(大王天皇)

 

 5 クイーンは女王? 王妃?

 

 むしろ女性天皇の存在こそ、この時期の直系相承の意識をよく表しているものではないでしょうか。

 6・7・8世紀ごろの「直系」と考えられる系譜をたどってみますと――よく「継体王朝」などといった言い方がされますが、ニセモノ扱いされることの多い『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』などでは欽明を系譜の筆頭にして語られることが多い印象です。『元興寺縁起』の引く「塔露盤銘」(「大和国天皇斯帰斯麻宮治天下名阿末久尓意斯波羅岐比里尓波弥己等之奉仕巷宜名伊那米大臣時……」)や「丈六光銘」(「天皇名広庭、在斯帰斯麻宮時……」)などが欽明から始まっているのは仏教伝来から語り始めているからだとしても、天寿国繍帳銘も「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等娶巷竒大臣名伊奈米足尼女名吉多斯比弥乃弥己等為大后……」と冒頭の書き出しから欽明ですし、また『上宮聖徳法王帝説』で巻頭の用明・廐戸の系譜につづく記述にも「祖「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭□皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命……」などと見えるようです。この記述では欽明・敏達・用明・推古・崇峻について「右五天皇無雑他人治天下也」、右の5人の天皇は「他人」をまじえず天下を治めたとされているのですが、記述の中には「天皇」が6人見えており、ならば「檜前天皇」宣化は数に含められていない「他人」なのか……そんな印象のものです。

 

 欽明に始まる ”皇后“ の長男の「直系」は欽明−箭田珠勝大兄で終わってしまい、次の「直系」は敏達−押坂彦人大兄−舒明−天智とつづくことになります。壬申の乱で天武の系統にかわり、天武の直系が天武−草壁−文武−聖武(−孝謙)とつづきます。

 推古・皇極・持統・元明は、その夫がみなこの「直系」筋に位置しています。

 推古は敏達の、皇極は舒明の、持統は天武の夫です。元明の夫の草壁は早世して即位できませんでしたし、元明の即位も子の文武の遺詔によるものと見えているようですが、ともかく元明の夫の草壁は「直系」筋の人ではあります。

 

 最初の女性天皇である推古即位の経緯について、『日本書紀』推古即位前紀冒頭には次のように見えます。

 

豊御食炊屋姫天皇、天国排開広庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗、進止軌制。年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当于泊瀬部天皇五年十一月、天皇為大臣馬子宿禰見殺。嗣位既空。群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以将令践祚。皇后辞譲之。百寮上表勧進。至于三乃従之。因以奉天皇之璽印。○冬十二月壬申朔己卯、皇后即天皇位於豊浦宮。

(推古即位前紀。日本古典文学大系『日本書紀』より。返り点は省略)

 

 18歳で敏達皇后となり34歳のとき敏達崩御、39歳の崇峻511月に崇峻が馬子に暗殺され「嗣位」がいないため、群臣は敏達皇后の額田部皇女に即位を要請、3回目にやっと受けたので璽印をたてまつり、128日に豊浦宮で即位――などと見えます。

 門脇禎二さんは『「大化改新」論』(徳間書店 1969)の中でこの記述について「(前略)当時に「嗣位」の制や考え方が形成されていなかったことは既述のとおりであり、「践祚」や「百寮」や「璽印」の語も新しいし、この記事自体について「勧進に対して三たび辞退するのは中国の慣習で、書紀編者の作文であろう」とされるのに、わたくしもまた賛成であり、右の記事を容易に信じがたい」と評しておられます(なお「勧進に対して……作文であろう」は古典文学大系『日本書紀』の注)。私もまたこのご見解におおかた賛成なのですが……それがどうして推古が前大后のままで廐戸が大王となったという結論になってしまうのか、なんの義理があって『隋書』倭国伝にそこまで信を寄せなければならないのか「太無義理」、はなはだ理解に苦しむところです。

