(大王天皇)

 

 2 オホキサキノスメラミコト

 

 もしもこの “ニセモノ” の薬師像銘から、用明の時代における用明と推古の2人の「天皇」の存在(「天皇」と「大王天皇」ですが)が認められるとしたら……認められるとしても、それで「大王天皇」の読みとか語義がわかるわけではありません。そもそも2人の「天皇」が共存した時代などというものがほかにあったのかどうか。平安時代末期の安徳天皇・後鳥羽天皇の例や南北朝期の例は対立関係ですから、平和的共存ではない。

 でも私は、そういう時代はあったと思うのです。

 

 まず継体没後の『日本書紀』が安閑・宣化の代とする時代。紀年などの問題から安閑・宣化と欽明との二朝対立のような状況も想定されたりした時代ですが、個人的には、母系を通じ前王統の血を引くという意味で血統の上からはまごうかたなき「天皇」、スメラミコトでありながら、執政能力のある年齢に達しないということで即位できない欽明と、年齢的には十分な執政能力がありながら、仮に事実としても応神6世孫ということで血統の上ではあまり問題とされない、執政面のみが期待された「天皇」である安閑・宣化との、2人の「天皇」が共存していた時代ではないかと思っています。

 

 次に……院政期です。

 「安徳天皇と後鳥羽天皇の例は平和的共存でなく対立」……なのですが、この時期は後白河上皇(法皇)が存在し、治天の君として君臨していたそうです。「何を言っているんだ、上皇と天皇とはまるで違うものじゃないか」……。もちろん天皇と上皇とでは全く意味が違います。院政期でも天皇は同時に複数存在せず1人でしたが、上皇は場合によっては何人も存在することもありました。

 「上皇」という語は「太上天皇」の略です。日本思想大系『律令』の儀制令・公式令に見える「太上天皇」の語には「だいじやうてんわう」との読みが示されていますが、『続日本紀』神亀6年=天平元年8月癸亥(5日)の聖武天皇の宣命(せんみょう。「宣命体」などと呼ばれる、読み上げることを目的とした独特の文体で書かれた詔)に「我皇太上天皇大前〈爾〉」「此者太上天皇厚〈支〉〈支〉〈乎〉蒙而」などと見える「太上天皇」には「おほきすめらみこと」との読みが示されています。

 オホキスメラミコト……。「オホ」には「偉大な」といった意味もあるかもしれませんが、「古い世代の」「先代の」といった意味もあったのではないでしょうか。現在でも祖父母の兄弟・姉妹を「おおおじ」「おおおば」などと言います。英語でも祖父は grandfather ですが、『続日本紀』天平勝宝元年4月甲午朔(1日)の聖武天皇の宣命にも藤原不比等を指して「祖父大臣」と呼ぶ箇所があり、この「祖父」の読みが「おほぢ」のようです。文武天皇の和風諡号(わふうしごう。崩御後におくられる日本風の名、「おくりな」のことで、対し「推古天皇」「天智天皇」などは「漢風諡号」=かんぷうしごう=と呼ばれます)は「天之真宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと。または「倭根子豊祖父天皇」=やまとねことよおほぢのすめらみこと)でした。

 この「太上天皇」のオホキスメラミコトにも「先代の天皇」といった意味が含まれているのかもしれません。

 

 日本思想大系『律令』で「太上天皇」の補注を見てみますと、「太上は至貴の尊称」などと見えますが、その直後には(「太上天皇」に相当する記載が)「唐令になし」とあって、「わが「太上天皇」に当るものが唐令に見えないのは注目に値する。彼にあっては退位した皇帝は現皇帝の臣下であって同列ではないが、我にあっては退位した天皇は、現天皇の尊属として天皇に準じて尊ばれた。後世、院政が行なわれた理由も一つはここにある」とあります。

