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1999年12月の疑問

疑問、および回答への不満は右まで→koko


おすすめ記事  1999年大晦日  12月26日


1999年大晦日 感謝、ついでに、ホストコンピュータ数(12月29日分)続報

今年は私にとってたいへんいい年でありました。
 平生の仕事では、さまざまな個性をもつ多くの若者と知り合いになることができ、例年にもまして彼らから多くの刺激を受けました。ピラニアのように食いついたら離してくれない若者もいたし、「つかず離れず」のスタンスで接してくれる若者もいました。「ピラニア」的若者が力を伸ばすのは当然として、「つかず離れず」の若者は依存心がない分、自主独立・自力更生を基本としながら必要なものを吸収するというタイプなので、一般に、「ピラニア」的若者以上に力をつけて、例年、そういう若者は必ず成功しています。来春が楽しみです。
 また、個人的なことでは、2000年が来ないうちにホームレスから脱却してオナ・ページをもつことができたうえ、若い知り合いのK君、某温泉宿のおかみエヌ代さん、新進気鋭のスペシャリストで爽やか系独身のエ・スケ氏、某出版社の切れ味最高未来派編集者K氏、以上、少なくとも計4人もの読者を得ることができました。
 この半月間、駄文を書きつらねた翌日の通勤電車の中で、「あぁ、恥ずかしい。帰ったらすべてお蔵入りさせて、再びホームレスになろう!」と固く誓うことしばしばでした。ところが、帰宅すると、手が勝手に動いてまたオヤジギャク的駄文を積み重ねる。こういうわけで、まぁ、しばらく続きそうです。このコーナーを維持できるのは、なんと言っても、しばしば疑問を提示してくれるK君のおかげです。彼のような若者がこのコーナーを必要とする1月半ば頃まで、あるいは未知の読者がいて2月半ばぐらいまでは彼らの助けになるやもしれないし、ま、毒にもならんが役にも立たんというのが本当のところでしょうが、駄文を書いている本人がまだあきておらず、むしろ駄文を読んでは悦に入るというナルシズム状態が続いていますので、しばらくこのような仕事系・マニア系のオナページで行きます。でも、できれば、3月か4月頃には、非仕事系のページに衣替えしたいとは思っています。まっ、そのときの気分次第ですが。。。

 オナ・ページ脱出願望をしたとたんに反響があったのは、本心を白状しますと、たいへんうれしかったですね。例の爽やか系独身スペシャリストのエ・スケ氏が、また、いいアドバイスをしてくれましたので、ご紹介し(一部改変)、それに対して感謝するとともに、コメントさせていただきます。

エ・スケ氏 「estuaryから接吻を想像する程度で、スケベと言われた日にゃぁ、世の真性スケベさんからは猛烈な抗議が来ることでしょう。」
 私のコメント 私の駄文が想定する読者は、色気づき始めた中学生程度のスケベ心をもつ純真(世の常識からすれば異常)な青少年・中年・老年であります。現実がどうあれ、そのように仮定しないと、駄文が作れないのであります。したがって、エ・スケ氏は、私が想定する読者の中ではかなり助平の部類に属するのであります。

エ・スケ氏 「ホストが増えたのは、格好いい男性が増えて有閑マダムが…などと書くと、またまたスケベの称号を戴くことになるので、マジメに。インターネットのホスト≒サーバーのことと考えて良いでしょう。ここ数年、途上国&社会主義国家のホスト数増加は、民間レベルではなく、「官」レベルでの増加であり、日本のように「官」レベルでの普及が一段落し、「民」レベルの急増(特にプロバイダービジネスとしての)が行われているところとは、質的に大きな違いがあります。受験生諸君が、「増加率=国民(一般家庭)への普及」と誤解せぬよう、補足いたします。」
 私のコメント 同感です。ホストコンピュータの普及率はパソコンやインターネットの普及率ではありませんので、その点注意しましょう。サーバーともちょっと違いますが、エ・スケ氏のおっしゃるとおり、その違いは気にしなくてもあまり問題にはなりません。それはさておき、ジオゴロをジゴロと間違う若者がいることはいるが、ホストコンピュータからサービス業のホストを連想するとは! エ・スケ氏の面目躍如ですね! 夜の帝王の称号を献上させていただきます。 


12月31日 日中貿易

 1990年ごろから中国との貿易が活発になったと耳にしました。そのころ、日本と中国との間で何らかの協定でも結ばれたのですか?

