(大王天皇)

 

 7 「東宮」たち――ヒナミシノミコ・ヒジリノミコ

 

 この「中宮」もよくわかりませんが、「東宮」というのもよくわからない存在です。

 「また何を言っているんだ、“東宮” は皇太子のことであって “東宮” も “春宮” も “儲君” もみんな皇太子を指すに決まっているじゃないか」……それはそうなのでしょうが、『日本書紀』では「東宮」というのは少し奇妙な見え方をしている。むしろ天智紀と天武紀上の天武についてのみ集中的に見える印象なのです。見落としも多いことと思いますが、天智紀の天武は大筋で「大皇弟」→「東宮大皇弟」(「東宮太皇弟」)→「東宮」と変化する印象があり、この「東宮」が天武紀上でもひきつづき使われている印象なのですが、途中からまた「大皇弟」に戻るような形に見受けられます。読みについて古典文学大系は基本的に「東宮」に「まうけのきみ」、「東宮大皇弟」は全体で「ひつぎのみこ」、「大皇弟」については天智紀で「ひつぎのみこ」、天武紀で「まうけのきみ」の読みを当てているようですが、こちらの見落としも多いでしょうし、あまりこだわってみても仕方ないのかもしれません。

 

 これが天智を指す「東宮」となると、舒明紀末尾の「丙午、殯於宮北。是謂百済大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」、天智の年齢が舒明13年に数え年16歳と判明する記述のみに「東宮開別皇子」と見えているようです(「東宮」の読みは古典文学大系で「まうけのきみ」)。

 廐戸の「東宮」については用明紀元年正月壬子朔(1日)、穴穂部間人所生の子女の記事に「其一曰廐戸皇子。〈更名豊耳聡聖徳。或名豊聡耳法大王。或云法主王。〉是皇子初居上宮。後移斑鳩。於豊御食炊屋姫天皇世、位居東宮。総摂万機、行天皇事。語見豊御食炊屋姫天皇紀」(読みは古典文学大系で「みこのみや」)と見えますが、それ以前、敏達紀の例の推古の娘の嫁ぎ先を記した記事に「其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳」(読みは古典文学大系で「ひつぎのみこしやうとく」)と見えていました。この2カ所のようです。

 それ以外は……持統紀末尾の11年2月甲午(28日)に「二月丁卯朔甲午、以直広壱当麻真人国見、為東宮大傅。直広参路真人跡見為春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持為亮」、皇太子文武付きの役人の顔ぶれがそろっていますが「東宮」が1カ所に「春宮」が1カ所。文武の名も称号も見えません。あとは、宮の名称(皇極元年12月壬寅の分注「〈或本云、遷於東宮南庭之権宮。〉」。読みは「ひつぎのみや」)とか、唐の役人の肩書(白雉52月「東宮監門郭丈挙」)程度かと思われます。「勾大兄」安閑は「東宮」的なイメージがありますが、継体712月の立太子とされる記事に「宜処春宮」。古典文学大系では「春宮」に「ひつぎのみこのくらゐ」との読みが見えています。

 天武と持統の子の草壁皇子については「日並知皇子尊」といった称も有名なのですが、『日本書紀』には「東宮」との表記は見えないようなのです。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の縁起の末尾近くには「十三年天皇寝膳不安是時東宮草壁太子尊奉勅……」、「東宮草壁太子尊」とあるようですし、また談山神社蔵の粟原寺三重塔伏鉢の銘には「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願 / 奉為大倭国浄美原宮治天下天皇時 / 日並御宇東宮敬造伽藍(実際は手偏に「監」)(後略)」、「日並御宇東宮」などと見えているようなのですが。

 

 もっとおかしなことに、どうも『日本書紀』には「日並知皇子尊」とか「日並知皇太子」的な名称が見えず、逆に『続日本紀』には「草壁皇子尊」といった名称が見えないようなのです。