 唐では退位した皇帝に関する規定がなかった。中国では退位した皇帝は「太上皇」「太上皇帝」などと呼ばれたそうですが、多くの場合実権のない存在だったようです。いっぽう日本では天皇は譲位後も上皇としてそれなりに権力を保持し、みずから譲位したはずの「廃帝」淳仁天皇と争って退位させてしまった孝謙上皇のような例もありました。嵯峨天皇あたり以降上皇の活躍は影をひそめていくようですが、後三条天皇あたりから外戚としての藤原氏の勢力が後退し、白河上皇以降本格的な院政の時代を迎える……もののようです。後白河上皇はもともと中継ぎ的な天皇で院政期の上皇としてはあまりいい例ではないようで、勃興してきた武士の勢力に脅かされることも多い存在だったようですが、それでも朝廷の中では “治天の君”、最高権力者だったでしょう。もっとも平氏滅亡というか幕府の実質的成立と目されるらしい元暦2年=文治元年(≒1185)に上皇は59歳、対し孫の安徳天皇は8歳、後鳥羽天皇は6歳だったようですから比べものにはなりませんが、とにかく上皇の権力が天皇を圧倒していたはず。

 

 ならば、薬師像銘に2カ所見える「大王天皇」はじつは「太上天皇」で、用明の治世とされる時期から即位前の推古がすでに太上天皇として存在し、『日本書紀』にいう推古即位のあともやはり太上天皇だったというのか……と言われれば、そうは申しません。そうは申しませんが、そういう性格は多分にあったのではないかという気がします。

 『日本書紀』安閑紀冒頭の、継体が「大兄」安閑を天皇として即日崩御したという話を除けば、乙巳の変後に皇極が孝徳に譲位したのが譲位の初例とされており、これを例外的なものと見るにしても、つぎの譲位は持統から文武への例で、持統が最初の上皇、「太上天皇」となっています。次の上皇も文武の生母の元明です。上皇の歴史は女性天皇から始まっているわけで、逆に言えば女性天皇はのちの上皇につながる性格を帯びていた……だからこそ大宝令や養老令にも「太上天皇」が規定されていたのではないか。この太上天皇の規定は主に女性天皇を意識してのものではなかったか、と疑っています。

 

 ところでその持統天皇にはほかに「太后天皇」とか「大后天皇」「大皇后天皇」などと表記される称号もあったようです。

 『日本書紀』『続日本紀』にはまったく見えませんが、「太后天皇」は奈良時代の漢詩集『懐風藻』の、釈智蔵という僧の漢詩2首の前につけられた智蔵の伝記の中に「太后天皇世、師向本朝」(太后天皇の御世に智蔵は日本に帰った)という形で見えているようです。もっとも喜田貞吉さんは天武2年に智蔵が僧綱となったことが『僧綱補任』に見えることを根拠に、この釈智蔵伝の「太后天皇」については天智皇后の倭姫王(やまとのひめおほきみ)と見ておられたそうです。

 また「大后天皇」は平安時代ごく初期までに薬師寺僧の景戒が著した説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の上巻第25縁「忠臣小欲知足諸天見感得現報示奇事縁第廿五」に「故中納言従三位大神高市万侶卿者、大后天皇時忠臣也」(故中納言従三位大神高市万侶卿は「大后天皇」の時の忠臣である)と見えるもの。「大皇后天皇」もやはり『日本霊異記』の上巻第26縁「持戒比丘修浄行而得現奇験力縁第廿六」に「大皇后天皇之代、有百済禅師、名曰多羅」(「大皇后天皇」の御世に百済禅師があった。名を多羅という)と見えています。2526と隣り合った話で「大后天皇」「大皇后天皇」と表記が異なるのは不審かもしれませんが、あるいは出典が異なることを示しているのかもしれません。『懐風藻』の「太后天皇」も含めてみな「世」「時」「代」と時代を示す表現に見えますが、いずれも「オホキサキノスメラミコト」といった形で発音されていた語について、漢字表記する際に「太后天皇」「大后天皇」「大皇后天皇」などのバリエーションが生まれたのでしょう。奈良時代の女性天皇では、元明は即位しなかった草壁皇子の配偶者、元正は生涯独身でしたし、孝謙も女性天皇としては唯一立太子を経て即位しており、やはり生涯独身だったでしょうから、奈良時代末期とか平安時代ごく初期の意識において、皇后から天皇となった存在は持統が最後。「オホキサキノスメラミコト」が固有名詞的に扱われていることにはリアリティを感じます。