お答え その前から増え始めてはいたが、1990年に一旦落ち込み、以後の伸び(特に輸入)がすごい。

 中国との貿易は、第二次世界大戦後はごくごくわずか(戦前は大変多かった)で、日中国交正常化(1972年)以後増え始め、日中平和友好条約の締結(1978年)、中国の改革開放政策への政策転換(1978年末)以後、増加のペースが加速します。
 ところが、その後順調に伸び続けたわけではなく、1990年頃、中国国内の政治的事件や政策の後退などにより一旦落ち込みました。政治的事件というのは、具体的には1989年の天安門事件のことです。事件直後、このときの中国政府の行動をけしからんと非難する欧米諸国が経済制裁を行いましたが、日本政府も欧米に準じる措置をとっったうえ、中国の改革開放政策が後退したこともあって、中国との関係はやや冷え込み、貿易額も大きく減りました。事件前の1988年に、「日中投資保護協定」が調印され、日本の対中投資を促進するための窓口機関を設立する準備が始まっていましたが、これも、天安門事件で延期されます。
 しかし、日本は、「中国を孤立化させることは好ましくない」との立場から、欧米諸国より早く中国との関係を修復します。1990年に、対中投資の窓口機関「日中投資促進機構」が正式に設立され、91年には、日中関係は完全に修復しました。それにともない、その後は貿易額も一貫して増加しています。ただし、1998年はバブル崩壊後の日本の不況の影響(かな?)でごくわずか減少しました。

 以上の協定だとか機構だとかは、ものの本に書いてあったことを書き写したまでですから、忘れてもいいでしょう。大事なのは、「改革開放政策は1970年代末以後」、「その後現在までの途中に天安門事件があって、改革開放政策が一進一退した」の2つの点ぐらいかな? そして、統計が出て「どれが中国か?」と問われたら、1990年頃不自然に落ち込んでいるヤツだ! とすればいいわけです。参考までに対中貿易額(単位:億円)の変化を下に示します。 (『日本国勢図会』などによる)


   1970
   1975
   1980
   1985
   1990
   1995
   1997
   1998
    輸出
   2048
   6893
  11408
  29912
   8835
  19137
  26307
  26209
    輸入
    914
   4672
   9778
  15524
  17299
  28114
  50617
  48441

12月30日 電気産業と銅鉱

 ある本に、「銅鉱は電気産業の発達で需要増大」と書いてありましたが、電気産業と銅鉱が、どのように関係するのですか?

お答え 知っていることと知っていることを結びつけるのは難しいですね。

 銅は電気抵抗が小さいってことは知っていますよね。電気は送電線や電気コードがないと使えないってことも知っています。ひょっとして、電線には銅が使われているってことも知っているんじゃないですか? もうおわかりですね。 なお、「電気産業の発達」っていうのはいかにも恰好いい言い方だが、「電気をたくさん使うようになると」という程度の意味です。


12月29日 インターネット接続ホストコンピュータ数

 『地理統計(地理データファイル)』p30−E「インターネット接続ホストコンピュータ数」で、インドネシア・中国・インドの増加率が、他国と比べて、非常に大きいのはどうしてですか?

お答え 「あんたも古いねぇ」と言われそうですが。

 「あんたも古いねぇ」と言われそうですが、星飛雄馬のとうちゃんの星一徹いわく、「はじめ悪くて終わりよし」を思い出しました。私の好きな言葉です。もう一つ好きな言葉は「一発逆転主義」で、これは私が作った言葉です。

さて、お答え。
 一般論で言えば、もともとが少ないときは、ちょっとでも増えれば、増加率が大きくなるのです。一人当たりの自動車保有台数の増加率でも途上国は高くなります。携帯・自動車電話の契約数の伸び率でも、もともとが少ない途上国は伸び率が大きいのです。先進国でも、日本は、今まで少なく、最近急速に増えているので、1990年代後半の携帯電話契約数の伸び率はうんと大きくなるでしょうね。さて、この統計によると、インドのホストコンピュータ台数は1998年が7(台)で、過去3年間の伸び率は2000%になっていますから、3年前のホストコンピュータ数をy(台)とおくと、(7−y)/y×100=2000より、y=7/21(台)となります。
 と、計算してみて気づいたが、1台より少ないのはおかしいですね。そこで、元データに当たって調べたところ、この統計のホスト数の単位は(千台)であることがわかりました。来年度の統計集には単位を入れ忘れないよう、きつく言っておきましょう。ご指摘ありがとうございました。1998年は7(千台)で、3年前は7/21(千台)=約333台ってことですね。


