(大王天皇)

 

 9 大 兄

 

 井上光貞さんが「古代の皇太子」で「大兄制」といった形で提唱されたとき、それは当時の兄弟相続に対するもういっぽうの長子相続的な概念の表れであり、同世代の兄弟での継承が終わればまた大兄の系統に皇位が戻る――などといった形で考えられていたもののように思われます。また同論文の中には、文武天皇が15歳で立太子し直後に即位したことを評して「このころになると、皇太子摂政制は、ようやく、皇族太政大臣制と、単なる皇嗣としての皇太子制とに分離してしまったといってよいであろう」との表現も見えるようです。

 結論から言ってしまえば、私個人としては「大兄」こそのちの太政大臣につながる制度ではなかったかと思っています。「大兄」は太政大臣の前身といった地位で、基本的に「天皇」とその配偶者との間の長男にその資格が限定されるという奇妙なポストだった。皇位継承に関しては、直系の「天皇」の崩御後はその皇后がそのまま「天皇」的な地位にあって嫡長男の成長を待つ、といった理念があったと思うので、「大兄」については主に執政あるいは輔政といった面のみが期待された地位で、皇位継承とは直接関係なかっただろうと見ています。それで「中大兄」天智のあと、大友皇子が太政大臣とされたことで「大兄」という表記は姿を消してしまうのではないか――そんなふうに考えます。

 ですから、『日本書紀』には大兄が同時に複数存在したかのように見える記述がありますが、私は同時には複数存在せず単独だったと思っています。

 日本思想大系『律令』の「太政大臣」の補注によれば、太政大臣は中国や朝鮮半島にその先例となる存在を見出せないのだそうですが、そういった存在が令の中に規定されていることこそ、令制以前の伝統を引いた存在なのではないかと考えるのです。女性天皇の伝統が「太上天皇」として令に受け継がれ、「大兄」の伝統が「太政大臣」として令に受け継がれたという形で見ています。

 

 門脇禎二さんは『「大化改新」論』の中で「大兄=皇太子の前身」的なお考えから大兄の複数存在説を否定され、上宮王家滅亡に関しても山背大兄から古人大兄への大兄位の移動という形で考えておられたようなのですが、荒木敏夫さんは『日本古代の皇太子』の中で門脇さんのご見解に触れ、継体7年12月の「勾大兄」安閑の立太子、皇極紀末尾の乙巳の変後の「中大兄」天智の立太子の記事を大兄から立太子される例として門脇さんの矛盾を指摘、また上宮王家の滅亡を山背大兄から古人大兄への大兄位の移動と安易に読みかえていること、乙巳の変後の中大兄の立太子を「葛城皇子が大兄に立てられた」といった形に読みかえていることなどを史料処理のうえから問題とされ、さらに大兄を廃された記事や大兄に就任した記事のないことなどを挙げて門脇説を批判しておられます。

 じつは私も上宮王家討滅事件については山背大兄から古人大兄への大兄位の移動と見ていますので、荒木さんの批判は直接自分にも響いてくるのですが、立ち返って『日本書紀』はそんなに信頼を寄せられるものなのだろうか、などとも感じるのです。

 ことに「勾大兄」安閑に関しては後から造作されたような記事が多く、たとえば継体7年9月には安閑みずからが春日山田皇女を配偶者に迎えたとしながら、4カ月後の翌継体8年正月にはその春日山田が「私には子ができません」といった趣旨のことを言って嘆いたので、春日山田の名を残すために継体から匝布屯倉(さほのみやけ)をたまわったなどと見えます。さらに安閑紀の元年3月戊子(6日)には、「有司」が安閑のために春日山田皇女を嫁入りさせて皇后としたかのような記述が見えています。他の紀では「立○○為皇后」、すでに配偶者だったらしい女性を皇后に立てたとする記述が一般的ですが、ここでは「有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后」となっているようで、「納采」とあって、いかにもこの時点で配偶者にしてやったかのような書き方がされています。ちなみにこの直前の安閑紀冒頭には、継体25年2月丁未(7日)に継体が安閑を立てて天皇とし即日崩御したとする例外的な記事が見えます。継体25年辛亥と安閑元年甲寅との間に2年の空白を生じていると問題にされる箇所です。

 これらから考えて、安閑に関してはもともとほとんど記録がなく、春日氏が語り伝えた伝承のようなものしか材料がなかったのではないかと疑います。継体7年12月の安閑の立太子の記事というのも、詩文のような継体の言葉の中に「宜処春宮」と見えているだけのものでした。継体6年12月に「大兄皇子」安閑が対百済政策にかかわったかのような記述が見えますが、これなどはもしかすると百済側の資料をもとに膨らませた話ではないかとも思うのです。