 「天皇」という語の成立に関し、『日本書紀』持統紀5年2月壬寅朔(1日)の持統の詔「卿等、於天皇世、作仏殿経蔵、行月六斎」(卿らは “天皇” の御世に仏殿・経蔵を造り月ごとに六斎を行ってきた)がしばしば引かれ、「ここに天武を指してただ “天皇” とのみ称しているから、“天皇” は元来天武一代かぎりの称号とするつもりだった」といったご見解が述べられているのを拝見しますが、もし持統に自分は「オホキサキノスメラミコト」であるとの意識があったなら、「オホキサキノスメラミコトが単に “スメラミコト” とのみ言ったら、それはすなわち配偶者だった故 “天皇” を指す」といった形で見ることもできるように思うのです。

 

 ところで「オホキサキノスメラミコト」という語――という意味でいえば『日本書紀』にもオホキサキノスメラミコトが見えるようです。持統のことではありません。

 天智紀で近江遷都直前の6年2月戊午(27日)、斉明と間人皇女(はしひとのひめみこ。天智の実の妹で、孝徳皇后だった)を合葬した小市岡上陵(をちのをかのうへのみさざき)の手前に「皇孫」大田皇女(おほたのひめみこ。「皇孫」とあるが天智の娘で天武の配偶者。持統の同母姉。大来皇女・大津皇子の生母)の墓を造り埋葬した記事がありますが、そのさいの「皇太子」天智の言葉「我奉皇太后天皇之所勅、憂恤万民之故、不起石槨之役」(皇太后天皇の勅したところを奉じ、万民を憂えあわれむが故に石槨の役は起こさない)に見える「皇太后天皇」の読みは、古典文学大系によれば「オホキサキノスメラミコト」のようです。もっともこの「皇太后天皇」については「皇太后・天皇」と見られるご見解もあるようですが、「それならば天皇・皇太后の順になるはず」とのご意見もあるようです。

 持統を指す『懐風藻』の「太后天皇」や『日本霊異記』の「大后天皇」「大皇后天皇」については井上光貞さんの「古代の女帝」(1964)に触れられていますが、同論文ではなぜか『日本書紀』天智紀に見える斉明の「皇太后天皇」には触れられていません。もっとも持統の「太后天皇」などの称について「女帝そのもののタイトルと考えられるグループ」といった表現をされていますから、当時女性天皇に通有の「オホキサキ天皇」的な称号が存在したと見ておられたようにも受け取れます。

 しかし、推古の「大王天皇」「太帝天皇」などの称についても触れられてはいません。「古代の女帝」では持統の「太后天皇」に触れたあと、野中寺弥勒半跏像銘に見える「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」、『万葉集』に見える「中皇命」などの話題に移ってしまいます。

 

 斉明と持統とがともに「オホキサキノスメラミコト」といった称号を帯びていたとすれば、その地位に共通する性格が認められていたということでしょう。ただ『懐風藻』や『日本霊異記』の時代には直近のオホキサキノスメラミコトである持統のみがそう認識されて彼女の固有名詞のようにあつかわれ、斉明がオホキサキノスメラミコトだったことは忘れ去られていたのではないでしょうか。

 『日本書紀』は持統の「太后天皇」的な称については口を閉ざしてしまい、斉明のそれについても天智6年2月戊午の天智の言葉に見える「皇太后天皇」以外は見えませんから、男性の天皇も女性の天皇も一様に「天皇」という均質な存在だったかのように描かれてしまう。描いてはいないのかもしれませんが、無意識にそういった先入観を抱いてしまうのではないでしょうか。

 いっぽう同じ女性天皇でも、推古の称号は「オホキサキノスメラミコト」的なものでなく「大王天皇」的なものだったようです。「大王天皇」「太帝天皇」などの読みにあたる「○○○○ノスメラミコト」、「オホ○○ノスメラミコト」といったものではなかったかと……。

