(大王天皇)

 

 6 ナカツスメラミコト

 

 天智紀の1010月庚辰(17日)、危篤の天智が病床に「東宮」天武を呼び「私は病が重いので後事をお前に託す」などと詔したとあります。天武は病気と称し固辞して受けず、「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道」(「国家という大業は “大后” 倭姫王につけ、大友王をして諸政を “宣” 、のべさせるようにしてください。私は天皇のおんために出家し道を修めたく、お願い申し上げます」……といった意味でしょうか)と言った。天智が許したため、天武は内裏の仏殿の南で剃髪し僧になった。そこで天皇は使者を遣わし袈裟を贈らせた――などと見えます。

 ほぼ同じ内容がつぎの天武紀上(天武紀は上巻・下巻があります)にも見えていますが、こちらは天智紀にいう天智10年を「四年冬十月庚辰、天皇臥病、以痛之甚矣」と天智即位から数えて4年としており、また「蘇我臣安麻侶」を遣わし「東宮」を召して大殿に引き入れたが、「安摩侶」は東宮と親しかったためひそかにその身を案じ「お気をつけてお答えなさいませ」というようなことを言った。そこで天武は陰謀を疑い用心した――などといったエピソードが加えられています。

 それから「天皇」は「東宮」天武に勅して「鴻業」を授けたが、天武は辞退し「臣之不幸、元有多病。何能保社稷。願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳」(「私は不幸にしてもともと多くの病があり、国家を保っていけません。願わくは、陛下には天下を挙げて “皇后” 倭姫王にさずけ、大友皇子を立てて “儲君” 、皇太子とされんことを。私は今日出家し、陛下のために功徳を修めたいと思います」……といった意味でしょうか)と言った。天皇が許したためその日に出家して法衣を着け、私有していた兵器をすべて「司」に納めた――などとあります。

 ここに見える「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道」(天智紀1010月庚辰)・「願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳」(天武紀上 即位前紀)はしばしば随所に引用される記述ですが、だいたい同じことを言っていますし、同じ出典から引用された文なのでしょう。たとえば「宣」と「宜」、「諸」と「儲」などは意味は違いますが文字のイメージは似ています。天智紀のほうが天智の子である大友皇子を「大友王」とするのは例外的で、『日本書紀』では天皇の子女は「−皇子」「−皇女」表記が普通。天武紀のほうでも「大友皇子」です。「大友王」は『古事記』的な書き方であり、その分古い体裁を伝えているのかもしれません。とすれば「大后」という語が「皇后」に対応することになるのでしょうが、ならば「大后」は「皇太后」的な存在ではなかった……ということになるのかどうか。

 それはともかく――この文、とくに天智紀に見えるほうの文が、あんがい当時の実情をそのまま伝えているのでは? つまり、天武はなんら特別なことを言っていない。ごく当たり前のことを言っている……。そんな感じではないでしょうか。

 直系の天皇である天智が崩御すれば、自動的にその皇后である倭姫王が「即位」した……いや即位したかどうかはわかりませんが、「オホキサキノスメラミコト」か、ともかくしかるべき地位に就いた。通常なら皇后に嫡子がいて将来の即位を期待されるところでしょうが、倭姫王には子がありませんでした。そのかわり跡継ぎとしては卑母所生の子ながら太政大臣とされた大友皇子がいました。明治3年に「弘文天皇」とされたそうですが、『懐風藻』の大友皇子の伝記を信じれば享年25。即位の目安を40歳前後以上と考えると、とても即位できる年齢とは見なされなかったでしょう。ならば天智の姪にあたる倭姫王は40歳以上に達していたのでしょうか? もしも40歳に達していなかったとすれば、だれも即位せず空位だったということにもなりかねません。結果的に壬申の乱では天武が勝利したので、そのへんの事情はわからないのですが。

 

