稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に思う

 

 いまから半世紀ほど前の1968年、埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳から1振の長大な鉄剣が発掘され、10年後の1978年、保護処理のためのX線検査により115字からなる金象嵌(きんぞうがん。金属等を彫刻し、その彫り跡にそって金を埋め込む技法)の銘文が発見されました。

 

(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 

 この銘文の読みや意味などは掲げません。早い話が「稲荷山古墳 金錯銘鉄剣」で検索すれば、ていねいに解説されたページがいくつもヒットします。製作された年代や人物比定にもさまざまな説が出されたようですが、銘文中の「獲加多支鹵大王」、ワカタケル「大王」が雄略天皇(『古事記』に「大長谷若建命」、『日本書紀』に「大泊瀬幼武天皇」)を指すらしいこと、だとすれば「辛亥年」がほぼ西暦471年に相当するらしいこと――あたりは大方の一致した見方と思われます。

 この銘文の発見により、熊本県の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀の銘文中の「獲□□□鹵大王」についても反正天皇と見られていたのが雄略天皇と見直されたこととか、またこの銘文に見える「杖刀人」や江田船山古墳銀錯銘大刀の「典曹人」について、直木孝次郎さんが『日本書紀』雄略紀に見える「養鳥人」「宍人」などとからめて見て「人制」を提唱されたこと、「意富比垝」について記紀の崇神紀(段)などに見える四道将軍のひとり「大彦命」と見る説があることなども、ここでは触れません。

 

 この「辛亥年」がほぼ471年にあたるとすれば、銘文が解読された1978年はその「ほぼ」1500年後。こまかく言えば1507年ぶりの解読、ということになります。解読のちょうど1500年前となる478年は、倭王「武」が南朝の宋に上表を送った順帝の昇明2年にあたります。例の「封国偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬環甲冑……」と始まる上表です。『宋書』の記述を信じれば、このとき「武」は「使持節督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭王」と自称したとありますが、順帝はこれを認めず「百済」を除いて「使持節督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とした。こういったことは本来代替わりのさいに行われるべきことのようで、「武」の雄略も兄の「興」、安康から代替わりしてすぐに使者を宋に送るべきはずなのですが、鉄剣銘を見ればその7年も前の「辛亥年」、ほぼ471年には「獲加多支鹵」雄略がすでに「大王」位にあったように見えます。

 

 それはさておき、雄略の時代には南朝の宋にも通じるそれなりの漢文を書ける文筆家がいたことになります。まさか……漢文も書ければ倭語も通じるような翻訳家が南朝の宋あるいは百済あたりにいて、雄略の言葉を丸暗記してきた使者が現地でそういった翻訳家を雇って上表文を書いてもらった、というわけではないでしょう。いっぽうで稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の銘文を撰したような文筆家もいた。この文筆家の名は不明ですが、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣とよく比較される江田船山古墳出土の銀錯銘大刀には「書者張安也」、張安という中国系かとも思われる名が記されています。

 武の上表文を書いた文筆家と鉄剣銘を書いた文筆家と、どういう関係にあるのか、関係がないのかわかりませんし、知識がないので武の上表文の漢文と鉄剣銘の漢文との質的な相違についてもわかりません。文章の内容が全く違いますから比較のしようもないのかもしれませんが。

 『日本書紀』雄略210月是月条には、天下の人々が雄略を「大悪天皇」と誹謗したとする記事に続けて「寵愛したのは史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあを)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひはかとこ)たちだけだった」と、渡来系の史官らしい名前が挙がっています。

 

 金錯銘鉄剣については東京国立博物館蔵、朝鮮半島出土の三国時代の作と目される有銘単龍紋環頭大刀と技法・書風が共通するとの指摘があるそうですが、オホビコの「意富比垝」などという表記も、『日本書紀』神功紀摂政62年の記事「遣襲津彦撃新羅」の分注に引く『百済記』に見える「沙至比跪」(さちひこ。葛城襲津彦のこととされる)の表記を連想させます。少なくとも『魏志』倭人伝に見える「卑狗」がヒコらしいのとは大きく違います。

