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今日の疑問

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2003年12月25日 アマゾン川河口はエスチュアリーか?違う。

 今日もまたまたマニアな疑問です。昨日と同じことを書きますが、今の時期、受験生は、勉学に忙しくて、ネットなんかしてる暇はない。まともな受験生なら「ネット断ち」をしてるはずです。見ていないはずだから、何を書いても安心です。

 本日は、凸凹フレンズさんが発見されまして、若者掲示板への書き込みを通じて、ワタクシにご下賜くださりました素朴な疑問をとりあげます。素朴な疑問がきっかけでマニアな話に踏み込んでしまいました。

エスチュアリー 投稿者:凸凹フレンズ  投稿日:12月11日(木)18時08分42秒
南米でエスチュアリーと言えばラプラタ川ですが、アマゾン川はエスチュアリーなのでしょうか?
河口部はラッパ状には広がっているように思うのですが・・・・。マラジョ島が沈水しないとエスチュアリーとは呼べないんでしょうか? アドバイスお願いします。
成因優先 投稿者:さ〜らまん  投稿日:12月11日(木)19時51分2秒
地形は成因第一、形が第二!であります。
アマゾン川は土砂供給量が多く河口にはデルタが形成されている。デルタとデルタの間がたまたまラッパ状になっているだけで、それは沈水により形成されたものではないから、エスチュアリーとは言いません。
デルタ専門家 投稿者:さ〜らまん  投稿日:12月12日(金)13時40分40秒
私はデルタに弱いので、ちょっと心配になって、いまネットで調べてみましたところ、
アマゾン川やガンジス川の河口のデルタは「潮汐卓越型デルタ」といい、エスチュアリーに似た形状になるのだそうです。

難しそうだから(というか、今、出先で、pdfファイルを読めないパソしかないので)ワタクシは読んでいませんが、興味のある方は、「アマゾン、デルタ、エスチュアリー」と打ち込んで検索して出てきたサイト(下記)を読んで下さい。

http://unit.aist.go.jp/mre/mre-cev/ADP/Hori%20&%20Saito2003.pdf

 このやりとりで最後にとりあげたリンクのpdfファイル、読むのをすっかり忘れていて、いま、よーやっと読みました。せっかく読んだので、記事を書くことにしました。

 凸凹フレンズさんからいただいたこの疑問の核心は、「河口がラッパ状の入り江みたいになってさえいれば、エスチュアリーと呼んでいいのか?」というものです。同じ疑問は、某温泉宿のおかみN代(エヌヨ)さんからもいただいており、すでに1999年12月25日と26日の記事でとりあげ、そこではきちんとは書いておりませんが、「だめである。」とお答えしております。

 理由は単純です。エスチュアリーは、単に河口がラッパ状に入り江になっているというかたちのみで決まるのではなく、沈水があること、すなわち、海岸線が陸側に後退していること(海進)が必要である。アマゾン川河口にはデルタが形成されており、海岸線は海側に前進し、海退がみられるから、エスチュアリーではない。

 上記やりとりでリンクしたアジアデルタプロジェクトのサイトで公開されている地学雑誌論文、堀和明さんと斎藤文紀さまの『大河川デルタの地形と堆積物』(上記pdfファイル)によれば、

 アマゾン川やガンジス・ブラマプトラ川のデルタは、潮汐卓越型デルタというものに分類され、このタイプのデルタは、潮汐の影響が強い場合に形成され、河口部が海側に開くエスチュアリーのようなかたちのデルタになる。他のタイプのデルタと異なり、この潮汐卓越型デルタは海側に突出しない。1990年代初期(なんじゃ!つい最近じゃないか!)の研究者の中には、「このタイプのデルタが海側に突出しないのは、氷河時代が終わって以後の海面上昇によるものだ。そうなると、海岸線は陸側に後退しているかまたは動いていないはずだから、これをデルタとするのはおかしい。エスチュアリーに含めるべきだ!」とする人がいた。でも、それはだめ。なんとなれば、潮汐卓越型デルタもまた、河川の堆積作用により海岸線は海側に前進しているからでであーる。1990年ごろまではアジアや南米の河川の研究が少なかったから、「エスチュアリーに含めるべきである」と言う人がいてもおかしくなかったのだが、そう言った人のおかげで、「そんな馬鹿な!」と考える人が一生懸命研究し、その結果、いまは海岸線が前進しているという証拠がいっぱいあるのであーる。

 というようなことらしい(ワタクシバイアスがかなり入っています)。

以下、おとくいの図のパクりやります。堀和明さん(知り合いの可能性大。こんなおもろいことやってたのか!)、勝手ですが、許してください。

 潮汐卓越型デルタというのは、次の図のように、デルタの形を決める作用のうち、河川の堆積作用、波浪の(主として侵食)作用、潮汐の(主として侵食?)作用の3つをとりあげ、それらの作用の強弱により、デルタを3つのタイプに分けたときの1つであーる。

◆ 河川卓越型とは、河川の堆積作用が他の作用を大幅に上回るものであーる。例はミシシッピ川で、鳥趾状デルタができる。

◆ 波浪卓越型とは、波浪の作用が強く影響するものであーる。この影響がかなり強いとカスプ(尖)状デルタになり、ちょいと強いと円弧状デルタになる。

◆ 潮汐卓越型とは、潮汐の作用が強く影響するものであーる。例はアマゾン川やガンジス・ブラマプトラ川で、海岸線の形状はエスチュリーに似てくるが、エスチュアリーではなくこれもデルタであーる。

で、潮汐卓越型デルタのかたちを、河川卓越型と対比し、模式的に示すと、次のようになーる。

 潮汐卓越型デルタの実例をあげると、次のようになーる。と、書いて、図を、と思ったが、やっぱやめた。こんな感じで図をパクりまくると、破廉恥罪になってしまう。

 図をパクるのはやめて、あとはつれづれなるままに駄文を連ねていきます。潮汐卓越型デルタとやらをもつ河川の例は、アマゾン、長江、ガンジス・ブラマプトラなどらしい。これらの共通点をまとめますと、
(1)感潮河川(潮汐の影響を受ける河川)である。
(2)河口部がエスチュアリーのようにラッパ状になっているがエスチュアリーではない。
(3)下流部(特に河口付近)の河川勾配が非常に小さい。

 あっ、そういえば、感潮河川といえば、長江の南、ハンチョウ(杭州)付近では、銭塘江の大逆流ってのが有名だ。いま、調べたら、ラッパ状の入り江でよく起きるものらしい。そして、アマゾンにもあって、ボロロッカというらしい。この場合は、大逆流が結果で、ラッパ状の入り江であることはその原因。入り江の入り口が広くて奥が狭ければ、入り江に入った潮流が奥へ行くほど高くなるのはわかる。日本でも逆流する感潮河川がいっぱいある。みながみなラッパ状の河口になってるわけじゃないけれど、広島の太田川はちょっとラッパ状。

 ところが、いま問題にしている潮汐型デルタの場合は、原因と結果が逆で、潮汐の影響が強いとラッパ状に入り江になる、という話。

なぜかな?

わからん。が、ちょっと頭の中だけで考えてみます。

 潮流は時間ごとに寄せては返す。潮流といえば瀬戸内海の渦潮が有名だし、海岸線に平行な沿岸流もあるが、今考えるのは、川を逆流する潮流。

 海から河口へ、河口から上流へ押し寄せる潮流は、河口付近では流れが急だが、次第に緩やかになる。それで、河口付近の河岸が侵食されて広くなるのか? 川から海へ返す逆向きの潮流は、川底の砂をまきあげて水とともに河口へ、さらには海底へと運び去る。そして、上の右側の図のように、河川の流路と同じ向きで縦長に、河口付近の海底に土砂を堆積する。河川は放射状に流れているから、縦長に堆積した土砂と土砂の間は、沖側へ行けば行くほど、広くなる。さらに堆積が進んで、そこが干潟となり、さらに、陸地になれば、おや、河口は、なんとなくラッパ状のかたちになりますね。それでいいのかな?

 と、最後は、またまた尻切れトンボ。お得意の憶測でものを言う癖が出てしまった。潮汐といえば、受験地理では潮汐発電が頻出し、他では、有明海などにおける干潟や干拓の話やマングローブ林の話で話題になる程度だが、干潟など海岸や海底におけるいろんな地形を形成したり、河口付近では水が逆流するから水害の原因となったり、あるいは、水質浄化機能をもったり、その影響は予想外におおきいみたいです。潮汐、恐るべし。


2003年12月24日 ギニア湾岸は「白人の墓場」 −副題:東西南北の誤解−

 最近、マニアな疑問ばかりを扱っています。今の時期、受験生は、勉学に忙しくて、ネットなんかしてる暇はない。まともな受験生なら「ネット断ち」をしてるはずです。見ていないはずだから、何を書いても安心です。受験地理をベースにしながらも、そこからかなり逸脱した歴史的なことやいい加減経済学を、だらだらだらだら書かせてもらってます。

 今日は、オジョーからの疑問です。

オジョー:
 ギニア湾岸が「白人の墓場」といわれているのはなぜですか?

