ウェルテルと死との関連性

画像:
菩薩立像(部分)
東魏時代・6世紀 
山東省青州市龍興寺址出土
110cm 
山東省・青州市博物館蔵

国立国際美術館大阪
2005年「中国国宝展」より

 ウェルテルと死との関係について、簡単に調べておこう。この本の最初の
部分だけに限定することとする。

1771.6.16.

 物語が始まって間もないこの日、『若きウェルテルの悩み』に初めて「死」
が登場する。

 なんとウェルテルが舞踏会に行って初めてロッテと会合したまさにその日、
ワルツを踊りぬいたウェルテルが自らの心に誓う。


               私は誓いをたてた。私が愛してわがものと思いたいこの少女に
         は、私よりほかの男とは踊らせない。たとえわが身はそのために
        滅びようとも――。


 「ほかの男と踊らせない」と「わが身は滅びようとも」とはどういう関係に
あるのだろうか。ワルツを踊るときはロッテを独占しよう。そのための障害が
あるならば、「身体を張って」阻止しよう。・・・・くらいなら理解できるよう
な気もするが、なぜ「滅び」なければならないのだろう。

 それとも、「死」は論理上の辻褄もなく、つい我々が口に出してしまう常套
句なのであろうか。

1771.7.10.

 集いの時、無神経な人で、ウェルテルにむかってロッテを気にいったかと訊
ねるのがいる。


               気に入る! こんな言葉は死ぬほどいやだ


 自分の大事な気持ちを「気に入る」というような雑駁な言葉で表現してほし
くない。「気に入る」ではロッテを家畜なみに扱っていると感じられる、との
主張は理解できるものの、それがなぜ「死ぬほどいやだ」という表現になるの
だろう。「こういう低劣な言葉を聞くくらいなら死んだほうがまし」という表
現で置き換えることができると思うが、心の中で大事にしているものが損なわ
れることは、すなわち自分の死ぬことと同等なりという方程式でも存在してい
るのであろうか。

 上記のようにわれわれは経験的に、「死ぬ」あるいは「死にたい」という言
葉が、何気なくしかも論理上の辻褄が合わぬまま、日常会話の中に出てくる事
実を認識しておかねばならない。

写真:
頭蓋骨、後古典期 アステカ文化 
1325-1521年頃 
水晶
ロンドン、大英博物館
青柳正規『世界美術大全集』第一巻 
小学館 
1995

1771.7.16.

 非常に唐突に自殺願望の心が表面化する。


               あの単純なうたがどうしてこれほどまでに私をとらえるのだろう。
         ロッテはど
うしてそれをうたいいでるのだろう。しかも、私が自分
         の額に一発の弾を撃ちこ
みたいとねがう、まさにそのときに――。


 ロッテと一緒にいると幸福だ。だがロッテが婚約者のことを愛情をこめて話
すときは不幸のどん底に陥る。現実はウェルテルの愛情は満たされないのであ
るから、一種の閉鎖空間で渇えた状態に置かれている。こういうときは自分の
額に一発の弾を撃ちこみたくなるものだと我々一同経験的に知っているから、
「ああそうか」と思って読みすごすが、本稿は自殺に関する考察なのであるか
ら、簡単に読みすごされては困る。

 閉鎖空間におかれたらなぜ件銃弾をぶちこみたくなるのか、読者にも考えて
も貰わねばならぬ。

 自分には欲望がある。これは内的なmotivation(動機付け)である。この欲望
がなんらかの外的な要因で阻止されたときに、自分を不自由な世界から解放す
る唯一の手段は自殺であると考える。ウェルテルは、かような場合には「自ら
の血管を切り開き、永遠の自由をかちえたい」と願うのだ。

 しかし、解決はなぜ「死」でなければならないのだろう。「死」の概念のど
こからきたのか、その出来の論理が欠けていると筆者はかんがえる。