おのれを囚える四つの壁

1771.5.22.

               これまでに多くの人が、人の一生は夢にすぎない、と考えた。そして、
         この思
いは私にもつねにつきまとって離れない。活動したり探究したり
         する人間の力に
は、限界があって制約されている。すべての人の営みは、
         しょせんはさまざまの
欲求を満たすためのものだ。しかも、この欲求と
         て、そのねがうところはただ、
 われらのこの哀れな存在を引きのばそう
         とするにすぎない。探究があるところま
で達したとて、そこで安心を得
         ているのは、夢を描いての諦念にほかならず、お
のれを囚(とら)えて
         閉じこめている四つの壁の面に、彩(あや)ある姿やあか
るい風景を描
         いているのだ。――こうしたことすべてを見るとき、ウイルヘルム
よ、
         私はただ口を噤(つぐ)むよりほかはない。私はおのれが心の内面にた
         ち返
って、ここに一つの世界をみだす! 具象化されたもの、はた生き
         て働く力より
も、むしろ予感とおぼろげな希求のうちに、いつもながら
         わが世界がある。ここ
にあってこそ、万有はわが感覚の前に漂い、私は
         夢みつつこの世界にむかってほ
ほ笑みかける。


 このparagraphで注目すべきは「探究があるところまで達したとて、・・・・」以
下である。

 「探究があるところまで達したとて」、すなわち、人が「善」の領域に到達した
としても、「そこで安心を得ているのは、夢を描いての諦念にほかならず」、それ
はあきらめに似たひとときの夢のようなもので、「おのれを囚えて閉じこめている
四つの壁の面に」、いずれは老死であれ、病死であれ、事故死であれ、自殺であれ、
人間の生命には限りのあることは明白で、わずかの時間の人生、死で区切られた空
間のなかで、「彩ある姿やあかるい風景を描いて」いるにすぎない。

 では、われわれが僅かな時間生きていることの意味と目的はいったい何なのか。
つまり、言葉を換えると、生きて働く力、つまり「善」と、それを取り囲む「死」
との関係はいったいどうなっているのか。「死」はその間際に「善」をも拒絶する
ではないか。事実、純粋経験の炎の中に包まれ歓喜の歌を歌いながら棺桶のなかに
入る人などいないのだ。

 現在、私はこの解答をもっていない。しかし、結論が奈辺にあるかわからぬまま、
これを内面生活で探究していくことに、私は自分の世界を見出す・・・・とゲーテ
は述べる。

写真:

エミール・ガレ
海草と貝殻のついた手
1904年         高さ33.4cm
ガラス
パリ、オルセー美術館
『アール・ヌーヴォーと
アール・デコ』甦る黄金時代

千足伸行監修
小学館 2001

               子供は意欲しながらその理由をしらない、ということについて
         は、博学な学校
の先生も家庭の教師も見解が一致している。しか
         し、成人といえども、じつは子
供とおなじように、この地上によ
         ろめきながら、いずくより来(きた)りいずく
に行くかをも知ら
         ず、真の目的にしたがって行為することもなく、やはりビスケ

         トや菓子や白樺の笞(むち)によって操縦されているものなのだ。
         このことを
誰も信じようとはしない。これほどにも明々白々の事
         実なのだがね。(砂糖パンを
せしめて「もっと」と叫ぶ子供、自
         分の欲情にまで堂々たる名称をくっつけて、
人類繁栄のための大
         事業だと押売りする連中。いずれもたしかに幸福だ)

               ――だが、謙抑にも、こうしたことは結局はどういうことであ
         るかを見抜いて
いる人もある。またさらに、心足(た)ろうた市
         民ならばわが家の庭をかざって
それを一つの楽園に作りなすこと
         ができるし、不幸な身の上の人といえどもその
重荷にあえぎなが
         らも倦(う)まずに道をつづけてゆくものだし、なによりも万

         はひとしく太陽の光を一分でも長く見ていたいとねがうものだ、
         ということを
承知している人もいる。こういう人々は、しずかに
         黙して、自分の世界を心の内
面からつくりだす。かくして、この
         人は人間であるが故に幸福である。


 身に染み透る明察である。読んで字句の通り。人間は「いずくより来りい
ずくに行くかをも知らず」、真の目的を知らない。だが私は「おのれが心の
内面に沈潜して」真理に探究に乗り出す。その行為自体が幸福ということな
のだ・・・・と説く。

 1771.5.10で述べられた「善」領域の肯定を踏まえつつ、しかしそれと隣り
合っている「死」の領域、言葉を変えると「死の意味」を解明しないことに
は、砂糖パンをせしめて「もっと」と叫ぶ子供と変らない・・・・とゲーテ
は主張する。

 願わくば、これら全てを解明して(日本流に言えば、煩悩を脱却して)、
自分を過不足のない人間に造り替え、自分に与えられたものに満足し、重い
人生を歩む人をいたわり、つねに人生に希望を見出す人間になりたいものだ
・・・・と続ける。


 かかる論点を吟味すると、「若きウェルテルの悩み」の基本姿勢は、明確
に、その出発点から、反抗的哲学者の立場であることが読み取れよう。

 ここで「若きウェルテルの悩み」の導入部は一段落する。問題の設定は完
了した。あとはロッテの登場を待つばかりとなった。



 上記はゲーテの言い分であるが、筆者の考えはもう少し過激で乱暴である。

 ゲーテは何をいまさらこんなごたくを述べ立てるのか。人間というものは、
努力に努力を重ね、精進に精進を重ねて「善」領域に突入するが、「善」領
域に突入すると同時に、周囲の人間とかけ離れた孤独地獄に陥るのである。
自らの経験を人に話しても通じない。楽しみは、ゴルフでもなく、麻雀でも
なく、スポーツクラブでもなくなる。外界とはけ離れた世界で、つかの間の
快美感を味わうも、しかもその地点も安住の地ではないという確信があり、
さながらねぐらの地下道より追い立てられる浮浪者のように、更なる探究の
道を歩ませられるのである。

 読者はどうお考えになられるだろう。考えてください。