さ〜らまん:
 ギニア湾岸は高温多湿、風土病多く、白人が入植できなかったからです。入植してもバタバタ死んだ。シュバイツァーもここで死んだ。東アフリカと対比しといてください。

オジョー:
 でも東アフリカのナイルにできたダムで、風土病が広がったんじゃないですか? 

さ〜らまん:
 普通、東アフリカというと、ケニア付近を指します。ナイル川の上流は東アフリカと言ってもいいが、下流に位置するエジプトは東アフリカには入れません。北アフリカです。
 「白人の墓場」ってのは、植民地時代にヨーロッパの白人が入植できない状況をさします。ギニア湾岸は風土病が多く入植困難だったが、東アフリカは赤道直下にもかかわらず高地で涼しいため植民地時代に白人が入植し、当時、白人入植者の多かったケニアの高原は「ホワイトハイランドと呼ばれた。
 また、ナイルデルタにおける風土病は以前からあったが、その拡大は、アスワンダム建設後です。ということは、1970年頃以後のことで、独立してだいぶたっている(エジプトの独立は第二次世界大戦より前)わけで、その時期に、ヨーロッパの白人はエジプトに入植しようとはしません。
 なお、ナイルデルタの風土病は、ナイル川およびそこから引いた水にさわるとか、その水を飲むとかしなければ、かかりにくいいいけれど、ギニア湾岸の風土病は、気をつけりゃいいってものではないほどに深刻です。蚊にさされてマラリアや黄熱病、ハエにさされて睡眠病(家畜から人間にもうつる)、などなど。

 以上のやりとりで、オジョーの大きな誤解がいくつかわかります。

オジョーの誤解、一つ目は時代をごちゃごちゃにしていることです。

 西アフリカは今でも「白人の墓場 "White Man's Grave"」と呼ばれてはいるでしょうが、現在は、薬も出始めているからむかしほどは死なないし、そもそも白人が入植しようとはしていません。あそこが「白人の墓場」と盛んに呼ばれていたのは、主として19世紀、アフリカが植民地になっていく時代です。誰が、いつ、そう呼び始めたかは知りません。ああいうところにも勇猛果敢に入っていくのは、まずはキリスト教の宣教師だろうから、彼らかもしれません。

 アジアの大半はすでに18世紀までにヨーロッパ列強により分割されていたのに対し、アフリカの植民地化・分割が遅れました。その理由としてしばしば言われるのが、この「白人の墓場」です。風土病が多くて入れなかった。また、河川沿いに入りたくても、下流部に滝や急流があり、外洋航行船が遡航できなかった。植民地化が遅れたのは、もちろん、こうした自然環境の特色によるだけではないでしょう。19世紀の初期までは、アフリカは奴隷供給地として位置づけられていて、植民地にするよりか、現地の支配者とうまくやって奴隷を出させるほうがよかったからというのも大きな理由でしょう。19世紀にはいると、ヨーロッパで工業化・都市化が進展して、熱帯特産の工芸作物や嗜好作物が必要となり、アフリカが魅力的なプランテーション経営の場として意識されたのでしょう。19世紀には、奴隷貿易が廃止され、アフリカ探検が活発に行われました。それまでは、奴隷、象牙、金などを手に入れさえすればいいのだから、ヨーロッパ人は海岸の拠点だけで活動し、内陸に入らなかった。サハラ以南のブラックアフリカが「暗黒大陸"the Dark Continent"」と呼ばれたのは、黒人がいるからではなくて、内陸の様子がわからなかったからです。

 どーいう人か知らないが、イギリス人から見た世界の歴史とかいうサイトを作って、その中で「The Opening Up of the Dark Continent」ちゅー題名の文章を公開している人がいます。勝手に英文を引用しておきます。

As far as Europe was concerned, Black Africa remained an unknown place for an astonishing length of time. It had been the first continent explored by Europeans in the modern era, only to be abandoned when they found wealth in Asia and the Americas that was easier to acquire. South of the Sahara, only the coast could be mapped with any certainty in the year 1800; where the Nile and Congo Rivers came from, and how the Niger ended were unsolved mysteries. In the 1730s, the English satirist Jonathan Swift wrote that:

". . . geographers, in Afric-maps,
With savage-pictures fill their gaps,
And o'er uninhabitable downs
Place elephants for want of towns."

There was a simple reason for this: malaria. If ten Europeans went to West Africa, you could expect that six of them would be dead--nearly all of malaria--before the year ended. In the interior, mortality was even fiercer, thanks to Moslem tribes that were implacably hostile to Christians. Consequently West Africa was nicknamed the "White Man's Grave."

With such powerful reasons for not stepping ashore, it is no wonder that Europeans kept their contact with Africa to a minimum. The Africans brought their commodities--ivory, slaves and gold--to the coast, and the Europeans did as much trading as they could from the safety of their ships. To promote and protect this trade it was sometimes necessary to build a permanent trading post ashore, but this was done reluctantly, and more often to keep other Europeans out than to gain control over Africans.

 ほ、ほぉ〜ぉ! 西アフリカに10人のヨーロッパ人が行けば、1年以内に6人が死ぬのかぁー、そりゃ、墓場だ。

オジョーの誤解、二つ目は、エジプトを東アフリカに入れていることです。

 確かに、エジプトは東に位置する。けれど、地名につく「東西南北」は方位と考えるよりも地域名と考えておいたほうがよい。アフリカの場合、北アフリカ、西アフリカ、東アフリカというのは、だいたい決まっていて、東アフリカとは、普通、ケニア付近をいいます。

アフリカの東西南北

 きちんとした決まりはないが、おおざっぱにはこんな感じ。
  * どっちに入れようか迷う国

北アフリカ スーダン以外は確定。

西アフリカ ECOWAS加盟国とモーリタニア。ほぼ確定。

東アフリカ エチオピア・ケニア・タンザニアは確定。
スーダンやコンゴなどを入れてもいい。

中部アフリカと南部アフリカには決まりはないが、まあこんな感じかな。

 方位のつく地名で勘違いしやすいのは、アメリカの中西部。これは、アメリカ合衆国本土の中央より西側を指すと勘違いしている人がいるが、中央のミシシッピ川中・上流域を指す。中央より東側のアパラチア山脈西側も中西部なのだ。これは、開拓初期において、アパラチア山脈より西を西部と呼んだが、領土が拡大するにつれ、アパラチア山脈の西側はアメリカ本土のかなり東になって、そこを西部と呼ぶのはあんまりだ!というわけで、中西部という呼び名ができたんだ(と思う。実は事情を知らない)。

 以上、本日は、取りとめのないお話でした。


2003年12月23日 沖縄県の石油製品生産

 今日の記事は、きまじめすぎておもしろくありません。

 絶妙くんとジョンイルマンセイくんの疑問第3弾です。

都道府県の主要工業(2000年)のグラフを見ていたら、地方の大半の県では電気機械がトップなのに、沖縄県では石油製品がトップで、31.1%も占めるんですよ。沖縄県の石油化学工業って、ちょっとピンとこないんですが。

お答え:

 石油製品の工場とは、ま、おおざっぱに言えば、製油所です。(1)沖縄県に製油所があることは事実です。(2)沖縄県で生産される石油製品の出荷額は、全国的に見ればそこそこ多い方であるが、特に多いというものではない。しかしながら、(3)沖縄県は工業の振るわない県で、県全体の工業出荷額が少ないため、県の中では突出し、1位となるのである。ちなみに2位は食料品。

 まず、(1)沖縄県に製油所があるかどうかですが、次の表は、沖縄県の金融業を除く売上高上位10位までの企業です。2位と4位に石油精製をなりわいとする企業が登場します。

沖縄県内企業売上高ランキング(上位100位)
(2001年1月期〜12月期)(単位:百万円)
 順位  企業名                 所在地   業種                当期売上高
1  沖縄電力(株)             浦添市   電気           133,944
2  沖縄石油精製(株)           与那城町  石油精製         92,181
3  (株)サンエー             宜野湾市  スーパー         90,739
4  南西石油(株)             西原町   石油精製         88,129
5  金秀商事(株)             西原町   スーパー         65,157
6  沖縄県経済農業(協組連)        那覇市   協組           64,349
7  琉球ジャスコ(株)           南風原町  スーパー         45,454
8  (株)國場組              那覇市   建設           45,168
9  (株)りゅうせき            浦添市   石油類          37,732
10  日本トランスオーシャン航空(株)    那覇市   航空輸送         36,548
合計                                          1,703,035
注)銀行など金融機関、損保は除外。業種欄の「石油類」は石油類販売。東京リサーチ沖縄支社調べ

 また、次の図は、外務省の資料からパクッた日本における製油所の分布図←ご注意!リンクはpdfファイルです。同じ外務省サイトで石油備蓄基地の図←ご注意!リンクはpdfファイルを見ると、国の石油備蓄基地はないが、民間製油所を借り上げるかたちでの国家備蓄石油の備蓄地もあります。石油備蓄そのものは石油製品の出荷額には直接関連しないけれど、石油関連の施設が立地していることがわかります。。

 次に、(2)沖縄県で生産される石油製品の出荷額は、全国的に見ればそこそこ多い方ではあるが、特に多いというものではないについてです。

 『県勢2003』で、石油製品・石炭製品の出荷額(2000年)を調べると、県別で沖縄は16位で、全国の2.2%しかない。2.2%しかないけれど、17位の富山は0.7%しかないので、沖縄までの16道府県で全体の95.7%を占め、16位までは石油製品の出荷額がそこそこ多い県である。沖縄は、そのそこそこ多い県の中で最下位に位置するわけである。