12月28日 リプロダクティブ・ヘルス/ライツ

 人口問題のところで、「リプロダクティブ・ヘルス」という言葉が出てきたのですが、これはどういう意味なのですか? 曖昧な知識なのですが、子どもを産むか産まないかは女性に決定権がある、ということですか?

お答え まあ、そんなところです。

 「リプロダクティブ・ヘルス」と「リプロダクティブ・ライツ」という言葉があります。リプロダクティブ(reproductive)は再生産、ヘルス(health)は健康、ライツ(rights)は権利なので、硬い訳なら、リプロダクティブ・ヘルスは「生殖と性に関する健康」、リプロダクティブ・ライツは「生殖と性に関する権利」となります。また、これらをあわせて、「生殖と性に関する健康/権利」とも訳します。これは、1995年にカイロで開かれた「国際人口・開発会議」以後、広く認知されるようになったもので、最近は、「リプロダクティブ・ヘルス−出産の自由−の権利」という少しくだけた表現も出ています。その会議で採択された文書の邦訳の一部を引用するので参考にして下さい。

 ・・・ リプロダクティブヘルスは、人々が安全で満ち足りた性生活を営むことができ、生殖能力をもち、子どもを産むか産まないか、いつ産むか、何人産むかを決める自由をもつことを意味する。この最後の条件で示唆されるのは、男女とも自ら選択した安全でかつ効果的で、経済的にも無理がなく、受け入れやすい家族計画の方法、ならびに法に反しない他の出生調節の方法についての情報を得、その方法を利用する権利、および、女性が安全に妊娠・出産でき、また、カップルが健康な子どもを持てる最善の機会を与えられるよう適切なヘルスケア・サービスを利用できる権利が含まれる。・・・
 ・・・リプロダクティブライツは、・・・人権の一部をなす。これらの権利は、すべてのカップルと個人が自分たちの子どもの数、出産間隔、ならびに出産する時を責任を持って自由に決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利、ならびに最高水準の性に関する健康およびリプロダクティブヘルスを得る権利を認めることにより成立している。(外務省監訳『国際人口・開発会議「行動計画」』より)

 国連の人口会議は、これまでも、1974年にブカレストで、1984年にメキシコシティで、開かれてきましたが、そこでは、人口抑制政策に力点がおかれてきたのに対し、カイロの人口会議は、女性の地位や権利に注目した点で、今までの会議とちょっと違います。
 上記は、硬い文なので読む気にもなりませんが、「男女とも」というところは、「女」を入れてあるのがミソで、「今までは女性に決定権がなかったが、女性にもあるんだ、いや、女性にこそあるんだ」と読み取っていいでしょう。「乳児死亡率が高かったり、女性の地位が低ければ、子どもをあまり産まないようにしようというキャンペーンをいっしょうけんめいやっても、普通はうまくいかないのだ。乳児死亡率が低下したり、女性が教育を受けて仕事に就き避妊を選択できるようになれば、多くの女性はおのずと子どもを多く産まないようになり、世界の出生率は下がるのだ。だから、人口増加をくいとめるには、女性の地位向上が不可欠だ」ってことですね。
 出産の自由には避妊を選択する自由も入りますから、その点だけにこだわれば、「避妊さえすれば何をしてもよいのか。不道徳がはびこるぞ!」とか、「子どもは神からの授かりものじゃないか。産む産まないの権利が人間にあるってのはおかしいぞ!」というような、宗教界からの反発もありました。