 

 『日本書紀』に見える複数大兄の例というのは欽明朝の箭田珠勝大兄皇子と「大兄皇子」用明の例、それから舒明−皇極朝の山背大兄王・古人大兄・「中大兄」天智の例を指すのでしょうが、箭田珠勝大兄は石姫の長男として見えたあと欽明13年4月に亡くなっています。そして用明の「大兄皇子」については欽明2年3月に堅塩媛の子として「其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊」と見えるのが唯一の例のようで、これでは『古事記』の系譜で「岐多斯比売」の子の先頭に「橘之豊日命」とのみ見える表記に「大兄皇子」を挿入しただけのような感じさえ覚えます。用明は敏達14年3月丙戌(30日)にも見えていますが、そちらは「大兄皇子」でなく「橘豊日皇子」表記になっています。極端な話をすれば用明の「大兄」さえ心細い印象のものなのですが、これだけの記述から箭田珠勝大兄皇子と用明の大兄が重複すると断定するのは疑問に思います。

 

 複数大兄の同時存在が認められたのなら、あるいは「大兄」が長男という生得的な条件に由来するもので、皇位継承権とか族長権の指標に過ぎないような性格の称だったとしたら、用明と穴穂部間人との間の長男である廐戸、また押坂彦人大兄と糠手姫との間の長男である「田村皇子」舒明にも「大兄」の称が見出されていいように思います。それが見えないのは――押坂彦人大兄が「大兄」として存在したために廐戸は「大兄」とはなれなかった、また山背大兄が「大兄」として存在したために舒明は「大兄」とはなれなかった――。そういった形で見るのがもっとも納得がいくように思うのです。また廐戸の「東宮聖王」、ヒジリノミコといったものを尊称や諡号でなく地位呼称と見たい理由もここにあります。押坂彦人大兄がいるため廐戸は「大兄」とはなれない。しかし崇峻暗殺後「治天下」となった推古について、女性単独での執政は体裁が悪いということで、推古の娘婿の廐戸に対し「大兄」に対抗しうる、あるいはさらに上位かもしれないヒジリノミコ的な地位が創出され、輔政または共同執政といった役割が与えられたのではないか――。そんなふうに考えています。「大兄」である押坂彦人大兄が輔政・共同執政といった立場になれなかったのは、別に理由が存在したものと思っています。そして押坂彦人大兄が没した時点で「大兄」は山背大兄に移動した。しかし上宮王家にも息長氏系王統にも敏達・推古ペアの後継としうるような男子は誕生せず、上宮王家のほうは敏達の血をまじえることに成功しなかったのに対し、息長氏系王統では茅渟王の子である皇極・孝徳の段階で敏達の血も蘇我氏の血もひく子女が誕生していた。その皇極と、すでに蘇我氏の配偶者を迎えてもいた舒明との婚姻が成立することで、ヤマト・カハチ周辺の豪族たちも息長氏系王統を直系と認めるほうに傾いていった――。そんな流れを想像しているのです。

 

 山背大兄と古人大兄が重複して見えるのは皇極2年10月から11月にかけての上宮王家討滅に関する記事かと思われますが、そこではまず10月戊午(12日)の「蘇我臣入鹿独謀、将廃上宮王等、而立古人大兄為天皇」、入鹿が上宮王たちを捨てて古人大兄を天皇にしようとした記事に「古人大兄」とあり、そのあとに「岩の上に小猿米焼く……」などという「童謡」が続いています。そのあとの11月丙子朔(1日)に上宮王家討滅がまとめて語られますが、山背大兄についてはだいたい「山背大兄王」表記で(6回)一貫して語られる印象で、馬の骨を寝室に投げ込んでおいたという記事にのみ「山背大兄」と見え、また記事末尾の「岩の上に小猿米焼く……」の童謡の解説部分にのみ「山背王」表記で見えるようです。対して古人大兄のほうは、みずから上宮王らを討ちに胆駒山に向かう入鹿を止めにきて「鼠は穴に隠れて生き……」などと言う場面に2度見えますが、最初が「古人大兄皇子」で2回目が「古人皇子」のようです。この場面からは何とも判断できません。たしかに山背大兄・古人大兄とも重複して見えますが、「『日本書紀』は皇太子・皇后・皇太后など中国史書に見える称号については細心の注意を払ったが、大兄のような中国にない称についてはあまり留意しなかった」などと言ってしまえばそれまでのような気もします。

 