 これは奇妙な話で、『続日本紀』の編者だって「日並知皇子尊」が草壁皇子だということは知っていただろうし、『日本書紀』の編者も「日並知皇子尊」(「尊」か「命」か「ミコト」かは知りませんが)といった称は知っていたでしょう。『万葉集』巻2には「日並皇子尊」草壁自身の歌が110に見えていますし、167の柿本人麻呂がこの草壁を悼んだ挽歌の題詞にも「日並皇子尊」、歌の中にも「高照 日乃皇子波」といった形で見えており、また「皇子尊宮」の舎人たちの挽歌の中にも「我日皇子乃」「吾日皇子乃」などと見えているくらいですから。『日本書紀』編纂グループと『続日本紀』編纂グループとが80年近い時をこえてケンカしていたわけでもないのでしょうが。

 少なくとも『日本書紀』という書物は「日並知皇子尊」、ヒナミシノミコノミコトといった称については記録したくなかったもののように思えます。「仲天皇」「中皇命」のナカツスメラミコトも意図的に避けて「間人大后」としていたかのように感じられます。そしてまた持統の「太后天皇」「大后天皇」「大皇后天皇」、オホキサキノスメラミコトも避けていた、推古の「大王天皇」「太帝天皇」も避けていた……。

 『日本書紀』というのは、そういった性格の書物だと思います。

 斉明の「皇太后天皇」だけは、天智の言葉の中のものということで避けるわけにもいかなかったのでしょうか。

 『日本書紀』が避けたナカツスメラミコトが『万葉集』と『大安寺−』に残った。『日本書紀』が記さなかった持統のオホキサキノスメラミコトが『懐風藻』と『日本霊異記』に残った。『日本書紀』が触れもしなかった「大王天皇」「太帝天皇」が『大安寺−』と、ニセモノらしい法隆寺金堂の薬師坐像とに残された……。こういう言い方は悪いですが、『日本書紀』に比べれば格の落ちる資料のように見なされがちなものたちが、裏では互いに手を組んで『日本書紀』の隠したものを指し示している――。そんなイメージが浮かんでしまうのです。

 

 「東宮」に戻りますと、『日本書紀』は基本的に「東宮」を天武のみに限定したかったのではないかといった印象を受けます。しかも天武の「東宮」は「皇太子」ではなく「大皇弟」です。廐戸や天智についても「東宮」が見えますが、天智の「東宮」は舒明紀末尾に1カ所であり、廐戸の「東宮」も敏達紀と用明紀に1カ所ずつ。その敏達紀のほうは「其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳」、例の貝鮹皇女の嫁ぎ先という例外的な記事です。この「東宮聖徳」には古典文学大系では「ひつぎのみこしやうとく」との読みが見えます。

 

 法隆寺金堂の薬師像銘では廐戸が「太子」→「東宮聖王」と見えていました。

 敏達紀の「東宮聖徳」は「東宮聖王」の「王」を「徳」にかえただけのものですが、この「東宮聖王」はなんと読むのでしょうか?

 日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」では「ひつぎノみこひじりノおほきみ」との読みが与えられています。山口仲美さんの『日本語の歴史』(岩波新書 2006)には「ひつぎのみこひじりのきみ」と見えます。『上宮聖徳法王帝説』の薬師像銘の引用の原文に読みはなく、「東宮聖徳王」の「徳」を丸で囲んで右に小さく「ム」(無い、という意味でしょう)と書かれています。

 『上宮聖徳法王帝説』にはほかにも「聖王」単独の用例が「上宮王」などと並んで多く見えているようです。

 

 草壁皇子の「日並知皇子尊」は『続日本紀』に見えていて『日本書紀』には見えないようですが、『万葉集』巻2には110で「日並皇子尊」草壁本人の歌があり、167の人麻呂の挽歌の題詞にも「日並皇子尊」という形で記されています。巻129、同じ人麻呂が荒れ果てた近江の旧都を通ったさい歌った長歌は「玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従〔或云、自宮〕 阿礼座師 神之尽 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎〔或云、食来〕(後略)」……玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御世ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを……(読みは古典文学大系『萬葉集 一』によりました)で、「橿原乃 日知之御世」について中西進さんの『万葉集 (一)』(講談社文庫 1978)の注には「初代と伝える神武天皇のこと。畝火の橿原の宮に定都。「日知り」は農耕の日を知る意、広く聖に用いる」と見えます。