12月26日 エスちゅっ!アリー

 今日は、受験生には役に立たないことを書きます。

 つい半月ほど前は、通のお宝コレクターが自室で秘蔵の絵巻物をみて悦に入るような感じのオナ・ページがいいなあと思って、マスをかくようにしこしことページをつくり始めたが、マスはマスに通ず、というわけで、ふつふつと自己顕示欲が湧きおこり、知人にぼちぼち公表し始めたところ、確実に最低3人もの読者を得て、さらに昨日は、友人であり、某分野における新進気鋭のスペシャリスト、爽やか系独身のエ・スケ氏からご教示まで頂戴した。ありがたいことです。爽やか系独身だけあって、エスチュリーから接吻を連想したり、上記「マスはマスに通ず」という名言を教えてくれたり。。。 おいおい大丈夫かい? 名前が「エ・スケ」だからといって、エスチュアリーから「ちゅ〜」を連想する助平はそんなに多くいないぜ! たまってんじゃねぇか? と、こちらが心配するような内容のメールを送ってきます。でも、どうやらたまってはいないようで、青年の病、わが青春の前期・後期のいずれにもとんとおとずれることのなかった病、そして、受験生、特に男の受験生がかかるとちとまずいとされる病、その他の青年がかかれば美しいとされる流行り病にはちゃんとかかっているようです。安心、安心。

 さて、本題、以下がエ・スケ氏のご教示です。

  エスチュアリーですが、形態論からでは、かの質問には解答が出ないのではないかと思います。成因論からすれば、日本にかの地形が存在し無いのは、(1)小起伏地形での沈降が無かったこと、(2)河川勾配が大陸のそれと比較し、緩やかでないこと、(3)1&2と絡み、上流域からの土砂供給で、原地形が埋められること(例えば三角州の形成)、以上3点が挙げられると思います。

 昨日は、「マニアの疑問」コーナーを設けると書いたが、面倒なのでやめにします。本日の「今日の疑問」は日記みたいになりました。申し訳ない。


12月25日 エスチュリーの成因と分布について

  『日本にはエスチュアリーはない』とある大学(99年東京経済大学経営学部)の問題にありましたが、本当ですか? 円山川の河口なんかエスチュアリーみたいですが、違うのですか?

 お答え 脳みそが刺激される愉快な疑問です。

  今までは、知り合いの若者K君からの疑問に答えたものだが、今日のこの疑問は、友人で某温泉宿のおかみN代(エヌヨ)さんからのものです。K君のような前途ある若者からの疑問ならば、それに対しては、「ないよ」と答えておくだけにします。あまりに魅力的なお答えをすれば、K君の脳みそを刺激しぎてしまいます。そうなれば、K君がわれわれマニアの仲間に入ることになって、結果として、将来を棒にふる可能性なきにしもあらずだからです。ところが、この疑問は、マニア仲間のN代さんからのものなので、マニアックに回答してよいでしょう。
 分類というのは、そもそも困難な仕事であって、Yes、No、の2分法ならすっきりするのだが、分類の実際の作業には、論理以外の別物が介入する場合が多く、分類した本人も、すっきりしないまま、「えい! やあっ」とやってしまう部分が結構ありますね。地形の分類も同じで、たとえば、このエスチュアリーにしても、「河口がラッパ状に開いた」と定義するのはよいが、ラッパの開き加減にこだわれば、「開く角度は1 °でも開いていればいいのか、179 °でもいいのか?」と、なんぼでもいちゃもんがつきます。
 というわけで、形態からのアプローチは不毛な気がするので、「典型的なエスチュアリーが北西ヨーロッパ、南北アメリカ東岸地域、中国北部海岸、朝鮮半島西部海岸にみられ、日本列島にみられないのはなぜか?」という疑問に変えて、「マニアの疑問」というコーナー(別途将来設定予定)で、検討することにします。素人考えでは、日本列島が土地の高低差が大きく海岸付近の勾配が大きいこと、変動帯にあること、などが、疑問解決のキーになるはずです。


12月23日 漁獲高の変動について

 近年中国が急激に伸びていますがこれはなにか政策を転換したのでしょうか。 同時に日本が減少していますが、これは中国と関係しているのですか?  それとも単に、200海里規制に関係しているのですか?  また、ペルーが増加させていますがこれはエルニーニョの影響が弱まった為なのでしょうか。 また、ペルーの近くのチリではペルーのように増減していないのはどうしてですか? ペルーもチリも、同じようにエルニーニョの影響を受けて増減を繰り返すと、思ったのですが。  

 お答え 詳細は不明。以下は少しこじつけの説明です。

 ・ 中国・・・・農業で行われている生産責任制が、漁業に対しても行われており、漁民の漁獲意欲が向上した。中国では、内水面(河川や湖)での漁獲が多いが、漁家の生産意欲向上により、内水面の養殖などもたいへん盛んになっているうえ、東シナ海・南シナ海など海面での漁獲が大幅上昇している。生産責任制導入後の1980年代以後の漁獲高の伸びがすごいでしょ!

