(大王天皇)

 

 8 「東宮」たち――スメイロド

 

 閑話休題。

 荒木敏夫さんは『日本古代の皇太子』(吉川弘文館 1999)の中で、文武以降皇太子の居所が王宮内に定まるのに対し草壁までは「皇太子」も王宮外に宮を営むこと、また草壁は冠位の対象内であるのに文武は対象外であることなどを根拠に、草壁については「皇太子」とは見ておられず、廐戸や天智の皇太子執政についても否定されているのですが、また同書の中には『隋書』や『日本書紀』に見える「皇太子」を意味しない「太子」の例が挙がっています。具体的には「王太子勇為皇太子」のように「太子」が「皇太子」とされている例で、その場合「太子」は長男の意味となるようです。

 薬師像銘で廐戸は初出で「太子」、つぎに「東宮聖王」と見えていたわけですが、「太子」が皇太子でなく単に長男を指す場合もあるとすれば、この薬師像銘の「太子」も「池邊大宮治天下天皇」用明(と穴穂部間人との間)の長男という意味で、そののち「東宮聖王」といった地位に就いたものと見たほうがいいように思うのですが。

 従来は東宮=皇太子ということでこの薬師像銘の「太子」も「東宮」も皇太子の意味ととらえられ、「東宮」のあとの「聖王」が固有名詞に代わるような尊称と見られていたのではないかと思うのですが、推古が「大王天皇」から「小治田大宮治天下大王天皇」へとかわっていることを重視するなら、この「太子」から「東宮聖王」への変化についても、用明の長男という立場から、推古朝には「聖王」、ヒジリノミコ的な地位に就いたものと見ることができるのではないか。「太子」も「東宮」も皇太子の意味で「聖王」は単なる尊称だったとしたら、「太子」には尊称が付かないで「東宮」にのみ尊称が付くというのも釈然としません。

 舒明紀では天智が「東宮開別皇子」と見えていましたが、この「開別」については『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「開〈伊〉……」と見える「開」で、天智の諱(いみな。「忌み名」で、このばあい実名のこと)ではなかったかと思っています。天武は天智紀で「東宮大皇弟」(「東宮太皇弟」)などとも見え、また単に「大皇弟」とも見えていました。古典文学大系では「大皇弟」のみの表記にも「東宮大皇弟」全体にも「ひつぎのみこ」との読みが見えますが、これは信頼がおけるのでしょうか。

 

 天武は孝徳紀の末尾にも2回、「皇弟」の表記で見えています。

 白雉4年、天智が孝徳に「倭京に帰りたい」と言い出し、孝徳が拒否すると天智は「皇祖母尊」皇極と「間人皇后」を奉じ「皇弟」らを率いて「倭飛鳥河辺行宮」(やまとのあすかのかはらのかりみや)に入ってしまった。すると「公卿大夫百官人等」も一緒に移ってしまった。孝徳は退位したいと言い出し「山碕」という地に宮を造らせたとか、うらみごとのような歌を「間人皇后」に送ったとか見えていますが、510月に孝徳病気の報を受けた「皇太子」天智は「皇祖母尊」「間人皇后」を奉じ「皇弟公卿等」を率いて難波宮に赴き、1010日に孝徳が崩御したとあります。

 ここに2回見える天武を指す「皇弟」の読みは、古典文学大系によれば「すめいろど」だったようです。

 この「皇弟」を「すめいろど」と読ませる例は用明紀にも見えているのですが、そこでは例の穴穂部皇子を指して「皇弟皇子」(すめいろどのみこ)としています。用明2年4月、新嘗の当日に発病した用明は宮に帰りますが、用明が仏教に帰依することの可否をめぐって物部守屋らと蘇我馬子が対立、そこへ「皇弟皇子」穴穂部が「豊国法師」(とよくにのほふし)なる人を連れて内裏へ入ってきたため物部守屋が怒ったなどという話が見えます。『古事記』欽明段にも穴穂部をスメイロドとする記述がありますが、そこでは「(前略)次、三枝部穴太部王、亦名須売伊呂杼」、「須売伊呂杼」(すめいろど)は穴穂部のまたの名、という形で見えています。

 ところが……当時の「イロド」という言葉は母を同じくするきょうだいに限って使われた言葉で、兄から見た同母弟、姉から見た同母妹を指すらしいのです。欽明紀の2年3月に堅塩媛ら5妃をいれた記事が見えますが、そこに「次堅塩媛同母弟曰小姉君」などと見えるようで、この「同母弟」の読みが「いろど」らしいです。

