令和8年2月15日 寒山 辰濃和男
一生をなすにものうし
重きを憎み軽きを便とす
他家は事業を尊べど
余は一巻の経を持す
あくせく働くことはないじゃないか。ゆったりと生きればいいじゃないか。こころの重荷をおろして軽やかに生きようよ。
他人様は仕事に夢中だが、私は一巻の経本があれば十分さ。ーーそんな意味だろうか。
四十五、六年前取材でサモア、フィージーなど回った。懶惰(らんだ)という言葉が熱帯の渚に光る白い貝殻のようにキラキラしていた。スコールに遇っても悠々と濡れながら歩いている物腰はまさに「一生をなすにものうし」にふさわしいものだった。
男は白い花の蕾を耳にさし、女は香りのいい花輪を身につけているだけで、むろん「一巻の経本」をさえ持っていない。
大都会の豆粒と化して生きる日本人と、若緑の海の満干を暮らしのリズムにして生きるサモアの村人たちと、どちらがゆたかな暮らしといえるか。

令和8年2月8日 三岸節子
しかしヒヤシンスの白というのは難があるんです。一年目はたくさん花をつけますけど、二年三年とたつと花がなくなっちゃう。濃い紫とか桃色とかは何年たっても咲きますけど、白は絶えてしまう。不思議ですね。
しかし、自然というのは私、神だと思うんです。素晴らしいですね。
ー花は不思議なんです。どうして、どの木にも花が咲くのか。
桜の花が、毎年ちゃんと時をたがえずに、見事に咲くのが不思議なんです。

令和8年2月1日 三岸節子
勝手な女ですよ。好きなことしかしない破綻だらけの、欠陥だらけの人間です。
ただ八十年、がむしゃらに闘ってきた。力いっぱい、ぶつかって、傷ついて。駄目になる土壇場で、生き返ったわけですよ。
どこかに尾張の人間が持つ、お金に対して非常に敏感な何か、特殊な才能のあるように思えるんです。
大体、私の絵なんか、売れる絵じゃないんです。勝手な絵で。
それが売れる理由? 絵に魅力があるから。
魅力のありか? 私にはわからない。一生懸命描くんですよ。ただ、それだけ。ただ、誠実を、一枚の絵に尽くすだけ。
だから私が表現してきたのは、私自身。 続く

令和8年1月25日 志野 山下裕二
もともと私は、この手の焼物が苦手だった。織部はまあ、モダンデザインとしてわからないでもない。だが、志野となると、たいそうな茶席で「けっこうな景色ですなあ」みたいに言われて辟易したものだ。ただの不細工な茶碗じゃないか、などという、おそらく多くの人と同じ皮相的な感覚で志野を「処理」していた私は、出光美術館の「志野と織部」展ですっかり反省した。
志野は、日本ではじめてつくられた白い焼物。だからこそ、はじめて白いキャンバスが与えられた画家のように、職人たちはなんとも大らかな絵付けをした。「橋姫」は、志野の銘椀としてとくに有名なもの。だが、何も知らない人に見せれれば、この絵付けを「橋」だとは思わないかもしれない。この茶碗が焼かれた桃山時代、宇治橋を描いた屏風が流行していた。此岸と彼岸と繋ぐ橋。そんな感覚が、美濃の陶工にまで伝播していたんだろう。

令和8年1月18日 新宮 晋 造形作家
滝ノ水音を聴くのが好きな男がいた。ずっとこの音を聴きながら暮らしたくてね滝の落ち口の頑丈な岩場に家を建てる決心をした。その男とはデパートを経営していたエドガー・カウフマン。依頼を受けた建築家はフランク・ロイド・ライト。この特別な自然環境を深く愛していた施主の気持ちに共感した彼は、滝の上にコンクリートのプラットフォームを乗り出すように置き、室内も石や自然の素材を多用することで、周囲の自然と融合するように心掛けた。カウフマンはこの家が大変気に入り、生涯週末をここで過ごした。歴史に残る名建築は、施主、環境、建築家の奇跡的な出会いによって生まれた。