・ 日本・・・・漁獲高を、漁業種類別に、沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業、および海面養殖業の4つに分けて、それぞれの変化の要因を聞く問題は、センター試験(1995年本試)でも出ています。それを参考にしてください。
   1973年から1978年にかけて 遠洋漁業の漁獲高が大きく減少
     理由 @ 200海里漁業専管水域の設定
        A 石油危機による燃料費の高騰
   1988年以降 遠洋漁業がさらに減少 沖合漁業も減少
     理由 @ 主力魚であるマイワシの不漁
        A 公海上での流し網漁の操業規制
        B 北洋漁場でのサケ・マス漁業からの撤退
 日本の漁獲高の合計は、1973年頃までは主として遠洋漁業の発展により増加し、その後は、遠洋漁業が落ち込んだがそれに代わって沖合漁業の漁獲高を伸ばしたので1973年から1988年頃までは高位安定でした。ところが、1988年頃以後は上記後半の三つの理由により沖合・遠洋ともに落ち込んで、漁獲高合計が減少し、世界一の水産国の地位を中国に奪われ、ペルー・チリにも抜かれて、1996年は現在世界第4位となりました。漁獲高減少の理由は、このように、漁業種類別に理解しないといけません。なんでもかんでも200海里のせいにしてはいけません。

 ・ペルー・・・・1970年代初頭の激減は、エルニーニョ現象と乱獲によりアンチョビーが激減したため。近年の回復は、その影響が弱まったため。エルニーニョは数年に一度あり、それに伴い、近年も変動しているが、むかしほど乱獲しないうえ、最近はアンチョビー以外の魚種(えびなど)の漁獲も増えている。

 ・チリ・・・・ペルーがアンチョビーを大量にとるようになったのは1955年頃からで、その頃はチリの漁業はそれほど盛んではなかった。もともと多くないから減らなかっただけです。チリの漁業は1970年代以後、ペルーの激減のすきをついて(いいかげんな言い方ですみません)発展し、特に急速な発展は1980年代以後である。チリは海岸線が長く、南の方ならエルニーニョなど海流異変の影響を受けにくいのです。また、アンチョビーの魚粉・魚油生産が中心という点はペルーと同じだが、魚種はペルーより豊富で、サケの養殖に成功し(1980年代)、また、貝類・ウニ・エビ・海藻類なども輸出されるようになっています。


12月22日 羊毛工業について

 ある本の中に、「羊毛工業は日本やイタリアで盛ん」と書いてありました。繊維工業は発展途上国がやっているものだと思っていたのですが、日本でも盛んなんですか? イタリアが入っているのはミラノの洋服が有名なのでわかるのですが・・・

お答え おおざっぱに答えます。

第一の理由 地理的慣性の法則です。
 かつては先進国にしかなかった工業種が、途上国で発展するようになると、先進国の生産は減りますが、多くの場合、壊滅するわけではなく、それなりに生き残ります。ただし、高級品の生産に移行して、途上国の量産型と住み分けます。

第二の理由 毛織物製品は高級品です。
 繊維工業のうち、綿工業は綿花生産国に中心が移行し、先進国は綿花生産の多いアメリカ合衆国以外ではほとんど壊滅的に生産が減りましたが、もともとヨーロッパの在来工業であった羊毛工業はヨーロッパ勢がまだまだ頑張っています。安価で肌触りもよく汗をよく吸う綿製品は熱帯の途上国での需要が大きいから途上国では、輸出向けだけでなく、国内向けにも大量に生産しています。が、高価で防寒用でもある毛織物や毛糸製品の類は温帯・冷帯の先進国での需要が大きく、国内向け高級品の生産も多い。これまた、ヨーロッパ勢や日本など先進国での生産が多い理由でしょう。
 広義の繊維工業には、糸や織物などの繊維製品をつくる工業と、それを縫って衣服にする工業とがあります。また、繊維製品にしろ、衣服にしろ、現在科学の最新技術を使ったりファッション性が高く流行を追い求めたりするものと、大量生産するものとがあります。したがって、繊維関係は何でも途上国が中心と決めつけるわけにはいきません。


12月20日 鉄鋼業の立地型について

 鉄鋼業で、鉄山立地型、炭田立地型というのはなんですか?鉄鋼業というのは鉄も石炭も両方必要だと思うのですが、これらは、鉄山はあるが、石炭を他から輸送していると言うことですか?

