ひそやかに忍び込む「死」の影

 さあ、ここでロッテが登場する。

 けれども、筆者はここで読者のために申し上げておかねばならない。ゲー
テがここであらゆる技巧を駆使して語ろうとする内容は、決して決してロッ
テの姿、形、ロッテに寄せられる家族からの信頼、彼女の家庭的な資質、文
学にたいする感受性、上手な舞踏の能力と音楽の資質ではない。また、それ
らに魅了されるウェルテルの心理描写でもない。それはロッテに魅了された
ウェルテルの心のなかに見えないようにそっと忍び込む「死」の影なのであ
る。それは、ほんとうにそっと、空気の波動を起こさずに、音もたてずに忍
び込む。

 このひそやかな感覚を読者に伝えるためには、ロミオとジュリエット的な
運命的に結ばれぬ熱烈な恋が、もっとも理解に簡単で便利なのである。

 実は、対象はロッテである必要も必然性もない。学校で故もなく不当に扱
われ「イジメ」に会い続ける子供、不況の波をもろにかぶって手形の決済に
応じきれなくなった事業家、社業一筋に走り続けてきたが、「明日から出社
に及ばず」と宣告されたサラリーマン、弾劾裁判にかけられたチャウシェス
ク大統領、誰だってかまわぬし、現実に誰彼の差別なしに忍び込まれている。
だが、静かにひっそりとということになると、運命的に結ばれぬ恋が、読者
の心にもっとも共感を引き起こす対象なのだ。

 だから、筆者はあまり斯様な饒舌には時間をとられたくない。できるだけ
飛ばし読みして、気のついた点を
2,3箇所記述しておくにとどめたい。

画像:

The Wedding Dance
about 1566
Pieter Bruegel the Elder (Netherlandish, 1525/30?1569)
Oil on oak panel
119.4 x 157.5 cm (47 x 62 in.)
The Detroit Institute of Arts

City of
Detroit Purchase
30.374

http://www.dia.org/collections/European
Paintings/30.374.html

1771.6.16.

               太陽はまだ山の端(は)を沈んで十五分ほどだった。ひどく蒸
         し暑かった。四
方の地平線の上に灰白色の雲が濛々(もうもう)
         とわき立っていて、その中に雷
雨が凝集しているように見えた・
         ・・・

               ・・・・私は中庭をとおって格好のいい家の方に歩いてゆき、
         庭にはりだした
階段をのぼって、戸口に立った。すると、今まで
         に見たことのないほどうっとり
するような光景が目に映った。そ
         この控えの間に、上は十一から下は二つまでの
子供たちが六人、
         姿のうつくしい中背の娘のまわりに集まっていた。この娘は簡

         な白い服をきて、腕と胸に淡い紅色の飾り紐をつけていた。

               ・・・・・・

               ――出かけながら、彼女は次の妹で十一くらいになるゾフィー
         に、子供たちの
ことをよく気をつけるように、パパが乗馬の散歩
         から帰っていらっしゃったらよ
ろしくいうように、とたのんだ。
         それから子供たちには、ゾフィー姉さまをわた
しだと思っていう
         ことをおききなさいよ、といってきかせた。

               ・・・・・・

               「(ミス・ジェニーのように)読むならほんとうに自分の好み
         に合ったものを読
みとうございます。・・・・読んでいて物語が
         自分の生活とおなじように胸に訴え
て惹(ひ)きつけてくれるよ
         うな、そういう作家が一番好きでございます。わた
くしどもの生
         活とてもべつに天国ではありませんが、なんと申してもいいしれ
         な
い幸福の泉でございますもの」

               ・・・・じつに的確に「ウェイクフィールドの副牧師」や「―
         ―」について語
るのをきくと、私はとうとうわれを忘れて、いわ
         ずにはいられなかったことを残
らずいってしまった。・・・・

               ・・・・「この熱情がいけないといわれましても」とロッテは
         いった、「かくさ
ずに申せば、わたくしはダンスがなによりも好
         きです。気にかかることがあると
    きでも、調子の狂った自分の
         ピアノで対舞曲(コントルダンス)を気ままに弾(ひ)
いている
         うちに、またなにもかもよくなってしまいます」

               話をつづけながら、あの黒い瞳に私はどんなに見とれていたこ
         とだろう! い
きいきとした唇、あざやかな若々しい頬が、どれ
         ほど私を魂の底まで惹(ひ)き
つけたことだろう! ・・・・結
         局、馬車が別荘の前でとまって、それから降り
たろきには、私は
         まるで夢を見ている人のようだった。あたり黄昏(たそが)る

         世界の中でまるで現(うつつ)心(ごころ)はなかったので、・
         ・・・

               ・・・・・・

               われわれはメヌエットを踊った。・・・・このときの私のうれ
         しさは、君にも推
量してもらえよう。

               ・・・・・・

               やがて不器用な連中が踊り場から退いたときに、さっと入って
         行って、べつの
もう一組、アウドランとその相手の二人とだけで
         思うぞんぶん踊りぬいた。こん
なにかるがると身の動いたことは
         なかった。私はもう人間ではなくなった。これ
ほども愛らしい娘
         を腕に抱いて、ともどもに稲妻のように駆けりまわってい
る。・
         ・・・そして、ウィルヘルムよ、告白するが、私は誓いをたてた。
         私が愛し
てわがものと思いたいこの少女には、私よりほかの男と
         は踊らせない。たとえわ
が身はそのために滅びようとも――。分
         ってくれるだろうね、この気持ちを!

               ・・・・・・

               (三回目のイギリス舞踏のときに、ひとりの婦人がロッテをじ
         っとみて、脅か
すように一本の指を立てて、アルベルトという名
         を二度、さも意味ありげに呼ん
だ)

               「誰ですか、アルベルトというのは?」・・・・「アルベルト
         はいい方です。わ
たくしの婚約の相手ですの。」これは意外なこ
         とではなかった。・・・・しかも、
じつに意外なことだった。・
         ・・・なにもかもごちゃごちゃになったが、ロッテが
しっかりと
         落ち着いてあちらを分けたりこちらをまとめたりしてくれたので、
         ま
もなくまた順序がついてきた。

               (舞踏会はやがて音楽をも消し去る雷鳴で中断され、・・・・)

 注目すべきことは、ただ一点。「わが愛すべき少女を私よりほかの男とは
踊らせない。たとえわが身はそのために滅びようとも――」とあるが、ウェ
ルテルが感じた独占欲に出発して独占欲が満たされない場合の滅亡への期待
感は「論理的に」どこから演繹されるのであろうか。独占欲がみたされない
場合は、同等の資質を持つ他の少女をみつけだせばよい――とはならないの
であろうか。あるいはここで適切なる論理の脈絡もなきまま、これが自然な
発想ではないかと主張されるかたがおられたら、是非お聞きしたい。なぜか?


 繰り返しになるが、この場合の独占欲は、好きな相手をみつけた結果これ
を独占したいという、元来動物に備わっている生殖本能で、これを言い換え
ると人間の自己発現の欲望そのものとなろう。これが否定される場合を想定
して、そのときは「わが身を滅ぼす」とウェルテルはいうのだが、この想念
はいったいどこから出てくるのだろう。生殖本能を否定されることが、論理
的に「自分を滅ぼす」ことに帰結することなどありえない。