令和8年1月11日 夏井いつき
たった一度会ったきりの見ず知らずの人が、心に強く刻まれることもある。
三十代の作品を集めた句集「伊月集 龍」を上梓した頃のこと。
目の前に立っているのは、黒衣の女性。「サイン」を求められた。私にとっては第一句集だし、サインする行為そのものが不慣れだし、そもそもサインって自分の名前を書けばよいだけかも分からない。有り難くもおずおずと本を受け取り、何を書くかと迷いつつ「句集中の一句を」と呟きつつ、こんな句を認めた。
抱きしめてもらへぬ春の魚では 夏井いつき
彼女はにっこりと本を受け取り、句を見つめた。じっと見つめている。しばらく身動きしないので、気に入らない句を書いてしまったか・・と後悔し始めたとたん、彼女の目から涙が零れた。ぽろぽろと落ちる涙に、私は絶句してしまった。
俳句は、あくまでも自分のために書くのだ、と思う。が、自分のために書いた小石のような十七音詩が、誰かの心の波紋となり、真実の涙となる。黒衣の女性の涙を見るまで、私は俳句の力を見くびっていたのかもしれない、とさえ思う。

令和8年1月4日 小山岑一
川喜多半泥子はプロの作陶家ではなく、銀行の頭取などを努める傍ら作陶を志し主に茶碗を作った。生涯に焼いた茶碗は三万五千余に及ぶという。アマチュアがこれだけの数を作るというのは大変なことである。しかもその作域の広いこと、種類の多いこと。私が今までに見た半泥子の茶碗は多くはないが、それでも百椀は超えていると思う。茶碗の表情はみんな違う。それでいて「ああ、半泥子だ」と思わせるものがある。
父、富士夫が京都でやきものの修行をしていた三十代のころ、グループ展で父だけが一点も売れずにいたら、最終日に半泥子が全部買ってくれたそうだ。以来交流が始まり、津に窯を築いた時は父がレンガを積んだ。
今更に我が身愛しき初湯かな

令和8年1月3日 新宮 晋 造形作家
風が地球の呼吸だとすれば、大気圏を循環し多種多様な生命を繁殖させる水は、この星の血液といえるかもしれない。
この地球独特の存在である水をてなずけ、身近なものにするために、人類はその歴史の中であらゆる努力を続けてきた。

京都・東山の山ろくにひっそりたたずむ詩仙堂の庭。
ししおどしは、茂みの中に隠れるように仕掛けられている。コットン、乾いた音が庭いっぱいに響く。
水に濡れ、石をたたき続ける竹筒は、一年と持たないので、その都度新しいものと取り換えられる。打たれ続ける石は、長年の間に深くえぐられている。これは音そのものを聞かせるというより、音と音の間の静寂を聴かせるための装置だ。

武勲の家に生まれ、自身武勇で名をはせた石川丈山が三十代で文人の道を選び、五十代の終わりに建てた隠棲の住まい詩仙堂。
世俗を離れ、清貧の中で漢詩と隷書を楽しみ続けた丈山は、九十歳の天寿をここで全うした。

令和8年1月2日 夜明けのタクシー 佐々涼子
若くしてお母さんになってしまった。上の子を産んだのは二十三歳の時で夫はもっと若くて二十二歳。子供たちは体が弱かった。夜に喘息になっては、夜間診療のお世話になった。上の息子がゼイゼイしだすと、遠い町の当番医まで、タクシーで行かなければならない。家にはお金がなかったので、タクシーを呼んだら、次の日には食べ物が買えなくなるような困窮ぶりだった。
当番医の名を告げるとタクシーの運転手は「はい」と言って車を走らせ「うちにも、孫を産んだ娘がいてね・・」と一言。
救急病院につくと、「吸引の間、待っててやっから、待ってる間、お金かかんないから」とほほ笑んでくれた。
吸引が終わると子供を抱えてタクシーに戻った。運転手は、車を走らせながら、こんなことを言った。
「お母さん、今は大変だろうと思う。でも、必ず、子供を持ってよかったと思う日が来る。子供が大きくなるのはあっというまだ。四十歳になる頃には、うんと楽になっているよ」
二十代の私には、四十代なんて、遠い未来のように感じられ両手の幼い子供たちのぬくもりだけが確かだった。
もう運転手の顔も覚えていない。もちろん二度と会う人ではなかった。
私は四十代、息子たちはふたりとも成人した。彼の言う通り、振り返ってみると、二十年なんてあっという間だ。
私は四十を目前に、ノンフィクションライターになった。
拙書二冊には、現場で働く運転手の証言が収録されている。私はあの日以来、運転手の語る人生が好きなのだ。

令和8年1月1日 団塊世代
昔の人は言いました。
「人生は 五分の真面目(まじめ)に 二分侠気(きょうき) 残り三分は 茶目に暮らせよ」
侠気とは男気 茶目はユーモア

笑って笑って七十八歳の団塊世代、合言葉は、
"心臓とめるな タクシーとめろ"
正月や千の煩悩ほしいまま