覗き眼鏡の奥に見えるもの

画像:
ジョージ・フレデリック・ワッツ
希望
1886年        
油彩 カンバス

142 x 112 cm
ロンドン、テートギャラリー
『アール・ヌーヴォーとアール・デコ』甦る黄金時代
千足伸行監修
小学館 2001

1772.1.20.

 転地してから三ヶ月がたったが、ロッテへの想いから逃げられない。はげ
しい吹雪を避けて近所の農家に逃げこんだウェルテルは独白する。


               放心の波のまにまに沈湎(ちんめん)している私の姿を、なつか
         しいひとよ、
もしあなたが見たら! 私の感覚は乾きはて、胸のみ
         ちあふれるただに一刹那と
てもなく、浄福のひとときもないのです!
        空虚! 空虚! さながら覗き眼鏡
の前に立って、その奥に小さな
         人間や馬が動きまわっているのを眺めながら、い
ま目に映っている
         のは錯覚ではないのだろうかと、幾度も自問をしているかのよ
うで
         す。自分もその中にまじって一緒に芝居をします。というよりも、
         操り人形
のように芝居をさせられているのです。そして、ときどき
         隣人の木製の手をつか
    んでは、ぞっとして後にしざります。


 生きるべきか死ぬべきかの問題を未解決のまま転地して、新しい仕事と取り
組んだが、それは消閑の意味合いはあるものの、心を躍動させるものではない。
自分の行動の意義付けがなくなり、実在感覚がなくなり、まるでお芝居をして
いるよう。


               前の晩には、朝になったら日の出を見よう、と決心します。しかも、
         そのとき
になると寝床から出ない。昼には、夜は月の光を浴びよう、
         とねがいます。しか
も、そのときには部屋にこもったきりです。なん
         のために起きるのか。なんのた
めに寝るのか。自分でもわかりません。
               私の生命を躍動させていた酵母がなくなってしまったのです。


 人生の意味がわからなくなった。怠惰、無気力、無感覚。これでは転地の意
味もなくなった。

 松篁の「実在」、幾多郎の「善」とまったく同質の「塵泥といえども嘉した
もう(自然の)創造者の霊」は人間の本性を完全に
coverするものではない、・
・・・とゲーテは強固に主張する。人間の身体からある種の酵母を抜くと、生
命の躍動感は消えて、実在感がなくなる、・・・・と、一歩踏み込んで主張す
る。


               おお、あのなつかしい部屋で、あなたの足下に坐っていたい。

1772.2.8.


               どんなものでも奴らはたがいに台無しにしてしまう。健康でも、
         美名でも、楽
しみでも、休息でも! しかもそれがたいていは、
         愚昧、無智、狭量からなのだ。


 解けそうで解けない難問を抱えていると、世間のひとの日常のごく当たり
前の振る舞いは、愚昧、無智、狭量とうつる。

1772.2.17.

 ウェルテルは、公使によって与えられた権限を越えて、自分の判断と流儀
で決済するようになった。公使は宮廷に訴え、ウェルテルは大臣より譴責を
受ける。大臣は別途ウェルテルに私信をしたため、矯激なきらいはあるがウ
ェルテルのもつ気魄に敬意を表する。しかし、ウェルテルは公使の下ではな
がく暮らせそうもない、と考えはじめる。

1772.2.20.

 アルベルトとロッテの婚礼が、ウェルテルには知らされぬまま挙式されて
しまったことを知る。


               何があろうとも、私はあなたがたの傍にいるのだ。君には迷惑を
         かけないで、
ロッテの心の中にいるのだ。そこで、たしかにそこで、
         第二の席を占めているの
だ。これだけは占めていたいし、占めずに
         はいられない。ああ、もしあのひとに
忘れられるようなことがあっ
         たら、私は狂うだろう。――アルベルト、この考え
のなかには地獄
         がある。アルベルトよ、ごきげんよう! 天国の使わし者よ、ご

         げんよう! ロッテよ、ごきげんよう!


 半ば気がふれたウェルテル。閉鎖空間は固定した。いったん退けた死の誘惑
が強度を増して帰ってきた。

1772.3.15.

 フォン・C・・伯爵が食事によんでくれたので遊びにいったところ、上流階級
の夜会となり、ウェルテルは丁重に夜会から追い出されてしまった。

 ウェルテルが夜会から追い出されたという噂はたちまち町の話題となり、ウ
ェルテルは自分を嫉んでいる奴らが自分にたいして凱歌をあげていると感ずる。
卑劣漢どもがあれやこれや言いちらすとき、ウェルテルは自分の心臓に匕首
(あいくち)を突き立てたくなる。

 もうこの町を出ていきたいと思う。