 門脇さんは触れておられないようですが、ここに示された推古の年齢は推古紀末尾の推古の享年、それから他の紀の記述に照らして矛盾しています。

 推古36年(≒628)の崩御のさいに享年75と見えますが、逆算すれば推古18歳は欽明32年(≒571)、欽明崩御の年です。『日本書紀』で敏達が即位するのはその翌年の敏達元年(≒572)。敏達紀にはその年百済大井に宮を造ったなどとありますが、敏達4年(≒575)正月になってやっと皇后広姫以下后妃を立てたことが見え、またこの年訳語田(をさた)に幸玉宮(さきたまのみや)を造営したなどとあって、同年11月に皇后広姫が他界してしまい、翌敏達5年(≒576)3月、皇后を立てたほうがよいとの「有司」の勧めに従い推古が皇后となったと見えているのです。このとき推古は23歳となる計算。

 また推古34歳は用明2年丁未(≒587)、用明が崩御し丁未の乱が起こった年です。敏達崩御はその2年前の乙巳年(≒585)で、推古は32歳のはず。古典文学大系『日本書紀』の注にも「下文により崩年を七十五歳とすれば、十八歳は欽明三十二年。このとき敏達の妃となり、皇后広姫の死後、敏達五年二十三歳のとき皇后となり、三十二歳のとき敏達と死別し、さらに三十四歳のとき用明が没し、三十九歳のとき即位したことになる。三十四歳を三十二歳の誤りとみれば他は矛盾なく解しうる」……。なんの義理があって『日本書紀』にそこまで……は置いておきますが、ともかく「18歳で立后」「34歳で敏達崩御」はウソ、「39歳のとき崇峻が暗殺された」は崇峻紀の記述と合致します。『日本霊異記』上巻第5縁では「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」、即位を翌年正月としているようですが、そうなれば40歳です。仁藤さんが『女帝の世紀』の中で述べておられる即位40歳説はここで利いてきます。

 私は用明・崇峻の治世とされる間もすでに推古が「大王天皇」的な地位にあったと思っていますが、やはり崇峻が「天皇」とされるいっぽうで廐戸が「皇太子」とされている、その崇峻−推古と推古−廐戸という微妙な立場の逆転――薬師像銘にいう「大王天皇」から「小治田大宮治天下大王天皇」にかわった時点、ということになると思いますが――については、推古が40歳に達したことあたりに求められるような気がします。逆にいえば、推古40歳を見込んで崇峻が暗殺されたかのようにも見えます。

 

 推古紀冒頭、推古即位前紀の記述が疑わしいとすれば、『日本書紀』はなぜそんな疑わしい記述を残したのかという疑問が頭をもたげます。と同時に、じっさいの推古の「即位」とはどんなものだったのかという疑問もわいてきます。もっとも敏達崩御後の用明の代から推古が「大王天皇」だったとする私の立場からすれば、推古の「即位」というのも、敏達崩御後の時点と、崇峻暗殺後の推古即位前紀にいう推古即位の時点との両方を考えなければいけないのですが、そんな能力もありませんし、またそれを解き明かすだけの証拠も残ってはいないでしょう。

 

 ところで、推古即位前紀が疑わしいながらもかなり濃厚な印象を残すのに対し、次の女性天皇である皇極の即位については、ごくごくあっさりと淡泊に記されます。

 

天豊財重日〈重日、此云伊柯之比。〉足姫天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彦人大兄皇子孫、茅渟王女也。母曰吉備姫王。天皇順考古道、而為政也。息長足日広額天皇二年、立為皇后。○十三年十月、息長足日広額天皇崩。

元年春正月丁巳朔辛未、皇后即天皇位。以蘇我臣蝦夷為大臣如故。大臣児入鹿〈更名鞍作。〉自執国政、威勝於父。盗賊恐懾、路不拾遺。

(皇極即位前紀・皇極元年正月辛未。日本古典文学大系『日本書紀』より。返り点は省略)

 

 史上2番目の女性天皇の即位については、舒明13年に舒明が崩御したと記したのちなんの断りもなく「皇后即天皇位」、ただ皇后が即位したとのみ見えます。この時期まだ山背大兄王も存命ですが問題とされた形跡もなく、この山背大兄王の影の薄さも「大兄」を皇位継承に関係づけて見ることを私に躊躇させる理由のひとつになっています。

