「善」が私を苦しめる

 812日付けの解説でまだ解決せねばならない問題がひとつ残っていると書いた。残されているのは哲学の問題である。

 この領域になるともはや問題提起の原因であったロッテは姿を消す。生きることとはなにか、死ぬることとはなにか、自己とは何か? これを解決せずして、生きることも死ぬこともかなわぬのである。


1771.8.18.

               人間に喜悦をあたえるまさにそのものが、かえってその悲惨の因
         (もと)とな
る。これもまたさだめなのであろうか?


 これが問題なのだが、ゲーテは直ちにこの問題の解説を始める。


               生ける自然に対する熱い情感はわが胸にあふれて、私は多くの歓
         喜に浴(ゆあ)
みした。これによって四囲の世界はわがための天国
         と化した。


 すでに読者はお気づきだろう。幾多郎が「善」と呼び、松篁が「実在」と呼んだ嬉しく輝かしい生命の証である。これを私は経験したとゲーテは述べる。


               それだのに、これがいまは堪えがたい迫害者、呵責(かしゃく)
         する霊となっ
て、どこにいても私を追い苦しめる。


 812日付で到達した結論(自殺容認論)は、ウェルテルの住んでいる社会にたいするjustificationである。自殺を社会的に正当化する論理はあれでよかろう。而してなお、自己の内面におけるjustificationがある。これが難物だ。

 確かに自分は生命の証を体験し、これを自分の内面の絶対基準に据え付けた。この絶対基準があまりに輝かしく、いま私が進もうとしている黄泉への道行き(ゲーテの国にこんな表現があるかどうか知らないが)と同化してくれない。同化してくれないどころか、お前の意図は間違っていると主張しつづける。自己が二つあるのだが、前者については絶対基準として確定した。後者についてはその価値基準が確定しておらず、確信して進めない。また、進もうとしているその先もぼんやりとしていて暗い。ともすると恐怖心が湧き上がってくる。

画像:
オディロン・ルドン
オフィーリア
1905~08
パステル 紙 65 x 91 cm
ロンドン、ナショナル・ギャラリー
他の画家によるオフィーリアが多かれ少なかれ『ハムレット』の台詞を意識しているのに対し、ルドンのオフィーリアは花と水の中で眠り、夢見るかのようである。死は眠りであり、眠ることは夢見ることであるという『ハムレット』の有名な言葉を思い起こさせる絵でもある。(N.S.)

『アール・ヌーヴォーとアール・デコ』甦る黄金時代
千足伸行監修
小学館 2001

 ゲーテは回想する。

               かつては、岩の上に立って、川越しにかなたの丘のほとりまで
         ゆたかな谷を見
はるかし、あたりのものなべてが萌(もえ)いで
         湧きたっているのを眺めたこと
もあった。また、山々が麓から頂
         まで高く繁った木立ちに蔽われ、谷々が変化を
きわめてうねりな
         がら、やさしい森の中に埋(うず)もるさまを見たこともあっ
た。
         ゆるやかな川は囁(ささや)く蘆のさなかを滑りつつ、夕べのそ
         よ風が空よ
り揺りきたる雲をその面に映していた。さらにまた、
         いずくをむいても森をにぎ
わす群鳥の声がきこえ、数しれぬ羽虫
         の群が落日の赤い光のうちにはげしく踊り、
うち顫(ふる)う陽
         (ひ)ざしに甲虫は叢の中から唸りつつ舞いたっていた。あ
たり
         をめぐるこのそよめきと営みに、思わず惹(ひ)かれて地の上を
         見やると、
そこには、わが足の下の堅い岩から養分を吸う苔や、
         瘠(や)せた砂丘を斜めに
下へと這(は)う灌木が生えていた。
         これをながめて、私は自然の内部なる灼熱
の聖(きよ)き生命が、
         目の前にひらかれる思いがした。――このようなときに
は、私は
         そのすべてをわが熱き胸に抱き入れ、溢れ滾(こぼ)れる充実の
         うちに、
わが身すら神に化したかの思いにとらえられた。わが魂
         のうちに無限の世界の燦
然(さんぜん)たる形象がうごきいでて、
         生命もて万有をみたした。かくて、巨
大な山嶽が私を囲繞(いに
         ょう)し、眼前には深淵が口をひらき、細流はせせら
ぎ落ち、洋
         々たる大河の潮が脚下にさしてきて、森も山脈も谺(こだま)し
         た。
台地の底には、測るべからざるもろもろの力が入りみだれて
         作用しあい働きあっ
た。そのさまを、私はまざまざと見た。地の
         上、天の下には、ありとあらゆる生
き物の種族がむらがっている。
         生きとし生けるものは万様の姿もて繁殖する。た
だ人間は小さき
         家を造って内に寄りあい、身を護らんがために巣をかまえ、思え

              
らく――われこの広き世界を領す、と! みずからの矮小(わい
         しょう)のゆえ
にかくも万有を軽んずる、憫然(びんぜん)たる
         痴(し)れ者よ! ――行くべ
からざる山脈からいまだ人跡を印
         たることなき荒野をこえて、さらに知られざる
大洋の果てにいた
         るまで、そこに息吹きするは永遠に創造する者の霊である。こ

         者こそは、その声をきいて生くる者を、塵泥(ちりひじ)といえ
         ども嘉(よみ)
したもう。――ああ、あのころは、わが頭上を翔
         (かけ)りゆく鶴の翼をかりて
渺茫(びょうぼう)たる大洋の果
         てへゆきたいと、どれほどあくがれたことだろ
う! 無限者の泡
         だつ杯(さかずき)から噴(ふ)きこぼれる生命の快楽を啜(す
              す)りたいと、どれほどねがったことだろう! そうして、ただ
         一瞬の間なりと
も、万有をおのれの中に蔵し、おのれによって生
         みいずる唯一者の至福の一滴を、
わが限られた胸の力のうちに味
         わいたいと、いかにしばしば望んだことだろう! 

 自然を観照すれば、自分を囲繞する万物のうちに世界を支配する者が見え
てくる。しかも、その者はこの私の内にある。(この理を悟らぬ人間たちは、
小さき家に寄り集い、保身の術をみがくことに精を出し、そのくせ偉そうに
この世界は俺のものだとほざいている・・・・と脱線するが)

 この者こそはその声をきいて生くるものを祝福するのだ。そしてこれが絶
対基準だったはずだとゲーテは想う。