 製油所の主な所在地
  神奈川県 横浜、千葉
  千葉県  千葉
  岡山県  水島
  大阪県  堺
  山口県  徳山
  和歌山県 和歌山
  三重県  四日市
  茨城県  鹿島
  大分県  大分
*出光興産の苫小牧にある北海道製油所では、2003年9月26日の十勝沖地震で炎上事故があり、 大騒ぎになりました。

 最後に、(3)沖縄県は工業の振るわない県で、全体の工業出荷額が少ないについてです。

 沖縄県の製造品出荷額(2000年)は6,559億円で、全国下から2番目。最下位の高知県の6,547億円とどっこいどっこい。この2県は、下から3番めの鳥取県12,075億円に大きく水を開けられており、工業不振の県といっていい。

 というわけで、以上の結果、沖縄県では、工業出荷額に占める石油製品の割合が高くなるわけであります。6,559億円(全国では46位)のうち石油製品が2,039億円(全国では16位)、食料品が1,484億円(全国では39位)、飲料・飼料・たばこが832億円(全国では32位)、これらが、沖縄での上位3品目。他の品目が30位以下なのに比べ、石油製品の16位というのはかなり高いランキングですね。

 ところで、沖縄県に、製油所がなぜ立地しているのでしょうか?

(1) 県内での消費量が多いからではないか?
 違います。石油製品の消費量は調べておりませんが、製造業におけるエネルギー消費量(2001年)←ご注意!リンクはエクセルファイルを見ると、全国での消費262,169千kl(原油換算)のうち、沖縄県は429千kl。都道府県別で43位、全体の0.2%しか消費していません。製造業以外を含めたとしても、エネルギーのうち石油製品の消費量の比率だけが高くなるということは考えられません。沖縄は、日本の都道府県で唯一、鉄道のない県だから、自動車があふれているのでは?だからガソリン消費が多いのでは?と考える向きもあろうけれど、そして、都道府県県の自動車(四輪車)保有台数では33位、乗用車の100世帯あたり保有台数では26位で、エネルギー消費のランキングよりはやや上だけれど、ガソリン消費が特に多いとは考えられない。

(2) 中東などからの原油の輸入ルートの途中にあるから、製油所の立地にとって有利なのではないか。
 違います。石油備蓄なら、輸入ルート沿いであることは、それなりの利点はあるかもしれないが、製油所の場合は、そこで精製して得た石油製品を消費する場所との関係を見なければなりません。県内消費が少ないのであれば、県外の消費地との関係が重要になります。この点、沖縄県は、国内の大消費地(本州)との距離がきわめて遠いため、製品をそこまで輸送する費用がかかり、不利です。

 そうです。製油所に立地にとって、沖縄県は不利なのであります。上の製油所の分布図にある『沖縄石油精製』という企業は、出光興産の子会社なのだが、なんと! この製油所、2004年4月に閉鎖されるそうです。琉球新報ニュースによると、沖縄石油精製の社長が記者会見して、「製油所の稼働率は50%を切るレベルにまで下がった。将来にわたり『自立経営』は困難と判断し、原油処理を停止することを決断した。」 さらに続けて、「操業当初より県内需要が少なく、輸出に頼らざるを得ないという地理的条件の中で苦しい経営を余儀なくされてきた。」と話している。

 社長さんのこの話で、上記(1)(2)が理由にならないことが完璧にわかってしまいます。

ということは、立地の有利性ではなく、利益度外視の政策あるいは歴史に理由を求めねばなりません。

 そういうことを調べて文章にしてネット上に公開してくれている人がいます。

 その一つは、桜美林大学大学院国際学研究科国際関係専攻の大学院生さまであられる砂川博紀さまです。砂川さんの修士論文『沖縄の本土復帰に伴う外資導入政策−石油とアルミを例として−』を拝見すると(知り合いではありませんが勝手に引用させていただきます)、

「日本は1950年代後半からIMF、GATTの場において、自由化を強く要求されるようになった。1967年には「資本取引自由化基本方針」が閣議決定され、資本の自由化が進められた。当時、米国に統治されていた沖縄は、日本本土よりも早い時期に、外資の自由化が行われた。1958年9月に沖縄では、法定通貨をB円から米ドルに切り替えると同時に、沖縄の貿易・為替および外国資本取引が自由化された。この「通貨切り替え」に伴う「自由化体制」の意義は、外国資本を積極的に導入し、沖縄の産業振興に活用するものであった。」
 「1967年5月、四つの米系石油会社が外資導入免許を申請した。これらの外資進出が認可された場合、本土復帰後に100%外資の米系石油企業が進出する事になる。通産省がとくに問題にしたのは、日本国内に進出が認められていない石油外資が沖縄をきっかけとして、本土に上陸することであった。」

 実際に進出したのは、エッソとガルフの2社だったらしい。4社が2社に減ったのは、日本政府が、石油外資が本土に上陸するのを恐れて、外資に意地悪をして沖縄進出を抑制したためらしい。意地悪にもめげず、外資が進出できたのは日本政府の政策転換にあると、砂川さんはおっしゃっています。
「日本政府は石油を安定供給するために、1968年から石油備蓄政策を実施してきた。従来、日本の石油備蓄量は約45日分であったが、1972年度から毎年5日分づつ増加して、最終的には90日分の備蓄をめざすとしていた。そこで通産省は、1972年に沖縄CTS(石油備蓄基地)の立地調査を行った。その後、1973年3月に通産省は『沖縄CTS調査報告書』をまとめた。同報告書で、沖縄CTSを高く評価し、沖縄に日本で最大の石油備蓄基地を建設する計画を策定した。その計画により、外資がすでに設置していたCTSを、日本の石油企業が引き継いで増設した。」

 ただし、砂川さんは、その後に続けて、
「このような、日本政府の石油政策の転換が、沖縄に石油外資が進出できた原因と考えられる。さらに、沖縄の持つ地理的条件などが、石油産業に有利であったため、基幹産業として定着した。」
とおっしゃっています。「地理的条件などが石油産業に有利」は、ワタクシの上記説明と異なりますが、砂川さんの論文要旨にはそれ以上書いてありませんので、詳細はわかりません。

 もう一つは、帯広畜産大学講師の社会学博士であらせられる関礼子さまです。関さんも、きっかけは外資系の進出と日本政府の政策転換であるとおっしゃっています。大学の先生だから断りは不要です。勝手に引用します。

1960年代後半、琉球政府は基地産業に代替する平和産業と歓迎し、1968120日に 4 (ガルフ、エッソ、カルテックス、カイザー)の外資導入を許可した。各社の進出計画は表4のようになっている。うち、カルテックスとカイザーは進出を断念し、ガルフが与那城村平安座、エッソが西原村に精油所を建設した。また、日本石油精製と琉球石油が共同で設立した東洋石油が中城村に精油所を建設した (宮良,1988;7/11)。日本の石油資本は当初、沖縄に立地するメリットを見いだしていなかったが、日本政府はアメリカ石油資本の進出を警戒した。通産省は琉球政府に対し本土資本の沖縄誘致を促進するという見解を示し、ガルフ社に建設中止を勧告している (守礼,1970;11)。だが、「これら石油企業の操業開始のころには、沖縄の日本復帰も確定的となり、かつては国際石油資本の進出に難色を示していた日本政府も、沖縄返還交渉の過程でこれら石油資本の国内法による規制と合弁化をすすめる一方で、自らもまた、沖縄、さらには琉球弧の島じまをエネルギー基地として位置づけるという動きを本格化させていく」 (新崎,1979;276)ことになる。

というわけで、沖縄の石油製品の話はおしまいです。

 なお、関連過去問情報です。東京大学1998年第3問に、関東・東北地方の各都府県における工業出荷額第1位の業種の移り変わりに関する問題←K塾サイトでは、その年の地理問題は、たぶん不手際によるミスでしょう、第2問までしか載っていないので、Yゼミサイトのをリンクしました)があります。


2003年12月22日 同名地名ポーツマス&プリマス(副題:「マス」と「ちん」の関係に関する痴迷学的一考察)

 絶妙くんとジョンイルマンセイくんの疑問、第2弾。

 ポーツマスは軍港の町らしいですが、地図帳を見ると、ポーツマスという地名はあちこちにあります。地理で軍港というときは、どのポーツマスを指すのでしょうか? また、歴史で登場するポーツマス条約のポーツマスってのは、どこのポーツマスなんですか。

 お答えは、「ニューイングランド地方のボストンに近いほうのポーツマスです。」 ただし、イギリスのもアメリカのニューハンプシャー州のもヴァージニア州のも海軍基地があるから、地理で軍港都市というときは、これらのどれにも該当します。