 このあと山背大兄王の上宮王家が滅亡し、つづく乙巳の変で蘇我本宗家も滅亡。孝徳が即位して皇極には「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)の称がたてまつられたようですが、直後に古人大兄も討たれています。さらに白雉4年には天智が「皇祖母尊」「間人皇后」を奉じ「皇弟」(大海人皇子、天武)らを率いて難波から「倭京」、飛鳥へ帰ってしまい、まもなく孝徳も崩御。そこで天智が即位するのかと思ったら……乙巳の変でみずから退位したはずの「皇祖母尊」がまた即位しています。

 

天豊財重日足姫天皇、初適於橘豊日天皇之孫高向王、而生漢皇子。後適於息長足日広額天皇、而生二男一女。二年、立為皇后。見息長足日広額天皇紀。○十三年冬十月、息長足日広額天皇、崩。明年正月、皇后、即天皇位。改元四年六月、譲位於天万豊日天皇。称天豊財重日足姫天皇、曰皇祖母尊。天万豊日天皇、後五年十月崩。

元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即天皇位、於飛鳥板蓋宮。

(斉明即位前紀・斉明元年正月甲戌。日本古典文学大系『日本書紀』より。返り点は省略)

 

 これも史上初の重祚(ちょうそ。2度天皇になった)という事態なのに、孝徳が白雉5年に崩御したと記したのち翌年正月3日に「皇祖母尊即天皇位」、ただ「皇祖母尊」が飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)で即位したと記すだけ。心配になるくらい何も記されません。

 ついでに持統の例についても見ておきます。

 

(前略)○二年、立為皇后。皇后従始迄今、佐天皇定天下。毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。

○朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛真人天皇崩。皇后臨朝称制。○冬十月戊辰朔己巳、皇子大津、謀反発覚。逮捕皇子大津、并捕為皇子大津所詿誤直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳、与大舎人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心、及帳内礪杵道作等、卅餘人。(後略)

(持統称制前紀より天武2年・朱鳥元年9月丙午・10月己巳。日本古典文学大系『日本書紀』より。返り点は省略)

 

四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祇伯中臣大嶋朝臣読天神寿詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽剣鏡於皇后。皇后即天皇位。公卿百寮、羅列匝拝、而拍手焉。

(持統4年正月戊寅。日本古典文学大系『日本書紀』より。返り点は省略)

 

 天武崩御の時点で持統は即位しておらず、4年正月になって即位しています。父天智の例にならって称制という段階を踏んだのかどうか知りませんが、称制とはいえ政権トップの座に就いたのでしょうから、なにかコンセンサスがあったか、あるいはそういうルールがあったかのどちらかに解することとなるように思います。じっさい天武の崩御後はナンバー2だったであろう持統が最高権力者となったでしょうし、とくに皇位を争うライバルもいない。そもそも女性天皇にライバルというのはそぐわない、奇妙な印象を受けます。

 そうすると持統は、天武崩御後は当然のこととして「称制」、即位しないまでも政権トップの座にあって執政することとなったのではないか。自動的にそうなるものだったのではないかという気がしてきます。

 英語にqueenという単語がありますが、これを何と訳すのでしょうか? 女王? 王妃? ……最近ではウェブが普及していますから、ウィキペディア(英語版だからWikipedia?)などで調べると現在の美智子皇后(Empress Michiko)も推古天皇(Empress Suiko)もempressのようです。つまり皇后(empress consort)も女性天皇(empress regnant)も基本的にはempress。欧米の語を持ち込むのはどうかと思いますが、感覚的にはこれに近いものがあったのではないかと思っています。

 

 では持統の「称制」についてはどう理解するのか。

 個人的には、4年の元日に持統が即位してしまったため、その前の期間が「称制」とされてしまったのではないかと思っています。「何をわけのわからないことを言っているんだ」と言われそうですが、4年の元日に即位儀をして、この瞬間から天皇になったとアピールしてしまったために、それ以前は「称制」とせざるを得なかったのではないか。そう考えるのです。称制34月に草壁皇子が他界し、同年6月に飛鳥浄御原令と思われる「令」が配布されたというタイミングです。もしも浄御原令が享年28歳の草壁の死の前に間に合っていたとしたら、草壁も文武のように即位できていた……かどうかはわかりませんし、また浄御原令とともに「天皇」、スメラミコトの号が定まったのかどうかも存じません(というより、私はそうは思いません)が、令制定後初の即位ということで、その即位儀には面目を一新した「天皇」の登場といった意味があったのではないでしょうか。