 その他スクネ(宿禰)の「足尼」表記を見ると『上宮聖徳法王帝説』の引く天寿国繍帳銘に蘇我稲目が「巷竒大臣名伊奈米足尼」とあるのを思い出しますし、オホビコの「意富」は『釈日本紀』の引く『上宮記』に見える応神から継体までの系譜、凡牟都和希王(応神)−若野毛二俣王−大郎子(一名意富々等王)−乎非王−汙斯王(彦主人王?)−乎富等大公王(継体)の「意富々等王」を思い出させます。ならば、鉄剣銘に見える「乎獲居」臣の「乎」は「乎富等大公王」の「乎」、「獲居」は『魏志』倭人伝に見える「彌馬獲支」の「獲支」か……といった方向には話を進めません。

 

 ところで『日本書紀』では歴代天皇について生年や享年(崩御のさいの年齢)のわかる例は多くありません。神武天皇は享年127歳、綏靖天皇84歳、安寧天皇57歳など実在性すら確かでないような古い時代ほど享年が多く見え、逆に信頼のおけそうな新しい時代ほど享年が見えなくなる傾向にあって、『古事記』が124歳と伝える雄略天皇の享年も『日本書紀』は記しません。ところが継体・安閑・宣化の3天皇については享年が記されていて、それぞれ82歳・70歳・73歳と見えます。継体天皇については継体紀のはじめのほうにも「57歳のときに武烈天皇が崩御した」といった記事が見えていて、この2つの年齢データは矛盾せず合致します。安閑・宣化の弟の欽明天皇については欽明324月の崩御の記事に「時年若干」、享年は「若干」――いくらか、だったと見えます。わからなかったということでしょう。欽明即位の記事にも「時年若干」と見えています。

 これらの享年のデータを信じて逆算すれば、継体・安閑・宣化の3天皇の生年はそれぞれ西暦450年・466年・467年となり、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に見える「辛亥年」を471年と見ればそれぞれ数え年22歳・6歳・5歳、倭王武が上表文を送った昇明2年(≒478)には数え年29歳・13歳・12歳です(数え年では生まれた瞬間からその年の年末までが1歳で、以降誕生日に関係なく新年を迎えるたびに1歳ずつ加えていきます)。安閑・宣化はそれぞれ継体の数え年17歳・18歳の子ということになります。満年齢ならば数え年より1歳か2歳若くなる計算です。

 この数字は、あながち悪くない線ではないでしょうか。

 享年のデータが信頼できるかは不明ですし、現代的に見れば15歳程度で若いパパとなった継体が55歳過ぎにまた欽明を誕生させたなどというのは一種の「武勇伝」といった印象ですが、当時の感覚からすればあり得ることという気もするのです。

 

 その数え年17歳から57歳すぎの40年あまりの間にも、継体は多くの配偶者と結ばれ多くの子女をもうけたものと推測されますが、その配偶者たちは近江国(現在の滋賀県)出身と思われるケースが比較的多いようです。『日本書紀』継体紀では武烈崩御後に継体が「三国」、福井県から迎えられたように描かれますが、三国は継体の生母である振媛の出身地であり、『古事記』では継体が「近淡海国」から来たと記すことから見ても、即位前の継体の本拠地は近江国、滋賀県にあったのではないかと思います。

 いっぽう安閑・宣化兄弟の生母である目子媛(めのこひめ)については尾張連氏の出身と見えます。尾張に住んでいた目子媛が、継体との縁談が決まって揖斐川あたりを舟でさかのぼり関ヶ原を通って近江に行ったのか、それとも「当時は妻問い婚の時代」ということで継体がこのルートを逆に通って尾張に来たのかわかりませんが、とにかく安閑・宣化兄弟が誕生した。彼らが近江で養育されたのか尾張で養育されたのかも知りませんが、継体が57歳だったと見える武烈8年には安閑・宣化は41歳・40歳となります。

