。〉此天皇之御子等、并十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。次、中津王。次、多良王。〈三柱。〉又、娶漢王之妹、大俣王、生御子、知奴王。次、妹桑田王。〈二柱。〉又、娶庶妹玄王、生御子、山代王。次、笠縫王。〈二柱。〉并七王。〈甲辰年四月六日崩。〉御陵在川内科長。

(日本思想大系『古事記』より、敏達段全文。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)

 

 この『古事記』の系譜によって舒明の下に弟か妹が2人あったことがわかります。かつて押坂彦人大兄に関し、用明紀に見えたのを最後に見えなくなることから、その直後、あるいは丁未の乱のころに死去したか殺害されたのではないかといったご見解も出されたみたいですが、『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく。応永33年≒1426に成立した皇室系図)等に見える舒明の享年49歳なども考え合わせると、押坂彦人大兄は少なくとも推古の時代のある時期までは生存していたことになるようです。

 それから『日本書紀』敏達紀では推古の娘で押坂彦人大兄に嫁いだのは小墾田皇女と見えていましたが、『古事記』では「日子人太子」彦人大兄に嫁いだのは「庶妹玄王」と見えています。その前の「豊御食炊屋比売命」推古所生の子の中に「桜井玄王」と見える末っ子がこの「庶妹玄王」でしょうから、『日本書紀』敏達紀では嫁ぎ先の示されない桜井弓張皇女が『古事記』によれば押坂彦人大兄に嫁いでいたことになります。逆に『古事記』の系譜では小墾田皇女が押坂彦人大兄に嫁いだ事実が見えない。もっとも嫁いではいても子が誕生しなかったため系譜には記載されなかったという可能性もあるのかもしれませんが、『聖徳太子平氏伝雑勘文』の引く『上宮記』逸文には、廐戸の同母弟の「久米王」が「他田宮治天下大王女子名由波利王」を「娶」り、その「生児」が「男王」「星河女王」「佐富王」の3人だとする記述があるようです。この「由波利王」を「桜井玄王」、桜井弓張皇女と見れば、彼女は廐戸の同母弟の来目皇子(くめのみこ。推古11年2月「撃新羅将軍」として下向していた筑紫で死去)に嫁いで子をなしていたことになり、「庶妹玄王」は押坂彦人大兄に嫁いだとする『古事記』と矛盾してしまう。『古事記』はヲハリダ王とユハリ王とを混乱していたのではないかと疑うのですが……。

 

 

 推古は敏達皇后とされながら推古の子孫はだれも即位できず、皇位継承は推古の前の敏達皇后だった広姫の子の押坂彦人大兄の系統か、『日本書紀』が「皇太子」とする廐戸の系統に絞られたわけですが、推古の治世が長引くあいだに廐戸そしておそらく押坂彦人大兄も先んじて他界してしまい、欽明の孫の世代で皇位を継げる存在はいなくなって、次の世代の「田村皇子」舒明と山背大兄との間で皇位が争われることになります。『日本書紀』は即位しなかった人の系譜を記しませんから、押坂彦人大兄も廐戸も『日本書紀』からではその系譜がわからない。それがいっぽうでは『古事記』に、いっぽうでは『上宮聖徳法王帝説』などに伝えられたわけです。不思議な残り方をしたもののように思えますが、不思議といえば『日本書紀』自身もこれに関係して例外的な記述をしています。

 

 先に引いた敏達紀の推古所生の子女の記述が例外的なものです。

 他の天皇の紀で、各配偶者所生の娘の嫁ぎ先などを列挙した例などあまりないのではないでしょうか。たとえば天智紀の7年2月には皇后・嬪を立てた記事があり、そこに遠智娘(をちのいらつめ。蘇我倉山田石川麻呂の娘)の娘に大田皇女(おほたのひめみこ。大津皇子の生母)・鸕野皇女(うののひめみこ。持統)の姉妹のあったことが見えますが、彼女らがいずれも天武に嫁いだことはここではいっさい触れられず、持統が天皇となってはじめ飛鳥浄御原宮に、のち藤原宮に宮を置いたことのみ見えています。その少しあとには姪娘(めひのいらつめ。やはり蘇我倉山田石川麻呂の娘で遠智娘の妹)の娘に御名部皇女(みなべのひめみこ)・阿陪皇女(あへのひめみこ。元明)の姉妹のあったことが見えますが、元明が草壁皇子に嫁いだことも示されず、彼女が天皇となってはじめ藤原宮に、のち「乃楽」(なら。平城京)に宮を置いたとのみ記されます。