 また持統の即位した持統4年(≒690)は『日本書紀』が撰上された養老4年(≒720)のちょうど30年前です。『日本書紀』の完成したころには持統の即位儀を記憶している人も多かったでしょうから、『日本書紀』もこの即位儀をなかったことにはできなかったのでしょう。

 もしもこの持統4年元日の持統即位がなかったとしたら――『日本書紀』は持統をどう描いたでしょうか? 神功皇后のようにずっと「摂政」という形で描いたでしょうか。

 私個人としては、最初から「天皇」として描いていたのではないかという気がします。朱鳥元年九月丙午条が「皇后臨朝称制」でなく「皇后即天皇位」となっていた――。そんな形を想像しています。

 

 立ち返って、皇極の即位のさいも特別なことがあったのではなく、直系である舒明の皇后として舒明崩御後は当然のようにしかるべき地位に就いたのではないでしょうか。持統「称制」とするのも『日本書紀』の作文で、皇極即位のさいも持統「称制」とされる状態とあまり変わらず、(問題は多いですが)たとえば「キサキ」だった人が舒明崩御を受けて自動的に「オホキサキノスメラミコト」となった、とか。そんなふうに思っています。「キサキ」「オホキサキノスメラミコト」だったかどうかはわかりませんが。

 さらに、推古についてもそうだったのでは? 『日本書紀』は推古即位について「群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以将令践祚。皇后辞譲之。百寮上表勧進。至于三乃従之。因以奉天皇之璽印」などと飾り立てて書き、年齢でかえって馬脚をあらわしているように見えますが、修正前のもとの原稿では案外「皇后即天皇位」のみで簡単に済まされていた、といったことがあったのではなでしょうか。チェックの段階で「最初の女帝の即位がこんなに簡単な記述で済まされては困るじゃないか」などといった指摘があり、大あわてで差し替えた。略歴を記すさい、享年75歳のデータから逆算するのに、現在の我々なら表計算ソフトみたいなものを使うのでしょうが、そういったものはないからどこかの宮の戸板の廃材とか、不用になった古い布などといったものを使い、罫を引いて「丁亥」「戊子」などと干支を書いたところに「七十四」「七十五」と年齢を記していった。元年が癸丑であることはわかっていたので「癸丑」で「四十」、崇峻が暗殺されたのはその前年ですから「三十九」。けれども敏達紀のチームなどとは連絡が取れておらず、欽明崩御の年をもって敏達皇后に立ったものと早合点した。敏達崩御と用明崩御を取り違えた……。そんなものだったのではないでしょうか。

 

 女性天皇こそ直系相承的な意識の表れではないかと述べましたが、ということはとりもなおさずその女性天皇の長男こそが跡継ぎだった、母親の女性天皇はあとを継がせるまでの中継ぎだった――と見ることになります。皇極(斉明)は嫡長男である天智を即位させるための女性天皇であり、持統もまた本来的には嫡長男の草壁に継がせるための女性天皇だった。即位年齢が40歳くらい以上だったと見るなら、嫡長男が40歳に達する以前に父である天皇が崩御してしまっても、生母である皇后がしかるべき地位に就いて嫡長男が40歳に達するのを待つことができる、などといったことも想定されていたのかもしれません。ただ持統の場合は、草壁が40歳を迎えるはるか以前、28歳で没してしまい、逆に皇極の場合は天智が40歳に達する以前に自身が崩御してしまった……。即位年齢を40歳ごろ以上と見ると、天智の「称制」についてはこんなふうに見ることができそうです。すでにどなたか触れておられることでしょうが。

 推古の場合は――長男の竹田皇子が没するまでは、彼に継がせるための女性天皇だったのではないかと思っています。しかし竹田が没してしまい、あるいは息長系王統や上宮王家に嫁いでいった娘たちの子に期待がかかったのかもしれませんが、それも満足な結果を収めたようには見えません。それで、親和性のよくない息長系王統と上宮王家を上からまとめている、つないでいるような存在……「大王天皇」をそんなあたりに求めたいのです。

