真理の追求は反社会的性格を持つのか

1771.5.13.

               私がほしいのは子守歌だ。そして、これなら、わが愛するホー
         マーの中にいく
らも見いだせる。・・・・君はもうずいぶん厭
        (いや)な思いも我慢して、私が苦
悶から奔放へ、甘美な憂愁か
         ら荒廃した激情へと移ってゆくのを見ていてくれた
のだから。私
         は自分の心をまるで病気の子供のように扱っている。


 ひょっとすると、青年期特有の極端から極端へ走りがちな移ろい易い心の
特性がなせるわざなのかな・・・・ともゲーテは考えるが、それでは説明の
つく解答にはなるまい。


1771.5.15.

               この町の下層の人たちは、もう私を知って、愛してくれる。こ
         とに子供たちが
そうだ。・・・・幾分でも身分のある人は庶民に
         むかってつねに冷たい距離をおい
て対している。・・・・

               私はよく知っている。われわれは平等ではない、またありえも
         しない。しかし、
思うのだが、威厳を保たんがためにいわゆる賤
         民から遠ざかる必要があつろ信じ
ている人間は、敗北をおそれて
         敵から身をかくす卑怯者と、同じ批難に価いする。



 封建時代の身分の差は、洋の東西を問わず昔はあったもので、これが決定
的な自殺の要素にはなりえないと思うが、後半で演出されるウェルテルにた
いする公衆面前でのこれみよがしのはずかしめが引き金になり得たという観
点から、ゲーテは伏線としてかかる記述を行った。

 身分とか階級を超えた人間的感情を重視すべきだというゲーテの主張も含
まれているのだが、それは「編者より読者へ」の冒頭ででてくる寡婦を愛し
た下男の殺人事件で、ゲーテ自身が取り消してしまう。現実には身分も階級
も存在し、これに屈服させられるわけだが、これはあくまで外界の事象であ
り、内面の論理とはなりえない。畢竟、外界の事象は「引き金」にすぎず、
内面の結論に「きっかけ」を与えるにすぎない。

画像:

Ferdinand Hodler (1853 - 1918)

Landscape on Lake Geneva
C. 1906
Oil on canvas, 59,8 x 84,5 cm
Acquired in 1913 in the art trade
Inv.-Nr. 8715

Neuepinakothek

http://www.pinakothek.de/neue-
pinakothek/sammlung/rundgang/
rundgang_inc_en.php?inc
=bild&which=8878

1771.5.17.

               しょせん人間というものには型は一つしかないね。たいていの人
         間は大部分の
時間を、生きんがために働いて費す。そして、わずか
         ばかり残された自由はとい
うと、それがかえって恐ろしくて、それ
         から逃れるためにありとあらゆる手段を
尽くす。おお、人のさだめ
         よ!

 ・・・・・

               ああ、少年時代のあの女の友がいまは亡き人となったとは!・・
         ・・彼女の前
にあるときは、わが心は霊妙な官能の一切を高揚させ
         て、自然を抱擁することが
できたではないか? われらの交わりこ
         そは、こまやかな感受性とするどい機知
を果つることなく綾に織り
         なし、くさぐさの形に姿を変えて、ときにはめずらか
な技巧をもこ
         らして、なべて天才の刻印を押されていたではないか?

               ・・・・・

               もう一人、これは立派な人と知りあいになった。公爵家の法官で、
         率直な誠実
な人だ。子供が九人あるそうだが、この人がそのあいだ
         に坐っているときの様子
は、見ただけで心が楽しくなるということ
         だ。とりわけ上の娘のことを誰でもし
きりに噂をする。私を招いて
         くれたので、近いうちに訪問しようと思っている。


 ここでゲーテは、ウェルテルの愛する人物となるロッテの登場を予告する。

 514日までの手紙でウェルテルの心理状況はうまく描写したつもりだが、
残っている点をゲーテは付言している。

 食事とか、馬車の散歩とか、舞踏会とかいった社交の楽しみはそれはそれ
で楽しいものだが、話される内容はたあいのない事柄ばかりですぐあきる。
結局人間は働くための動物で、残された時間―自由をもてあます。


               自分にはこんなことをするよりもまだもっと多くのほかの力が残
         っている、自
分はそれを使わないままにむなしく朽ちさせている、
         しかも用心に用心をしてそ
れを人には匿(かく)していなくてはな
         らない。


 社会の通念とは裏腹に、真理の追求が私の真の目的ではないかとウェルテ
ルは思う。ただ、それを公にすれば、一つの型の(自我に目覚めぬ、凡庸な)
人間性で構築されている社会より追放される危険がある。真理の追求は反社
会的性格を持つ。・・・・とゲーテは主張する。が、ゲーテは純粋経験の枠
外を探検しようとしたから「真理の追求は反社会的性格を持つ」のであって、
幾多郎のように純粋経験にしがみついておれば、別に真理の追求は「反社会
的性格を持たない」ことにゲーテは気がついていない。若いゲーテは猪突猛
進型であり、わからないところ、つまり純粋経験の枠外をすべて解明し尽さ
んと意気込んでいる。そこへロッテが飛び出してきた。ロッテが登場するこ
とにより、ウェルテルの心の中でいかなる変化が生じたかをこれからご説明
しようという前提の提示と理解してもよいだろう。

 なお、感受性に富む恋愛も、510日付で述べた自然観照の場合と同様の
絶対価値があるとゲーテは説く。それは官能の一切を高揚させ、自然を抱擁
する。・・・・とあるが、これは最高の恋愛をした人のみが経験的に言える
セリフであり、残念ながら筆者はこの点については断言できる自信がない。