 となると「東宮聖王」の「聖王」をヒジリノキミなどと読むとき、それは「日知りのキミ」を意味するといったことになりそうです。『日本書紀』は記していませんが草壁皇子は「日並知皇子尊」、ヒナミシノミコノミコトで、おそらく天武と並んで政治を見たという意味が込められている称なのでしょうが、この「日並知」の「並」を取ると「日知」、ヒジリになります。

 

 薬師像銘の「聖王」について、福山敏男さんの「法隆寺の金石文に関する二三の問題」では「もしこの銘文が丁卯年當時に書かれたものとすれば、太子は御在世當時から聖王と呼ばれ給ふたことにならう」と前置きしたうえで、境野黄洋さんの『聖徳太子伝』に見える「それからまた單に聖王などと書いた書もあるが、恐らく是等は皆太子薨去後世人が呼んだ尊稱に過ぎないので、即ち或は聖王或は聖コ王、或は聖コ法王、聖コ太子いづれも同じことなのである」(原文「聖王」2カ所と「太子薨去後」に傍点ルビ)の記述を「極めて穩健な解釋」と評され、「即ち境野博士はこの言葉によつて、「聖王」の語の見ゆる藥師像光背銘文が推古天皇十五年當時のものではなく、太子薨去以後のものであることを指定された結果になる筈である」とされています。薬師像銘自体が廐戸皇子の時代をはるかに下るものであることは異論がありませんが、「聖王」については、漢字を取り去ってヒジリノキミ、ヒジリノミコ的な読みだけを残したらどういうことになるだろうか……とも考えてしまいます。

 ヒジリという語に漢字を当てるとき、「日知」までで済ませておけばよいのに「聖」を当てた。当てたその人もまさか将来 saint の訳語として使われるとは予想しなかったでしょうが、「聖王」を後世呼んだ尊称だと見る背景には、あるいは「聖」が saint の訳語にまでなってしまった時代のフィルターがかかっているのかもしれません。「聖」字には皇帝・天皇関係などけっこう政治向きの場面で見られる印象もあって、『続日本紀』天平155月癸卯(5日)の「聖武」天皇の宣命(同日皇太子=孝謙が舞った「五節舞」について、天武天皇の創始と説明している)には天武が「掛〈母〉〈伎〉、飛鳥浄御原宮〈爾〉大八洲所知〈志〉〈乃〉天皇命」、「聖」の「天皇命」と見えているようですし、また唐の上元元年(≒674)に高宗が「天皇」を号としたさいには「上元元年、高宗号天皇、皇后亦号天后、天下之人謂之二聖」、天下の人が「天皇」高宗と「天后」(皇后の武氏=武則天)を「二聖」と称したなどと『新唐書』に見えているようです。

 ヒジリに「聖」を当てたのは行き過ぎのようにも感じられ、またおそらく早い段階で「日知」の意味のヒジリに「聖」字の当てられてしまったことが状況を分からなくしてしまったものと思うのですが、もっと極端なのはヒコ(「比古」「日子」「彦」など)ではないでしょうか。『魏志』倭人伝に見える「卑狗」がそれだとすれば、字面は当時の中国人が当てたものでひどいものですが、ヒコという語自体は由来の古いものと見なせそうです。つづいて稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に見える「意富比垝」や、『日本書紀』神功紀摂政62年に引かれた『百済記』に見える「沙至比跪」など、百済の文筆家・渡来系の文筆家あたりが用いたらしい「比垝」「比跪」といった表記があって、それが『古事記』段階の「比古」(連濁の場合「毗古」)あたりにつながっていくように思われるのですが、ここまでが字音の段階。『古事記』では「比古」(「毗古」)よりも「日子人太子」など「日子」のほうが多い印象です。この「日子」からが訓の表記で、『日本書紀』になると「彦」となり意味不明になってしまいますが、これは行きすぎではないか。ヒコの語義をよく表しているのは『古事記』の「日子」のように思われるのです。