 では、斉明と持統に共通して推古には共通しない性格のようなものが見つけられれば、それが「大王天皇」「太帝天皇」などの読みにあたる「○○○○ノスメラミコト」のヒントになるのでしょうか。

 

 斉明も持統も「皇后」だったことは井上さんの「古代の女帝」でも述べられていますが、それは推古も同じで「皇后」でした。皇后……という言い方をしていいのかわかりませんが、『日本書紀』には「皇后」、キサキとあるようです。「古代の女帝」にはまた「大后・大皇后とは、オホキサキであり、オホキサキとは、あまたあるキサキの中の正妻をさすようであって(後略)」との記述も見えます。しかし『日本書紀』では「皇后」は基本的に「キサキ」のようで、皇后以外の配偶者は「ミメ」(「妃」「嬪」などの表記)とされることが多く、また「オホキサキ」については、即位の記事につづけて見えることの多い「尊皇后曰皇太后」という記述の「皇太后」に「オホキサキ」の読みが与えられている……。そんな印象です。もっとも古典文学大系によれば推古19年2月庚午(20日)には「皇太夫人堅塩媛」に「おほきさききたしひめ」の読みが見え、また天智4年2月丁酉(25日)には「間人大后」に「はしひとのおほきさき」の読みが見えています。

 

 では「オホキサキ」とは何だったのか。記紀に「大后」表記で見える存在との関係でよく議論されるところですが、令制の「皇太后」については前「皇后」が自動的に「皇太后」となるのではなく、「皇后」の子が即位し天皇となってはじめて「皇太后」とされたもののようで、令制以前のことである『日本書紀』にも即位の記述のあとに「尊皇后曰皇太后」(キサキを尊びてオホキサキとまうす)の記述がしばしば見えます。しかしそうなると、単なる「オホキサキ」と「オホキサキノスメラミコト」との分かれ目が何だったのかとか、天智が斉明を「皇太后天皇」と呼んだ天智6年2月段階では天智は即位していないから、この称号はおかしいのではないかなどと紛糾しそうですから、大事な問題でしょうがひとまず置きます。

 それから……斉明も持統も子孫が天皇となっています。持統の場合、子の草壁皇子は持統の「称制」期間のうちに没して即位できませんでしたから、令制的な感覚でいえば持統は「皇太后」とは言えないかもしれません。もっとも草壁の没した直後に持統自身が即位していますから、あまり問題とはならない。孫の文武が即位していますから、天皇の祖母という意味で「太皇太后」……いえ、孫の文武に譲位して「太上天皇」でした。持統の子孫は文武−聖武−孝謙と即位しています。

 斉明は先ほども触れましたが天智即位の前に崩御していますから、これも生前には令制的な意味での「皇太后」とはなり得なかった。でも結果的には、子である天智の子孫も天武の子孫も即位し、ことに天智の子孫の系統は現在まで続いています。そもそも崩御の時点まで「天皇」なのだから常識的には斉明の「皇太后」については本来なら意味がないようにも思えます。令制前の「オホキサキ」「オホキサキノスメラミコト」などとなると話は別なのかもしれませんが……。

 こういった言い方をしていくと、「皇太后とオホキサキとはイコールとならない」といったことになり、またまた問題を生じそうです。推古の子孫はおそらくだれも即位しませんでしたが、子の即位を前提とする皇太后とオホキサキとが違うとなると、推古の子が即位していないことをもって「推古はオホキサキではなかった」とは言えなくなります。

 本当にこれは悩ましい問題で、推古の「大王天皇」はじつは「オホキサキノスメラミコト」を聞き間違えた結果ではなかったか――などと考えたくなります。オホキサキ--スメラミコト(大キサキ--スメラミコト)を、だれかオホキ-サキノ-スメラミコト(大き-先の-スメラミコト)などと区切りを間違えて聞き、「大き先のスメラミコト」では意味をなさないからなどと思って「大王天皇」と表記した……とか。

 しかしこれは当時の母音に甲・乙の区別があったことを考慮していませんし、こういう方向に走ってしまうのはどういうものか……。もう少し考えてみます。