 

 ときおり「安閑・宣化兄弟はヤマトで養育された」「安閑は勾金橋宮近辺で、宣化は檜隈廬入野宮近辺で養育された」といった趣旨の文を目にすることがありますが、数え年41歳とか42歳になってヤマトに入ってきた安閑・宣化が「養育」されたでしょうか? むしろ近江か尾張かは知りませんが、ヤマト入り以前の在地で配偶者を得て子女ももうけていた可能性が高いのではないかと思います。もちろん記紀にはそんな配偶者や子女は記されておらず証拠はないのですが、継体が応神の5世孫というのが事実とすれば、安閑や宣化は応神6世孫、安閑・宣化の子女にいたっては応神から数えて7代目です。そんな子女たちを近江か尾張あたりからヤマトに連れてきて王族待遇を与えることが可能だったかどうか――などと考えてしまうのです。

 

 さて、この金錯銘鉄剣はいつ作られたのでしょうか。

 もちろんそんなことは銘文に「辛亥年七月中記」と記されていますが、問題はこの「辛亥年」が「獲加多支鹵大王」の何年にあたるのかということです。『日本書紀』に従えば辛亥は雄略天皇の15年にあたりますが、それが信頼できないから問題となるわけで、倭王武の上表文の昇明2年は『日本書紀』の紀年に従えば雄略22年、雄略の没する前年となってしまいます。ところがこの銘文は上祖の意富比垝から乎獲居臣にいたる系譜(これも親子関係なのかどうかは疑問らしいのですが)がほとんどで、それ以外は「辛亥年の七月中に記した」ことと「代々 “杖刀人首” となって仕えていまに至る」こと、「獲加多支鹵大王の “寺” が斯鬼宮にあったとき、天下を治めるのを私が助けた」「この百練の利刀を作らせて、私がお仕えする由来を記した」程度の情報しかわかりません。極端な言い方をすれば「辛亥年」が「獲加多支鹵大王」の治世だったのかどうかさえわからない。それでも江田船山の銀錯銘大刀の銘にただ「八月中」とのみあって年代が記されていないのとは大きな違いです。

 なお宋の順帝の昇明2年(≒478)は干支でいえば戊午にあたるようですが、おそらくその60年後の戊午、ほぼ538年は『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』などが百済からの仏教伝来を伝える年です。

 

 現在見る『元興寺縁起』では仏教伝来について「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来、百済国聖明王時……」、欽明天皇の治天下7年、歳次は戊午という形ではっきり述べているのですが、この現行の『元興寺縁起』については天平19年(≒747)当初の『元興寺縁起』ではなく、それを後世書き改めたものと見る有力な説があるようです。たしかに古さを感じさせる独自の記述にまじって、素人目にも気恥ずかしさを覚えるおかしな記述も見えます(冒頭、「癸酉」年=『日本書紀』の推古21年に推古が「生年一百」、100歳だったと記すなど)。残念ですがしかたがない。

 

 いっぽうの『上宮聖徳法王帝説』も、なぜか後世のものだと見られることの多い資料で、とくに「聖徳太子非実在説」的な論者からは攻撃されがちな印象がありますが、「聖王」「上宮王」廐戸の伝記を中心としながらも、用明・廐戸の配偶者と子女とを列記した記紀にも見えるスタイルの系譜記事や、法隆寺金堂薬師像銘・釈迦三尊像銘・天寿国繍帳銘の全文の引用なども見え、かなり雑多で一貫性に欠ける内容が短い1巻の中に収められています。欽明の治世における仏教伝来の記述はその終わりのほうに見えるもので、「志关(癸)嶋天皇御世代(戊)午年十月十二日、百齊國主明王、始奉度□(佛)像經教并僧等(後略)」などとあります。さらに末尾近くでは「志歸嶋天皇治天下卌一年〈□(辛)卯年年四月崩陵檜前坂合岡也〉」ともあり、その「卌一」をあとから1字ずつ斜線で消して、右に小さく「王代云卅二年文」などと書き込まれています。