 天智の「中大兄」が見えるようになるのは、上宮王家討滅につづく皇極3年正月乙亥朔(1日)、例の法興寺の「槻樹」の下の蹴鞠(「打毬」)で天智と鎌足が出会う記述の見える記事からではないかと思います。それ以前では舒明2年正月戊寅(12日)の皇極を皇后とした記事に皇極の長男として「葛城皇子」と、そして舒明紀末尾の舒明13年丁酉(9日)、16歳で「誄」、弔辞のようなものを述べたとする記事に「東宮開別皇子」と見えていました。3年正月乙亥朔から乙巳の変当日の46月戊申(12日)、そして皇極が譲位し孝徳が即位して天智が「皇太子」とされる6月庚戌(14日)の記事まで、ここは皇極紀と孝徳紀で重複する部分ですが、天智は一貫して「中大兄」表記で見えるようです。いっぽうその間古人大兄は乙巳の変当日の6月戊申に2回(「天皇御大極殿。古人大兄侍焉」「古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣」)、また孝徳紀に入って6月庚戌に5回(「(中臣鎌子の言葉に)古人大兄、殿下之兄也。軽皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在」「軽皇子、再三固辞、転譲於古人大兄〈更名、古人大市皇子〉曰……」「於是、古人大兄、避座逡巡、拱手辞曰……」)見えていますが、これも分注の「更名、古人大市皇子」以外は「古人大兄」で統一されています。

 このあと大化と改元され、9月戊辰(3日)には出家して吉野に入った古人大兄の謀反が見えますが、そこで古人大兄は「古人皇子」、その分注に「古人太子」「古人大兄」「吉野太子」と見えています。9月丁丑(12日)には「吉野古人皇子」らの謀反を吉備笠臣垂が「中大兄」に自首したため、「中大兄」は菟田朴室古・高麗宮知らに将兵をそえて「古人大市皇子」らを討たせたと見えます。また分注には「吉野皇子」「古人大兄」「吉野大兄王」などの表記も見えます。

 じつはこの9月の古人大兄謀反に関して見える「中大兄」の称はおかしな印象で、皇極46月庚戌(14日)で「中大兄」が「皇太子」とされたあとは天智は基本的に「皇太子」表記のはず。ところがこの古人謀反に関する記事だけ「中大兄」に戻っているのです。「古人大兄」と釣り合いをとるために「中大兄」としたなどというのはおかしな話ですし、大化5年3月の蘇我倉山田石川麻呂の事件、斉明4年11月の有間皇子の事件の記述に見える天智は「皇太子」表記になっています。もっとも孝徳紀の皇極46月庚戌に「是日、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊。以中大兄、為皇太子」と見えたあと9月の古人謀反までのあいだに天智が「皇太子」として見えるのは6月乙卯(19日)の「天皇・々祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰……」の1回だけのようですが。

 

 こういった表記を比較してみても、古人大兄と中大兄が重複していなかった可能性を示すものは見つかりそうにありません。強いて言えば天智が「中大兄」で一貫して見えるのに対し、古人大兄の称は、とくに大化元年9月などではじつにバラエティに富んでいるといったあたりを指摘できそうです。けれどもここはさまざまな資料から引用したことを示す分注でしょうから、当然ともいえるでしょう。

 

 8世紀後半に、鎌足の曾孫で藤原不比等の孫にあたる藤原仲麻呂によって著された『藤氏家伝 上』(『家伝 上』『大織冠伝』とも)という藤原鎌足の伝記がありますが、そこでも『日本書紀』同様天智はまず「中大兄」と見え、乙巳の変以降「皇太子」となり、「摂政」の「七年正月、即天皇位。是為天命開別天皇」と記されてからは「帝」などと表記されているようです。

 ついでにいえば『万葉集』にも「中大兄」があります。巻1の雑歌、「後岡本宮御宇天皇代」の標目のもとにある131415の歌の題詞に見えています。

 

中大兄〈近江宮御宇天皇〉三山歌一首

高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

反 歌

高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美国波良

渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比沙之 今夜乃月夜 清明己曾

右一首歌、今案、不似反歌也。但、旧本以此歌載於反歌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳、立天皇為皇太子。

(表記は、次の目録も含め基本的に新日本古典文学大系『萬葉集 一』によりました。本により異同があります)

 

 「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と……」の有名な歌ですが、この直前には「中皇命往于紀温泉之時御歌」、例の「中皇命」の歌3首(1012)が見えています。さらにその前の歌は「額田王歌」(8)と「幸于紀温泉之時、額田王作歌」(9)、額田王の歌2首。巻1雑歌の「後岡本宮御宇天皇代」の歌は額田王の歌2首と「中皇命」の歌3首、「中大兄」天智の歌3首です。目録で題詞だけを並べて見ると、