お答え:そういうことです。

 鉄鉱石と石炭がともに出る場所はあまりなく、普通はそのどちらかが出ますから、鉄山の近くに工場を建てて石炭を別のところから運んでくる場合を鉄山立地、炭田の近くに工場を建てて鉄鉱石を運んでくる場合を炭田立地と言います。なお、昔は石炭を使う効率が悪く、鉄鉱石より石炭をたくさん使い、たとえば、鉄1t生産するのに、鉄鉱石2t、石炭3tが必要でした。その場合、大量の石炭を運ぶより少量の鉄鉱石を運んだ方が輸送費がかからないから、国内に鉄山も炭田も両方ある場合は炭田立地になりやすかったのであります。たとえば、アメリカ合衆国では、メサビ鉄山の近くの町よりも、アパラチア炭田に位置するピッツバーグの方が鉄鋼業が盛んでした。国内に鉄山はあっても大きな炭田がない場合は鉄山立地になります。フランスのロレーヌ地方やスペインのビルバオはその例です。日本、オランダ、イタリア、韓国などのように、両方ない場合は輸入するから港湾立地になります。また、現在は欧米でも、石炭はあっても鉄鉱石が枯渇している国や石炭も鉄鉱石も輸入する国が増えているので、鉄鋼業の中心が内陸から臨海に移動しています。


12月19日 アメリカの自動車生産の推移について

 自動車生産の推移と割合の統計を見て不思議に思ったのですが、アメリカのグラフが他と比べ、やけにでこぼことしているのはどうしてですか?

お答え なぜでしょうねぇ。知りません。

 石油危機以後1980年代は、アメリカ合衆国の自動車メーカーは日本車との競争で劣勢となっていた時期です。そこで、なんとか盛り返そうと、合理化に努力していました。試行錯誤の跡と考えておきましょう。試行錯誤ってのはこじつけの説明ですが、その程度の理解で十分です。詳細は合格の暁にご自分でお調べ下さい。


12月18日 外国人登録者でブラジルの日系人が増加したことについて

 ある本の中の「外国人登録者数の推移」の説明で、「1990年ごろからブラジルなどからの日系人の入国が増え」とありますが、1990年ごろ、いったい何があったのですか。

お答え センター試験にも出された統計ですね。重要事項です。

 日本の出入国管理法が改正されて、日系人に限り、就労ビザがなくても入国可能になったためです。外国人が入国する場合、観光ならビザ(入国許可証)不要の場合が多い(国ごとに、お前んとこは必要とか不要とか決めてあります)のですが、働く場合は就労ビザというものが必要です。日本の場合、この就労ビザを発行する条件が厳しくて、何か特別の技能をもっているとかの資格がないと発行しません。認められる就労に制限があって、単純労働に従事するための入国を認めていないのです。でも、日系人に限り、単純労働でも何でもOK!就労ビザを発行して入国を認めましょう!ってことにしたわけです。それで、ブラジル・ペルーからの入国者が急増したのです。これらの国にはかつて日本から多くの人が移民してその子供や孫が多くいます。ペルーのフジモリ大統領も日系人ですよね。


12月17日 アスワンハイダムの暗部について

 アスワンハイダムの建設が海岸侵食や漁業への悪影響、風土病の発生を生じさせたとありますが、建設と、どんな関係があるのですか?

お答え ダムによる堰き止め効果などが原因です。

・ 海岸侵食  上流からの土砂がダムに堰き止められて、うわずみの水しか下流に流れてこなくなり、土砂が下流に運ばれなくなったので、河川の堆積力が弱まりました。海岸付近の海には沿岸流という海水の流れがありますので、それが海岸を侵食しているのです。ナイルデルタは、河川の堆積力が沿岸流の侵食力に勝っているのでできたのでありますが、河川の堆積力が弱まれば、沿岸流の侵食力が相対的に勝るようになるので、侵食が始まります。