 『上宮聖徳法王帝説』に見えるのは、仏教伝来が「シキシマ天皇の御世」の「戊午年」ということと、その「シキシマ天皇の治世」が「41年」だということだけです。『元興寺縁起』に見える「シキシマ天皇の治天下7年の戊午」といった表記は見えません。

 

 金錯銘鉄剣にも「辛亥年七月中記」との年代と「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」といった名称・事実しか記されておらず、辛亥年が「ワカタケル大王の○○年」なのかは残念ながらわからないのですが、これが当時の年代表記の精一杯の線だったようにも思われます。そしてそれから70年後、80年後といったあたり、仏教伝来の前後の時代でもそういった状況はあまり変わらなかったのではないでしょうか。

 年代の表記に関していえば、『元興寺縁起』と比較して『上宮聖徳法王帝説』のほうが古い形を残しているのではないかと疑います。

 

 仏教伝来を538年とか552年と見ると、鉄剣銘にはおかしなところがあります。「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の「寺」は、何と読むのでしょうか?

 これは意地の悪い見方で、ご存じの方にしてみれば何のことはない。中国では仏教渡来以前から「役所」「官庁」などを意味する「寺」という漢字が存在していたようです。仏教伝来以後のことになりますが、『日本書紀』推古15年に小野妹子が連れてきた隋使は「鴻臚寺」掌客の裴世清でした。「鴻臚寺」というのは外国からの使節の接待を担当した役所のようです。この銘文の「寺」も「役所」といった意味なのでしょう。

 考えてみれば、日本においてカメラで静止画や動画が撮影されるようになる以前から「撮」という漢字は存在していたはずで、『日本書紀』推古11年の冠位十二階の記事にも冠の形態について「頂撮総如囊」などと見えるようです。「頂(いただき)は撮(と)り総(す)べて囊(ふくろ)の如くにして……」、意味はいまひとつとりづらいのですが。

 では「獲加多支鹵大王」は……。「獲加多支鹵」のワカタケルはよいとして、「大王」については何と読むのでしょう? そしてこの鉄剣を作らせた「乎獲居臣」は、銘文の撰者にどういう銘文を書くのかは口頭で伝えたのでしょうが、この銘文を読むことはできたのでしょうか?

 

 古い時代には「大王」だった号の表記がいつのころからか「天皇」と改められた――。その時代が推古朝のころなのか天武・持統朝のころなのかで意見が分かれているようなのですが、文献によっては「大王」の読みをオオキミ、「天皇」をスメラミコトと規定し、「大王(オオキミ)から天皇(スメラミコト)へと変わった」といった形にも受け取れる記述をされているものも目にしました。

 用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女の同母弟に穴穂部皇子という人がいます。崇峻天皇の同母兄で、廐戸皇子から見れば叔父にあたります。この人は『日本書紀』用明紀などでは用明と皇位を争ったかのように描かれ、「丁未の乱」などと呼ばれる蘇我氏らと物部守屋らの戦いの直前に蘇我馬子によって討たれてしまうのですが、『古事記』欽明段にはこの穴穂部皇子の別名として「須売伊呂杼」、スメイロドという「名」が挙がっています。

 じつは穴穂部のスメイロドについては『日本書紀』にも見えるようで、用明24月丙午(2日)、用明が「瘡」を発病したさいに「皇弟皇子」穴穂部が豊国法師(とよくにのほふし)なる人を内裏に連れ込んで物部守屋が怒ったなどというエピソードが記されています。古典文学大系『日本書紀』によれば、この「皇弟皇子」の読みが「すめいろどのみこ」のようです。当時の「イロド」という言葉は同母弟・妹(同母の兄から見た弟か、同母の姉から見た妹)を指すものだったらしいのですが、この場合用明「天皇」から見て穴穂部は同母弟ではなく異母兄弟(父は同じ欽明だが、穴穂部の母は小姉君)であり、用明皇后の穴穂部間人から見れば同母弟(しかし本来、姉と弟のように性別が違えば「イロド」とはなりません)という、おかしなことになっています。