 それにしてもポーツマスは多い。気がついただけでも5つもあります。表にしてみました。

Portsmouth
◎ 1 ポーツマス イギリス 海軍基地。  
◎ 2 ポーツマス ニューハンプシャー州 ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)で有名。
*正確には、ピスタクア川対岸のキッタリー島(メイン州)の海軍基地施設で締結された。
参考サイト
ポーツマス ロードアイランド州   参考サイト
◎ 4 ポーツマス ヴァージニア州 海軍基地。 参考サイト1 参考サイト2
ポーツマス オハイオ州    
Plymouth
◎ a プリマス イギリス
デヴォンシャー州
メイフラワー号の出航した港
イギリス南西部のPlym 川と Tamar川の河口
 
◎ b プリマス マサチューセッツ州 メイフラワー号ピルグリムファーザーズが上陸した地。 参考サイト
プリマス ヴァーモント州 初期の地名Saltashイギリスのプリマスの近くの地名に由来)から改名。 参考サイト
プリマス コネティカット州    
プリマス ノースカロライナ州 ロアノーク川河口。地名由来不詳。マサチューセッツのプリマスとの深い関係からか。 参考サイ
プリマス ミネソタ州 ミネアポリスの北西。 参考サイト

 地図帳で、ポーツマスを探すとき、なぜかプリマスにも目が行く。ポーツマスと同じく、プリマスも各地にあるからだ。そして、位置もなんとなく近い。ポーツマスとプリマスは「なかよし地名」なのかしらん。位置が近いことを示すために、ミネソタ州のプリマスを除く10個の町の位置を地図にプロットしましょう。


元祖・家元





アメリカでは
ポーツマスと
プリマスは、
近くにあって
仲よしなのか

 「ポーツマス」と「プリマス」は、アメリカ東部の海岸にそれぞれ3つずつあって、2・3の近くにb・dがあり、4の近くにeがある。位置が近い。そしてみんな海岸付近にある。さらに、地名も似ていて、ともに「マス」がつく。なぜかな? 「マス」といえば、「マスはマスに通ず」の名言あり。ひさびさにかきますが、拙サイトは自称「オナページ」。そして、男子中学生レベル(←ご注意!リンクは下品)を売り物にするサイトでありますから、とりあげないわけにはいきません。

 そこで、英語の綴りをみますれば、あ〜ら、不思議、マスはmouthであった。マスはhandに関係するのかと思ったらmouthでしたか。

で、何の「口」かな?

 調べましたら、Portsmouthは「ports」の「口」。「港の口」なのだが、portというのは、pが付く単語だから、とんがっていなくちゃいけません。pinもpeninsulaもpenisもとんがっている。Appenninoアペニンは新期造山帯に属する急峻な山脈、Pennineペニンは古期造山帯で起伏は小さいが山脈は山脈。ということは(以上はそこそこまともだが、この段落の以下後半、結論はたぶん正しいが、途中はいい加減ですから、信じちゃいけませんよ。)ということは、portは、港は港でも、海が陸地のほうにとんがっているようなところ、すなわち、入江になっていて、船が嵐を避けて避難できるような港、すなわち、「湾の入り口」、「入江の入り口」というのがよさそうです。

 海側の3つのPortsmouthはいずれも河川の河口に位置し、そこは入江になっています。もとはイギリスのポーツマスにちなんだ地名なのだが、似たような地形のところだから、そういう地名をつけても変ではなかったのでしょう。

 では、海側の3つのPlymouthのmouthはどうか。やはり「入江の入り口」なのか? このうち、マサチューセッツのプリマスは、メイフラワー号が漂着したところで、出航したイギリスの港プリマスにちなんだ地名なので、地名が同じなら地形も同じでなきゃいけないということはないわけだから、ここは入江の入り口でなくていい。目をこらして地図を見ても、どうやらやはり、河川河口の入江ではないようだ。砂嘴のコッド岬に囲まれたプリマス湾だから、一応、入り江ですが、立地する地形はちょっと異なる。ところが、本家・家元のイギリスのプリマスとノースカロライナ州のプリマスは、ポーツマスと同じような河川河口の入江に立地しています。家元のイギリスのプリマスはPlym(プリム)川のmouth(入り口)という意味だったのだ。

 というわけで、本家・家元のイギリスのものもアメリカの借り物地名の多くも、入江の入り口、川の入り口。ちょっとラッパ状に開いた河口が多い。

 さ〜らまんは、ここでピーンと来ましたね。 待てよ! 河川河口のラッパ状に開いた入江といえば、エスチュアリーじゃないか!! エス☆チュッ!アリーといえば沈水海岸。あ、そうでした。北アメリカ東岸では、北部のセントローレンス川河口からチェサピーク湾あたりまでは沈水海岸で、エスチュアリーをはじめとする溺れ谷の入り江が多い。そしてそこに海港都市が数多く立地した。ところが、南部の大西洋岸平野は、離水海岸の海岸平野であり、海に面した部分は良港に恵まれないため、小船が河川を遡行できるところまで遡行し、その終点のピードモント台地の縁に多くの都市が立地した。これらを総称して滝線都市と呼ぶ。なんて、ことを思い出してしまったのであります。

 いや、違います。ピーンと来たのは、そんな受験地理の常識が思い出されたからではないのです。

 賢明なみなさまはすでにお気づきでしょうから、もうかきたくないのですが、mouth地名、すなわち、「『マス』地名のあるところは『沈水海岸』になっている」ということに気づいて、ピーンと来たのであります。あぁー、これ以上かくと、まずい。男子中学生レベルに戻って、ひさびさにかきますか。「マス」は「ちん」に通じる。ということです。

 ここでとまらないのが悪い癖。もうやぶれかぶれだ。さらにかきます。マスはmouthで、口だ。「口」といえば「吸う」。だから、「ちん吸い海岸」。

 あぁ〜あ、またまたかいてしまった、最後まで。

男子中学生ならできるのに、歳をとると、欲望を抑えることができなくなるのであります。 老境の前に老狂あり。 情けなや、情けなや。


2003年12月19日 1980年代におけるラテンアメリカNIEsとアジアNIEsの差異

 今日は、リードくんからの疑問です。「リード」はもちろん“lead”で、首位、先頭、模範、というような意味です。ひそかなファンが大勢いるようで、本人のあずかり知らないところで「リーダーくん」と呼ばれているようです。

リードくん:
1980年代に、アジアNIEsは経済成長を続けたのに、ラテンアメリカNIEsが成長しなかったのはなぜですか?

さ〜らまん:
そうですね。1980年代は、ラテンアメリカの失われた10年と呼ばれ、経済成長が失速した時代ですね。理由はいろいろあるんでしょうが、、、

リードくん:
累積債務が増えすぎたんでしょうか。

さ〜らまん:
そーでしょうね。石油危機直後ぐらいまではよかったのですが、その後がいけませんね。

リードくん:
逆オイルショックで石油の値段が安くなったことも大きな要因でしょうかね。

さ〜らまん:
そーですね。産油国のメキシコと原油輸入国のブラジルでは若干事情が異なるでしょうが、石油だけでなく、他の一次産品の価格も低下しました。アジアNIEsには一次産品の輸出比率が低いが、ラテンアメリカNIEsはその比率が高いですから、ダメージも大きかったでしょうね。

リードくん:
それはそうでしょうが、ラテンアメリカNIEsも工業化していたんでしょう。あっ、工業化といっても違いがありますね。当時のラテンアメリカは、輸入代替型工業化が中心でしたよね。

さ〜らまん:
それに対して、アジアNIEsは早い段階から輸出指向型に転換していた。

リードくん:
いろいろな点で違いますね。そういうことと累積債務とはどう関係があるんでしょうかねえ。

さ〜らまん:
そうですね。いろいろ出てきましたね。アジアNIEsとラテンアメリカNIEsを比較した研究はたくさんあると思いますよ。

リードくん:調べていただけないでしょうか?

 以上が、リードくんとのやりとりです。リードくんは、自分が発した疑問に対して、自分で予想した答えを言っていて、さ〜らまんはただ「そうだ、そうだ。」と言っているだけですね。まさに「上手の疑問」なり。上手の疑問にはたいていは答えの予想がついている。あとはそれが正しいかどうかを確認するだけなのだ。「下手の疑問」というのは答えの予想ができない疑問で、こいつは、一生かかって解決しようとしても答えが出ないから、そもそも疑問を発すること自体に意味がないものが多い。たとえば、「人間は何のために生きるのでしょうか?」とか「人間の幸せって何でしょうね?」なんて疑問は下手の疑問の典型だ。そんなこと、他人に聞くなよな! 答えなんかあるわけないだろ! まあ、人間、意味のあることばっかやってもおもろない。意味のないことに一生をささげるほうが愉快な気はしますけど。

 さて、今回のリードくんの疑問です。お答えはすでに出ているようですが、一応、他人の言説に当たって確認しときます。

 私は、この分野の研究におけるオーソリティを知りませんから、とりあえずはお役所に聞け! ということで、通商産業省の見解を調べました。そしたら、やはりございました。昭和61年(1986年)の『通商白書』第1章7節2「ラテンアメリカ諸国の抱える構造的問題」です。そこでは、リードくんとまったく同じ問題意識で、アジアNIEsとラテンアメリカNIEsが比較されています。そこで、本日は、そいつにおんぶに抱っこのパクリ記事を書きます。