 

額田王歌

幸紀伊温泉之時、額田王作歌

中皇命往于紀伊温泉之時御歌三首

中大兄三山御歌一首〈并短歌二首〉

 

 ……ばれていたかもしれませんし、以前から言及されていたことなのかもしれませんが、こういうのを見ると「中大兄」の称は「中皇命」、ナカツスメラミコトと並ぶ称であったように思われるのです。そして『万葉集』の配列もそれを意識してのことではなかったでしょうか。

 斉明崩御後、天智は40歳に達していなかったため即位できなかった。当然妹の間人皇女も天智より年下でしたが、傍系ではあるもののかつて孝徳の皇后だったため、直系の天皇の皇后がそのままオホキサキノスメラミコト(?)といった地位に就いた慣例にならって、正式なスメラミコトではないもののナカツスメラミコトなどと称した。正式なスメラミコトをいただかない政権――ナカツミヤ(?)――の中で、天智はナカツスメラミコトと並んで執政・輔政する「中」継ぎ政権のオホエ、「中大兄」という地位に就いた……。そんな形で考えています。

 

 舒明紀末尾の舒明1310月丙午(18日)に見える「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」を信じれば、斉明が崩御した斉明7年の時点で天智は数え年36歳。即位した天智7年には数え年43歳、前年の6年3月に即位したとする一説を信じてもその時点で42歳です。『日本書紀』で間人大后の没したことが見えるのは天智4年の2月。ちょっと即位まで間があきすぎるような気もしますが、「皇太后天皇」斉明と間人皇女を葬った小市岡上陵の前の墓に大田皇女を葬ったのが天智6年2月戊午(27日)。翌3月に近江へ遷都したと見えます。6年3月即位説は遷都をもって即位と見なしたのかもしれません。野中寺弥勒半跏像銘の「開記」などはどう読んでいいのか定まっていないようなのですが、「丙寅年」については天智5年(≒666)となるようです。『日本書紀』にはこの時期に重複する記事が見られるなど、紀年の混乱が疑われることもすでに指摘されています。

 

 天智の「中大兄」の称に関しては従来「中」は2番目の意味とされ、古人大兄に次ぐ2番目という意味で「中大兄」、といった見方がされてきたように思われますが、それならば用明についても箭田珠勝大兄に次ぐ2番目という意味で「中大兄」とされてもいいように思えます。いや、それ以上に「中大兄」の称には独特な印象があります。後世の人には天智は「近江宮御宇天皇」などといった形で受け止められたのでしょうが、即位前の天智については「中大兄」という称の印象がもっとも強かったのではないか、などと考えるのです。ちなみに『続日本紀』に『日本書紀』撰上のことが見える養老4年(≒720)5月から2カ月あまりたった同年8月3日に藤原不比等が没していますが、翌養老5年12月7日、元明太上天皇が享年61歳で崩御しています。逆算して元明は斉明7年(≒661)の生まれ。大津宮に遷都した天智6年に数え年7歳という計算になります。

 

 「中大兄」という称について斉明没後、『日本書紀』が天智「称制」とする期間に用いられたものだと見た場合、ではそれ以前に天智はなんと呼ばれ、どういう地位にあったのか――。残念ながらそれはわかりません。それがわかったら苦労はしないし、それがわからないことこそ「中大兄」が天智称制期の称号といったものではないことの証明だなどと言われそうですが。

 天智は舒明と皇極の間の長男ですから「大兄」と呼ばれる資格は、いや私の立場からすれば「大兄」となる資格は十分にあった。いっぽう舒明1310月丙午には「東宮開別皇子」とありましたが、文武を除き『日本書紀』がほかに「東宮」とする存在である廐戸と天武は、どちらかといえば「大兄」と対置されるような存在のように思えますから、なんとも言いようがありません。どれも証拠のない憶測なのですが、とにかく『日本書紀』は存在していたらしい称号について「中大兄」と「皇太子」でベッタリ塗り隠しているような印象なのです。

 

 そして『万葉集』に見える「中皇命」の表記も、こういった『日本書紀』の姿勢を背景としているのではないでしょうか。

 ――おそらく天智称制とされる当時、間人はナカツスメラミコトなどの称で呼ばれていた。でもそのころはまだ発音としての言葉、会話が中心で、漢字を用いた “公文書” もほとんどなければ倭文の “公用文” スタイルさえも未定だった。だからナカツスメラミコトも口から耳へと発音でのみ伝えられ、文字化されることはほとんどなかったでしょうし、女性君主による統治を「牝鶏之晨」、メンドリのときの声に例えて嫌うらしい中国に、ナカツスメラミコトという存在を発信する機会も、またその必要もなかったでしょう。しかし中国でも女治の時代はすぐそこに来ていましたし、実質的に始まっていたかもしれませんが。