 敏達紀の中でも娘たちの嫁ぎ先が示されるのは推古所生の娘に限られていて、他の配偶者所生の娘たちの嫁ぎ先には触れられていません。采女(うねめ。そういう女官的存在)出身の菟名子夫人(うなこのおほとじ)所生の娘として太姫皇女(ふとひめのみこ。「桜井皇女」とも)・糠手姫皇女(あらてひめのみこ。「田村皇女」とも。舒明の生母)の姉妹が挙がっていますが、糠手姫皇女が異母兄弟の押坂彦人大兄に嫁いだことも敏達紀では示されず、舒明紀の冒頭で舒明の生母であることが示されます。逆に推古の娘の田眼皇女は舒明との間に子がなかったのか、舒明紀には記されません。敏達紀の推古の娘の記事がその嫁ぎ先を記してくれているので、この婚姻関係がわかります。これは菟道貝鮹皇女についても言えるようで、『上宮聖徳法王帝説』の廐戸の系譜には彼女の名は見えません。

 

 ですから、敏達紀で推古の娘たちの嫁ぎ先を列挙しているのはよほど例外的なことと感じられますし、また逆に推古が特異な位置を占めていたことを示しているようにも思われるのです。

 その特異な位置とは具体的にどういうことか――。敏達から押坂彦人大兄−舒明とつづく息長系王統などとも呼ばれる王統と、廐戸−山背大兄とつづく「上宮王家」との中間、結節点的な位置にあったのではないでしょうか。血統の上から見て、推古自身というよりも推古所生の子女たちがそういう位置にあったのではないかと思うのです。

 

 息長系王統というのは押坂彦人大兄−舒明から天智、天武へとつづく王統を指すのでしょうが、当然のことながら敏達の子孫です。敏達は欽明と宣化の娘の石姫との間の子ですから、父方からも継体皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を通じて仁賢、さらに雄略の血を引いていますし、また母方からも宣化皇后の橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ。「橘皇女」とも。ただしこれは『日本書紀』のみの所伝。『古事記』では宣化段に「意祁天皇之御子、橘之中比売命」と見えるのみで、仁賢段にその名が見えない)を通じ仁賢、雄略の血を引いていることになります。でも宣化の母は尾張連氏出身の目子媛(めのこひめ)ですから、敏達の子孫ということは尾張連氏の血も引いていることになる。継体が近江の有力者だったらしい彦主人王(ひこうしのおほきみ)と、「三国」、越前出身の振媛(ふるひめ)との間の子ですから、敏達は血統の上では父方・母方双方から雄略・仁賢の血も受け継いでいるし、応神・垂仁からという系譜とともに近江・越そして尾張の血も受け継いでいるということになるでしょう。ただ、蘇我氏の血だけは引いていません。

 

 いっぽう蘇我氏の血を受け継ぐことへの執着といったものも認められるところです。物部氏は尾輿−守屋と2代にわたり蘇我氏の稲目−馬子と対立したにもかかわらず、守屋が擁立したのは蘇我稲目の娘である小姉君所生の穴穂部皇子でした。用明や推古は同じく稲目の娘の堅塩媛の子で、『日本書紀』欽明紀では小姉君は堅塩媛の「同母弟」(いろど)とされ、2人は同腹の姉妹となりますから、物部守屋にとって堅塩媛系はだめで小姉君系のほうに固執したという理由はよくわからないのですが、ともかく蘇我氏は天皇(大王?)家の外戚たるべき氏族として前代の葛城氏、後世の藤原氏のようなポジションで受け止められていたように思われます。

 

 もしも推古の子が即位していたとしたら……。推古の子は全部敏達の子ですから、父方・母方双方から雄略・仁賢の血を受け継いでもいるし、継体を通じては近江・越の血統を、宣化を通じては尾張の血統を受け継ぐことになります。さらに推古を通じて蘇我氏の血も引くことになる。