 こういった奇妙な称は、おそらく当時の王権内部における特殊な地位呼称ではないでしょうか。天武についても孝徳皇后間人皇女の同母弟としての「皇弟」、スメイロドが見つかるからですが、「スメ−」はおそらく皇孫(スメミマ)や皇祖(スメミオヤ)などというときの「皇」字の「スメ−」と思われます。穴穂部皇子に見えるスメイロドの称を当時のものと認めるなら、用明の時代――6世紀末にはすでに「スメラミコト」といった言葉(話し言葉、発音としての語)が存在したとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 可能性としての話ながら、倭人の会話の中で話し言葉として「スメラミコト」といった言葉が使われていた場合、渡来系の文筆家はそれを何と筆録したでしょうか?

 

 「天皇」号の成立したほぼ同じ時代に「日本」という国号もおそらくワンセットのような形で成立した、とされる説も目にしています。『旧唐書』は倭国伝につづけて日本国伝を立てていますが、その日本国伝の、対中国関係の最初の記事が703年の粟田真人の遣唐使についてですから、「倭」「大王」から「日本」「天皇」への変化のタイミングを天武・持統朝、7世紀末から8世紀初頭といった形で見ておられるのでしょう。

 しかし「日本」は何と読むのですか? ニッポン? ニホン? 「倭」については何と読むのでしょう?

 

 「新羅」を「しらぎ」、「百済」を「くだら」と読ませながら当時の日本は「倭国」、「ワコク」だったなどといったお説を拝見すると、失礼ながらUKを「イギリス」と言いながら日本のことをJapanで「ジャパン」と読ませているような状況を想像してしまう。『古事記』にはおそらく「日本」表記がなくてヤマトタケルノミコトも「倭建命」、対し『日本書紀』では「日本武尊」。

 ところがその『日本書紀』でも孝徳紀大化22月戊申(15日)、蘇我右大臣(石川麻呂)が「鍾匱」を設置した反応について読み上げる記事には「明神御宇日本倭根子天皇」、「日本倭」という奇妙な表記が見えます。このような言い回し自体7世紀半ばのものでなく『日本書紀』編纂のころの知識による作文なのでしょうが、ともかく古典文学大系では「日本倭」全体で「やまと」と読ませています。原稿の段階で「倭根子天皇」などとあったところに「倭」を「日本」と直すよう修正が入り、清書で「日本」を加えたのはよいが「倭」を削除し忘れた……などといった経過があったのではないかと空想しています。

 『上宮聖徳法王帝説』に見える法隆寺金堂の薬師像銘の引用にも、銘文に「将造寺藥師像」とある部分について、引用文が「造」を書き落としているのに対し、「造」を書き加えるのでなく「寺」を消して左に「造寺」と書き加える形の奇妙な修正が見えます。また銘文に「……大宮治天下天皇」とある部分(2カ所)について、引用文が「……大宮御宇天皇」と誤っているのに対し、「御宇」と書いたところを丸で囲み、その傍ら(1件目は左側、2件目は右側)に「治天下」と書き込んだ記載が見えますが、引用文の筆者の頭の中では「御宇」も「治天下」も同じ(「アメノシタシロシメス」などといった?)発音だったのでしょう。

 同様に、「倭」も「日本」もヤマトだった……。

 