 それはともかく、女性天皇が直系相承の表れで、彼女らの長男こそが跡継ぎだったという点はあながち外れてはいないように思えるのです。じっさい敏達−押坂彦人大兄−舒明−天智、それから天武−草壁−文武−聖武と直系でつづいていますから、直系相承はある程度成功していると言えるのではないでしょうか。即位できなかった草壁はおそらく病気で早世した例ですし、押坂彦人大兄が即位できなかったのも早世したためか、あるいは推古の長寿というか、敏達と推古の年齢差あたりが原因でしょう。

 『懐風藻』に見える葛野王(かどののおほきみ。天智の子の大友皇子と天武の娘の十市皇女との間の子。淡海三船の祖父)の伝記に、高市皇子(たけちのみこ。天武と胸形君徳善の娘の尼子娘の間の子。持統即位後に太政大臣とされたが持統10年没)没後の後継者会議の席で葛野王が「我が国では従来子孫が相承けて皇位を継承してきた、もし兄弟に及べば乱が起こるだろう」などと言い、そのとき弓削皇子(ゆげのみこ。天武と天智の娘の大江皇女との間の子)が何か言おうとしたのを葛野王が叱責して持統から賞された――などといった話が見えるようで、これをもって「じつは当時はまだ兄弟相承が一般的だった、だからそれに反することを葛野王がまくしたて、文武を後継にしたかった持統に賞されたのだ」などとされるご意見を拝見しますが、これが的を射ているかどうかは何とも言えません。『懐風藻』では大友皇子の伝記でも『日本書紀』と異なり20歳で太政大臣、23歳で皇太子などと伝えていますが、これらがどこまで信頼できるかは疑問です。弓削皇子については生年不詳ながら、兄弟の序列等からしてこの持統1011年ころにやっと20歳を過ぎたばかりかと見られるようで、文武は持統11年=文武元年に15歳ですから、この話が仮に事実だったとしても弓削皇子が本当のところ何を言いたかったのかはわかりません。「立太子とか即位には早すぎる」といったことだけを言いたかったのかも。

 いや、この話が本当であろうが嘘であろうが、結果的に持統は直系の文武に皇位継承させることに成功しています。「この当時はまだ兄弟相承が一般的だった」というのは、まことに失礼ながら、そう見たい方が自説に有利な資料で論じておられるから、といった感じも受けます。用明・崇峻や孝徳を成功裏に円満に兄弟相承できた例と見なしてよいかどうか。

 天智から天武へ……これは兄弟間での「継承」かもしれませんが、武力によるものです。しかも天智はその前におそらく病死していますから、厳密には「兄弟間」とも言えないでしょう。

 

 直系相承――嫡長男が継ぐという原則が定まっていたなら、極端な言い方をすれば制度としての「皇太子」は必要がない。あえて制度的に「皇太子」を定めなくても嫡長男が自動的に継ぐことになるでしょう。問題は嫡長男がいないときで、皇后に子がなかったか、女子ばかりだったか、あるいは嫡長男が早世した場合となるでしょう。欽明の場合は嫡長男である箭田珠勝大兄皇子が早世してしまいましたから、やはり後継が問題となったように思われます。敏達が「皇太子」とされた記事が欽明紀に欽明15年、敏達即位前紀に欽明29年と2カ所記されているのは、案外そんな事情を伝えているのかもしれません。じっさいに「皇太子」、ヒツギノミコだったかどうかはわかりませんが。

 天智の場合は、直系相承における「嫡子」の「嫡」が問題となったのではないでしょうか。天智の皇后は姪の倭姫王(やまとのひめおほきみ。古人大兄皇子の娘)でしたが、天智との間に子はなかったようです。いっぽう大友皇子は『日本書紀』によれば天智10年正月に太政大臣とされたとありますが、母親が采女(うねめ。そういう女官的存在)出身の伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)で、いうならば卑母ですし、皇后の倭姫王とは血のつながりもありません。女性天皇が嫡長男への継承を前提に存在したとすれば、倭姫王と大友皇子の組み合わせはたいへん弱く危ういもののようにも感じられます。壬申の乱発生の原因、天武の勝因などはさまざまな視点から見なければならないのでしょうが、天智没後の「近江朝庭」というのは血統といった視点から見れば疑問符の付く存在ではなかったでしょうか。