 

 高群逸枝さんの『女性の歴史(上)』(講談社文庫 1972)の中に、姫彦制に関連して「ヤマト連合は、族長たちが各自のカマドの火を持ちより、それを合わせて永遠に燃え立つ炬火としたトヨノアカリをめぐって、なりたっていたらしいことは前にいった。その聖火は連合の象徴であり、その護持のしごと(ひいて護持者)をアマツヒツギといった。そしてそのアマツヒツギのうち、聖火に直接奉仕したのはヤマト姫であり、それを助けたのはヤマト彦(根子)であった。後代の宣命などにも、天皇のことは、ヤマト根子と記されている。のちに聖火は日像―鏡に象徴された。キコエ大君が日の神に仕えたように、この段階にくるとヤマト姫も日の神に仕えた。/ 日(太陽)と母祖(大ヒルメ)とが、ここで結合された。元来、姫彦の名は、日の娘、日の息子を意味したものであったが、ここにきて、日祭りの意識が、いちだんとつよまった。これは農業の発達とも結びついた現象であったろう。また族長の世襲化とも関連したものらしい」などと見えます。

 高群逸枝さんなどという大家に盾つくつもりはありませんが、このご見解は実証されていることなのでしょうか。「日(太陽)と母祖(大ヒルメ)」とが結合したのがいつの時代、どういう段階なのか不明ながら、『隋書』倭国伝には開皇20年(≒600)に来朝した倭国の使者が「俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聴政跏趺坐日出便停理務云委我弟」、倭王は天を兄、日を弟とし、未明に出て聴政しあぐらをかいて坐り、日が出れば仕事をやめて「弟に任す」と言う――などと言ったとあります。この使者の言葉は前後に見える「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」や「王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利」などもあわせてそのままには信じられない、額面どおりには受け取れないものだと思いますが、この西暦600年ごろ以前に「日(太陽)と母祖(大ヒルメ)」とが結合していたとすれば、でたらめにもせよ日をもって弟とするといった発想は出てこないように思えるのです。この使者の言葉を信じる限り、日と母祖とが結合したのはこれよりあと、比較的新しい時代のようにも思えます。

 またここには「ヒコ」について「日の息子」、太陽の息子の意味だという記述も見えますが、いっぽう他の書籍では「ヒジリ」という語について「暦を知っている人」といった説明がなされているのも見かけます。「日-子」と「日-知り」、同じ「日」が付く語だろうに――と、少し違和感を覚えます。

 

 じつは「日」という言葉に「政治」の意味があったのではないか。

 もちろん政治は「政」、マツリゴトでしょうが、それは祭りとか「水表之軍政」(天智紀)、戦争などのイベントであり、日常の政治は「日」だったのではないか。天体としての太陽から、転じて太陽の動きをサイクルとする「日」という時間の単位となり、さらにその日々を送らせ暮らしを成り立たせる、生活させていくことといった意味で「政治」の意味に転じていったのではないか――などと思っています。だから600年の倭使も「日が出たら弟に任せる」などと言った。「日」それ自体に政治の意味があったからではないでしょうか。そうなると100年ほどのちに定まったらしい「日本」という国号についても……などと考えるわけです。

 ヒメは元来「政治する女性」、ヒコも「政治する男性」。もっとも『古事記』に「日女」表記があまり見られないらしいのは、それこそ「大ヒルメ」天照大神のこととされてしまったからのような気もしますが。