・ 漁業不振  ダムに堰き止められたのは土砂だけではありません。泥が堰き止められるということは、養分も堰き止められるわけで、下流には澄んだ水しか流れてこなくなるんです。養分が少ないとプランクトンが少なくなり、それを餌とする魚も少なくなります。

・ 風土病の拡大  エジプトには、巻き貝をすみかとする住血吸虫がもたらす風土病がむかしからありました。ダムを作るまでは、洪水のときにその巻き貝が流されたり埋まったりして死んでしまったから、感染者はそんなに多くなかったが、ダムができて、洪水がなくなったら、巻き貝が死ななくなりました。しかも、ダム建設に伴い灌漑水路網が整備されましたが、水路の水はダムによって堰き止められていた水なので生ぬるくなっていて、巻き貝の生育に丁度よい水温なんです。そのために、病気の宿主である巻き貝が灌漑水路沿いに増えたのです。ダムを作るまでは、保菌者が250万人ぐらいだったのが、ダムを作ったあとは1400万人もの人が病気になってしまったというわけです。


12月16日 東アフリカの気候について

 赤道直下でも、東アフリカ東岸にAf気候が及んでいないのはなぜですか?

お答え これまた難しい質問です。素人考えも交えて説明します。

 東アフリカ東岸では他の地域に比べて、熱帯収束帯の南北移動の揺れ幅が大きく、そのため、年間を通じて熱帯収束帯の影響を受けるということがないためです。モンスーンが顕著なところほど、熱帯収束帯の南北の移動幅が大きく、太平洋西部からアフリカ東部までの熱帯がそれに該当します。熱帯収束帯は、大西洋や東太平洋では季節移動が小さく、1月に少し南下する程度で、ほぼ北緯10度と北緯5度の間にあるが、西太平洋では1月に南半球に移動し、西へ行くほど南下の程度が大きく、インド洋西部では南緯15度まで南下しています。また、7月には、ユーラシア大陸に顕著な低圧部が形成されるため、インド洋では大規模な南西季節風がおこり、熱帯収束帯はその先端のヒマラヤ付近まで北上し、東アフリカでもかなり北上しています。

 では、なぜ、季節風帯で熱帯収束帯の移動幅が大きいのか? ですが、それは難問です。季節風をひきおこす冬の高気圧に押され、または、夏の低圧部に引き寄せられるからだと考えておきましょう。

 なお、東アフリカのソマリア付近に乾燥気候がみられる理由もまた、季節風が影響しています。夏の南西モンスーンも冬の北西モンスーンも、この付近では海岸線に平行に吹いています。風が海から吹いてこない、すなわち、海洋からの水分が供給されないため乾燥するのです。
 一般に、この緯度帯では、海洋上に高気圧(亜熱帯高圧帯)が形成され、その高気圧から風が吹き出すため、低緯度側に貿易風帯、高緯度側に偏西風帯が形成されます。そして、高気圧の西側に当たる大陸東岸では相対的に暖かい低緯度の海域から湿った風が吹いて雨が多く、高気圧の東側に当たる大陸西岸では高緯度からの風が吹いて沿岸を寒流が流れるため乾燥します。ところが、インド洋の北半球側では海域が狭いためその高気圧が形成されず、それがために、本来なら高気圧の西側に当たり低緯度海域からの湿った風が吹き付け雨が多いはずのソマリア付近は、高気圧の西側に当たることがないために、雨が降らないのであります。以上は、地図帳の気圧と風の図を見ながら理解して下さい。センター地理の範囲は超えていますが。。。

 上記の説明である程度は納得していただけるでしょうが、まだまだ不満だと思います。東アフリカの気候については、ほかに、東アフリカが高原であるという地形の影響もあり、説明の難しいところであります。


12月15日 中南アフリカの経済の停滞について 中南アフリカで経済発展を阻害しているものはなんですか?