通商白書いわく(NIEsは、当時、NICS と呼ばれていました)
 中南米NICSとアジアNICSとは,70年代を通じ積極的な工業化政策を図り,順調な経済成長を果たしてきた。
  しかし,80年代に入り
 アジアNICSが引き続き順調な経済発展を遂げてきたのに対し,中南米NICSの経済成長は急速に鈍化した。

それはなぜか。

通商白書いわく、
 これは,両者の産業構造の相違が大きな影響を与えたものと考えられる。

産業構造の相違とは何か? 通商白書いわく、

 中南米NICSの輸出構造は依然として一次産品依存体質を脱しているとは言えず,アジアNICSの工業製品依存度の高い輸出構造とはかなり異なったものとなっている。

そのような産業構造の違いは、なぜ、生じたのか? 通商白書いわく、

 アジアNICSは,  中南米NICSでは,
 資源・エネルギーに恵まれず,国内市場が小さい反面,労働力が豊富であったため,  豊富な資源と国内市場を背景に,
 早くから労働集約的な財を中心に輸出指向型工業化政策を推進してきた。  積極的な輸入代替型工業化政策を推進してきた。
 具体的には,
対外借入資金の輸出産業への優先的投資,輸出企業に対する税の優遇など種々の輸出振興策を講じる一方,
製品コストの低減を図るため中間財や資本財の輸入関税を引き下げるなど比較的開放的な政策を採ってきた。
 具体的には,
多額の借入を輸入代替やインフラストラクチュアの整備に投資する一方,
国内産業保護の立場から輸入に対し高関税を導入するなど保護主義的性格の強い政策が採られた。
 その結果,
 従来の労働集約型産業だけでなく,鉄鋼や電気機械など資本・技術集約型産業の育成・強化により次第に対外競争力を高め,世界市場に占めるシェアを拡大している。
 また,79年の第2次石油危機による物価急騰,輸出減少,成長率の鈍化に対しても,総需要管理政策を導入し,財政面での抑制政策,金融面での引締政策の実施という物価安定を重視した経済運営によって,インフレの鎮静や企業利益の改善を早期に実現した。
 しかし,
 @育成策が輸入規制や各種補助金の交付に偏していたこと,
 A開発の中心となった政府,国営企業等が能力不足やコスト意識の欠如などから非効率な投資が多かった上に,大型プロジェクトへの資金投下は回収までに時間が掛かるため財政赤字が拡大したこと,
 B国内インフレによるコストアップと,往々にして為替レートが過大評価されていたことなどから,
 その結果,83年以降の世界経済回復局面では,世界需要の増加に伴い輸出が急伸し,極めて高い成長を達成した。  総じて輸入代替産業が国際競争力を備えるに至らなかった。

  ともに海外からの投資(借入)を工業化に向けているが、ラテンアメリカNIEsでは、それを、政府・国営の輸入代替型工業やインフラストラクチャーに向けられた。そして、そいつの保護をいっしょうけんめいやった。

 投資が効率よく使われていればなんとかなったかもしれないが、そもそも回収するのに時間のかかる部門に投資したうえ、投資を受けた企業には回収するための能力がない。

 役人には商売がわからないのだ(おいらにもわからないが)。

 さらに悪いことに、回収しようとする意欲すらなかった感じだ。なんといっても保護されているんだから、頑張らなくたっていいのだ。

 役人だから、そもそも、借金は返すもの、という考えがないのだ。

 役人はゼニを集めて配分するのが商売。役人にとって、回収なんて、そんなせセコいことは、どーでもいいのだ。

 その結果、アジアNIEsでは労働集約型の機械工業を中心に、また、それだけでなく他のさまざまな業種でも、どの業種でも伸びがみられたが、ラテンアメリカNIEsでは、伸びなかった。(右図は、韓国とブラジルの比較)

 投資効率が悪いのだ。

 うまくいかないから赤字になる。投資を受けて赤字になるのは政府・国営企業だから、企業の赤字は政府の赤字だ。こりゃいかん、というわけで、またまた借金して、赤字を補おうとする。するとまた赤字になる。その追いかけっこで、膨大な債務をかかえることになる。

 財政赤字をチャラにする一番手っ取り早い方法で、政府ができることは何か? 以下、いいかげんなお答え。

 簡単です。インフレをほったらかしておけばいいのです。

 たとえば、1000万円の借金があっても、インフレで物価が1000倍になれば、収入さえあれば借金はすぐ返せます。今まで10万円の収入しかない人でも、インフレになれば、給料が1億円になります。借金の額はそのまま1000万円ですから、返しても9000万円のおつりがきます。インフレの時代には借金をしなければいけません。

 でも、これは、収入のある人は、の話です。収入のないひと、あっても少ない人は、インフレで儲けることはできません。100円しか収入のない人は、インフレで10万円の給料をもらって、それをすべて借金返済にあてても、借金はまだ990万円も残っています。100円しか収入のなかった人に1000万円の借金なんかないだろうな。でも、でも少しはあるかもしれません。もしあったなら、それは、100円で暮らせなかったから借金したわけで、インフレになって給料が10万円になったとしても、インフレですから上がるのは給料だけじゃないんだから、やっぱり暮らせないわけで、また借金するしかありません。給料が上がるより物価が上がるほうが早いから、生活は苦しくなりますね。

 というわけで、インフレになると、収入の多い金持ちは得をするが、収入の少ない貧乏人は損をする。

 政府には収入はあるのか? あります。他の国から借りればいい。1ドル100円として、1000万円の赤字があったら10万ドル借りなければいけませんが、物価が1000倍になり、通貨の価値が下がって、1ドル=10万円になれば、100ドル借りるだけで1000万円の赤字はなくなります。

 当時、外国には貸してくれる人がいっぱいいましたから、ばんばん借ります。

 そして、また赤字。

 そしたら、またインフレ。そして外国から借りる。

 こういうことを繰り返すと、国内的には政府の赤字は出ても、すぐに解消できるからばんばんざいです。国内のインフレと外国からの借金は、赤字解消の打ち出の小槌であります。だから、まずはこれをやる。

 国内ではうまくいく(ように見える)し、財政の帳尻あわせはうまくいくから、各方面をだますことができます。どんどん借りましょう!! あとは野となれ山となれ。

 外国の貸し手も、「国家は潰れない」と思うのが普通だから、まさか、政府が借金を踏み倒すことはないだろう、いつか何とかなるだろう、てわけで、外国の銀行のいくつかは、貸しに貸しまくった。そして潰れた。

 こうなると、「おい、おい、こりゃ、やばい! あそこに貸すとうちが潰れる!」てことになる。こうなるともうだめです。外国の銀行は誰も貸してくれません。

 外国からの借り入れなしで、なんとかやるしかないわけだが、どうしたらいいか?

 外国が貸してくれないなら、国内から借金すればいい。みなさ〜ん、貸してくださ〜い。

 といっても、個人個人に借金を申し込みに行くのではありません。

 銀行に行って、人々から集めたお金、すなわち、みんなの貯蓄を借りるのです。

 ところがだ。銀行にそんなものはなかった。

 なんとなれば、みんな、貯金するにも金はない。あっても、貯金する習慣がない。
 だって、インフレなんだもの。貯金するより借金したほうがりこうだもの。
 
 これもアジアNIEsとの違いです。
 アジアNIEsでは、みな、せっせと貯金した。インフレもそんなになかったし。

 右の図をみると、韓国やシンガポールの貯蓄率はどんどん上昇しています。
 投資率が高いから経常収支は赤字だが、貯蓄をどんどん投資に回しているわけです。
 そして、経常収支の赤字も少なくなっている。
 いい感じです。

 ラテンアメリカ諸国は貯蓄率が伸びていない。
 ブラジルでは投資率も低下している。貯蓄がないから投資できない。

 というわけで、80年代のラテンアメリカNIEsは、工業化がうまくいかず、お先真っ暗なのであった。一次産品輸出が頼みの綱にならないのは、結果をみればあきらかなので、それについては省略。 


2003年12月16日 ガイアナのニューアムステルダム

 今日は絶妙くんとジョンイルマンセイくんからの疑問です。

絶妙くんとジョンマンくん:
 スリナムはオランダから独立したのだが、ここがオランダ領になったのは、もとはイギリス領だったのに、アメリカのオランダ領だったニューヨークと交換したからですよね。

さ〜らまん:
 そうらしいですね。ニューヨークはオランダ植民地時代にはニューアムステルダムという地名だったのだが、イギリス領になってからニューヨークと改称されたらしいですね。

絶妙くんとジョンマンくん:
 そうですよね。ところが、いま、地図帳を見ていたら、ガイアナに「ニューアムステルダム」という町があるんですよ。ガイアナはもとイギリス植民地だったんでしょ。どうしてここにニューアムステルダムというオランダゆかりの地名があるんですか? 旧オランダ領のスリナムにあるならわかるんですが。

さ〜らまん:
 むむむ。なぜでしょうね。そのあたりは、オランダ領になったりイギリス領になったりしたところですが。。。わかりませんねえ。

絶妙くんとジョンマンくん:
 お願いします。調べていただけないでしょうか? 試験に出ないことなのは承知していますが、地理は試験に出ないことまで勉強するのが僕の高校時代からの趣味なんです。

さ〜らまん:
 知り合いのガイアナはかせにメールしてお尋ねしてみましょう。
 「もしもし、、」  あ、メールで「もしもし」はないな。「ガイアナはかせ、お久しぶりです。今日はつかぬことをお聞きしますが、……て、ことなんですが。。。」

ガイアナはかせ:
 ああ、あの辺りは、むかし、イギリスやオランダやフランスの海賊、あるいは、海賊もどきの軍隊が活躍したところで、領有があっちいったりこっちいったりしているんですよ。スリナムとニューアムステルダム(今のニューヨーク)を交換したのは1667年です。いまのスリナムは交換する前はイギリス領でしたが、いまのガイアナは交換する前も後もかなり長い間オランダ領だったんですよ。それでね、その交換したあとで、といってもたぶん直後じゃなくてだいぶたってからですが、ニューアムステルダムの地名をここに移転したんです。

さ〜らまん:
 そういうことだったんですか。やはり、今のガイアナは当時オランダ領だったんですね。

ガイアナはかせ:
 そうです。で、このニューアムステルダムは、ニューアムスターダムという人もいますが、ここにはオランダ領ギアナの首都がおかれたんです。首都といっても、当時のオランダ領は現在のガイアナとスリナムの全域なんですが、その全域の首都ではありません。

さ〜らまん:
 えっ? 全域の首都じゃないっていうと?