 ヒツギノミコは「政治を継ぐミコ」の意味。もっともそのヒツギノミコの存在が疑われる時期があるわけで、草壁皇子の「日並知皇子尊」、ヒナミシノミコノミコトは「日」、政治を(おそらく天武と)並んで「知る」ミコのミコトといった意味だったのでしょう。「知」について、新日本古典文学大系『続日本紀 一』の「日並知皇子尊」の補注には神野志隆光さんの「(前略)したがってここでの「知」は、「シラス」すなわち統治の意と解すべきものである」とのご見解が引用されています。

 

 同様に廐戸皇子の「聖王」をヒジリノミコなどと読むなら、それは「日」、政治を知るミコ、といったものになるでしょう。そしてまたヒジリノミコの称を草壁のヒナミシノミコと比較した場合、草壁が「並んで」政務を見ていた感じなのに対し廐戸は単独で政務を見ていたかのような印象になる……。用明紀に見える「総摂万機、行天皇事」とか推古紀に見える「仍録摂政。以万機悉委焉」といったイメージの源流は、じつはこんなヒナミシノミコと比較してのヒジリノミコというあたりに発しているのではないかと思います。

 またこの廐戸のヒジリノミコは――あんがい御在世の当時からそのような称号で呼ばれていたのではないでしょうか。

 先にも引きました新日本古典文学大系『続日本紀 一』の「日並知皇子尊」の補注によれば、神野志さんは草壁の「日並知皇子尊」(また「日並知皇子命」「日並知皇太子」)については「諡号」、死後の「おくりな」と推定されているようです。

 しかし、草壁には天平宝字2年(≒758)に「岡宮御宇天皇」がたてまつられています。また「諡号」といった意味で廐戸のヒジリノミコと草壁のヒナミシノミコとを並べて見比べた場合、廐戸の「上宮廐戸豊聡耳太子」(推古元年4月己卯)・「廐戸豊聡耳皇子命」(推古29年2月癸巳)・「上宮豊聡耳皇子」(推古紀29年2月是月)などの称についてはどう見ることになるのでしょうか。

 さらに『日本書紀』というものが――天武以外は「東宮」系統の称を残したくなかった、「皇太子」に置き換えられるものは置き換えてしまった、「東宮聖王」さえも認めず「東宮聖徳」でなければだめだった――そんな性格のものではなかったかと疑うと、では「皇太子」、ヒツギノミコを除いたとき、本来は何だったのかなどと考えるのです。具体的には、草壁皇子の「日並知皇子尊」について「天武10年に “皇太子” 、ヒツギノミコに立てられ『令摂万機』とされたが持統3年にヒツギノミコのまま他界。その後ある時点で『日並知皇子尊』の諡、おくりなをたてまつられ、慶雲4年7月の元明即位の宣命では『日並知皇太子』などと記されヒナミシノミコノミコトと読まれた」などといった形で見るか、「天武10年にヒナミシノミコといった地位に就けられ、名目的であれ『令摂万機』とされたが持統3年に他界。慶雲4年7月の元明即位の宣命では『日並知皇太子』などと記されヒナミシノミコノミコトと読まれたらしいが、基本的にそういった地位呼称を認めなかった『日本書紀』では『皇太子』とされてしまった」といった形で見るのか――そんなふうに考えています。

 「聖王」とか「日並知皇子尊」などは、後世たてまつられた「尊称」のように見えながら、じつはヒジリノミコとかヒナミシノミコなどといった形で当時じっさいに使われていた地位呼称ではなかったかと思うのです。

 

 先ほどの間人のナカツスメラミコトや廐戸のヒジリノミコ、草壁のヒナミシノミコなどは地位呼称だと思うのですが、その地位にあった人が1人しかいなかったため固有名詞のようになってしまったもののように見えます。しかし――もしかするとヒナミシノミコはもう1人いたかもしれません。