 ヤマト古来の、独自の地位呼称については天智朝あたりから「太政大臣」「御史大夫」などと漢語化が始まっていたのかもしれませんが、中国史書の体裁にならおうとした『日本書紀』は、旧来の地位呼称も「天皇」や中国風の「皇后」「皇太子」「東宮」などといった表記に振り分けてその枠内に押し込めてしまい、「大兄」といった著名なものだけは残されたものの、それらを地位呼称として記述するつもりもなかった。

 また『日本書紀』は中国史書にならい基本的に天皇1代ごとに巻を立てようとしたため、直系「天皇」崩御後にその皇后がオホキサキノスメラミコト(また「大王天皇」)といった地位に就き、その1代の間に、それと並ぶ形で傍系の「天皇」が立てられたり、あるいは有力皇子が「大兄」やヒジリノミコ、ヒナミシノミコなど「東宮」(ミコノミヤかミコノミコトかわかりませんが)とくくられるような地位に就けられたりして交代する――などといった複雑な流れは、それを記述するための範となるような文書もなかったし、そのように書くつもりもなかったのでしょう。

 ことに間人のナカツスメラミコトなどは正式なスメラミコトではない地位でしょうし、また間人のために1巻を立てようとしても、間人に和風諡号がおくられていないなどといったことがあって題名をつけることができなかった。そこで実質的には天智の治世だったこともあって天智紀に含めてしまった。しかし天智6年の大津遷都とか翌7年の即位儀などは記憶している人がいて抹殺することができず、それ以前を天智の「称制」とした。ナカツスメラミコトは採用されず「間人大后」とされた……。

 そんな『日本書紀』でも、成立してしまえば権威です。

 

 『古事記』については、ある時期までは『日本書紀』と同じく天武13年以来の史局でまとめられてきたもので、ある時期に『日本書紀』とは袂(たもと)を分かったような存在ではないかと考えています。「序」の和銅6年を信じれば、翌和銅7年には『風土記』撰進の命が出されていますから、あるいは『日本書紀』の史局あたりが『古事記』のダイジェストに天智・天武朝ごろまでの “歴史” を書き加えて『風土記』の材料として諸国に配布したのではないかとも疑っていますが、ともかく『古事記』の著者・編者には『日本書紀』の史局が「大兄」を、ナカツスメラミコトをどう書くつもりかなどといったことはわからなかった。しかし『日本書紀』の史局は国家に属する権威には違いないため無視できず、仁賢以降は系譜以外の資料が手元にないことを幸い、系譜のみは天寿国繍帳のような伝承・資料によって「治天下」を認められていた推古までを記し、あとは避けた。

 

 天平18年に僧綱所から諸寺に縁起・資財帳提出の命が出されたさい、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の筆者にとっては間人がナカツスメラミコトであることなど自明のことだったし、仏教関係には独自の古記録が豊富にあったでしょうから「仲天皇」と記した資料もあったのかもしれません。「間人」の称で呼ぶこと自体失礼で、ナカツスメラミコトと呼ぶべきとの意識もあったのかもしれません。提出された『大安寺−』については、間人が「仲天皇」だったというのも事実だろうし、『日本書紀』を盾にクレームをつけても寺側の資料のほうが由緒が古いのだから意味がない。というより、おそらく僧綱所にしてみれば資財帳部分さえ正確なら縁起はどうでもよかったのかもしれません。そのままサインして返した。

 

 しかし『万葉集』の編者にとってはそういうわけにはいかなかったのかもしれません。1012の歌がナカツスメラミコトのものだなどというのは自明のことだったけれど、『日本書紀』が天皇と認めていないナカツスメラミコトを記載するわけにもいかないし、「間人大后」の歌と書き改めるわけにもいかない。1012は「間人大后」などという人の歌でなく「ナカツスメラミコトの歌」だったでしょうから。編者がそれなりの地位にあったとしたら、「中天皇」的な表記にすることは命取りだったのかもしれません。しかし……ごく最近まではスメラミコトに「天皇命」を当てる例も多く見られた。「尊」と「命」との使い分けとか格の違いなどもおそらく『日本書紀』周辺で言いはじめたことだろうが、ちょうどいい、「中皇命」といった表記ならナカツスメラミコトと読むことも可能だし、「天皇」と書いてはいないと申し開きもできるだろう……。それで「中皇命」などという表記となった――そんな経過を空想しているのですが。