ガイアナはかせ:
 当時の蘭領ギアナはオランダ政府が全域を統治するのではなくて、オランダの西インド会社が経営するいくつかの植民地からなっていたのです。現在のガイアナには、エセキボ、ダメララ、ベルビセという3つの植民地があって、ニューアムステルダムはこのうちのベルビセ地方の首都だったんです。

さ〜らまん:
 ややこしいですね。ガイアナの現在の首都はジョージタウンですが、これはイギリス領になってからの首都ですか?

ガイアナはかせ:
 ジョージタウンは、百科事典などではイギリス人が建設したってことになっていますが、ガイアナは1781年からの2年間だけフランスに占領されましてね、そのときにフランス人が建設したロンシャン(Longchamps)という小さな町が起源なんですよ。そのあと、1783年に再びオランダ領に戻ったとき、オランダ領ギアナのうちダメララ地方の首都を、このロンシャンに移しました。その年に、待てよ?翌年の1984年だったかな? 地名もスタブレック(Stabroeck)と改称しましてね。首都としてはこのときからですが、そのあと、ダメララ地方とエセキボ地方はオランダ政府の直轄植民地になったので、ダメララ=エセキボ連合植民地になってからも首都でした。残りのベルビセ植民地だけは、西インド会社の管理のままで、ニューアムステルダムがその首都として建設されたんです。スタブレックは、これらオランダの3つの植民地、すなわち現在のガイアナがイギリス領になってからも首都であり続けたのですが、ニューアムステルダムはベルビセ地方の中心都市であるにすぎなくなった、というわけです。1803年に、オランダ領ギアナの西半分、つまり、現在のガイアナはイギリス領になりますから。

さ〜らまん:
 なるほど。じゃ、スタブレックは、イギリス領になったときに、ジョージタウンという地名に変わったんでしょうか?

ガイアナはかせ:
 いや、すぐに変わったのではなくて、約10年後の1812年に、イギリス国王のジョージ三世にちなんで、ジョージタウンと改称されたのです。ジョージタウンという地名は、その前の年に聖ジョージ教会がおかれましたから、それにちなんでいるのかもしれませんが、そもそもその教会名も国王の名を意識して命名されたものでしょうから、ジョージ三世にちなんで、と言っていいでしょう。

さ〜らまん:
 ほぉ〜! ということは、現在のジョージタウンはオランダ領時代の首都の一つで、もとをたずぬれば、ガイアナが2年間フランス支配下だったときの初年の1781年に建設されたロンシャンという町が起源。オランダ領に戻った1783年か翌年の1784年に、オランダがこれをスタブレックと改称してダメララ地方の首都(のちにはダメララ=エセキボ地方の首都)にした。ガイアナがイギリス領になってからも引き続き首都となったが、地名は、1783または84年から1812年まではスタブレックで、1812年にジョージタウンに改称されたというわけですね。

ガイアナはかせ:
 そういうことです。イギリス領になってから都市計画がなされ、同時に改称されたのでしょう。

さ〜らまん:
 では、ニューアムステルダムの方は、いつからベルビセ地方の首都だったんですか?

ガイアナはかせ:
 よくわからないのですが、町の起源はジョージタウンより50年ほど古くて、1730−40年代に集落ができ、次第にベルビセ地方の首都機能をもつようになったようです。1760年代に大規模な奴隷反乱があって荒廃したようですが、1780年代末から90年代初めに都市計画がなされ、ちょっとだけ位置が移動しますが、再建されました。運河を建設するなどしてオランダ風の町が作られたのです。それで、1792年に、ベルビセ地方の正式な首都になったようです。

さ〜らまん:
 ニューアムステルダムと呼ばれるようになったのはいつからですか? ジョージタウンの方は、ガイアナがイギリス領になって以後の1812年から、ってわかりましたが。

ガイアナはかせ:
 それがよくわからないのです。私の想像では、オランダ風の都市計画がなされた1790年ごろではないかと思いますが、ひょっとしたらもっと古いかもしれません。とりあえず、1790年ごろ以前とお答えしておきます。

さ〜らまん:
 なるほど。はかせにもわからないことってあるんですね。

ガイアナはかせ:
 ははは。わからないことがひとつもない人は「はかせ」になれませんよ。「ものちりはかせ」にはなれますが。。。 とは言っても、この程度は根気よく調べりゃすぐわかることですから、私は「ものちりはかせ」でもないですな。

さ〜らまん:
 ???(「何を言っているんだ、このおっさん」と思いつつも、それは顔に出さず、てか、メールの文面に出さず)。
 いずれにせよ、ニューアムステルダムという地名はオランダ領時代に命名され、ジョージタウンという地名はイギリス領時代に命名されたわけですね。それがわかっただけでも、絶妙くんとジョンマンくんは納得してくれると思います。それにしてもややこしい。領有関係がころころ変わっているからでしょうね。

ガイアナはかせ:
 さ〜らまんさんは、年表をつくるのが好きみたいですから、どうです。つくってみては。

さ〜らまん:
 勘弁してくださいよ。閑人さ〜らまんも、そこまで暇ではございません。いや、本当にありがとうございました。


というわけで、以上のやりとりメールを絶妙くんとジョンマンくんに見せたところ、彼らもまた、年表をつくれ、と言う。ガイアナはかせのおだてには乗りたくないけれど、未来の地球を担う若者たちであらせられる絶妙くんとジョンマンくんの頼みとあらば仕方ありません。夜を徹して、年表をつくってみました。つくってみたが、逆にわかりにくいです。英領カリブの歴史はここ、ガイアナの歴史はここここを参考にしました。ジョージタウンの歴史はここここを参考にしました。一応つくってみましたが、まだまだ不明な箇所が多々あります。

1594 イギリス人ローリーが、ジェイコブ・ウィドンをギアナ探検に派遣。
1595 ローリー、エル・ドラードをもとめギアナに入る。
1998 オランダ人がギアナに到来。
1603 イギリス人チャーリー・リーらがギアナでタバコ栽培を開始。
1616 オランダがギアナ(現在のガイアナ)に植民地を建設。
    エセキボ川の河口から25キロの中州キュコベラル(Kykoveral)に砦を建てる。

1617 ローリー、第2回目のギアナ探検。。
1620 オランダ西インド会社が現ガイアナに拠点建設。
    フランス人も入植を試みるが、カリブ族の抵抗にあい失敗。
1621 オランダが現ガイアナに西インド会社を設立。
    エセキボ植民地を中心にギアナ地方を実効支配。
    アラワク族を追い払い、海岸地帯の湿地に排水工事を行い農耕を開始する。
1623 エセキボからタバコ15,000kgが輸出される。
1624 オランダ人、エセキボ東南のベルビセ川中流にガイアナ第二の基地を建設。
1640 オランダの基地に最初の黒人奴隷がアフリカから来る。
1651 バルバドスのイギリス人が現スリナムに入植。小規模なさとうきび農園を開発。

1657 Pomeroon川にオランダの小集落ができる。
1658 オランダの西インド会社がさとうきび栽培を開始。
1660sオランダ支配のガイアナには、アフリカからの黒人2,500人が居住。
1667 第2次英蘭戦争が終結しブレーダ条約締結。
    英領スリナムとニュー・アムステルダム(ニューヨーク)と交換。蘭領ギアナとなる。
    ギアナ東部はフランスに割譲し仏領ギアナとなる。

1676 5月 フランス領ギアナのカイエンヌをオランダ艦隊が攻撃し占拠。
    12月 フランス軍が奪回。
1741 オランダがエセキボとベルビセの中間に、ガイアナ第三の基地デメララを建設。
1746 オランダ政府は、白人の入植を奨励するため、デメララ地区をイギリス人入植者にも開放。
1760 ガイアナへのイギリス人の入植が進む。デメララ地方ではオランダ人をしのぐまでに増加。
1763 ベルビセで大規模な奴隷の反乱。
1781 11月26日 米国の独立戦争と関係しフランス・スペインと英国との戦争が始まる。
    