 穴穂部には同母の兄で即位した人はいませんし、用明から見て同母弟でもない。用明皇后穴穂部間人から見れば同母弟ですが、姉−弟と性別が異なる場合にはイロドは用いなかったようなので、スメイロドという言葉はおかしい。日本思想大系『古事記』の補注に見える「須売伊呂杼」の説明を引きますと「須売伊呂杼は本来は天皇の同母弟の意であるが、穴穂部皇子の同母兄に天皇はいない。用明天皇は庶兄(用明二年四月条に「皇弟皇子〈皇帝(ママ。「帝」は「弟」の誤=引用者)皇子者、穴穂部皇子。即天皇庶弟〉」)、崇峻天皇は同母弟である。しかし紀の用明(ママ。「用明」は「敏達」の誤=引用者)十四年八月条以下の穴穂部皇子に関する記述をみると、用明崩後に皇位継承を期待していたふしがあり(だからこそ馬子に殺されたのであろう)、また同母弟の長谷部若雀命は実際に即位しえているわけであるから、庶兄の用明と同母姉の間人との一組の天皇・皇后の皇弟、または皇后の同母弟として、皇位継承権を持つ皇子という意味で須売伊呂杼とよばれたと考えるより仕方がないようである」と見えます。つまり穴穂部を指すスメイロドは、天皇の同母弟という意味ではなく、天皇の配偶者である皇后の同母弟という、特殊で奇妙な用語となっています。姉−弟と性別が異なれば本来はイロドではないはずですが、「スメイロド」という場合には皇后の同母弟ということになるようです。

 その「皇弟」、スメイロドが孝徳紀の末尾では天武を指して見えるわけですが、こちらに関していえば天武は天智の同母弟ですから――というわけにはいかない。孝徳紀ですから、ときの天皇は孝徳です。孝徳は天武の同母姉の間人を皇后としていましたから、皇后の同母弟という意味では穴穂部の場合と重なるわけです。つまり天武は孝徳の「皇弟」、スメイロドになるということだと思います。

 しかもスメイロドを皇后の同母弟という続柄で規定すると、舒明皇后の皇極の同母弟である孝徳自身がそういう位置になります。『日本書紀』には孝徳を「皇弟」とした記事はいっさい見えませんが。

 孝徳紀に見える天武の「皇弟」、スメイロドをこういった形で見るなら、天智紀の「大皇弟」「東宮大皇弟」については「ひつぎのみこ」の読みが見えるにもかかわらず、孝徳の「皇弟」だった天武が孝徳崩御後に「大」が付いて「大皇弟」となったものと見られないでしょうか。このスメイロドの「皇」は天智でなく孝徳を指すわけですし、またナカツスメラミコトと見ている間人との続柄による称だともいえます。間人生存中の天智と天武の関係は微妙なものだったのではないでしょうか。

 こんな奇妙な称である「大皇弟」ですが、たとえば天智32月丁亥(9日)には「天皇命大皇弟、宣増換冠位階名、及氏上・民部・家部等事」、「天皇」の命をうけて「大皇弟」が「冠位階名」の「増換」および「氏上・民部・家部」等のことを「宣」したとあります。この時期は天智称制の期間であり「天皇」は存在しないから「大皇弟」も潤色だとされるご見解もあるようですが、天智称制の期間は……ナカツスメラミコトの期間かもしれません。

 天智10年正月甲辰(6日)にも「東宮太皇弟奉宣、〈或本云、大友皇子宣命。〉施行冠位法度之事」と見えていますが、こちらは天智32月丁亥条が重複して出たものではないかと疑われているようです。しかしここに見える「奉宣」の語は天智1010月庚辰(17日)の「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道」を連想させます。『日本書紀』によれば大友皇子はこの年の正月に太政大臣とされていますから、「奉宣諸政」といったことは太政大臣に期待された職務だった、しかし「東宮太皇弟」も「宣」「奉宣」できるような地位だと見られていた……。そんなふうに考えられないでしょうか。

 後世「東宮」=「皇太子」となってしまったのでわからなくなってしまったけれど、『日本書紀』の「東宮」は、天武の「大皇弟」だとか廐戸の「聖王」、あるいは草壁の「日並知皇子尊」などといった、雑多な地位呼称を包括したような呼び方だったのではないかと思うのです。