ウェルテルの見た心象風景

画像:
フーゴ・シンベリ
死神の庭園
1896年        
水彩 紙 
16 x 17 cm
ヘルシンキ(フィンランド)、アテネウム美術館
フィンランドの画家フーゴ・シンベリの生と死をテーマとする作品の一つ。中世の“死の舞踏”に通じる作品であるが、死神が水をやっている花は人間の魂の象徴と見られる。死が生を育むという一種のブラック・ユーモアである。
『アール・ヌーヴォーとアール・デコ』甦る黄金時代
千足伸行監修
小学館 2001

 出来の論理が欠けているかどうかの議論はさておいて、いずれにしても死の概念を自己の内面に取り込み、絶対基準と戦わせた結果ウェルテルが到達した境地はどうであったか、ウェルテルが見てきた心象風景を総括しておこう。

1771.7.24.

               表象力は弱く、万象すべてが混沌と魂の前に漂いゆらめいて
         て、輪郭をつか
むことができない

1771.8.18.

               無限の生命の舞台(注:自分のことを指す)と思われたものは、
         私の眼の前で、
永遠に口をひらいた墓の奈落と変じてしまった。

1771.8.18.

               すべてのものは過ぎ去ってゆくではないか? 万有は稲妻のご
         とくにはやく推してゆくではないか?

1771.8.21.

               暗き未来にむかってなく。

1771.8.30.

               やがて五官ははりつめ、目の前も暗く、耳は聾いたかのようだ。
         この咽をとら
える扼殺者の手があるとばかり、心臓は劇しく鼓動
               して昏んだ五官を解き放とうとするが、かえっていよいよその
         をます。

1772.1.20.

               空虚! 空虚! さながら覗き眼鏡の前に立って、その奥に小
         さな人間や馬が動きまわっているのを眺めながら、いま目に映っ
         ているのは錯覚ではないのだろ
うかと、幾度も自問をしているか
         のようです。自分もその中にまじって一緒に芝
居をします。とい
         うよりも、操り人形のように芝居をさせられているのです。そ

         て、ときどき隣人の木製の手をつかんでは、ぞっとして後にしざ
         ります。

               私の生命を躍動させていた酵母がなくなってしまったのです。

1772.10.19.

               ああ、この空虚よ! ここに、わが胸の底に、感ずるおそろし
              い空虚よ!

1772.11.3.

               一切の悲惨の源はこの自分の中にひそんでいる。
               わが双の瞳は乾き、五官も蘇生の涙によって洗われることなく
              額は不安もて皺だたんでいる

1772.11.15.

               私の全存在が生と死のあいだに戦慄し、過去は紫電のごとくに未
       来のくらい深淵の上にかがやき、われをめぐって万象が消えて、自
         分とともに世界が没落する。

               窮地に追いつめられて・・・・おのれを支えることができず、と
              めどなく転落してゆきながら、むなしく攀じ上らんとして攀じ上る
              ことができない

1772.12.12.

               ときどき何者かに襲われる。不安でもない、欲望でもない。――
         正体の分らない内的の擾乱だ。それがこの胸をひき裂き、咽を押さ
          えつける! くるしい! るしい


 これらの心情描写はいずれも、ゲーテ自身がすでに経験していた純粋経験の内容よりはみ出した領域で、説明のつかない矛盾する自己である。そしてそれもまた、矛盾する自己もまた、真摯なる私であるとゲーテは主張する。

 これらの心象風景を取りまとめておこう。

              − 眼の前に底なしの墓場が口を開いており、自分とともに世界も
           没落する。


             
− 私はそこを転げ落ちていく。攀じ上ろうとするが上れない。

              − 安定したものが一切ない。自分を支えきれない。

             
− 無力感、空虚感。

            
− 外界は実在感がない。自分が身をおいているなずなのに、よそ
           事のように見
える。

             
− 暗い未来。

            
− 内部感覚は鋭く研ぎ澄まされているが、視覚、聴覚は落ちて、
           見えない、聞
こえない。

             
− 肉体的には咽が締め上げられ、心臓の鼓動が激しい。苦しい。

             
− 悲惨の源はこの自分の中にあるという確信。


 このような精神状況を精確に描写しながらも、ゲーテはその本質を看破す
ることはしなかった。看破すれば、自らが破滅することをおそれるかのよう
に、結論を出さぬまま、身代わりとしてウェルテルを鉛弾で殺したのであっ
た。

 1771.5.22.「おのれが心の内面に沈潜して考察を行う」ことにより真理を求
めるという、当初のゲーテの基本姿勢と目的は、ここで完全に崩れてしまっ
た。死の出来の論理を解き明かすこともせず、死のうとしている自分と、純
粋経験に照らされて明るかった自分との折り合いもつけることもせず、かと
いって折り合いのつかない論理の狭間で狂気に走ることもせず、自分の内面
から生じた事態だからと口実をつけて神にも頼らず、行き所がないまま、真
っ暗でその帳の向こうになにがあるのかわからぬ穴蔵にウェルテルを飛び込
ませたのであった。

 すなわち、この物語は論理が完結していない。話の落ちどころが用意され
ていない。行き先のない暴走電車に似て、しかもその電車は逆戻りできない
構造になっているのだ。それを知りつつもゲーテはこの本を書いてしまった。

 しかし、にもかかわらず、こう書き出してみると、ゲーテという人はなん
という立派な才能を持った人かと驚嘆する。細かく、隅々まで、しかもはっ
たりを混じえずに正確に、かつ文学的に、こううまく描写できる人は少なく
とも日本にはいなかった。

 さて、表現の巧拙はさておいて、日本人のなかで、人生にたいしゲーテと
同じ疑問を抱き、同じように神秘体験
Aに到達し、しかるのち、まったく同
じように深刻なる疑問と生命の危機に逢着した探究者もいるのである。

 次章でわれわれは平塚らいてうのケースを例にとることとしよう。平塚ら
いてうは、世間では「女性解放論者」と俗称されているが、彼女の
27歳以降
の論文を読む必要はない。彼女の心の核心は別のところにあり、それは森田
草平の『煤煙』にうまく描き出されている。