 「大王」がオホキミで「天皇」がスメラミコトという、読み・発音での変化を実証するものがあるのでしょうか。なるほど5世紀後半の金錯銘鉄剣や江田船山の銀錯銘大刀、6世紀初頭かと思われる隅田八幡神社人物画像鏡などには「大王」と見えます(さすがに近年ではこれらの「大王」に「おおきみ」といった読みを与える例は多くない印象ですが)。いっぽう『万葉集』にはしばしば「大王」でオホキミと読ませているらしい歌が見える。『隋書』倭国伝のみに見える600年の遣隋使は倭王の号を「阿輩雞彌」と伝えた。それで……「天皇」号が使われるようになる以前は「大王」でオホキミだった、ということになるのかどうか。

 では「額田王」、ヌカタノオホキミはどうなるのでしょう?

 『万葉集』の「大王」は「日並皇子尊」草壁皇子や高市皇子に対しても使われていますし、どなたかのお説で拝見しましたが、『隋書』の「阿輩雞彌」は王号それ自体というよりは「陛下」的な23人称と解するのが適当と思われます。だって「王妻」を指すキサキならぬ「雞彌」は三輪君・上毛野君・胸形君や三国公・当麻公・息長公などのキミで一般的な尊称由来の語のようにも思えますし、「太子」の「利歌彌多弗利」については、渡辺三男さんが源氏物語等に見える「わかんどほり」に当て、東野治之さんは長屋王家木簡に見える「若翁」もこれに当てておられるそうですから、それらに従うならワカミタフリは皇太子的な唯一の存在でなく複数存在したもののようで、やはり「殿下」的な23人称の呼びかけの語と見たほうがいいように思えるのです。となると「阿輩雞彌」も……ということになります。

 また『続日本紀』の宣命(せんみょう。「宣命体」などと呼ばれる、読み上げることを目的とした独特の文体で書かれた詔)にしばしば「我皇天皇」(あるいは「我皇太上天皇」)といった言い回しが見えますが、この読みは「ワガオホキミスメラミコト」(「ワガオホキミオホキスメラミコト」)だったと思われます。こういった例では「大王=オホキミが古い言い方で、ある時点から天皇=スメラミコトにかわった」などと見るよりも「スメラミコトが本来の称号で、オホキミは “陛下” 的な23人称の呼びかけ」と見たほうがはるかにしっくり来るように思えるのです。

 『隋書』倭国伝に見える600年の遣隋使の「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」「王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利」などについては、質問が使者にうまく伝わらなかったか、あるいは何らかの理由で使者が意図的に外して答えたのではないかと考えます。

 「天皇」、スメラミコトの号が成立したら「大王」、オホキミはただちに払い下げとなって額田王や草壁皇子、高市皇子にも使われる……。そんなことがあり得るでしょうか。

 

 立ち返って、金錯銘鉄剣の「大王」は何と読むべきなのでしょうか。オホキミかスメラミコトかダイオウか、それとも “Dae Wang” などといった形で考えるのがいいのでしょうか。『日本書紀』では百済王などの「王」字に「こきし」あるいは「こにきし」といった読みを与えている例が多く、古典文学大系の補注によれば、これについて『周書』百済伝には「鞬吉支」とあることから実際には「コンキシ」だったようです(なお古典文学大系『日本書紀』の皇極2年是歳条では、百済から来ていた王子の豊璋を「太子余豊」と表記し、「太子」に「こんきし」の読みを与えているようで、ほかにも「太子」で「こんきし」と読ませている例があるようです)。

 さて、鉄剣銘の筆者の頭の中では「大王」は何と読まれていたのでしょうか……。

 

 表記が「倭」から「日本」に変わっても口頭の会話、人々の頭の中ではヤマトだったのではないか。「評」から「郡」と変わってもコホリだったように。「ヤマト」とか「スメラミコト」といった語は個人的にもある種の抵抗感を覚えます。しかしそれはそれとして直視しなければならないことで、古代についてはまた別です。この「大王」はオホキミだったのか、それとも……。そんなことを考えさせてくれる鉄剣銘ではありました。