 当時天皇に望まれていたのは、こういった血統ではなかったでしょうか。

 いっぽうでは、断絶した前王統の復活・再生といった意味が重視されていた。

 また近江・越・尾張あたりの勢力にしてみれば、継体−宣化とつづく血統の受け継がれることが期待されたはず。

 さらに前王統の時代には葛城氏とかワニ氏などが外戚的な地位にあって后妃を出していたでしょうから、蘇我氏にもその後継的な役割が期待されていた――。門脇禎二さんは蘇我氏の祖先を百済官人の木満致と見ていらしたようで、現在ではそういう見方をされる人はおられないようですが、蘇我氏ももともとは葛城氏の分家筋の出などといったことがあったのではないでしょうか。そもそも「葛城臣」「蘇我臣」といった氏姓も雄略のころには存在していなかった可能性が高いでしょうし、武内宿禰からの分かれというのも後世に作られた話と思われます。ワニ氏は――むしろ継体擁立に主体的に動いた側だったのでしょう。

 

 上に述べたような血統上の「要件」については私の憶測にすぎませんが、それをうかがわせる傍証のようなものはあるのです。

 ひとつは先に引いた用明紀2年4月の、中臣勝海が太子彦人皇子と竹田皇子の像をつくって呪ったとする記事。これが事実かどうかははなはだ心もとないのですが、ともかく彦人も竹田も敏達の子です。廐戸は問題とされていない。穴穂部−守屋派が敵と見なしていたのは敏達の系統だったらしい、そういった意識のあったことをうかがわせる記述です。

 2つめは――歴代天皇の和風諡号(わふうしごう)です。

 『日本書紀』と『古事記』とで微妙に表記等が異なりますが、例として欽明がアメクニオシハラキヒロニハ(紀「天国排開広庭天皇」、記「天国押波流岐広庭天皇」)、敏達がヌナクラフトタマシキ(紀「渟中倉太珠敷天皇」、記「沼名倉太玉敷命」)、推古がトヨミケカシキヤヒメ(紀「豊御食炊屋姫天皇」、記「豊御食炊屋比売命」)……といったもの。

 舒明はオキナガタラシヒヒロヌカ(「息長足日広額天皇」)、皇極がアメトヨタカライカシヒタラシヒメ(「天豊財重日足姫天皇」)、孝徳がアメヨロヅトヨヒ(「天万豊日天皇」)、天智はアメミコトヒラカスワケ(「天命開別天皇」)、天武はアマノヌナハラオキノマヒト(「天渟中原瀛真人天皇」)。持統には問題があるのですが、『日本書紀』の題として見えるものはタカマノハラノヒロノヒメ(「高天原広野姫天皇」)。頭に「天−」を冠する一群のグループがあって、持統の「高天原−」もそれに含められるように思うのですが、欽明がぽつんと孤立して存在したあと、次はなぜか皇極から始まっています。夫の舒明は「息長足日広額天皇」、「天−」で始まってはいません。夫婦で「タラシ-ヒ」を共有する関係なのに。

 この理由を考えるに、舒明は蘇我氏の血を引いていません。皇極・孝徳の姉弟については、皇極紀の冒頭にその生母が「吉備姫王」(きびつひめのおほきみ)だと見えています。のちに「吉備嶋皇祖母命」(きびのしまのすめみおやのみこと)などという名も見える人ですが、『日本書紀』からは系譜が不明で、後世の資料ながら『本朝皇胤紹運録』の皇極天皇の記述によれば「欽明孫桜井皇子女也」、欽明−桜井皇子−吉備姫王という系譜となるもののようです。桜井皇子は欽明紀に堅塩媛所生の子として見える人で、用明や推古の弟にあたります。『本朝皇胤紹運録』がどこまで信頼できるかは疑問ですが、吉備姫王が桜井皇子の子だとすると皇極・孝徳姉弟は蘇我稲目−堅塩媛−桜井皇子−吉備姫王−皇極・孝徳という形で蘇我氏の血を受け継いでいることになります。皇極・孝徳姉弟は父方では敏達−押坂彦人大兄−茅渟王−皇極・孝徳で敏達3世孫、母方でも欽明−桜井皇子−吉備姫王−皇極・孝徳で欽明3世孫。即位した人からは縁遠い存在ですが、雄略・仁賢の血統、近江・越・尾張の血統そして蘇我氏の血統という要件は満たした存在ではある……。そういった意味で皇極・孝徳の和風諡号から「天−」が冠せられるようになったのではないか――などと考えています。

 