 『元興寺縁起』の中に「尓時大々王者、日並〈ノ〉〈ノ〉皇子之嫡后〈止〉〈キ〉、池辺〈ノ〉皇子者他田皇子〈ノ〉即次坐〈キ〉」などといった記述が見えるようです。

 『元興寺縁起』についてはもとの『元興寺−』を書き改めたものとの疑いが持たれているらしいことは先に述べました。「大々王」も「他田皇子」「池辺皇子」も疑わしく思えますが、ここに「日並田皇子」といった奇妙な称が見えています。日本思想大系『寺社縁起』ではこれを「日並四皇子」と見て「ひなみしのみこ」の読みを与えられているようですが、個人的には「日並他田皇子」とか「日並知他田皇子」などとあったところから文字が脱落した結果ではないかとも疑っています。

 『日本書紀』敏達紀によれば、欽明崩御の翌年の敏達元年4月に即位したのち、同月百済大井に宮をおいたと見え、その後敏達4年正月になってやっと立后の記事(広姫を皇后とし、また配偶者として老女子夫人・菟名子夫人を挙げる)があり、そして同4年のうちに訳語田に宮を造営して幸玉宮と称したと見え、そのあと同4年11月に皇后広姫が没したと記しています。

 「他田皇子」(「をさたのみこ」などと読むのでしょう)を疑わしく思うのは、『日本書紀』によれば敏達は即位4年目にやっと宮を「百済大井」から「訳語田」(をさた)に移したように見えることが理由です。それ以前は「訳語田」の地に縁があったようには見えません。「ヲサタ氏」などといった集団に養育された――などとなれば話は別ですが、「他田皇子」も「池辺皇子」も単純に即位後の宮の名称に「皇子」を付けただけのようにも見えます。『日本書紀』では欽明15年正月甲午(7日)の立太子の記事でも「立皇子渟中倉太珠敷尊、為皇太子」、「皇子渟中倉太珠敷尊」であり、『日本書紀』には「訳語田天皇」といった称は見えても「他田皇子」「訳語田皇子」といった称は見えなかったように思うのです。

 それはさておき、敏達がその4年にやっと広姫を皇后とし、また百済大井から訳語田幸玉宮に移ったというのも奇妙な印象です。立后とか宮の造営は即位からそれほど間をあけずに行われるべきことでしょう。広姫と間には押坂彦人大兄以下3人の子がありましたから、配偶関係の成立はおそらく即位以前と思われます。また同4年の11月に広姫が没したのち、翌5年3月には「有司」が立后を求めたため推古を皇后としたと見えます。皇后がいない状態はよくないという意識があったようにもうかがわれます。なぜ即位から3年近くも皇后不在だったのか気になるところです。

 崇峻44月甲子(13日)には「訳語田天皇」敏達を「妣皇后」石姫の眠る「磯長陵」(しながのみさざき)に葬ったことが見えますが、推古が子の竹田皇子の墓にいっしょに葬ってくれと遺詔したことも思い出され、あるいは……などとも思うのです。

 

 敏達の享年も『日本書紀』には記されませんが、古典文学大系『日本書紀』の注には「天皇の享年を皇代記・紹運録等に四十八、扶桑略記・愚管抄等に二十四、神皇正統記に六十一とする」とあります。『本朝皇胤紹運録』等の48歳を採ると即位した敏達元年に35歳、立后や宮の造営のことが見える敏達4年には38歳となる計算です。40歳からは微妙にずれますが、考えさせられる数字ではあります。

 敏達立太子のことは、先にも触れましたが欽明15年正月甲午に「立皇子渟中倉太珠敷尊、為皇太子」と見えており、敏達即位前紀には「廿九年、立為皇太子」と見えていて混乱があります。欽明134月には欽明の嫡長男であるはずの箭田珠勝大兄が没していますから、その後敏達後継を確認するような何らかの動きがあってもおかしくないように思えます。

 『元興寺縁起』は疑わしいものだとは思うのですが、「日並田皇子」については、あるいは敏達も「ヒナミシノミコ」的な称を帯びていた可能性があるのか……などと考えさせられるのです。