 しかし、それ以前にも同様の事態が起こっていたかもしれません。

 百済復興救援のため筑紫に赴いていた斉明天皇が朝倉宮で崩御した斉明7年(≒661)、天智は36歳でした(『上宮聖徳法王帝説』のデータによれば37歳となる計算)。天智は即位せず「皇太子素服称制」。従来この「称制」については「皇太子のままのほうが動きやすかった」などという説明がされたりしたこともあるようですが、当時天皇即位に40歳以上であることが求められていたとすれば説明がつきます。36歳では天智はまだ即位できなかったでしょう。

 先ほども引きましたが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「後岡基宮御宇天皇」斉明の臨終の場面に「近江宮御宇天皇」天智と並んで「仲天皇」(一般的にナカツスメラミコトなどと読まれる)なる存在が登場し、「此寺授誰參来〈止〉先帝待問賜者如何答申」と問う斉明に対し天智が「開〈伊〉髻墨刺〈乎〉刺肩負鉝腰刺斧奉為」と答え、「仲天皇」も「妾〈毛〉我妋等炊女而奉造」と答えた……などと見えています。この「仲天皇」がだれなのか、『万葉集』巻1の3・4・101112の歌の題詞に見える「中皇命」や野中寺弥勒半跏像銘に見える「中宮天皇」、さらには『続日本紀』神護景雲3年10月乙未朔(1日)の孝謙天皇の宣命に見える「新城〈乃〉大宮〈爾〉天下治給〈之〉〈都〉天皇」などもからめて古来――荷田春満さん(?)あたりから――論議されてきたそうで、斉明天皇・その娘の間人皇女・天智皇后の倭姫王などさまざまな説が出されたもののようですが、結論からいえば私は間人皇女のことを指すと思っています。なぜ結論だけいうのかといえば、論文等を全然読んでいないからなのですが。

 「間人皇女は『日本書紀』に天皇とされたことが見えないし、舒明紀の系譜を除けば孝徳紀に間人皇后、天智紀で間人大后と見えるだけの存在。なぜその間人皇女がナカツスメラミコトと……」などといったご意見があるかもしれませんが、まず『大安寺−』に見える「仲天皇」は、「後岡基宮御宇天皇」斉明臨終の場面で「私も “妋” と炊女となって……」と斉明に対し呼びかけているのだから、斉明のはずはないです。

 つぎに「妋」(せ)字について。セは妻から見た夫、いとしい男性といったイメージがあるかもしれませんが、『播磨国風土記』揖保郡(いひぼのこほり)美奈志川(みなしがは)の項には「所以号美奈志川者 伊和大神子 石龍比古命 与妹石龍比売命二神 相競川水 妋神欲流於北方越部村 妹神欲流於南方泉村(後略。話は――伊和大神の子の石龍比古命とその妹の石龍比売命が田に流す水をめぐり水争いし、最後に妹神が暗渠をつくって流したため水が流れなくなった、だから水無し川という――といったもの)」などと見えています。ここに石龍比古命を指して「妋神」と見えますが、石龍比古命と妹の石龍比売命はどちらも伊和大神の子とされていますから、このイモセの関係は夫婦というよりは兄妹のように思えます。同様の「妋」の例が同じ『播磨国風土記』の讃容郡(さよのこほり)の郡名の由来(「大神」とその妹の玉津日女命について「大神妹妋二柱」と書く)や、『山城国風土記』逸文(賀茂建角身命の子に玉依日子と玉依日売があったとし、その玉依日子について「妋玉依日子」とする記述が見える)、さらに『日本霊異記』上巻第31縁(「御手代東人」が「従三位粟田朝臣」の娘と夫婦になり、その娘が臨終のさい彼女の「妋」に対し「妋の娘を東人の妻にして家を守らせてほしい」と言ったと見える)にも見えているようですから、これらの「妋」は妻から見た夫とか、男女関係で女性から見た男性などと見るよりは、血縁の兄妹の間で妹から見た兄を指すものと見たほうがいいでしょう。ですから天智を「妋」と呼ぶのは間人皇女と見るのが適当なのでは。