 推古所生の子女もそういった要件をみんな満たしていたと思われます。しかし推古の子女は結果的にだれも即位しなかった。長男の竹田皇子は早世したようですし、二男の尾張皇子は問題にもされなかったように見えます。もっとも『上宮聖徳法王帝説』によれば尾張皇子の娘の位奈部橘王(天寿国繍帳銘に多至波奈大女郎)は廐戸に嫁いで白髪部王・手嶋女王の2子をもうけたようですが、皇位継承では問題とされた形跡がありません。

 けれども『日本書紀』敏達53月戊子の推古所生の子女の記述等によれば、推古の娘たちはそれぞれ上宮王家・息長系王統と婚姻関係を結んでいたようで、『日本書紀』も例外的にその事実を特記しています。その理由はやはり、先ほど述べました「雄略…仁賢…という前王統の血統」「近江・越・尾張の血統」「外戚氏族としての蘇我氏の血統」といった血統上の要件あたりに求められると考えます。

 そして推古の「大王天皇」の称号についても、そのあたりに求めたく思うのです。

 

 結局のところ、「大王天皇」「太帝天皇」といった称号の読みにあたる「○○○○ノスメラミコト」の「○○○○」に相当するものは、わかりません。また薬師像銘の「大王天皇」の意味を上記のごとく血統上の要件といったものに求めると、用明の在世中には推古の長男の竹田皇子もまだ生存していたはずですから、少々矛盾を感じます。しかし竹田が他界したことをもって推古の称号が「○○○○」から「大王天皇」に変化したなどというのはもっと違和感を覚えます。けれどもやはり……「大王天皇」の意味を探ることは、女性天皇を考えるうえでも意味のあることではないかと思っています。

 「大王天皇」の読みは結局わかりませんし、また薬師像銘の訴えるところをそのまま認めるつもりもありません。像自体を天武・持統朝まで下げるつもりはありませんが、少なくとも西隣の釈迦三尊像よりは新しいのでしょう。福山敏男さんのご指摘のように、像自体の完成と銘文の成立とを切り離して考えるべきだと言われれば、それにはまったく賛成です。銘文を除いてしまえば来歴不明の像となります。銘文の文章が野中寺弥勒半跏像銘に似ていると言われれば「ごもっとも」という気がします。薬師像は天武朝以降になって現れるものだと言われれば、やはり「ごもっとも」という気がします。薬師像銘は『日本書紀』用明紀に見える坂田寺の縁起らしきものを換骨奪胎した話だろうと指摘されれば、それもまた「ごもっとも」という気がします。勅願寺の最初は舒明の百済大寺と思われ、法隆寺を用明の勅願寺と見るのは時期的に早すぎるのではないか、と言われれば、そうかもしれません。『日本書紀』によれば用明が「瘡」を発病し崩御したのは用明2年(≒587)、対し薬師像銘のいう用明の発病は「丙午年」(≒586)で1年の違いがあります。もっとも丙午年に発病したのは別の病気で、翌年「瘡」、おそらく天然痘で崩御したといった考え方もあるのかもしれませんが……。ですから、いってみればこれは “ニセ銘文” です。法隆寺には悪いですが。

 そういったことはあっても、用明の治世に推古がすでに「大王天皇」として存在し、用明崩御後のある時点で「小治田大宮治天下」の「大王天皇」となったなどという記紀とは対立する独特の歴史観は、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「太帝天皇」「太皇天皇」などとあわせて考えるとき、「○○○○ノスメラミコト」に関する伝承が口伝などの形で伝えられてきた――などといった状況をうかがわせるもののように思うのです。

 いや……そういえば『古事記』は推古を「天皇」としてはいません。

 推古段に「天皇」の語は見えなかったはず(「妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下卅七歳。〈戊子年三月十五日癸丑日崩。〉御陵在大野崗上、後遷科長大陵也」)。欽明段には「豊御気炊屋比売命」、敏達段に「豊御食炊屋比売命」と見えるだけ。偽作が疑われている「序」でも「小治田御世」「小治田大宮」であり、しいて言えば後世の追記が疑われる下巻の題名下の分注「起大雀皇帝尽豊御食炊屋比売命凡十九天皇」の「十九」が推古も、そしておそらく「飯豊王」も計算に入れての数字、といったあたりではないでしょうか……。もっとも推古を「大王天皇」としているわけでもありませんが。