イギリスは、ガイアナのベルビセ、エセキボ、デメララをオランダより奪取。
    その数ヶ月後、オランダと同盟関係を結ぶ
フランスが、同地方を占領。
    フランスがあらたにデメララ河口にロンシャン(Longchamps)の町を建設。
1783 オランダが再び支配権を回復。
    
ロンシャンのやや河口側に町を建設し、地名をスタブレック(Stabroeck)と改名。
    スタブレックをデメララ植民地の首都とする。

1786 ガイアナ地方の内政が事実上イギリス人の手にわたる。
1790 ガイアナ地方がオランダ政府直轄のデメララ=エセキボ連合植民地となる。
    ベルビセは別個の植民地として、引き続き西インド会社の管理下におかれる。
1792頃ベルビセ川とCanje川の合流点にニューアムステルダムが建設される。
1992 ニューアムステルダムがベルビセ植民地の首都となる。

1795 ナポレオンがオランダを占領。イギリスがフランスに宣戦布告。
    
イギリスがガイアナに侵入。現地のオランダ人政府は英国部隊を無抵抗で受け入れる。
1796 イギリス軍、蘭領ギアナ(現ガイアナとスリナム)を再び奪取。
1802 アミアン条約で、ギアナ(ガイアナとスリナム)がオランダに返還される。
1803 英仏戦争が再開。イギリスはギアナ西半(現ガイアナ)を奪取。英領ギアナとする。
1809 仏領ギアナがポルトガルにより占領される。17年にパリ条約にもとづき返還。
1811 スタブレックにSt. George's教会が建設される。
1812 イギリス、スタブレックをジョージタウンと改称。
1814 パリ条約。ギアナの三国分割が確定。ガイアナはイギリスに帰属することとなる。
    
フランスは海外領土における奴隷貿易の廃止を受諾。
1831 イギリスは、ガイアナ地方のベルビセとデメララ=エセキボ連合植民地を統合。
    直轄植民地「英領ギアナ」として統治。
1833 8月28日 イギリスの下院で、奴隷制廃止法が可決される。
1834 8月1日 イギリスが全植民地での黒人奴隷制を廃止。
    奴隷制度に代わるものとして年季奉公システムが導入される。
    (奉公人は奴隷と同じように殴られたり虐待を受けたりする。)
1835 イギリス政府が、ドイツ人探検家に、ガイアナの探索およびベネズエラとの国境確定を依頼。
1838 英領ギアナで奴隷解放が完了。
    インド人移民の受入れ開始。1917年までの80年間で24万人流入。
    
同じ時期,トリニダードにも15万人が入るなどカリブ全体で50万人に達する。
    8月10日 隷制の残滓、契約奉公人制度が廃止される。
    ビクトリア女王は奴隷解放のシンボルとして称えられる。
1840 イギリスが、ドイツ人探検家の探索にもとづくガイアナ地図を発行。
    オリノコ川河口を国境とする。
    ベネズエラ政府はエセキボ川以西の領土に対する支配権を主張し対立。
1841 イギリスが、ベネズエラとの暫定境界(Schomburgk Line)を策定。
1848 9月オランダ領でも奴隷制が廃止される。
1850 イギリスとベネズエラ政府が、係争地帯を中立地帯とすることでいったん合意。
    その直後に係争地帯に金が発見される。
    英国人は英領ギアナ鉱山会社を設立し、係争地帯に進出。
1853 ナポレオンV世が、仏領ギアナのカイエンヌ沖合の悪魔島にカイエンヌ刑務所を設置。
    仏領ギアナ全体が囚人の流刑地となる。
1885 中国人による出稼ぎが始まる。1912年までに14,000人が入国。
1863 オランダ領スリナムで奴隷解放が完了。
    スリナムにはインド人が1916年までに3,7000人が移住。

    スリナムでは移民労働力の中心は次第にインドネシア人に変わる。
    スリナムにはインドネシア人が1900-1940年の間に33,000人が流入。

1885 フランス、仏領ギアナを8年以上の重罪人をおくる流刑地とする。
    ガイアナ,スリナムにインド、中国からの移民増加。
1887 ベネズエラ、中立地帯でのイギリスの勝手な振る舞いに抗議し断交。イギリス、米国調停案を無視。
1891 ガイアナに一定の自治を認める憲法修正が英国議会を通過。
1895 英領ギアナで金鉱発見。ベネズエラとの国境をめぐり紛争。イギリスは軍隊をベネズエラに上陸。
1897 ギアナ=ベネズエラ間の国境問題を、英国、米国、ロシアからなる国際調停に委ねることを認める。
1899 調停団、係争地の94%をガイアナに帰属させる案提出。ベネズエラはオリノコ河口を確保。
1905 ベネズエラは国際調停団の国境線を受け入れるが、その後も国内に不満がくすぶる。
1946 グアドループ、マルティニク、フレンチ・ギアナの仏領西インド諸国が、フランス海外県となる。
1953 仏領ギアナへの囚人配流が最終的に終了。
1966 5月26日、ガイアナがイギリスより独立。英連邦内にとどまる。
1975 11月25日、スリナムが完全独立。黒人系の支配を嫌うインド系住民がオランダへ流出。

初期オランダの入植地


初期オランダとイギリスの入植地


スリナムをニューヨークと交換。


イギリスがガイアナを奪取。

*ベネズエラとの国境は画定していない。

青がオランダ領、黒がイギリス領、黄がフランス領。

 というわけで、いまのガイアナは旧イギリス領だがその前はオランダ領、いまのスリナムは旧オランダ領だが、その前はイギリス領。イギリスは、ニューヨークと交換にスリナムをオランダにやったくせに、その後で、オランダ領だったガイアナを取ってしまったわけだ。さすがですな。頭がいいというか、こすいというか、ずるいというか。そのころのオランダとイギリスでは国力が違い、入植した人の数も違うから仕方ないといえば仕方ない。。それにしても、「略奪の海カリブ」とはよく言ったものだが、カリブに近いギアナでも、取ったり取られたり。

最後に一言。

ギニア、ニューギニア、ギアナ、ガイアナはよく似ていますね。間違わないための方法ですが、ギアナ、ガイアナには「アナ」がつく。「穴」があれば南米。尻とりで、「アナ→ナンベイ」。


2003年12月15日 ニュージーランドのマオリ族の分布

 短髪少年さんからの疑問です。以下の会話は実際のものではありません。ワタクシはニュージーランドの歴史に詳しくありませんからNZハカセに答えてもらったということにして、でっちあげました。

短髪さん:
ニュージーランドでは、ウェリントンよりオークランドの方が人口が多いのですか?

さ〜らまん:
そうです。詳しいことは、NZハカセに答えてもらいます。

NZハカセ:
オークランドはイギリス植民地時代の初期は首都でしたが、1865年にウェリントンに首都移転され、独立後もずっとウェリントンが首都です。オークランドは"経済の街"、ウェリントンは"政治・文化の街"ですね。

短髪さん:
ニューヨークとワシントンの関係のようなものですか?

さ〜らまん:
確かに、人口を見ればそうですね。でも、ワシントンは建国13州の北部州と南部州の中間におかれた首都ですが、ニュージーランドの場合は、そういう地域対立が首都移転の理由ではないと思いますが。。。

NZハカセ:
そうです。南島に金鉱が発見され、南島への移民が増えたので、南島へも行きやすい北島南部のウェリントンに移されたのです。下に年表をあげましたから参考にしてください。

19世紀を中心とするニュージーランドの歴史年表(左) と ニュージーランド北島の地図(1913年)
1642年
1769
   -70年
19C.はじめ

1839年
1840年1月
   2月6日


     5月

1841年

1858年
1860年


1861年
1861年

1863年
1864年
1865年
1867年

1870年頃
1872年
1881年
1882年
1907年
オランダ人タスマンが南島を「発見」。ニーウ・ゼーラントと命名。
イギリス人の探検家
キャプテン・J・クックが帆船エンデバー号で到来。
北島・南島を測量。
北島の北端のアイランズ湾岸コロラレカ(今のラッセル)などが捕鯨の
基地、交易の中心。
オーストラリアのニューサウスウェールズ州がニュージーランドを併合。
最初の移民が現在のウェリントン付近に着く。
アイランズ湾岸ワイタンギで、イギリスとマオリの首長達との間で
ワイ
タンギ条約
が結ばれ、マオリは主権をビクトリア女王に譲る。
イギリスがニュージーランドの併合を宣言。
コロラレカ(今のラッセル)から数キロ離れたラッセル(今のオキアト)に
最初の首都が置かれる。
コロラレカの治安の悪さを理由に
オークランドに首都が移され、ニュー
・サウスウェールズ州からの独立を宣言。
マオリの首長たちが北島南部のタラナキでマオリ王を擁立。
マオリの首長たちが部族連合によるマオリ王国を樹立。
北島南部のタラナキで土地売買をめぐりイギリスとマオリ首長が衝突。
北島全域でマオリ戦争が始まる。
マオリ戦争一時休戦。
南島のオタゴ地方で金鉱発見。ゴールドラッシュが起こり、オタゴ地方
への移民が増える。
マオリ戦争が北のワイカトに拡大。
南島ウエストコーストで金発見。
首都をオークランドからウェリントンに移転。
最初のマオリ復興運動が始まり、マオリ族の政治的権利が確立され、
マオリ人に4議席を割当。
コリデール種の羊の放牧や小麦栽培が盛んになる。
マオリ戦争(計3回)終結。
マオリ王廃位。
冷凍船導入。イギリスへの食肉輸出が増える。
ニュージーランドが英連邦自治領の地位を獲得。