お答え 難しい質問です。

 弱い理由に思えるが、けっこう重要なのは、自然環境、特に年による気象の変動が大きいなどの理由により、安定的な食糧生産が困難なことです。もう1つは、人口の急増です。劣悪な自然環境のもとで少ない人口を養うための焼畑的な食糧供給のメカニズムが、人口の急増で破壊され、土壌侵食や地力低下などをひきおこしていることは、サヘルの砂漠化などの事例にみられます。同じ途上地域でもモンスーンアジアの米作地域は、経済的に貧しいながら戦争さえなければ食うに困らない暮らしが可能で、余剰すら生み出すことができますが、アフリカの多くの地域はそうはいきません。

 決定的な理由と言われているのは、植民地時代に、社会の自立的な発展メカニズムを、欧米列強が破壊してしまったことです。奴隷貿易による若い労働力の持ち出し、鉱山開発などによる富の収奪などがあります。同じく植民地になったアジアには、植民地時代以前の成熟した社会の伝統が独立後の国造りに活かされている国が多くあります。一方のアフリカは、植民地時代の列強の支配の境界を国境として独立した国が多く、活かすべき伝統がなく、あったとしてもその前に、民族紛争にあけくれざるをえない国がたいへん多くあります。

 独立も1960年代以後と遅く、それも、上から与えられた独立という感じの国が多く、また、経済発展のために必要な外貨獲得の手段である鉱山開発の権益や商品作物の流通をいまだに欧米企業に支配されている国が多いのであります。さらに、支配者も自己または出身民族集団の利権を守ることに熱心で、国全体の利益を無視して、援助や借款も自分の懐に入れてしまう人が大変多いのであります。また、たとえ国全体の発展を考えていても、目に見える経済発展を求めるあまり、商品作物栽培に偏重する政策をとった結果、食糧生産がおろそかになるなど、誤った政策によって自立的な発展が阻害されている例がいっぱいあります。

 付け刃的・接ぎ木的な経済政策では発展できないのであります。接ぎ木も、土台となる木が元気でないと失敗します。たとえば、中国では、性急すぎるのではないかと思われるほどの経済発展政策を行っていますが、それをやる前に、農業の改革をきちんとやってみんながそこそこ食えるようにしてからの発展政策なので、かなりうまくいっています。ロシアはみんなが食えるようにならないうちにガラガラと変わってしまったので、一部の人間だけが改革の利権にありつき、彼らが既得権を守るために政治を動かしているので、現段階では政治も経済もぐちゃぐちゃです。

 一言で、これだ! という答えがないので、不満だとは思いますが、ご質問のテーマは、大学の卒論または研究者の課題になるくらいの大きなテーマであります。逆に、アフリカの人にとっては、なぜ、日本が経済発展したかが大きな関心であります。ベナン出身でしたっけ? テレビによく出てくるゾマホン氏も、そこに疑問をもって、日本に来たようですよ。


12月14日 カラハリ砂漠の成因について

 ナミブ砂漠があるのはベンゲラ海流が寒流のためだと思うのですが、カラハリ砂漠が出来た理由はなんですか?

お答え 回帰線直下に位置するので、サハラ砂漠と同様、「年間を通じて亜熱帯高圧帯の支配下にあるため」と考えておきましょう。


12月12日 ドイツの外国人労働者について

 ルール工業地帯の発展に外国人労働者が何らかの役割を果たしたと聞いたのですがそれはなんですか?

お答え ルール工業地帯ではなく旧西ドイツの一般論で答えます。

 ドイツでは第二次世界大戦後、急速に経済が復興して工業労働力が大量に必要になった一方で、早くから少産少子型に移行しており若年労働力の増加もみこめなかったので、労働力が不足しました。最初は東ドイツから調達していたのですが、東西冷戦により東ドイツからの労働力が得られなくなり、労働力不足が特に深刻になったので、諸外国と労働力協定を結んで積極的に外国人労働力を受け入れたのであります。ルール工業地帯の鉄鋼業をはじめ、戦後のドイツ経済の発展にとって、彼ら外国人労働力は不可欠でありました。そこで、ドイツ人は、彼らをガスト・アルバイター(お客さん労働者、英語なら guest worker )と呼んでありがたがりました。1970年代以後は、経済が停滞したので、逆に外国人労働力が不要となり、受け入れ停止・帰国奨励に政策を転換しました。外国人は法的・社会的に地位が不安定なので、景気が悪くなると真っ先に犠牲になります。いいときにちやほやし、悪いときに見捨てるというのが人間の常であります。特に、これから就職しようとする若者で、これといって技能や資格を身につけていない人は、外国人と仕事の奪い合いをすることになります。そうした人を中心にネオナチと呼ばれるドイツ人至上主義が頭をもたげているという報道もありました。不景気のときに外国人排斥運動や自国民至上主義に走るのは、時代や地域を超えて小市民や未成熟な若者の常であります。


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