 それから『万葉集』の「中皇命」については――斉明天皇代の101112については左注に「山上憶良の類聚歌林には天皇御製とある」などと見え、これを根拠に「中皇命」を斉明天皇と見るご見解もあるようですが、これは別の一説を紹介しただけのものでしょう。倭姫王の歌は巻2の天智天皇代の挽歌の147148149153159に見え、ことに149の題詞には「倭大后」とはっきり記されていますから、「中皇命」を倭姫王と見ることは難しいように思われます。

 「中皇命」をナカツスメラミコトと読んでいいのかどうか――といったご意見については、「皇祖」でスメミオヤ、「皇孫」でスメミマ、「皇神」でスメガミ、「皇弟」でスメイロドなどと読む例からすれば、素人目に見ればむしろ「天皇」よりも「皇命」のほうがスメラミコト的であるような気もします。『元興寺縁起』には「大々王天皇命」といった表記が見えるようですが、『播磨国風土記』の美嚢郡(みなぎのこほり)の郡名の由来にも「(汝父)市辺天皇命」(仁賢・顕宗兄弟の父の市辺押磐皇子を「天皇命」とする)などと見えますし、じつは『古事記』も初出では「天皇命」のようです(上巻、天津日子番能迩々芸命が、大山津見神の娘の木花之佐久夜毗売だけ受け入れ、姉の石長比売を送り返した記事に「故是以、至于今、天皇命等之御命不長也」)。さらに『続日本紀』冒頭、文武元年8月甲子朔(1日)の文武即位の宣命に「現御神〈止〉大八島国所知天皇大命〈良麻止〉詔大命〈乎〉、集侍皇子等王臣百官人等天下公民、諸聞食〈止〉詔。高天原〈爾〉事始而、遠天皇祖御世、中今至〈麻氐爾〉、天皇御子之阿礼坐〈牟〉彌継継〈爾〉大八島国将知次〈止〉、天〈都〉〈乃〉御子随〈母〉、天坐神之依〈之〉〈之〉随、聞看来此天津日嗣高御座之業〈止〉、現御神〈止〉大八島国所知倭根子天皇命授賜〈比〉負賜〈布〉、貴〈支〉〈支〉〈支〉〈支〉大命〈乎〉受賜〈利〉恐坐〈氐〉、此〈乃〉食国天下〈乎〉調賜〈比〉平賜〈比〉、天下〈乃〉公民〈乎〉恵賜〈比〉撫賜〈牟止奈母〉、随神所思行〈佐久止〉詔天皇大命〈乎〉、諸聞食〈止〉詔(後略)」と見える「天皇」(文武の自称)の読みは「スメラ」、「現御神〈止〉大八島国所知倭根子天皇命」(持統)の「天皇命」が「スメラミコト」のようです。これらの例はいうならば口語で、会話文的な文脈に多い印象なのですが、それでも8世紀はじめはまだ「天皇命」が混用される時代だったように感じられ、むしろ「天皇」「尊」のみの『日本書紀』のほうが異質と映ります。「皇命」でスメラミコトというのも決して無理ではない。むしろ――「皇命」という表記にこそ『万葉集』の『日本書紀』に対する見方のようなものがうかがえる気がするのです。

 

 『続日本紀』神護景雲3年10月乙未朔の孝謙天皇の宣命(和気清麻呂が「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は早く掃除しろ」との神託を持ち帰った直後のもの。この宣命のあとに金泥で「恕」と書かれた紫の帯を配布した)に「新城〈乃〉大宮〈爾〉天下治給〈之〉〈都〉天皇」と見える「中〈都〉天皇」、ナカツスメラミコトは元正天皇のことかと思われますが、ならば間人皇女と元正との間に共通点はあるのでしょうか。