短髪さん:
北島と南島が、アメリカの州のように分裂していて、その中間に首都が置かれたのかと思いました。アメリカのワシントンは北部州と南部州の中間に、カナダのオタワはイギリス系住民の中心都市トロントとフランス系住民の中心都市モントリオールの中間、というかオンタリオ州とケベック州の境目におかれた首都ですよね。オーストラリアのキャンベラだって、シドニーとメルボルンのどちらかを首都にするとカドがたつから中間に建設されたわけだし。だから、ニュージーランドもそうかな?と。それに、アメリカもカナダもオーストラリアも連邦制ですよね。だからニュージーランドも似ていて、連邦制ではないが、オークランドは強い自治権もっているんじゃないかと。

NZハカセ:
残念でした。国土の中央に置かれたという点では似ていますが、対立があるからとか、2大勢力の中間だから、という理由ではないのです。

短髪さん:
そうでしたか。先住民のマオリが南島に多いから、それに対処するためにウェリントンを首都としたとか、マオリがオークランド付近に多いから特別な自治権をもっているなんてことはないんですか?

NZハカセ:
そういうことはまったくありません。マオリは南島に多いとか、北島のどこかに集中して住んでいるとかいうことはないんです。さ〜らまんさん、あなたはネットで調べるのが好きみたいですから、マオリの分布を調べてみてください。

さ〜らまん:
ガッテン、承知のすけ!です。おいらは世界の主な国の国勢調査にリンクしてあるページをお気に入り登録してありますから、おやすい御用です。ちょちょいのちょい! 出ました。こいつを、また、ちょちょいのちょい!と加工して、はい!見やすくなりました。ニュージーランドの2001年国勢調査から得た地域別のマオリ人口数です。黄色で塗った地域は、全国人口に対するマオリの人口割合以上の地域です。右から2番目はマオリ総人口に占める各地域のマオリ人口の割合で、一番右端が、ニュージーランドの総人口に対する地域別人口割合(単位はすべて%)です。

短髪さん:
なるほど、これを見ると、マオリが全国にまんべんなく分布していること、そして、どちらかといえば、北島の方により多く分布していることがわかります。

NZハカセ:
そういうことです。さ〜らまんさん、ごくろうさまでした。

Region

Maori
人口数

各地域の人口に占めるMaoriの人口割合

Maori総人口に占める各地域のMaoriの人口割合

NZの総人口に占める各地域の人口割合

2001

2001

2001

2001

Total,North Island

461,235

17.1

87.6

75.9

1.Northland

40,734

31.6

7.7

3.7

2.Auckland

127,629

11.6

24.3

31.1

3.Waikato

72,822

21.1

13.8

9.6

4.Bayof Plenty

63,654

27.9

12.1

6.4

5.Gisborne

19,362

46.2

3.7

1.2

6.Hawke's Bay

32,088

23.3

6.1

3.8

7.Taranaki

14,559

14.7

2.8

2.8

8.Manawatu-Wanganui

39,267

18.5

7.5

6.0

9.Wellington

51,123

12.5

9.7

11.3

Total,South Island

64,650

7.3

12.3

24.1

1.Tasman

2,778

7.0

0.5

1.1

2.Nelson

3,219

8.0

0.6

1.1

3.Marlborough

3,894

10.2

0.7

1.0

4.West Coast

2,547

8.7

0.5

0.8

5.Canterbury

31,632

6.8

6.0

12.8

6.Otago

10,542

6.0

2.0

4.9

7.Southland

10,038

11.3

1.9

2.4

Area Outside Region

390

58.6

0.1

0.0

Total, New Zealand

526,281

14.7

100.0

100.0


2003年12月13日 センター試験で高い点をとりましょー!!

 若者掲示板では、若者たちに、ジオゴロ自慢とマニアな疑問自慢をしてほしい。勉強法の疑問とか点数が伸びない悩みを世界に向かって公開していただいても、書き込んでくれた人をワタクシは知らないのであるから、なんともお答えのしようがないのである。だから、むかしは、「そーいうことにお答えする能力がないので、能力のある人のところへ行って聞いてください。」と返事をしておいた。ところが最近、知りもしないお方であっても二度、三度とやりとりしているうちに愛が湧いてきて、役にも立たないアドバイスめいたものを書いてしまうことが多くなった。ワタクシにもとうとう焼きがまわってきたようだ。焼きがまわったついでに、無責任極まりないのであるが、下の駄文を公開することにした。無意味なこと書きやがって!バカめが!と思う向きもあろうけれど、そこはまあ、ボケ老人のつぶやきなので、どうか寛大な御心で、このバカをお見逃しくだされ。

◆ 最近の模試で60点未満の人へ

  あなたは、全くの勉強不足ですから、模試を徹底的に復習するとともに、過去問をできるだけ多く解き、わからないところをテキストなどで調べるなどして、知識を増やして下さい。過去問をきちんと何回もやるだけで、本番で70点台の得点も夢ではありません。

◆ 最近の模試で60点台の人へ

  あなたは、自分が間違ったところについて、解説を読めば「何だ、そうか。」とある程度納得できることが多いと思います。そういう人は、過去問の練習もやってきたし、地理の知識もそこそこあるはずです。知識がそこそこあり、努力もしてきたのに、点数が伸びない理由はいろいろ考えられますが、一つには、受動的な学習に終始しているためだと思います。模試の復習や過去問の練習をする際に、解説を読んで、「ああ、そうか。」と思い、それでよしとし、それ以上の学習をしなかったのではありませんか?
 解説を読んで納得するだけではだめです。「同じ問題や似たような問題が出たら、どう解いたらいいのか?」と考え、類題を解く際の考え方や解法手順を、自分なりにパターン化しておく必要があります。
 センター試験地理は思考力を試す問題が多いと言われていますが、たかがセンター試験です。思考力と言っても、そんなに複雑なことは問われず、たいていは、解法をパターン化しておけば十分に対応できるものばかりです。したがって、模試の復習などをする際、解説を読んで理解するとか、知らなかったことを覚えるなどという受動的な態度ではなく、正解に至るための考え方や解法の手順を追求し、自分なりの方法を編み出そうとする能動的な態度で学習しましょう。「この手の問題はこのパターンで解き、あの手の問題はあのパターンで解く」という具合に、どんな問題が出ても対応できるように、解き方のパターンをいっぱい作っておきましょう。それが増えれば、得点も上昇するわけですから、どんどん増やしていきましょう。勉強が楽しくなります。そうした能動的・積極的な学習を続ければ、本番では最低でも
75点は取れます。

◆ 最近の模試で70点台の人、あるいは、60点台の人で「今まで上記のような能動的・積極的な学習はしてきたのに」という人へ

  あなたは、知識はかなりあるし、解き方のパターンもかなりつかんでいるはずです。これ以上増やす知識はもうないかもしれません。そういう人に言いたいことは、「知識に頼るな! 知識は使え!」です。まず、虚心で問題を読みましょう。問題を読むときに、知識に照らすのはいいが、知識に溺れてはなりません。知識に合わせて問いを自分の都合のいいように組み替えて、「あっ、あれだ! あれが答えだ!」という具合に、反応するような解き方をして失敗したことが多くはありませんか?そういう解答姿勢ではだめです。問いの意図を的確に読み取り、「問いに対して使うべき知識はどれだろうか?」という具合に、問いに合わせて知識を使うように心がけましょう。統計問題などで「答えはこれ!」というような決め打ち的なやり方をして間違ったことも多かったと思います。知識に頼りすぎているのです。
 センター試験では、そんなに複雑で深い知識は要らない場合が多いから、勉強しなくてもそこそこの点数が取れます。もちろん、高い点数を取るためには勉強が必要なのですが、その過程で、知識が増えていくと、知識に溺れ、知識が災いして、勉強していないときより低い点ばかり取る時期が必ずあります。それは、知識に頼りすぎているためです。このアドバイスは本番の解答姿勢に対するものですが、本番でいきなりそういう姿勢をとろうとしても無理です。過去問の練習や模試の復習をしていくときにも、このアドバイスを思い出してほしいと思います。そして、「知識は頼るものではなく使うものである」という解答姿勢を身につけ、本番でも自然にそういう姿勢で解くことが出来るようにしておきましょう。そうすれば、
80点以上の得点が可能です。

◆ 最近の模試で80点台の人へ

  あなたは、ふとしたケアレスミスによって失点した箇所を点検しましょう。センター試験の正誤問題などには、注意深く読まないと間違いやすいような、セコい問題が散見され、また、特に地理では図表の読み取り問題がよく出るので、注意深さがかなり要求されます。どういう場合にケアレスミスしやすいのか、読み落としや読み違いをしやすいのかなど、自分が間違いやすい問題のパターンを頭に入れておいて、セコい問題対策をしておきましょう。そうすれば、実力はあるのだから、95100点満点も夢ではありません。


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