自殺ははたして罪悪か?
画像:
John Sloan
American, 1871 - 1951
(part of)
The
City from Greenwich Village,
1922
oil on canvas, 66 x 85.7 cm (26 x 33 3/4 in.)
Gift of Helen Farr Sloan
1970.1.1
National Gallery of Art, Washington
都会人のもつ、やりきれない倦怠感、無力感。
私には明るい街へ出て行く気力がない。
自室に閉じこもりたい憂鬱。
http://www.nga.gov/cgi-bin/pimage?51796+0+4+gg71
1771.8.12.
(昨日)私がアルベルトの部屋の中をあちこち歩いていると、
ふと彼のピストルが目に付いた。――「このピストルを貸してく
ださい」と私はいった、「旅行にもってゆきたいから」――「ど
うぞ」とアルベルトはいった、・・・・私はこうアルベルトの弁
じていることには上(うわ)の空(そら)で、勝手な空想にふけ
っていたが、そのうちに発作的な身ぶりで、額の右の眼の上のと
ころにピストルの銃口をおしあてた。――「冗談(じょうだん)
じゃない!」とアルベルトは叫びながら、ピストルを私の手から
奪った、「何をする気です」――「弾がこめてないじゃありませ
んか」――「こめてなくたって、どうしようというのです」
これを発端として、二人の法学者(アルベルトとウェルテル)は自殺論議
を展開する。(本項については引用ではなく、要約である)
(アルベルト) 「自殺する人間は馬鹿だ。考えるだけでも腹がたつ」
(ウェルテル) 「その行為の背後にどんな事情がひそんでいたか原因を立
証できれば馬鹿だ、悧巧だ、いい、わるい、などと早まっ
た判断はしないだろう。」
(アルベルト) 「ある種の行為はその動機の如何にかかわらず罪悪だ」
(ウェルテル) 「たしかにそうだが、例外がある。窃盗は罪悪だが、自分
と家族を目前の餓死から救うための窃盗は刑罰に価するの
か、それとも同情に価するのか? 不貞の妻とその下劣な
誘惑者をむりからぬ激怒から殺害した夫は罪に価するのか。
歓喜のひととき、おさえがたき恋のよろこびにわれを忘れ
た乙女にむかって、誰がまず最初の石を投げますか?」
(アルベルト) 「かかる場合、すなわち激烈な感情の惑乱するところとな
った人間は、一時的に酩酊ないしは精神異常の状態に陥っ
たとみなされるべきである」
(ウェルテル) 「理性ある品行方正な人たちはくさいものにふたをして、
問題を避けて通る。昔から不可能事を達成する非凡な人達
は例外なく「痴れ者」との罵声を背後からあびせられる。
問題を逃げるな」
(アルベルト) 「どう考えても自殺は弱さですよ。なぜといって、くるし
い生をじっと堪え忍ぶよりも、死ぬほうが安易なことは、
分かりきっているじゃありませんか」
(ウェルテル) 「人間の本性には限界があります。よろこびにも悩みにも
苦しみんもある程度までは堪えられるが、その限界を越え
ると、たちまちに破滅します。だから、今の場合の問題は、
その人が弱いとか強いとかにあるのではない。その人が―
―精神的にも肉体的にでも――苦しみの限度に堪えきれる
か否かにあるのです。だからみずからの生を絶つ人を卑怯
者だというのは不当であり奇怪であると思います」
(アルベルト) 「詭弁だ! ひどい詭弁だ」
(ウェルテル) 「こういうことはいうまでもないことでしょう。肉体がひ
どく侵され、力も消耗し、機能もだめになり、もう回復し
ようもなく、いかに運のいい変化があっても生命の平常の
営みをとりもどすことができない。こうなればもうそれは
死病です。
さて、いいですか、このことを精神にあてはめてみます。
ある人間の心が追いつめられてゆく。そのさまをよく見て
ください。彼にはさまざまの印象がはたらき、さまざまの
観念が固定します。そして情熱がますます昂進して、とう
とう一切の平静な思考力を奪ってしまい、ついにこの人を
うち仆します。
冷静な理性的な人がこうした不幸な人間の状態を見ぬい
ても、それは無駄です! 忠告をしても、なんにもなりま
せん! ちょうど健康な人が病人の枕頭に立って、自分の
力をほんのすこしでも吹き込んでやることができないよう
なものです」
(ウェルテル) (善良な娘が男にたぶらかされて棄てられたケースを持ち
出し)
「――そして男にすてられる。――娘は五体も硬ばって、
気の抜けたように、深淵のほとりに立つ。あたり一面はく
らがりで、先も見えず、慰めもなく、どうしたらいいか分
らない! あの男の中にだけ自分の存在を感じていたのに、
それに行かれてしまったのです。娘は前途のひろい世界も
見ません。失ったものを補ってくれるかもしれない多くの
人をも見ません。すべてのものから棄て去られたただひと
りのわが身のことだけが身に沁みて、――盲(めし)い、
追いつめられ、おそろしい胸の悶えのままに、身を投げま
す。四方を囲む死の中に、一切の苦悩を絶とうとするので
す。
・・・・・・
錯雑し、矛盾したもろもろの人間の迷路の中から、どう
しても出てゆく路がない。それでその人は死をえらぶので
す」
(アルベルト) 「もっと分別があって視野もひろく、あれこれの事情も見
とおせる人の場合であったら、その自殺をどう弁明できる
か、まだまだ納得しがたい」
罪悪論から始まったこの議論は、結局ウェルテルの勝ちとなったようだ。
ウェルテルの主張は、
――肉体が滅びることは避け難い。滅びつつある肉体を、他の人がこれに
力を貸して甦らせることはできない。
――精神においても同様で、不幸な人間が追い詰められていく、その脱出
路が見つからないときに死をえらぶ。これを他人がくいとめることは出来な
い。
ウェルテルの主張は、男に棄てられた純真な娘の失恋の末の自殺の心理の
省察によってほぼ完結する。(キリスト教の倫理問題を除けば)かような例
は世間に数多く発生し、議論はともかく、その娘の心理は人を納得させるか
らだ。
さあ、心情的な要素を加えて世間にたいする言い訳、すなわち理屈はまが
りなりにも完成した。ウェルテルにとって残るは実行のみであるが、まだ整
理をすべき問題がひとつ残っている。