 『日本書紀』は間人の即位を伝えません。いっぽう『続日本紀』は元正を即位した存在として伝えます。その違いは……浄御原令とか大宝令、令制の前か後かといったあたりに求められるのでしょうか。元正の父の草壁は即位できぬまま持統3年(≒689)に28歳で没していますが、文武は持統11年=文武元年(≒697)に15歳で即位しています。元正は霊亀元年(≒715)即位のさいに36歳だったようです。間人は生年未詳ですが、斉明7年(≒661)の斉明崩御時に天智が36歳で即位できなかったとすれば、その天智の妹の間人は常識的には1歳以上年下ということになるでしょう。

 また、直前の女性天皇の娘、という点でも共通しています。女性天皇というものを、直系の天皇の崩御後に皇后がオホキサキノスメラミコトなどといった地位に就いたもの、といった形で見るなら、女性天皇が2代つづくということは本来想定されていなかったのではないでしょうか。

 それから夫が天皇の直系筋ではない、といったあたりも共通点と見なせるのではないでしょうか。夫を持たなかった元正は言うまでもないのですが、間人の夫だった孝徳も直系ではない。傍系です。しかも間人とは結果的に離縁したようにも見えます。光明皇后所生で皇太子を経て即位した異例づくめの孝謙天皇を除外すれば、他の推古・皇極・持統・元明は直系筋の天皇の皇后、もしくは直系筋にあたる存在の配偶者です。そういった意味からすれば間人も元正もこのグループからは外れてくる。本来「天皇」「スメラミコト」となるべき人ではないけれど、まだ次の天皇が即位できないから、その間の中継ぎとして「天皇」「スメラミコト」とされた……そういった意味、中継ぎとしての意味でのナカツスメラミコトだったのではないでしょうか。

 斉明崩御の時点で36歳の天智はまだ即位できなかった。けれども王族内にはほかに天皇になれる人もいなかった。空位としておくわけにもいかない。それまで直系の天皇の崩御後はその皇后がそのままオホキサキノスメラミコトといった地位に就いていたけれど、ここは直系ではないものの孝徳の皇后ではあった間人オホキサキに中継ぎとしての位に就いていただこうか……。そんな経過を想像するのです。

 

 野中寺弥勒半跏像銘に見える「中宮天皇」についても人物比定をめぐって斉明天皇・間人皇女・倭姫王などのご見解に分かれるらしいのですが、銘の「丙寅年」は『日本書紀』の天智5年(≒666)にあたるようです。『日本書紀』では間人大后は天智42月に没したことになっているようですが……。

 

丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞坐之時

誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也

 

 「中宮」を「チュウグウ」でなく「ナカツミヤ」などと読むことはできないのでしょうか。いや、じっさい場所・建物と見るご見解も出されているようなのですが、仁藤敦司さんの「上宮王家と斑鳩」(新版『古代の日本』第6巻 角川書店 1991 所収。参照したのは『古代王権と都城』吉川弘文館 1998 所収のもの)の中に、中宮寺の名称の由来について『聖徳太子伝私記』に穴穂部間人の御所があったため中宮寺としたとする説と、葦垣宮・岡本宮・斑鳩宮の中心にあったため中宮(「ナカノミヤ」のルビ)と称したとする2説が併記されているとの記述があります。たしかに『聖徳太子伝私記』のあとのほう、法起寺塔露盤銘の直前あたりに「中宮寺者。葦垣宮。岡本宮。鵤宮三箇宮之中。故云中宮」と見えているようです。

 西野誠一さんの「天皇号の成立年代」(2005)では、銘文中の「詣」を「いたる」と読んで「栢寺智識ら中宮に詣り、天皇の大御身労き坐しし時」とされる岩佐光晴さんの説について不自然な文脈となることを疑問視され、その前の記述で元正説・天智説・斉明説について批判された流れで、この「中宮天皇」を間人皇女と見ておられるようです。西野さんは岩佐さんのように「中宮」と「天皇」の間で切って読むことについて疑問視されているようで、「中宮」の解釈は示しておられないように見えるのですが……。たとえば「ナカツミヤ」と読んで具体的な場所でなく、正式な「治天下」の存在をいただかない「過渡的な政権」みたいなものを表した語などと考えることはできないでしょうか。